2-1. 「見た目はお嬢様」
翌日の朝のこと。
「おい、聡」
「どうしたのさ、ネクロ。なんだか不機嫌そうじゃない」
「昨日の晩に散歩から戻ってみたら、遥がお前に抱きついて眠っていたんだが」
昨晩とんでもないものを目撃してしまったので、聡と二人になれたこのタイミングで問い詰めることにした。
「うん。昨日は遥といっしょに寝たからね。麗しい兄妹揃ってのベッドインさ」
「何がベッドインだ。それはともかく聡、一つ聞かせてくれ。遥は幾つだ?」
「ええっと、確か数えで十一歳だね」
「世間一般の常識で考えてみろ、そんな微妙な年頃の妹と一緒に寝る兄がいるか」
「ここにいるぞ」
「おい、やめろ馬鹿。この魏延は早くも終了ですね」
「いいじゃないいいじゃない、そんなおカタいこと言わなくてもさ。この小説はまだ始まったばかりなんだし」
「まあ、始まったばかりなのは認めるが」
どこを向いて何の話を誰にしているのかはさておくとして、それが事実であることの疑いの余地は無かった。
「そうそう。まだ始まったばかりなんだから、僕と遥が二人で寝たらいきなり数ヶ月後に時間が飛んで、そこにはちょっとお腹の大きくなった遥の姿が……なんてやっちゃったら、あとはもうスタッフロール一直線じゃ」
「死ね」
「僕の相棒がこんなに残虐なわけがないー!」
略称は「僕相」か。丞相とか宰相とかに混ぜておいてもまずバレないだろう。そして後ろ髪を引っ張るのは別に残虐でも何でもないので、遠慮なくフルパワーで引っ張ることにした。
「痛いなあ、もう……僕はただ、ラノベの体裁を取ってるのに未だにラノベになりきれない中途半端なこの作品に少しでもラノベの風を送り込もうとしただけなのに……」
「しょうもないことを言うな」
本当にどうしようもない。こんな時の聡は文字通り救いようがないほどダメだ。救う手立てが思いつかないし、そもそも救おうという気に少しもならない。決めるときはきちんと決めるというのに、この恐ろしいまでの落差は一体何から生じているのだろうか。皆目見当も付かない。
しばらくしてからようやく落ち着きを取り戻した聡が、別の話題を私に振ってきた。
「昨日帰る前に、宮本さんに部室の場所を教えておいたんだ」
「となると、今日はさくらが部室まで来てくれるということか」
「恐らくはね。リボンちゃんを連れて行くって言ってたから、きっと来てくれるはずだよ」
「なるほど、それは朗報だ。して、活動はどうする?」
「どうしよっかなあ、まだ細かくは決めてないんだ。ま、でも何はなくともコミュニケーションさ。とりあえずお喋りでもして、しっかり親交を深めないとね」
「それも一理あるな。私もリボンともっと話がしてみたい。あのチェリムは気立てのいい、優しい娘だ」
「ネクロったら、リボンちゃんのことをずいぶん買ってるんだね。でも僕も同じ気持ちさ。宮本さんとも仲良くしてたし、信頼関係がきちんと築けてる証拠だよ」
リボンには訊ねたいことが幾つもあった。これまでにどのような戦いを経験してきたのか、本来はどのような立ち回りを得意としているのか、他にはどのような特技が使えるのか――挙げればキリがない。戦いはそれほど得意では無さそうだったが、それでも私を相手にして立派に戦ったのは事実だ。さくらへの強い信頼と忠誠心が無ければできないことだろう。恐怖心を押し殺して私にまっすぐ視線を投げかけてきた、あの健気さと気丈さには惹かれるものを感じずにはいられない。願わくば、もっと話がしてみたいものだ――。
「先輩、おはようございます」
後ろから、正確には後方左手から声が聞こえたのは、私がリボンについて思いを巡らせていたときだった。聡が声のした方向へ素早く顔を向けると、私もすぐさまそれに倣った。
そこに立っていたのは――見覚えは無いが、下級生、それも新入生と思しき少女だった。背中まで余裕で届く程度には長い橙色の髪に、カラーリングを合わせつつも濃淡の差で存在を強調するオレンジ色のリボン。そして一番目に付くのが、フレームの無い大きな眼鏡。眼鏡は着用の仕方次第で知的な印象を与えるというが、その俗説に違わぬ効果を発揮していると言えた。
「やあ、おはよう。挨拶ありがとう」
「いえ。登校中に先輩のお姿を目にしたものですから。お隣に連れてらっしゃるのは、ムウマージ、ですよね?」
「その通り、僕の相棒さ。こうやって一緒に登校するのが日課なんだ」
「そうなんですか。仲がよろしいようで、何よりです」
生真面目さを強く感じさせる口調とは裏腹に、口元には柔らかな笑みを添えている。立ち居振る舞いや態度を見ていると、ずいぶんと礼儀正しいと感じる女子生徒だ。彼女は聡に向けて、次いで私にも軽く会釈をしてから、横を抜けて先に前へ歩いてゆく。歩き方にすら気品があると言うべきか、粗野なところが何一つとして無い。よい教育を受けてきた証左だろう。
――ただ。
(なんだ、この気配は……?)
