1-4. 「夜の桜が導くモノは」
「いやー疲れた疲れた。怒涛の放課後だったね」
「ああ。予想外の出来事が続いたからな。概ね、さくらに関連することばかりだが」
私たちは帰宅するなり聡の自室へ向かい、カバンを机の上へ置くと、着替えもそこそこにベッドへ座り込んだ。聡が口にした通り、放課後に立て続けにイベントが起きたものだから、考えていた以上に疲れてしまったようだった。
校門近くにある桜の木の下に立っていたさくらと再会し、聡がトレーナーだと知るやポケモンバトルを申し込まれ、バトルフィールドでさくらのパートナーであるリボンと激しく戦い、ようやく決着というところでソフトテニス部の部員に止められてしまった。意図せぬ形で試合が中断されたことを疑問に思ったさくらに事情を説明すると、あろうことかポケモン部に入部したいと申し出てきた。まったくもって、カケラも想像していなかった展開だ。
「さくら、か。チェリムを連れている、すなわちそれなりにできるトレーナーだとは分かっていたが、よもや彼女がポケモン部に入部することになるとはな」
「僕だって驚いたさ。や、入ってくれるに越したことはないけどさ」
ポケモン部に入部したい、私と聡にいきなりそう切り出してきたさくらの勢いに半ば押される形で、聡は彼女の入部を認めた。彼女のたっての願いから生じたことだったが、ポケモン部としても悪い話ではないことは確かだ。何にせよ、この状況で部員が増えて困ることはない。
これからどうするかという課題は、未だ残ったままであるが。
「でも、チェリムのリボンちゃんだっけ。あの子も可愛いし、他にも女の子が入ってくれるかも知れないね」
「確かにリボンは愛嬌がある。それは私も認めよう」
「いい感じだね。僕の目指すゆるふわ部活動が現実味を帯びてきたよ。放課後のふわふわ時間さ」
「まあ……それでもいいかも知れないが……」
私はため息混じりに呟きつつ、少し前のことを思い返してみる。
ポケモン部に入部したいと申し出てきたさくらが、聡と話をしていた折のことだ。二人の様子をぼんやり眺めていた私の足元で、小さな影が動くのが見えた。
「……リボン? どうかしたか」
「あの……ネクロさん、ごめんなさい」
「ごめんなさい……? いや……どういうことだ?」
リボンがこちらへおずおずと近づいてきたかと思うと、どことなく不安げな表情を見せて、おもむろに深々と頭を下げた。私はリボンの行動の意図するところが掴めず、ただ彼女の瞳を見つめることしかできずにいた。
「わたし、うまく戦えなくて……」
「最後なんて、もうダメって思って、すごくこわくなって、目をつぶっちゃって……」
ああ、そういうことかと、私は心の中で得心した。
私を前にして恐怖を覚え、うまく戦えなかった。かような自分の戦いぶりを私が不満に感じていると思って、リボンは「ごめんなさい」と謝ってきた――そんなところだろう。
「謝ることはない、お前はよく戦った。これを見てみろ」
そう言いながら私はリボンの側まで身を寄せて、腕に付いた傷を見せる。リボンが私に退路を断たれた後、切り返す目的で繰り出したマジカルリーフが付けた幾つかの切り傷だった。
「あっ、キズが……!」
「見えるか。これは間違いなく、お前の力で私に付けたものだ。もっと自信を持って――」
もっと自信を持っていい、私はそう続けようとしたが、リボンの反応は少し違っていた。小さな手を差し出して私の傷口へそっと覆い被せると、痛ましげな表情を浮かべる。そうかと思うと、すぐさま目を閉じて力を集中させる素振りを見せた。
間もなく、私は傷口の発していた鈍い痛みがすっと引いていく感触を味わうことになった。
(これは……『癒しの波動』か)
ポケモンの持つエネルギーは、そのエネルギーを使うポケモンの能力の高さや意志の強さによって如何様にもその形を変え得る。私の鬼火やリボンのマジカルリーフのような攻撃的な指向性を持った形にすることはもちろん、身体を治癒させたり体力の回復を促すといった、対照的な効果を持った形を成すこともできる。
リボンは幾つも付いた傷を順繰りに癒してゆき、最後の一つが終わったところでゆっくり顔を上げた。
「ネクロさん、だいじょうぶ?」
「見ての通りだ。ありがとう、リボン」
すっかり傷の消えた腕を見せてやると、リボンは安堵の表情を見せた。穏やかに微笑んで、私が全快したことを心から喜んでいる、そう形容するのが適切に思える表情だった。
