EPISODE1:ニューラ
―1―
どこか懐かしい景色。灰色の大きな街。
俺はこの場所を知っている。
ここは……ヒサメタウンだ。
俺がかつて住んでいた、そして、もう二度と戻ることの無い街。
俺は、そのヒサメタウンの大通りに立っている。寒い。
首に手をやって、いつもの赤いマフラーが無いことに気付く。当然だ。この時の俺はまだ、あの赤いマフラーをもらっていない。
――これは夢なんだ。
夢の中で俺はぼんやりと思った。
もう過去に置いてきたはずの記憶、でも忘れられない思い出が蘇ってきた。
―2―
あの頃はまだ、俺は俺のことをぼくと呼んでいて、そして、ニューラだった。
俺――いや、ぼくはいつかマニューラに進化することを夢見るニューラだ。でも、それが叶うことはないだろう。
マニューラに進化するためには“するどいツメ”が必要になる。しかし、その代価――時価およそ20万ポケなどという大金は持ち合わせていない。その辺に落ちているような道具でもない。
一年ほど前まで、働いて手に入るなけなしのお金は、家賃を払い、食べ物や生活に必要なものを少し買ったらすぐに消えてしまっていた。貯金なんてない、ぎりぎりの生活をしていた。今働いているところはそれまでと比べて待遇がいい。“悪”属性のぼくに対するものとしては破格だろう。わずかながら貯金もできた。以前は想像もできなかったことだ。それでも、“するどいツメ”を購入するなんて夢のまた夢のような金額だが。
ため息をつく。吐いた息が白い。
なにか、もっと明るいことを考えよう。例えば、今待ち合わせをしている相手のこととか。
通りを忙しげなポケモンたちが足早に歩いてゆく。ぼくだけが立ち止まって、それを眺めている。灰色の空の下に、灰色の建物、灰色の道路、灰色のポケモン。その中にいる僕の体は真っ黒だ。ツメが白く光っていて、ぼくはきっと、すごく目立っている。
しかしそれは、ぼくが今待ち合わせをしている彼女ほどではない。モノトーンの街で、彼女だけが鮮やかな色をしている。だから、どんなにポケモン達でごった返した通りの中でも、ぼくは一目で彼女を見分けられる。
でも、今日に限って、彼女はなかなかその姿を見せない。
彼女の名はサーナイト。もちろん、それは種族としての名前であって、彼女自身の名前が別にある。彼女はその名前を僕に教えてくれたし、ぼくはぼくだけの名前を彼女には伝えた。
それは親愛の証。
彼女の本当の名前はアルマーニャという。その名を恥ずかしそうに口にした彼女は、長ったらしくて堅苦しいから、自分のことはマナと呼んでほしいと言った。
サーナイトはぼくのことをカイと呼ぶ。ぼくの名前を短くしたものだ。ぼくは自分の名前が嫌いだったから、彼女に“カイ”という呼び名をもらって本当に嬉しかったのを覚えている。
そしてぼくは、ちょっとしたことが縁でサーナイトのお父さん――やはりサーナイトなのだが――に門番として雇ってもらった。ぼくのような“悪”属性のポケモンは働き口を見つけるのにとても苦労するので、彼女のお父さんには本当に感謝している。そう彼女に告げると、“悪”属性だからといって悪いポケモンばかりじゃないのに、と彼女は言った。彼女がぼくのために怒ってくれたことが、ぼくは嬉しかった。
あれから一年。ぼくらは週に何度か他愛無い話をしながら町を散歩した。サーナイトは散歩が好きなのだ。彼女の家はとてもお金持ちで、散歩にまでいちいちボディガードがついてくる、と彼女は不満げだった。あることをきっかけに、今ではもうそんなことは無くなったのだが。
それと、時折ポッタイシというポケモンも一緒に散歩した。彼がいるとぼくらの話はずいぶんと盛り上がる。彼は特に、どうしてお金持ちのポケモンとお金のないポケモンがいるのだろうと言っていた。みんなで分ければ済むのに、と。
彼は世の中の仕組みはおかしいと言った。サーナイトは世の中の仕組みにもきっとわけがあるのだろうと言った。ぼくは何も言わなかった。ぼくは世の中の仕組みなんて考えたこともなかった。そんな余裕もなく、ぎりぎりのやりくりで糊口を凌いでいるポケモンもいるのだとは、彼らには言えなかった。
どうもその時、ぼくは悲しい表情になっていたらしい。そんな顔をしないでとサーナイトに言われた。それで、その場はお開きになった。
少し苦いものを感じてふと我に返る。まだ彼女は来ない。もう待ち合わせの時間はとっくに過ぎている。
