悩める氷枕
“グレイシアは からだの まわりの くうきを ひやして こまかい こおりの けっしょうを つくりだす”
グレイシアは悩んでいた。なぜ私はこうなってしまったのかしら。他に選択肢はなかったはず。どうして、どうして?
イーブイだった頃の私には夢があった。それはもう、考えているだけで楽しくなってしまうほどの。そこいらのなんの目標も持たずに生きている凡俗なポケモンに比べれば、とてもとても生きがいがあった。
それなのに。どうして私はこうなってしまったのかしら。
私は可愛いと思う。私はイーブイの頃から可愛かったけど、グレイシアに進化してそれにますます磨きがかかったと自負している。マスターだって私のことを可愛いと言ってくれていた。そう、以前は。今じゃマスターは私に見向きもしてくれない。いったい私が何を間違えたというの?
私がイーブイだった頃、この家にはもう一匹、♂のリーフィアがいた。私はブリーダーのところから貰われてきたので、まあ先輩といったところだろうか。私から見て、リーフィアはよくマスターに懐いているようだったし、マスターもリーフィアにコウと名前を付けて可愛がっていた。はじめ、私はどうしてここのマスターに貰われたのかよくわからなかった。私がいなくたって、彼らは今まで楽しくやってきたのだろうと、そんなことまで想像してしまった。そこに私が入りこむ隙間は無いような気がした。
だから、最初にリーフィアがなれなれしく挨拶してきたとき、私はつい、
「私に話しかけないでよ!」
ときつく拒絶してしまった。そうしたらあいつは見るからにしょんぼりして、すごすごと自分の寝床に引っ込んでしまった。なんてふぬけなんだろう。そんなやつが私よりも先に出会ったという理由だけで、マスターに可愛がられているのが腹立たしかった。それ以来私はあいつのことを無視したし、あいつもできるだけ私に関わらないように、 もっと正確に言えば、私の機嫌を損ねないようにしていた。その様子がますます気に食わなくて、私はあいつの姿を視界に入れないようにしていた。だから、あいつとは結局最後までほとんど言葉を交わしたことはなかった。
一方のマスターは、最初の頃私に気を遣って、あまりしつこく構うようなことはしなかった。私をひざに乗せて、他愛のないことを話していることが多かったと思う。私がイーブイだったから、話すことは将来のことが多くて、サンダースが格好いいとか、エーフィが美しいとか、ブラッキーもいけてるとか言っていた。
「コウは空気をきれいにしてくれるんだ」
マスターはそう言ってあいつのことを褒めていた。私はそれがうらやましいような、全然うらやましくなんかないような。そんな変な気分になって、マスターの、
「もしリーフィアになりたかったら、この近くの森で進化できるよ」
という言葉に全力で首を振った。直後、マスターを驚かせちゃったかと思って心配になったけど、マスターは笑顔で、
「そう、よかった。うちに二匹リーフィアがいてもね。君はもっと他の可愛いブイズに進化させようと思ってたんだ」
と続けた。この言葉はちょっと不可解だった。これではまるでリーフィアが可愛くないと言っているかのような。いえ、私はあいつを可愛いなんて思わないけど、マスターがあいつをイーブイからリーフィアに進化させたのでは? それともリーフィアに進化させたことを今になって後悔しているということだろうか。でも、しばらくして意味が分かった。マスターがあいつをリーフィアに進化させようとしたのではなくて、ある時偶然に進化してしまったのだとぽろりともらしたのだ。
なんだ。これで私が貰われてきた理由もわかった。結局、私はあいつのやり直しだったのだ。あんな、まのぬけた、こどもっぽいやつの。今度はリーフィアでなく、他のブイズに進化させようということらしい。私にもプライドがある。いつまでもあいつの代わりでいるなんて嫌だ。そう、まだ名前すらもらえないような、そんな扱いをいつまでも受けるはごめんだ。
私は、マスターに私を私として扱ってもらうことに決めた。
翌日から、私は作戦を開始した。今まではマスターに遠慮してこちらから距離を縮めていくということはなかったけど、この日は積極的に私の方から甘えてみた。あいつより私の方を見てほしかったのだ。案の定、マスターは喜んで私の頭を撫でてくれた。こういうのは初めての経験で、新鮮な感覚が嬉しかった。ブリーダーは私のことを大事にしてくれたけど、それはあくまでも将来誰かに譲ることを前提にした関係だった。あいつがこちらを見ていたような気もするけど、そんなことは頭を撫でてもらう幸せに比べれば、どうでもよかった。