この娘はなんと優しいのだろう。私は率直にそう思った。戦ったばかりの相手を慮り、あまつさえ自ら進んで傷を癒そうなどと考えるのは、心根の優しい何よりの証拠だった。些か甘いと感じるところも無いわけではなかったが、それ以上に「優しい娘だ」という印象をとても強く覚えさせた。
「リボン。お前は、優しいのだな」
「きゃっ……」
リボンの可憐な花びらにそっと手を添えて、傷付けぬよう優しい手つきで撫ぜてやる。リボンはくすぐったそうにしながら、ほのかに頬を朱に染めてはにかんでいた。仕草の一つ一つに、この上ない愛嬌を感じずにはいられない。
しばらくそうしてから、私は今一度リボンの目を見て、こう語りかけた。
「お前と出会えてよかった。これほど気持ちのいい戦いをしたのは久しぶりだ」
「次はいつになるか分からないが――また、私と戦ってほしい」
自分の抱いていた懸念が払拭されたに違いない。リボンはぱあっと朗らかな表情を見せて、
「ありがとう、ネクロさん。わたしも、またよろしくお願いします!」
始めて顔を合わせたときのように、深々と頭を下げた。
――斯様なリボンとのやり取りを振り返りながら、私は彼女と出会えたことを心から喜ばしく思っていた。親であるさくらについても同じだ。彼女たちのような好感の持てるメンバーが加わることは、私にとっても聡にとっても手放しで歓迎すべきことに違いなかった。
しかしながら、ポケモン部の抱えている問題を一掃するまでには、まだまだ時間が掛かりそうだった。
「聡。明日からはどう活動するつもりだ」
新たなメンバーとしてさくらが加わった。では明日からどうするつもりかと、私は聡に訊ねる。聡の目指す部活の方向性を、今一度確認しておきたかった。
「そうだね。宮本さんには部室まで来てもらって、一緒にお茶でも飲むことにするよ。あの部室には、どういうわけかティーセットが用意されているからね」
「どういうわけかも何も、聡が外から持ち込んだものだろう」
「あ、ばれた?」
「まったく……私にティーセットを選ばせておいて、バレるだのどうのという問題ではなかろうに」
聡が部室にティーセットを持ち込んだのは、つい先日のことだ。
ゆるふわ部活動には紅茶が欠かせない、いきなりそう宣言した聡は私を近くの百貨店まで連れていき、おもむろに「ネクロのセンスでいいやつを選んでよ」などと依頼してきた。そうは言っても私に洒落た道具を選ぶセンスがあるわけでもない。かろうじて少し気に入ったものを戸惑いつつ指差すと、聡は即決でそれを買ってしまった。
「大体、どうして私に選ばせたんだ。聡が自分で選べばそれで良いだろうに」
「どうしてって、決まってるじゃないか。僕の一番側にいる女の子がネクロだからさ」
「おい……聡、からかうのはよしてくれないか。私は、そういうつもりでは……」
何を言い出すのかと、私は思わず言葉を詰まらせる。「聡の一番側にいる女子」が私だから頼んだなどと、さすがに悪ふざけが過ぎる。いくらなんでも、いきなり言うのは止めてもらいたかった。
確かに、私は♀だ。ポケモンの♀が、人間の女子と似た性質や心根を持っていることが多いのも否定はしない。だが、私自身はまた別の話だろう。聡から女子として見られるようなところは何も持ち合わせていないはずだ。可愛げが――今日出会ったばかりのリボンのような――あるわけでもなく、一般的に女子らしいと見られるような特技ができるわけでもない。私にできることと言えば、ただ聡の側に付いて話をすることと、バトルに於いては全力で戦うこと。その程度のことしかない。
「からかってなんかないよ。僕は本気でそう考えてるんだからさ」
「確かに私は♀のポケモンかも知れないが、女子などとはとても言えたようなものでもあるまい」
「じゃあ、ネクロはどうしてそう思うの?」
「それは……私には、女子らしい処など無いと思っていてだな……」
「ホントに? ホントにそんな風に考えてるの?」
「嘘ではない、本当の話だ。私にできることなど、せいぜい他のポケモンと戦うことくらいじゃないか……」
「うーん。自己認識と他者から見た姿にギャップがありそうだね。ま、よくあることさ。自分が気付いてないだけで、ネクロだってちゃんと女の子してるよ、ってね」
「聡……ああ、駄目だ駄目だ。この話はもう止めにしよう。上手く考えをまとめられないし、またつまらないことを口にしてしまいそうだ」
