CASE2:タツベイ
「空を飛びたいんだ」
そのポケモンは開口一番、とんでもない願いを口にした。
―1―
某月某日、今日も晴れ。
ぶっきらぼうな字で書かれた「困りごと承ります」の看板。その隣に、「よろず屋」という真新しい看板が掲げられている。屋号がなかったこの店(ラルトスは店だと思っているが、定かではない)にラルトスが勝手に命名した。ラルトスは過去の事情のせいで、それがなんであれ名前がないと落ち着かないのである。
「ふう……」
「よろず屋」にはあまり仕事が来ない。というか、この一週間一件も依頼が来ない。こんな奥まったところにあるのだから、それもある意味当然かもしれない。宣伝のためビラをカクレオンのお店の前に貼ってもらったが、まだ効果は表れていないようだ。
手持ち無沙汰のラルトスが店内の掃除を開始した時、木製の扉についた呼び鈴(これもラルトスが取り付けた物である)が鳴った。
「こんにちは。ご用ですか?」
ラルトスは扉を開けて、飛び切りの笑顔とともに言った。
「空を飛びたいんだ」
と依頼者――タツベイは唐突に言った。さっぱり意味が分からないが、とりあえず中へと招き入れる。
「空を飛びたい、ねえ」
いつの間にかラルトスの背後からあらわれたマニューラはタツベイの言葉を繰り返した。
「ボーマンダに進化すれば飛べるようになるけど、それじゃだめなのか?」
「ダメだよ! 今すぐにじゃなきゃ意味がないよ!」
「それって今すぐ進化したいってこと?」
「そんなの無理だってわかってるよ! 俺はただ飛びたいだけなんだ」
「翼がないのに?」
「翼がなくたってネンドールやドータクンは空を飛んでるじゃないか。僕だって頑張ればきっと飛べるよ!」
どうやって説明すれば納得してくれるだろうか。ネンドールは空を飛んでいるのではなく浮いているのだといっても無駄だろう。どうやってネンドールが浮いているかは不明だが、タツベイがタツベイである限り、どんなに頑張ったところで空を飛ぶのも浮かぶことも不可能だ。ラルトスはなんだか悲しくなった。
こういう「困り事」はどうしたらいいんだろう? ラルトスはマニューラの方を見た。マニューラは少し考えて、口を開いた。
「タツベイはどこに住んでるんだ?」
それは空を飛ぶことには何の関係もないようなことに思われた。しかし、マニューラのことだから、きっと何らかの意図があるに違いない。
「“風の峡谷”です。毎日崖の上から飛び降りて練習しています」
「そ、そうか……」
これにはさすがのマニューラも言葉に詰まった。想像しただけでも痛そうだ。その努力は称賛に値するが、おそらく何の役にも立つまい。ただ、そうと告げるのはあまりにも残酷だろう。
そこまで考えたところでラルトスはふと気づいた。自分の胸を締め付ける悲しみの正体に。それは、先日のラルトスの心を覆った暗雲と同じものだった。
―2―
ラルトスは昔、自分の名を探していた。
自分に誰かに呼ばれるべき本名がないということはこの世界では大きな問題であり(注:TEA BREAK1を参照)、当時のラルトスの頭の大半を占めていた悩みでもあった。ただ単に名前がないというより、それはラルトス自身のアイデンティティの問題だったのだ。
「問題だった」と過去形で語ったが、現在でもその問題は解決することなく継続している。
ただ頭の内を占める割合が減ったというだけだ。気をゆるめれば、再びその雲はラルトスの心の空を覆い尽くす。
この間も、今この時も。
孤児院の院長・ハピナスによれば、捨てられていたラルトスには、名前や身元を示すものが一切なかったという。そこでラルトスはいきなり行き詰ってしまった。
名前がないのはゼロのようなものだ。そしてゼロに何をかけたところでゼロにしかならない。それを知りながらも試さずにはいられない、そんな果てしのない繰り返しが続いた。
そして焦燥感にかられるあまり、ラルトスは居心地の良かった孤児院を飛び出した。
育ててもらった恩を返すことすらできずに。少し軽率だったかもしれない。
ラルトスはあてもないまま闇雲にあちこちを放浪した。
だが、生活には金が要る。養ってくれる優しいハピナスはもういない。ラルトスは必死に働いた。そして気づいた。
忙しく働いている間は、悩みが軽くなっていることに。
嫌でも自分の問題を思い出させる孤児院を離れたこともあったのかもしれない。気にしさえしなければ、目に見えない重圧に押しつぶされることもない。