その日から、あいつと私の関係は徐々に逆転していった。マスターは私の方をたくさん可愛がるようになったし、その分あいつはほったらかし気味になった。それでもあいつは文句も言わなかった。そんな度胸もないのか、ただ私とマスターの様子をじっと見ては、悲しそうにうつむくのだった。ふん。
そのうちに、自分だけの名前も貰った。今までイーブイだった私は“レイ”になった。マスターがその言葉を口にする、その響きがわけもなく心地よかった。
でも、私はそれだけでは十分じゃなかった。私の名前を呼んで頭を撫でてもらう喜びにも次第に慣れてしまった。まだ満足できない。マスターを独占したい。もっと。だから、あいつが邪魔だ。あいつがいたら、マスターが気まぐれでも起こしてまたあいつを可愛がるようになるかもしれない。私はマスターと一緒にいる時間を手放したくなかった。なにがなんでもマスターの関心をつなぎ留めておきたかった。
あいつを追い出そう。その考えに至るまで、そう長くはかからなかった。作戦その2の開始だ。あいつがここに居づらくなって、自分から出て行くように仕向けようと思った。これは思ったよりも難しかった。あいつは思った以上に我慢強くて、相も変わらず悲しそうな顔をしたまま、部屋の隅っこで空気をきれいにしていた。こんなのじゃいつまでかかるかわかったものじゃない。
だから、私はマスターに直接働きかけることにした。マスターの気持ちはあいつから離れていた。だって、あいつは陰気な顔をして座っているだけ。私はしっぽを振ってじゃれつく。マスターは私の方と一緒にいたいと思うに決まってる。
私は今までマスターの前で、あいつを嫌ってる様子は見せないようにしていたけど、それを露骨に見せることにした。私があいつと一緒にいるのが嫌だ、という意思表示をすれば、マスターに私とあいつの二者択一を迫ることができる。
それは造作もないことだった。マスターが帰ってきたとき、あいつの方をちらりと見て顔をしかめ、できるだけ距離を取る。何事かという顔をしたマスターの腕の中に飛び込む。たったそれだけ。それだけで、マスターはあいつに何があったのかと問い詰めた。もちろん、あいつは何もしていない。でも、人間の言葉を話せないあいつは、困った顔をしてただ首をぶんぶんとかわいそうなくらいに振ることしかできない。私はマスターに何を聞かれても、顔をぎゅっとマスターに押し付けていた。
「おいコウ! なにをしたんだ! 首を振ってるだけじゃわからないぞ! ……もういい、あっちに行ってろ。レイ、何があったか知らないがこっちに来なさい。今日は一緒に寝ようか」
ここで踊りあがってはいけない。私は小さくうなずいた。
「ねえ、どうしてあんなことしたの? ご主人がなにか勘違いしちゃったじゃないか!」
これはさすがに耐えかねたのか、翌日あいつが抗議してきた。
「うるさいわね。私は何もしてないわ。もう話しかけないでちょうだい」
「そんな!」
「おい、どうした!?」
言い争いになっているところをマスターがみつけた。これも狙い通りだった。かわいそうなくらい、あいつは罠にはまった。
「コウ、もうお前はレイに近づくな!」
マスターの命令には逆らえない。あいつは項垂れるしかなかった。その日も、私はマスターと一緒に寝た。それから、あいつはいよいよマスターに疎ましがられるようになった。マスターはあいつに酷い言葉もなげかけた。目の前にいても無視することもあった。
そんなことが続いて、あいつはストレスのあまり体調を崩した。光合成もうまくいかなくなって、あいつの周りの空気は、あいつの表情同様に澱み始めた。
ある日、マスターが言った。
「もう出て行け。お前がいると空気が澱むんだよ。だいたいお前はもっと別の、可愛いブイズに進化させようと思ってたのに。なんでいきなりリーフィアなんかに進化したんだ」
そして、あいつは出て行った。私は勝ったのだ。マスターはあいつでなくて、私を選んでくれたのだ。私は嬉しくてマスターにすり寄った。これでこの家には私とマスターだけだ。これからはずっとマスターと一緒の日々が続くのだと思った。
それからすぐのことだ。
「レイ、気分転換に旅行でも行かないか? いろいろあってくさくさしちゃったし」