私が無理やり話を打ち切る。聡は柔らかく笑って、ネクロがそう言うなら、と余裕を見せている。主導権を完全に握られていることを自覚して、私はどこか落ち着かない気持ちになった。
この微妙な流れを変えたくて、こほん、と小さく咳払いをしてから。
「さくらと茶話会をする、か……つまり、今日帰り際に話した方向性は維持するということか」
「そうだね。僕が目指すのは、資料室のお茶会さ」
「ほう。つまり聡は、喧嘩に巻き込まれて絶命するということか」
「やだなあ、違うよネクロ。僕が資料室の主になって、時折窓の外からやってくる傷心の女の子にそっと温かいお茶を出してあげるのさ。そして思う存分話を聞いてあげて、僕は日が暮れるまで彼女たちに寄り添うんだ。毎日それを繰り返す。これぞまさしく天使の所業だね。我ながら心温まるハートウォーミングなお話だと思うよ」
「おい、ポケモンバトルしろよ」
「いやあ、ごめんね。明日からのポケモン部は演劇またはバスケ、時々合唱、所により合気道または指揮メインの吹奏楽をやるクラブに路線変更するんだ。あと場合によってはヒトデの彫り物を作って背中に突っ込んだりする」
「雪に埋もれて死ね」
「あだだだだだだ! ユキネノコー!!」
例によって後ろ髪を掴み、全力でもって引っ張っておく。本当にしょうもないことしか言わない。この小説が何の小説かを自覚せずに心底しょうもないことばかり言うので、私が後ろ髪を引く手にも思わず力が入る。これで髪が抜けないのだから、聡の毛根は相当強いのだろう。だから禿げる心配もあるまい。
こんな具合で延々と騒いでいると、突然部屋のドアがバーンと開いて。
「おにぃーちゃあぁあーん!! たっだいまぁあーっ!!」
部屋中に響き渡るほどの大音量でもって、聡に帰宅の挨拶をする少女が一人。
「やあ遥(はるか)、お帰り。今日も元気が良いね。お兄ちゃんはうれしいよ」
「えっ!? お兄ちゃんうれしい!? じゃあ、遥もうれしい!!」
名前を遥という。大方の予想通りと言うべきか見ての通りと言うべきか、聡の妹である。
遥は聡の四つ下で、今年で確か小学五年生になる。既にお分かりの通り大変元気がよく、そして兄の聡を慕っている。
いや、これは綺麗な言い方に過ぎるか。もっと現実的で率直に言おうと思う。
「えへへっ……今はお母さんもお父さんもいないよっ。だからぁ、遥とお兄ちゃんでふたりっきり♪ ふたりっきり……きゃっ♪」
重度のブラコンである。
「遥。浮かれるのはいいが、私の存在を忘れていないか」
「あっ、また出たな! この性悪女!」
「誰が性悪女だ」
ぴっ、と迷わずまっすぐ人差し指を向けてくる遥。まったく迷いが無い。ここまでやられると、まあある意味潔い。
「お前は人に指を差すなと親か先生から教わらなかったのか」
「指差してないもん。遥の指先から出てるレーザービームが微妙に横すり抜けて、後ろにある鏡に反射して背中からヒットしてるんだもん。バックアタックだもん」
どういう理屈だ。大体後ろに鏡など無い。そもそも聡の部屋に鏡など置いていた記憶は一切無い。聡が絡んだときの遥は万事がこんな調子だ。まともに相手をしていては身が持たない。
遥は聡のことが大好きで、これは遥がもっと小さい頃から一切変わっていない。聡を思う心は不変、と言うべきなのだろう。少なくとも、私の記憶の中で聡と遥が喧嘩をしていた光景はほとんど見た記憶が無い。お兄ちゃんお兄ちゃんとべったりくっついて、離れる気配がまるで無いのが遥だった。
以前は少し身体が弱く病気がちなところがあったが、最近はそんなことも無くなった。確か二年ほど前からバスケットボールを始めて、そのおかげで体力が付いていった――ということを、聡から聞かされたように思う。
「ねえ、お兄ちゃん……遥、お兄ちゃんのベッドにインしてもいい……?」
「おい、何がベッドにインだ」
「意味合ってるもん。間違ってないもん。遥がお兄ちゃんのベッドにインするんだもん」
「はははっ。いいよ、おいで遥。隣は空けてあるからね」
「わーい♪」
「やれやれ……」
私からするとずいぶん手の掛かりそうな妹だが、聡は実に上手く付き合っている。遥を突き放すわけでもなくきちんと受け入れてやっているのだ。この点に於いては聡に敬服せざるを得まい。
(しかし、これで少しばかり騒がしくなったな)
遥が部屋へ遊びに来て、聡も遥の相手をするつもりのようだ。私がこのままここに残っていても、聡と時間を掛けて話をすることは難しいだろう。