だからラルトスは忘れるように努めた。そして、その試みはかなり成功していた。
この前、カクレオンにクビにされて勤しむべき職を失い、親を失ったコラッタに深く関わるまでは。
そして今また、タツベイが忘れかけていたあの頃の気持ちを思い出させる。
―3―
「教えてくれよ。どうしたら飛べるようになるのか」
ラルトスが物思いに沈んでいる間にもタツベイの必死の問いかけは続いていた。マニューラもほとほと困り果てたようで、ついにこういった。言ってはいけないことを。
「俺は空を飛んだことがないからわからん。鳥ポケモンにでも聞いたらどうだ?」
「!!も、もういいよ! こんなとこ、来るんじゃなかった!」
バン! と扉に体当たりするようにタツベイは出て行った。タツベイの顔は心なし、泣いているようにも見えた。
「ふう、仕方ない。依頼は依頼だからな」
マニューラはトレードマークの赤いマフラーを巻いた。
「どこに行くの? マニューラ」
「ちょっと出かけてくる。留守番を頼むよ」
「タツベイのこと?」
「ああ。タツベイは出ていくときに依頼を取り消すとは言わなかったからな。友達の鳥ポケモンに会いに行ってくるよ」
「ふうん。行ってらっしゃい」
一人残されたラルトスは再び掃除を開始した。マニューラの友達というのは少し意外だった。なんというか、マニューラは一匹だけで生きてるような雰囲気を感じていたのだが。
「……………………」
ダメだ、気になって掃除が手につかない。
僕も行かなくちゃ。
店に鍵と“Closed”の看板をかけ、店の鍵をポストに入れておく。これでマニューラが先に帰ってきても中に入れる。客が来る心配はたぶん、いらない。ラルトスは一人うんうんとうなずいて出発した。
もちろん、行き先は“風の峡谷”である。
―4―
「結構遠いなあ……」
“風の峡谷”はラルトスたちの住む町から西に5ポケマイルほど離れたところにある。ポケマイルとは、かつて世界一周を成し遂げ、世界地図を作製したカイリューが定めた単位である。(注:1ポケマイル=約800メートル)
ラルトスが息切れし始めた頃、ようやく風の峡谷が見えてきた。“風の峡谷”はその名の通り、険しい谷が複雑に入り組んでおり、ドラゴンや鳥ポケモンの住処となっている。
ラルトスは“風の峡谷”に来たはいいけどタツベイがどこに住んでいるかわからないなあ、などと思っていると――
――ドサッ!
「うわぁ! な、何者!?」
「ごめんごめん。……ん? お前、どっかで会った事ある?」
上から降ってきたのはタツベイだった。
ついさっき会ったばかりだというのに忘れられている。
「(僕ってそんなに影が薄いのかなあ……ま、さっき怒らせちゃったみたいだから、かえって好都合なのかも)ねえ、何してるの?」
「見りゃわかるだろ。飛ぶ練習さ。ほら、あそこから飛ぶんだ」
と、タツベイは上を指差した。
「高っ……5ポケフィートくらい(注:1ポケフィート=1.6メートル)あるじゃん。危なくないの?」
「初めはきつかったけど、もう慣れたかな」
だとすれば慣れとは恐ろしいものである。
しかし、よく見るとあちらこちらに擦り傷ができている。
「あのさ――」
ラルトスが口を開きかけた時、二匹の鳥ポケモンの小さな翼が、二人の上に影を落とした。
「無駄無駄! そんなことしたって飛べやしねーよ!」
「そーそー、翼がないんだからいー加減にしときな!」
頭上から降ってきた言葉にタツベイはうつむいた。見上げれば、頭上をスバメとマメパトが旋回していた。その光景に、ラルトスはタツベイが頑なに空を飛ぼうとしている理由もわかるような気がした。
タツベイはうらやましいのだろう。自由に大空を飛びまわる鳥ポケモンたちを間近で見ながら育ったから。だから、マニューラの「鳥ポケモンに聞けばいい」という言葉に、あんなに怒ったのだ。
「うるさい! 俺は絶対に飛ぶんだ!」
「やめとけって。せいぜい怪我するのがオチだよ」
「何度もゆーけど、しょ−がないじゃん。翼がないんだから」
その言葉に、
「タツベイには翼がなくてもいいところはあるよ!」
と思わずラルトスは叫んでいた。
「へー、どんなとこ?」
とマメパトが言った。どうでもいいが、マメパトの喋り方にはやけに語尾を伸ばす癖がある。
「えっと……頭突きが強いところとか……」
「……」
「…………」
「………………」