そう言って、マスターは私を北の方へ旅行に連れて行ってくれた。普段住んでいるところも涼しい気候だけど、あそこは涼しいどころではなくて、ふさふさの毛の奥の方までしみこむような寒さだった。そこで大きな湖を見たのが印象に残っている。ずっと向こうまで水がいっぱいにあるという光景を見るのは初めてだったのだ。
そして、一通り観光を終えた私とマスターは帰途についた。その帰り道で。
「なあ、レイ。おなか減ってないか?」
私は別に平気だったけど、マスターがアメを差し出したので、素直に受け取って食べることにした。そのアメは何だか変な味がして、あまりおいしいとは思えなかったけど、せっかくマスターがくれたものなのだから、と思って私はそれをなめ続けた。マスターはにこにこしながら、私がアメを食べるのを隣で見ていた。
突如、世界がひっくり返り、ぐわんぐわんという音が聞こえた。全身を無理やり引っ張られるような嫌な感覚に襲われて私は吐きそうになった。助けて。何も見えない。頭の両側がむず痒い。そして唐突にそれは終わった。私は進化していた。グレイシアに。
新しい体にびっくりしたけど、マスターが嬉しそうな顔をしていたから、私も嬉しかった。マスターが望んでいた、可愛いブイズに進化できたんだ。私は幸せだった。でもそれは、ほんの少ししか続かなかった。
異変は突然だった。マスターの私に対する態度がよそよそしくなったのだ。私がマスターに甘えてみても、以前みたいに構ってくれなくなった。“レイ”という名が呼ばれることも消えた。食べ物は明らかに安物の、ぼそぼそとしたものばかりになった。代わりに、
「お前は可愛いばっかりで役に立たない」
「知り合いのシャワーズはおぼれたトレーナーを助けたらしい」
なんて言葉を言うようになった。マスターはいったいどうしてしまったの? 確かに私はマスターから餌を貰うばかりの身で、時々それが申し訳ないような気もするけど、マスターは今までそんなことは言わなかった。私はマスターの役に立つようにグレイシアになったわけじゃない。マスターはグレイシアは可愛い、と言っていたのに。ようやくマスターが望んでいた姿になれたと思ったのに。
その上とどめには、
「コウは空気をきれいにしてたんだけどな」
なんて言葉まで。
実際、あいつは確かに空気をきれいにしていたのだ。心労のせいでそれができなくなるまでは。じゃあ、私は? 私に何ができるの? 空気中の水分を凍らせることはできるけど、あいにく今の季節は冬。夏ならマスターの氷枕にでもなれたのに。いいや、そんなのはごめんだ。そんなことをしたら翌朝体に大きなあざが出来てしまう。
私は悩んでいた。なぜ私はこうなってしまったのかしら。どうすればいいの? 私が何かを間違えたの? いいえ、私の選択は間違っていなかったはず。あいつを追い出したことも、グレイシアに進化したことも。それなのに、どうしてこうなってしまったのかしら。
マスターは難しい顔をしてお酒を飲むことが増えた。煙草も吸い始めた。私はあの匂いはどうも苦手だ。なんで人間はあんなに顔の近くで紙みたいなものに火をつけるんだろう。私は見ていてはらはらしてしまう。部屋の空気が悪くなるし。空気が悪いなんて思ったら誰かのことを思い出してしまう。
あー、だめ、考え方を変えよう。
そうだ、マスターは少し疲れているのかもしれない。今日マスターは友達と遊びに行くと言ってどこかへ出かけているけど、帰ってきたらまた元のように戻ってくれるかもしれない。きっとそうだ。ただ、やけに帰りが遅い。私のごはんの時間はとっくに過ぎている。いつもならもっと早くに帰ってきてくれるはずなのに、なにかあったのかしら。
心配していると、がちゃり、という音が玄関から聞こえた。マスターが帰ってきたんだ。私はお帰りなさいと出迎える。できるだけしっぽを振って、精一杯の笑顔を作って。
「なんだ、いたのか」
マスターは真っ赤な顔でそういうと、私を押しのけてパッチールのような足取りでふらふらと台所へ向かう。呂律が回っていないし、今日もどこかでお酒を飲んできたらしい。蛇口をひねり、直接口をつけて水をがぶがぶと飲む。
「ったく、シャワーズならこういう時すぐに水を出してくれんじゃねーかあ?」
そういって、今度はソファにどっかりと座りこんで煙草に火をつける。
「ブースターならライターなんかいらねえよなあ。外から帰って冷たい体をあっためてくれるだろうし」
「いぃつまでもポケモンと遊んでるなんてくだらねえってか。ははっ」
「彼女の一人もいなくて悪かったなぁ、おい。ちくしょうが」