……そうだ、彼女のお父さんはとても厳しいらしい。ちょっと何かトラブルがあって、彼女はお屋敷から出るのが遅くなったんだ。きっとそうに違いない。
「もう少し、待ってみよう――」
ぼくは白い息を吐く。
突然、腕をがしりとつかまれた。カイリキーだ。やはりその色は灰色だ。
「ニューラだな? 警察の者だ、用がある。ちょっと来い」
―3―
「お前が町長の娘さんにちょっかいをかけていたのは分かっているんだ」
取り調べのグランブルが牙をむき出す。そんなグランブルも灰色だ。
「町長?」
「サーナイトさんだ。知らんとは言わせんぞ」
「ああ、彼女のお父さんか」
「彼女だと。なれなれしい口を。お前はそうやってアルマーニャお嬢さんに付きまとっていたんだな?」
「つきまとっていた? 何の話をしているんですか?」
グランブルはどこの言葉でしゃべっているんだろう? 言葉は聞こえるのに、言っていることの意味が全然分からない。
「とぼけるのも大概にしろ! ついさっき町長から、家宝と大金が盗まれたとの通報があった。お前は一年前から、裕福な町長のお屋敷やお嬢さんに近づいて機会をうかがい――今日、盗みを決行したんだ。そうだろう? もうお見通しだ、観念しろ」
「ぬすみ?」
あたまがぐるぐるとまわっている。ぼくはなにもかんがえられない。
「しらばくれる気か!」
グランブルがつくえをたたき、どなっている。
きがとおくなる。
結局、ぼくは留置場に放り込まれた。
床が冷たい。“氷”属性を持つぼくでさえ、凍えてしまいそうだ。
ぼくはいったいこの一年、何をしていたのだろう? わからない。
ぼくはニューラで、サーナイトを困りごとから助けて、彼女の名前はマナで、マナのお父さんはぼくを雇ってくれて、ぼくは時々マナと散歩をして、ただそれだけなのにどうして?
どうしてぼくが疑われているのだろう?
ぼくは盗品を所持していたわけでもない。証拠もない。お屋敷に出入りしていたポケモンならぼく以外にもたくさんいるのに。
ぼくが“悪”属性だからか? それは――ぼくのせいなんかじゃない。怒りと絶望でおかしくなってしまいそうだ。
一つの事実がぼくを打ちのめす。少なくとも、サーナイトのお父さんはぼくをかばってはくれなかった。ぼくをずいぶんと厚遇してくれて、ときに優しい声をかけてくれたのに。でも、それだけではない。サーナイトやポッタイシまでもぼくを疑っているのだろうか。そう思うとぞっとする。気温の低さとは違う寒さに僕の体が震える。
鉄格子を殴りつけてみた。殴った僕のこぶしが痛いだけだった。
……違う、ぼくはこんな暴力的なことをするポケモンじゃなかったはずだ。今までにこのツメをふるったのは一度だけ、サーナイトを助けた時だけだ。それだってまぐれのような当たりだった。
ぼくはずっと真面目に生きてきただけのはずだ。父親に反抗したことはあるけれど。成年になる前に家を飛び出した時、ぼくはこれで「生まれ」から逃れられると思った。でも、家の呪縛からは逃れたつもりでも、ぼくは父親の血を継いでいることだけは変わらない。ぼくはニューラで、“悪”属性で、気を抜くと物を盗まれると言われて、周りのポケモンに避けられる。ぼくはそれが悲しい。
悲しみの涙のしずくがぽたぽたと零れて、それもすぐに凍ってしまう。
もっと強くならなきゃダメだ。避けられることなんて気にならないくらい、強く。もうぼくはひとりで生きるしかないんだ。この一年が例外だったんだ。ぼくに優しくしてくれたサーナイトはもう――
「カイ!」
それはぼくの待ち合わせの相手――サーナイトだった。
「マナ!? どうしてここに?」
「“テレポート”してきたの。はやく、気づかれる前に逃げて」
サーナイトは鍵束を取り出して手早く牢屋を開けた。
「ごめんなさい。お父様があなたを犯人だと決めつけて警察に言ったの。本当にごめんなさい」
「じゃあ、君は……ぼくのことを信じてくれる?」
「当たり前じゃない! あなたが泥棒なんてするわけないわ」
「……ありがとう」
またぼくの目から涙が流れた。でも、今度は凍らなかった。
―4―
外に出ると、もう夜になっていた。月の無い、闇夜だ。
「行こう、マナ」
ぼくはサーナイトの手を引っ張る。でも、彼女はその場から動こうとしない。
「ごめんなさい。私は一緒に逃げてあげられないの」