「ま、まあともかく、飛ぶのはあきらめな」
「そ、そーだな、そーゆーこと」
そう言って二匹は去っていき、ラルトスとタツベイはその場に取り残されたのだった。
―5―
「それで? タツベイのいいところはどこだって言ったんだ?」
その日の夜。ラルトスは単独行動の全容をマニューラに報告した。それが義務だと思ったし、マニューラに何か考えがあるのならそれを邪魔してはいけないとも思った。
「笑わないでね? 頭突きが強いところ……」
「ははははは!」
「思いきり笑ってるじゃん! 笑わないでって言ったのに!」
「いや、ごめん、あまりにもちょうど良かったからさ。それはそうと、一つ頼みがあるんだが」
「え! 何?」
マニューラがラルトスに頼みごとをするなんて珍しい。おかげでラルトスは怒りを忘れて聞き返してしまった。
「明日の朝早く、もう一度風の峡谷に行ってくれないか?」
「どうして? さっきの『ちょうど良かった』っていうのと何か関係があるの?」
「当たり。どう関係あるかは明日行けばわかる」
「今ここで教えてよ」
「いや、それじゃあ意味がないんだ。その場の機転で対処してほしいから」
「マニューラが自分で行ったらダメなの?」
「ちょっと行けない事情があるんだ」
「ふうん。じゃあいいや、行くよ。行けばいいんでしょう?絶対、明日は寝不足で明後日は筋肉痛だよ……」
「まあそう嘆くな。うまくやってくれたらバイト代ははずむからさ」
―6―
翌朝。
「バイト代を持ち出されたらしょうがないよなぁ……あれ? ここで何してるの?」
「あ……ラルトスか。なー、助けてくれよ!」
そこにいたのはスバメ&マメパトのコンビだった。
「どーしたの?」
無意識のうちに、ラルトスにもマメパトの喋り方が移ってしまった。
「大切にしてた俺の宝物がとられちまったんだよ! 朝起きたら巣にあったはずの“しんじゅ”が無くなって、かわりに変なやつが巣を作って中に“しんじゅ”を入れてるんだ!絶対あいつが盗んだんだよ!」
「変な奴って?」
「知らない。この変じゃ見たことないやつだったから」
「ふうん?」
スバメの話をそのまま信じれば、よそ者がいきなり現れてしんじゅを盗んだうえ、堂々と巣を作ったということになる。明らかに不自然だ。
なるほど、マニューラの「行けばわかる」というのはこれのことか。じゃあ「ちょうど良かった」はどういう意味だろう?
たしか、タツベイのいいところは頭突きだと……。
「あー、そーゆーことか」
「え? なんかわかったのか?」
「あ、いやいや、こっちの話。じゃあさー、タツベイに頼んだら?」
「タツベイに?」
ドサッ!
「うわあ!」
「誰か俺の名前を呼んだ? っていうかお前誰?」
また忘れられている……というか、タツベイは天然なのか。
いや、今はそんなことはどうでもいい。
「タツベイ、頼みがあるんだけど。聞いてくれる?」
―7―
「おい! 俺のしんじゅを返せ!」
スバメのいう「変な奴」は作りたての巣の中にいた。
スバメは知らなかったようだが、ラルトスにはわかった。鳥ポケモンにしては大きな体、真っ黒な羽、尊大な態度、光るものを集める習性――それは、ドンカラスだった。ドンカラスは物憂げに言い返した。
「なんだ、また来たのか。懲りん奴だな、あれはワシのもんだと言っただろう。渡さんぞ」
なんともわかりやすい悪役だな、とラルトスは思った。
予想通りだ。
「じゃ、タツベイ、作戦どーりに頼むよ」
「了解っ!」
「な……何をする! やめんか!」
さしものドンカラスも慌てたように叫んだ。自分の巣が、巣をかけた木ごと大きく揺れているのである。言うまでもなく、タツベイのいいところ――頭突きによるものだ。
この作戦はラルトスが考えた、ということになっているが本当のところはマニューラの計画といった方が正しいだろう。ラルトスはそれに乗っかっただけである。
まず、タツベイが現時点で自力で空を飛ぶのは不可能だ。マニューラは「鳥ポケモンに聞いたら」などと言ったが、聞いたところで無駄なのはマニューラだってわかっている。にもかかわらず、何故マニューラは“友達の鳥ポケモン”に会いに行ったのか。
単純に考えれば、タツベイを背中に乗せて飛ぶように頼みにいったというのが妥当だ。しかし、“鳥ポケモン”という言葉を聞いただけであんなに過剰反応したタツベイは大人しく鳥ポケモンの背中には乗ったりはしないだろう。しかも、タツベイはあくまでも自力で飛ぶことを望んでいる。これでは解決にならない。