女子生徒が私と聡の間を通り過ぎる一瞬、何かの気配を感じた――ような気がした。何かは分からないし、そもそもその感覚が正しいのかも怪しい。ただの思い過ごしの類だと考え、私は気にも留めなかった。
「聡。彼女は顔見知りか?」
「いや、今日初めて出会ったよ。けど、真面目で品のある子だね。一年生なのに、なんだか生徒会長さんみたいだったよ」
「確かに、風格は十分だな。何より、先輩にきちんと挨拶をするという姿勢に好感が持てる」
「ネクロったら、まーた真面目になっちゃってるんだから」
聡が茶化して言った通りではあるが、今時珍しい生真面目な性格にポジティブな指向性の興味が湧いたのは事実だ。趣味がよいとは言えないが、少しばかり彼女を観察してみたくなった。
「私は少しあの女子生徒を観察することにする。聡、また落ち合おう」
「いいよ、行ってらっしゃい。終わったら教室まで戻ってくるか、部室で暇つぶししててね。迎えにいくよ」
こうして私が単独行動することを、聡がやめさせたり止めたりするようなことは一度もなかった。私のしたいようにすればいい、具体的に聡がそう告げたわけではなかったが、態度を見れば私を縛る気が無いのは明らかだった。故に私は自由であったし、それと同時に戻る場所、或いは拠り所というべき場所も持てる、恵まれた立ち位置にいることができた。
少し速度を上げて進む。彼女の姿はすぐに見つけることができた。人目に付かぬように姿を消すと、そのまますぐ後ろについてゆく。
「沢渡さん、おはよう」
「おはようございます、水森さん。今日は体調がいいようで、何よりですね」
「はい。昨日病院へ行って、少し落ち着いてきたねって言われたんです」
隣にいるのはクラスメートだろうか、別の女子と話をしている。会話の様子を伺っていても、聡に話しかけた際に見受けられた物腰の上品さが感じられる。月並みな言葉だが、気品ある令嬢、という喩えがしっくり来る。あるいは、実際にそのような家系なのかも知れない。
そして――どうやら彼女の名字は「沢渡」というようだ。これで彼女を識別するための情報が手に入った。
沢渡は校舎へ入ると、廊下の途中で「水森」と呼んだ女子生徒と別れた。そのまま教室へ入ると、例によって穏やかな調子で近くにいた生徒たちに声をかける。
「おはようございます」
「あっ、おはよう沢渡さん!」
「おはようっ」
机の上へ荷物を丁寧に置くと、すぐさま教室にある備品の手入れを始める。
「斉藤さん、お花の水を変えるの、手伝ってくださるかしら?」
「任せて! じゃ、ちょっと変えてくるね」
「助かりますわ。ありがとうございます」
クラスメートも彼女のことを信頼しているようだ。自然と人が集まってきて、彼女の仕事を補佐しようという様子が見受けられる。
このような礼節を知る子供がいるとは、今時珍しい――そのようなことを考えつつ教室の上部へ目をやると、都合のいいことにクラスメートの名前一覧が記された大きな紙が貼り出されていた。名前は五十音順に並んでいたので、迷うことなく「沢渡」の名字を見つけられた。
(――「沢渡紬(つむぎ)」、か……)
沢渡つむぎ。それが彼女のフルネーム。
よく耳を澄ませてみると、確かにちらほら「つむぎちゃん」と呼ばれる声も聞こえてくる。なるほど、どうやら間違いなさそうだ。
そうしてしばしの間つむぎのことを観察していたが、これといって変わった様子は見られない。見られていないとはいえ、あまり観察を続けるのも失礼に当たるだろう。私はキリのいいところで観察することをやめて、静香に教室を後にした。
「ねえねえ知ってる? なんかこの辺りで怪しい人がうろついてるって」
「あれだっけ、ヘルメット被ってバット持って歩いてるって人」
「そうそう! かよちゃんがこの間公園で見たってLINQで教えてくれたんだ。すっごいヤバそうな感じしたって言ってた!」
「だってヘルメットにバットなんでしょ? 絶対ヤバい人だよそれ」