サーナイトはうつむいた。よく考えたら、彼女がそこまでしてくれるはずもないのだ。ぼくとは違い、彼女は逃げる必要なんて全くないのだから。ぼくは失望を彼女に気づかれないよう、必死でこらえた。
「文句ばかり言ってきたけれど、お父様もポッタイシも、今の暮らしも全部捨てることは……できない。ごめんなさい、勇気がないの。あなたは間違っていないのに、最後まで味方してあげられなくて」
「いや、もう……十分、助けてもらったよ。ありがとう」
牢屋からだけじゃない。彼女はぼくを絶望から救ってくれたのだ。たとえ他のポケモンがみんなぼくを信じてくれないとしても、サーナイトはぼくを信じてくれた。サーナイトさえ信じてくれたのなら、ぼくはそれで満足だった。
「そんな……このくらいしかできなくて。私、帰ってもう一回お父様を説得します。あと……これ」
それは、赤いマフラーだった。
「……大切にするよ」
サーナイトは小さくうなずいて、“テレポート”した。
「さようなら、カイ」
そして、ぼくはまた一人になった。
「さようなら、マナ」
ぼくはつぶやく。
ふと、手に持ったままのマフラーがやけに重いことに気付く。もらったばかりのマフラーを広げると、中から“するどいツメ”が出てきた。
そういえば、ぼくはサーナイトの前でも、いつかマニューラに進化してみたいと言っていた。覚えていてくれたんだ。
だけど、これはとても高価なもののはずだ。“りゅうのウロコ”などのアイテムと同様、購入には数十万ポケもの大金が必要だ。サーナイトの家がいくら裕福だとしても、おいそれと手に入る品ではない。警察は“家宝と大金”が盗まれたと言っていた。それに、サーナイトはぼくが盗んだのではないと確信していた。
まさか……?
ぼくは頭を振ってその疑いを振り払った。時間がないのだ。考えるのは後だ。もう逃げるしかない。せっかくのチャンスだ。
マフラーを巻く。暖かい。
きっとサーナイトが手編みしてくれたものだろう。サーナイトのしていた緑色のマフラーやポッタイシの青いマフラーと色違いだ。
ぼくは走り出す。灰色の街ともこれでお別れだ。不意に、この町が居心地がよかったことに気付く。その大部分はサーナイトのおかげだったことに間違いはないだろう。
本当にありがとう。
「いたぞ! 逃がすな!」
灰色のポチエナが叫ぶ。
―“ブレイククロー”!
行く手を阻むように立ちふさがったデルビルを薙ぎ払う。
―“れいとうパンチ”!
横から現れたヨーテリーをノックアウトする。包囲網を強引に突破して、ぼくは走った。
そうしてぼくは戦い、走り続け――気が付いたら、朝日が昇っていた。ぼくは町からずいぶんと離れた山の中で、その朝日を迎えた。
“するどいツメ”は、ぼくの体の一部になっていた。ぼくは進化していた。あまりにもあっけない進化だった。あんなに夢見ていた進化がこんなにも味気ないものだったのかと落胆する自分と、姿が変わって逃げるのには有利だと冷静に分析する自分がいた。
ぼく――いや、俺は強くなろうと思った。周りを気にせず一人で生きる強さじゃない。今度こそ、大切なものを守れるような強さを身につけようと思った。
どうしようもなく困っているポケモンを助けられるくらいに。サーナイトがどうしようもなく困っていた俺を助けてくれたように。
朝日が俺を照らす。
―5―
「嗚呼」
俺は目覚めた。
懐かしさのあまり涙が出る。あの時のことは自分の中で、ほとんどトラウマになっていたが、悪いことばかりでもなかったのだ。いつまでも引きずってないで、しっかりと向き合わなくては。
それにしても、なぜこんな夢を見たのだろう?
そういえば、ピジョンが依頼に来ていた。“北の街”がヒサメタウンを、“昔の友達”がサーナイトを、“ポッチャマ”がポッタイシを、それぞれ思い起こさせたんだ。
いや、それだけではない。
ラルトスだ。
俺にも久しぶりに守りたいと思う存在ができたのだ。
そうだ、ラルトスがいない。ラルトスの性格から考えて、ポッチャマを探しに行ったとみて間違いない。探してみると、机の上に、書置きが残されていた。
「ちょっと出かけてくるね。ラルトス」
少しおおざっぱすぎないか? しかし文面から見て、さすがに一日帰らないということは無いだろう。もうすぐ日暮れだというのに帰ってこないのは――
俺は立ち上がった。
そして今日も、俺は赤いマフラーを巻いて出かける。あの時もらった暖かみを感じながら。
ぼくは彼女――マナのことが好きだったんだ。
To be continued…