ではどうするか。
ラルトスのたどり着いた結論は、「進化まで待つしかない」というものだった。マニューラが一番最初に提示した、一番まっとうな解決策だ。タツベイはそれが待てないと言っているだけなので、そこさえなんとかすればあとは時間が解決してくれる。ただ、普通に説得しようとしてもタツベイは聞き入れない。そこで、マニューラは作戦を立てた、ということだろう。
「タツベイのいいところは頭突き」だとラルトスは言い、それについてマニューラは「ちょうどいい」と言った。飛ぶのがだめでも、他のいいところを生かせばいい。たぶんそういうことだ。これは、タツベイにそれに気付かせるための作戦なんだ。
ここまで考えるのにラルトスは一晩かかってしまった。おかげで完全に寝不足である。もしラルトスがわからなかったらマニューラはどうするつもりだったのだろう。「その場の機転で」と言っても限界があるだろうに……。
もしかすると、これはラルトスの適性試験だったのかもしれない。今もラルトスの様子をどこかで眺めているのかも。
さて、翻ってマニューラはなぜ鳥ポケモンに会いに行ったか。昨晩は分からなかったが、今はその答えが目の前にある。マニューラはドンカラスに助力を求めたに違いない。
「しんじゅを返さなけりゃ、この木を折るぞ!」
とタツベイが叫ぶ。タツベイの頭の固さなら、それは単なる脅しではなく十分に実行可能だろう。そうなれば、ドンカラスはともかく、巣やその中の光りもののコレクションはただでは済まない。
「わかった、返す、返すとも! ……おっと」
肝を冷やしたドンカラスのくちばしから、しんじゅが零れ落ちた。
それは木の揺れのせいだったのか、それともドンカラスの負け惜しみだったかは定かではない。しんじゅは朝日を浴びてキラキラと輝き、待ち構えていたスバメのくちばしに収まった。初めからそうなると決められていたかのように。
―8―
「その……ありがとう、ラルトス」
どうやら、タツベイに名前を覚えてもらえたようだった。
「どーいたしまして。って、僕は大したことはしてないけどね」
「いや、俺の石頭をポジティブに言ってくれたのが嬉しくてさ。マメパトとスバメにはからかわれたけど、空を飛ぶのはボーマンダに進化するまでは待つことにするよ。空は飛べなくても、頭突きならあいつらに負けないからさ」
「これは僕の勘違いかもしれないけど、あの二匹はたぶん、君のことをバカにしてたわけじゃなくてただ単に心配だったんじゃないかな」
「心配?」
「うん。だって、あんな高いところから飛び降りるのはやっぱり危ないよ」
ラルトスは昨日見たマメパトの顔を思い出した。あれは呆れ顔じゃなくて、純粋に心配した顔だったんだと今ならわかる。それほど、今朝の彼らの見せたチームワークは抜群だった。
マニューラはここまで計算済みだったのだろうか。マニューラが、タツベイに「どこに住んでいるか」と尋ねたことを思い出した。“風の峡谷”なら鳥ポケモンがたくさんいる。ならば、タツベイの知り合い、いや友達にも、鳥ポケモンがいてもおかしくはない。タツベイが空を飛ぶことに強いあこがれを持っていることも。
それを見越して、タツベイに自分のいいところ“いしあたま”に目を向けろと、マニューラは言いたかったのかもしれない。いつかボーマンダへ進化するまでの日々を辛いものじゃなく、待ち遠しく過ごすために。
「これ、お礼に受け取ってくれないか?」
「もしかしてそれ、“りゅうのウロコ”じゃない?」
「ああ。この前崖下に落ちてたのを見つけたんだ。俺の進化には必要ないから、ラルトスが持っててくれよ!」
僕の進化にも必要ないんだけど、とラルトスはツッコミを入れかけたが、それを飲み込んだ。タツベイの顔が真剣そのものだったからだ。やはりタツベイは天然らしい。ありがたくいただこう。
「うん、ありがとう!」
タツベイに別れを告げたあとも、ラルトスはぼんやりと考えていた。
タツベイはいつかボーマンダに進化して、この青い空を自由に飛び回るのだろう。僕はいつか自分の名前を見つけられるのかな、とラルトスは思った。
帰ろう。きっとマニューラとドンカラスが待っている。
ラルトスは思いのほか強い足取りで歩き始めた。でもやっぱり、筋肉痛にはなるだろうけれど。
To be continued…