道すがら、廊下で談笑する女子生徒二人を見かける。口にしていたのは、最近近隣をうろついている不審者がいる――という話だった。夜半に外を出歩くことの多い私にしてみれば、あまり気持ちの良いものでもない。
「やだよねー。わたし外出るときぴいちゃん連れて行こっかなあ」
「ぴいちゃんって確かピカチュウだよね? 用心棒にはちょっと頼りなくない?」
「えぇー、ああ見えてぴいちゃんすごいんだよ。だってほら、電気ショックも使えるんだから!」
ポケモンは人よりはるかに高い戦闘能力を持っている。それ故女子生徒の一人が言うように、身辺警護のためにポケモンを連れていくということも日常的に行われている。私がいつも聡の側に付いている理由の一つもそれだ。聡の身に何か起きてからでは遅いからだ。
それにしてもヘルメットにバットとは、あまりに典型的な不審者と言わざるを得まい。仮に遭遇するようなことがあれば、決して関わるべきではないだろう。聡にも伝えておかねば。
私が人知れず廊下を進んでいくに連れて、彼女達の声が小さくなっていった。
さて、放課後である。
「こんにちはー! 櫻井せんぱーい! 宮本ですー!」
「やあ、いらっしゃい、宮本さん。リボンちゃんも一緒かな?」
「はい、もちろんです! ほらリボン、出てきていいよ」
元気よく扉を開いたさくらと、以前と同じように彼女の足元にくっついているリボンの姿が見えた。さくらが促すと、少しばかり縮こまって隠れていたリボンがひょっこり顔を出して、あの愛らしい表情を見せてくれた。
聡が近くの椅子へ座るよう促しつつ、予め用意しておいた紅茶を手際よく注ぐ。私が言うのも何だが、聡はどういうわけか紅茶を淹れるのが上手い。いや、紅茶だけに止まらない。何か調理させれば大抵普通以上のものを作ってしまう。少なくとも遥よりずっと家事の類は上手だ。そもそも遥は……これはまた別の機会に話そう。
「わあ……! ありがとうございますっ」
「熱いから、火傷をしないように気を付けてね。じゃあ、僕も飲むとしようかな」
そして、しばし紅茶を愉しむ時間となる。私も念力でカップを浮かせて啜りつつ、さくらとリボンの様子を見ていた。
互いにある程度カップを空けて一段落した空気が流れたところで、聡がさくらに問いかける。
「宮本さん、リボンちゃんに会ったのはいつくらい?」
「えっと、小学四年生の時です。トレーナーの人からポケモンのタマゴをもらって、かえしたらチェリンボが生まれて……」
だからか。さくらが自分の手でタマゴを孵したから、リボンはさくらを「お母さん」と呼んでいるのかと、私は心中で一人得心した。
そのリボンはと言うと、机の上にちょこんと座っていて、親であるさくらが飲んでいる紅茶をじっと見つめていた。赤い瞳をぱちくりさせて、立ち昇る湯気に興味津々の面持ちで見入っている。
「あっ、そうだ。リボンも紅茶飲んでみる? おいしいよ」
リボンが物欲しそうにしている様子を素早く見つけたさくらが、紅茶を飲まないかと勧める。驚いたリボンが小さな口を開いて「いいの?」と言うと、さくらにはその意味するところがはっきり分かったのだろう、もちろんいいよ、と快く返してやった。
さくらが紅茶をよく冷ましてから、カップをそっとリボンに寄せてやる。リボン自身も手でカップを支えながら、ゆっくり紅茶を口へ流し込んでいった。三口ほど飲んでカップを離すと、そこには満足そうなリボンの顔が見えた。おいしい、と顔を綻ばせるリボン、そしてリボンを喜ばせられて嬉しそうなさくら。
「宮本さんとリボンちゃん、いいコンビだね」
「ああ。見ているだけで和やかな気持ちになる。二人の信頼関係があってのものだな」
「ま、『さくら』ちゃんとチェリムだからね。ほんと、ピッタリだよ」
さくらとリボン。長らく私と聡しかいなかった部室にあって、彼女達の存在はとても大きかった。昨日さくらと初めて出会った折に、聡が「春一番のようだ」と評した。なるほど、今もその印象は変わらない。冬のように寒々としていた部室に春の陽気をもたらした、まさしく春一番のような少女たちと言えるだろう。