もうマスターは私の方を見てはいなかった。焦点の合わない目で虚空を見つめ、独りしゃべっている。その様子を見るのがとても耐えられなくて、黙って部屋を出た。泣いていた。ちょっとくらい声を上げたってマスターには聞こえないよね。そう思うと余計に涙が流れて。
泣くのはいつ以来だろう。もしかしたら、ものごころがつくかつかないときから、ずっと誰にも涙を見せていなかったのかもしれない。一生分の涙を全部出すかのように、私は隣の部屋で泣いて泣いて、泣き疲れていつの間にか眠ってしまった。
ものが焦げたような刺激臭で目が覚めた。人間はあまり匂いを気にしないのか、それとも鈍感なのかは知らないが、私たちは彼らに比べて匂いに敏感なのが普通だ。それはもともと自分の身を守るため。すぐに異変に気付くため。私にも眠っていた野性の本能が、私に危機を告げていた。
私はいつもマスターが寝ている部屋に飛び込む。部屋も廊下も、もうもうと白い煙がたちこめていたけど、構わずに突っ込む。もちろん、野生の本能はそんなことよりも早く逃げるよう命じる。私は炎が苦手だから、でも、そういうわけにはいかないのだ。私にはマスターがいるのだから。
いつもの寝床は空っぽだった。どこにいるの。昨日、マスターは酔っぱらって帰ってきて、水を飲んで、ソファに座って煙草を――そうだ。そのままマスターが眠ってしまったなら。火のついた煙草が床に落ちて、カーペットに燃え移る。この異臭の正体はそれか。予想通り、マスターはソファに横になっていた。無事らしい。私はマスターの胸に飛び乗り、耳元で叫ぶ。それでもマスターは目を覚まさない。
私は部屋中の水蒸気をかき集めて氷を作り、部屋の中の燃えている箇所にぶつける。全部を消し止めるのは私の力では無理だけど、しばらく時間を稼ぐことはできる。当分マスターの周囲は安全だ。私はマスターの服のすそをくわえて引っ張る。顎がちぎれそうになってもとにかくがむしゃらに引っ張る。何度目かのトライで、マスターはソファから転がり落ちた。
「な、なんだ? 何事だ?」
目を覚ました!
「誰か中にいるのか! いたら返事をしろ!」
外から誰かの声がする。誰かが異変に気づいて助けに来てくれたのか。
「いるぞ!」
マスターが叫ぶ。マスターはそのまま、せき込みながらおぼつかない足取りで出口へと向かう。私はマスターの足元の火を“こごえるかぜ”を吹かせて消す。玄関から消防士が二人、どかどかと現れた。
「無事か? さあ早く外へ!」
一人がマスターを誘導し、もう一人が私をごつごつした手袋でつかみあげる。ああ、助かったんだ。私は脱力した。
外に出るとひんやりとした空気がおいしかった。消防士と、そのポケモンらしきカメックス、それからたくさんの野次馬が家を取り囲んでいた。
消防士の一人が言った。
「原因は寝タバコですか?」
「はい……面目ない……」
「しかし、そのわりにやけど一つありませんね。普通寝タバコによる火災は本人の周りがもっとも激しく燃えますから、酔っているケースじゃ助からない場合も多いんですよ」
「はあ……なんで無事だったんでしょう?」
「それは、このポケモンのおかげでしょうね」
彼は私の方に目を向ける。
「たぶん、空気を冷やして火の広がりを食い止めたんですよ。あなたのために」
「グレイシア、お前が……そうか、そうだったのか。ごめんな、グレイシア。今まで、本当にごめん」
そういってマスターは煤まみれの顔を近づけてきた。息が酒臭かった。気持ち悪い。と、思ってしまった。私はこれまでこんな奴にすり寄っていたのか、と思うと全身が総毛だった。命を賭けて救った人間がこれか、と。
聞こえないふりをしていた、昨日までの辛い言葉がまとめて蘇る。居候。無駄飯食らい。役立たず。ごく潰し。ちょっとぐらい恩を返したらどうなんだ。あんなに酷い言葉を投げつけておいて、あっさりとそれを忘れたように。気持ち悪さと虚しさと冷たい怒りが、大きな氷の塊を作った。
「グレイシア……?」
“私に近寄らないで!”
私はその氷の塊を思い切りマスターだった男の顔面にぶつけ、そいつに背を向けて駆け出した。呆気にとられたような顔の消防士と野次馬の足元をすり抜けて、私は走った。目から出た水は氷に変えて無理やり止めた。こんなふうに力を使うために私はグレイシアになったんじゃない。違う、違う。こんなはずじゃなかった。こんなはずじゃなかったのに。私はなにがしたかったんだっけ。どうしてこんなことに。私がどこで間違えたというの。
真っ暗な闇夜の中で、私はどうしてグレイシアなんだろう、と初めてそう思った。