悩める空気清浄機
“しょくぶつのように こうごうせいを するため リーフィアの まわりは すんだ くうきに つつまれている”
リーフィアは悩んでいた。なぜぼくはリーフィアなのだろう。もっと他に選択肢があったのではないか。どうして、どうして「リーフィア」なのか。
イーブイだったころのぼくには可能性があった。どんなふうに進化するのか、選択の余地すらないそこいらのポケモンと比べれば、無限の可能性があったと言ってもいいだろう。
それなのに。なぜぼくはリーフィアに進化したのか。
ぼくにはなんのとりえもない。リーフィアは重い溜息をついた。ぼくが進化した時、ご主人が呆気にとられたような、しまったというような顔をしていた理由も、今ならわかる。ぼくが、リーフィアがどんなポケモンなのか、ご主人は知っていたのだろう。ぼくがこんなふうになってしまうとわかっていたのだ。ぼくにできることなんてせいぜいが光合成である。そんなもの、ただの空気清浄機でしかない。
そして、今のぼくの周りの空気は濁り澱んでいる。光合成がうまくいっていないのだ。ご主人にも叱られてしまった。空気をきれいにするどころか澱んでしまうから出ていけと言われたのだ。ゆえにリーフィアは考えていた。ぼくはどうしてリーフィアなんだろう、と。
ぼくがイーブイだった頃、ご主人は毎日ぼくをどう進化させようか、と言っていた。それほどぼくの進化を楽しみにしてくれていたのだ。毎日楽しそうにあれがいい、これがいいと言って楽しそうにいつまでもしゃべっていた。サンダースは……ブラッキーは……シャワーズは…………。
それなのに、どうしてぼくはリーフィアに進化してしまったのだろう。
ぼくはあの日、ご主人と森を散歩していた。ご主人がうっかり足を踏み入れた草むらから突然、ケムッソが飛び出してきたのだ。ご主人が噛まれたら大変だ。ぼくはとっさにケムッソに体当たりをかました。素早さには自信があった。目を回したケムッソに背を向け、ぼくは得意げにご主人を見上げた。と、目の前がぐちゃぐちゃになり、ぼくの体は急に変化を始めた。これまでに感じたことのない感覚だった。ぼくの体は大きくなり、ぼくの耳としっぽは植物の葉っぱのようになり、ふさふさとした毛は抜け落ちて、太陽の光を浴びるための組織に変わった。
ずいぶんと長く思われたそれはあっという間のことだっただろう。でも、それは決定的な変化だった。もう元へは戻れない。その瞬間から、イーブイだったぼくはリーフィアになった。
ブースターならもふもふとした毛並みを手に入れられただろう。サンダースなら格好良く尖った毛先を手に入れられただろう。シャワーズなら毛のないすべすべとした肌を手に入れられただろう。
エーフィなら神秘的な雰囲気を纏うことができただろう。ブラッキーなら怪しい魅力を醸し出すことができただろう。グレイシアなら凛とした美しいたたずまいでいられただろう。ニンフィアならひらひらの可愛いリボンに包まれていただろう。
イーブイに戻れたら。
そう思ってリーフィアは唇をかみしめた。目からは一筋の涙がこぼれた。ご主人もイーブイからやり直せたら、と思ったらしい。そして、それをぼくが考えるのとは違う意味で実現させた。
ご主人が新たにイーブイをもらってきたときは、後輩ができたように嬉しかった。ぼくが進化してから少しした頃のことだった。まだ自分が可愛がってもらっている、と思っていた頃だ。でも、ご主人のぼくに対する愛――かつては確かにあったはずのそれ――は、もう確実に薄れつつあったのだ。なぜならそのイーブイは、こんどこそ進化を成功させるためにもらわれてきたのだった。ぼくという失敗作の反省を活かして。
ご主人に甘えるイーブイの姿が脳裏にちらつく。ぼくは彼女に嫌われていたようで、話しかけることがあってもグレイシアのように冷たくあしらわれてしまった。今ではご主人の愛情は彼女が一身に受けている。毎日彼女をひざに乗せ、どう進化させようかと話している。昔ぼくがそうしてもらっていたように。
いまやもうぼくはただの置物、空気清浄機にすぎない。空気清浄機に愛情を傾ける人間なんていやしない。ましてやぼくは故障してしまっているのだから。空気をきれいにすることすらできなくなったぼくはもう、ご主人に必要とされてはいないのだ。
もう、自分なんていなくなってしまえばいい。いなくなったところでご主人も、あのイーブイも悲しみはしない。痺れた頭でそう思った。たった一度でも考えてしまったことは、もう止まらなかった。消えてしまいたい。誰の目にも止まらないところへ行きたい。
「ううっ、あ、あああああああ!」
ぼくは走り出した。サンダースのように速くなくとも。エーフィのように優雅ではなくとも。ただ走った。悲しい思いを振り切るように。逃げるようにただ一直線に走り続けた。このまま走り続けて心臓が止まってしまえばいいと思った。こんな自分に死が訪れればいいと願った。
気が遠くなるほどの距離を走って、リーフィアはついに倒れた。全身の筋肉が悲鳴を上げていた。今いるここがどこなのかもわからない。あの世だったらいいなとか、そんなことをまだうじうじと考えていた。
そんなリーフィアの頭上に影が差す。見上げたその影は、天の使いでも地獄の鬼でもなく、ひとりの人間だった。あまりぼくを見つめないで欲しい。影が口を開く。
「か……可愛い!」
……なんだって? 走りすぎて耳までおかしくなったのか。可愛い? ぼくが? 気を持たせるようなことを言わないでくれ。ぼくが可愛いのなら、前のご主人はどうしてぼくを捨てた? 僕を追い出すとき、ご主人はこう言ったのだ。
『もっと別の、可愛いブイズに進化させようと思ってたのに。なんでいきなりリーフィアなんかに進化したんだ』
そういって、ご主人はかたわらのイーブイを撫でた。まるで見せつけるかのように。ぼくがもっと他のに進化していたら。
どうせ、この人間だって―――
「リーフィア可愛いなあ……」
まだ言っていた。彼は熱に浮かされたように続ける。
「つぶらな瞳もしなやかな体も、頭の葉っぱも穏やかなたたずまいも、全部ひたすら可愛い!」
なんなんだこの人間は。一人で叫んだりして、少し危ない人なんじゃないだろうか。でも、不思議と悪い気はしなかった。
「ねえ、リーフィア、トレーナーはいないの? もし良ければ……うちに来ないかい?」
ぼくは少しだけ迷って、小さくうなずいた。それだけの動作なのに、首が折れるかと思った。どうせここで抵抗したってこの人間はぼくのことを連れて行くだろうと思ったし、疲れ果てた体で抵抗なんてできるわけないとも思った。でも一番は、そんな言い訳じみた理由ではなくて、彼が自分のことを可愛いと言ってくれたのが純粋に嬉しかったからだった。ちょっと心配なところもあるけれど、この人なら、自分を大切にしてくれるだろう。一台の空気清浄機ではなく、一匹の“リーフィア”として。
その人はぼくの返事に笑顔になって、ぼくを抱き上げた。
「ふふ、よろしく、リーフィア。…………なんだか、空気がおいしいな」
全力で走った後の足が、今になってあんまりにも痛すぎて涙が出た。ぼくは新しいご主人の腕の中で居心地悪くもぞもぞとしながら、ああ、自分はリーフィアで良かったと、初めてそう思えた。