「あの、ネクロさん。紅茶ごちそうさまでしたって、さとしさんに伝えてほしいな」
「お安い御用だ。きちんと伝えておこう。お前が紅茶を啜る様子、なかなか愛らしかったぞ」
「ネクロさん……えへへ、ありがとう」
こうしてしばし、穏やかな時間の流れに身を任せていたのだが。
「……聡、どうかしたか? 先程から時折窓の外へ目が向いているようだが」
「いや、大したことじゃないよ。ただ、誰かがいたような気がして、ね」
どうも誰かの視線を感じる。聡がそのように言ってしきりに外を見ていたのが、少しばかり気掛かりだった。
――そうして、さくらが入部してから数日が経った頃のこと。
「先輩っ、こんにちは!」
「さとしさん、ネクロさん、今日もおじゃまします」
「やあ、今日もよく来てくれたね。ささ、座って座って」
放課後になるとすぐにさくらとリボンが姿を見せて、そしてそれに先んじて聡が準備しておいた紅茶を素早くカップへ注ぐ。あまりに規則正しく繰り返されるせいか、あっという間に見慣れた風景になってしまった。
何時ものように紅茶と茶菓子を片付けた後、さくらがおもむろに話を切り出してきた。
「あの、先輩っ」
「いいよ。何でも言ってみて」
「ちょっと気になったんですけど……ポケモン部って、これからどんな風に活動していくんですか?」
いずれこういう話が出てくるとは思っていた。ポケモン部の活動についてだ。
「そうだね。じゃあ、僕の考えを言うよ」
「特に何か決まったことをするつもりはないよ。僕はこの部を、ポケモンが好きな人の社交場にしたいんだ」
「一応文科系の部活だから、文化祭で何か催し物ができるといいね。作品展示でも、お芝居の発表でも」
聡はさくらの問いかけを受けて、このように返して見せた。あくまで文科系の部活動として、ゆるりと活動していきたい。その方針はあくまで変わっていないようだった。
して、さくらの反応はと言うと。
「あれ……? そうだったんですか? わたしが前に聞いてたのは――」
はてな、と首を傾げて不思議そうな表情をしつつ、続けて何か言おうとした矢先のこと――。
「……あった! ここだわ!」
何やら外から声が聞こえたかと思うと。
「おんどりゃあぁ!!」
バーン! と言わんばかりの勢いでもって、不意に部室の扉が開かれた。
「だ、だれ? おきゃくさん?」
「お、おい、何事だ? 聡……」
突然のことに室内は騒然として、私と聡、そしてさくらとリボンが会話を止めて、一斉に入り口へ視線を注ぐ。
「あっ……!」
そこに立っていたのは、明らかに予想だにしない人物で。
「……つむぎちゃん!」
「いたーっ! とうとう見つけたわよさくら! 今日という今日こそ絶対にぶっ飛ばしてやるんだから!」
明らかに聞き覚えのある声、橙色の髪とリボン。
そして何より――あの、フレームの無い眼鏡。
「聡、彼女はまさか……」
「ええっと……この間僕らに挨拶してくれた、あの生徒会長さん風の子だよね。名前、つむぎちゃんって言うんだ……」
「ああ……以前観察していた折に、名前は聞いていた。間違いない……」
「ネクロがそう言うんだ、絶対に同一人物だね、うん……」
紛れもなく、この間我々に礼儀正しく挨拶をして見せた少女・沢渡つむぎだった。容姿も声色も間違えようがない、目の前にいるのは疑う余地無くつむぎその人だ。確実に間違い無かった。
間違い無かった……のだが。
「さあさくら、果し合いの時間よ。勝つか負けるかやるかやられるか、容赦なしのガチ勝負よ!」
「けちょんけちょんにのしてやるんだから、覚悟しなさい!」
自分の目と耳が本当に機能しているのか、この時ばかりは本当に疑わしく思えた。
「いい? さくら、あんただけは絶対に許さないんだから! 覚悟してもらうんだからね!」
「聡、これは何の二次創作だ? 冬の街で奇跡が起きる話か?」
「やめなよ」
啖呵を切って荒々しくさくらに勝負を仕掛けるつむぎを横目に、我々は、しごくしょうもない、底なしにしょうもない話に興じるしかなかったのだった。