「聡、私は外で少し散歩をしてくる。そう遅くはならないはずだ」
「分かったよ、ネクロ。行ってらっしゃい」
「よーし! これで性悪女は追い払った! あとはお兄ちゃんと愉しい時間を過ごして、たくさん悦ばせて……きゃっ♪」
「一体何をするつもりなんだ、お前は」
わざわざ「たのしい」「よろこばせて」に紛らわしい漢字を当てる意味が分からない。明らかに別の意図を込めているとしか思えない。最近はいささか早くなったと聞くが、小五で思春期は早すぎないか。これが妹は思春期というやつか。どうなんだろうか。
「まあいい。後は二人で好きなようにしていてくれ」
私は二人を部屋に残して、聡の部屋の窓をすり抜けて外へ出て行った。
*
帰宅したときに比べて辺りはかなり暗くなっているが、まだ微かに明るさを残している。私は黄昏時と呼ぶべきこの時間帯に出歩くのも好きだったが、夜の帳が降りてすっかり闇に包まれた街を散歩するのもまた好みだった。こうして外を出歩き、取りとめもない考え事に耽る時間を大切にしたいと私は考えている。
闇に紛れて街をぶらつく。通り掛かる人の多くは帰路に付いていて、まっすぐに自分の家を目指しているように見える。足取りに迷いの無い者がほとんどだった。
帰るべき家があることは良いことだ――私は強くそう思う。
(聡のおかげで、私にも帰るべき家ができた)
ただこの一点にのみ於いても、聡には感謝してもしきれまい。聡がいなければ、今の私は居なかっただろう。肉体的にも、そして精神的にも。
少しばかり感傷的な気持ちになりながら町内の散策を続けていた最中、私はあるひとつの光景を目にすることとなった。
「あれは……隣町の中学校か」
いつの間にか結構な距離を移動していたらしい。境界を越えて隣町にまで進み、そこにある中学校の前までやってきていた。聡の通っているところとは別の学校になる。以前にも何度か通り掛かったことはあったはずだが、足を止めたのは今日が初めてのことのように思う。
私が足を止めた理由は、グラウンドでポケモンバトルが行われていたからだった。
「イワン! 懐へ飛び込め! フォロースルーを見逃すな!」
「させるか! ジャック! タックル返しだ!」
イワンの名で呼ばれたのはワンリキー、ジャックの名で呼ばれたのはバルキー、どちらも肉弾戦を得意とするパワーファイターに分類されるポケモンだった。
(ワンリキーにバルキー、か)
共に小柄で瞬発力もあり、相手の隙を付いて接近戦へ持ち込むのが定石となる。ゆえに近付かれると対処が難しいが、逆に言えば距離を詰めねば本領を発揮できない。そこに付け入る隙がある。あえて踏み込ませてカウンターを狙うか、遠距離での牽制に終始するか。相手もそれらの戦術を用いられることを承知しているから、フェイントを絡めて隙を作らせる、遠距離攻撃に対する奇襲を狙うといった対抗策を講じてくる――瞬時にそこまで思い出し、私は自分の知識が未だ錆び付いていないことを実感させられた。
最早これらが役に立つとは、到底思えぬというのに。
「ファイトー!」
「その調子その調子ー!」
ワンリキーとバルキーを戦わせているトレーナーの側に立って、同じくポケモンを連れた多くのトレーナーが声を上げて応援している。
これがポケモン部の練習風景であることは、誰の目にも明らかだった。
「イワンにジャックか。果たしてどちらが勝つのか、な」
彼らの様子を、私は遠巻きに見つめる。私の顔を見る者はいなかったが、もし誰かに見られていたとすれば、恐らく羨ましげな表情をしていたに違いあるまい。
聡が何をしたというのか。誰かに聞かせる目的ではない。誰の耳にも届かぬまま、初めから空に解けて消えてくれることを当てにして、私はその言葉を呟く。
(真摯だったはずなのに)
聡は、誰よりも真摯だったはずなのに。誰よりもひたむきに、前を向いて歩いていたはずなのに。
心に澱を抱えた、少しばかり沈鬱な心境のまま、私は顔を上げる。
(――桜……)
満開に咲いた桜の花。陽が沈み、街が昏い闇に包まれようとする中に在っても、その美しさには些かの翳りもない。そして、桜の花は只美しいだけでない。
凛とした強さを感じさせる。その言葉を使いたくなった。
(桜、か)
脳裏に過るは、出会ったばかりの、あの少女の姿。
「あるいは、ここから……」
あるいは、ここから。私はその続きを口に出しかけて、無意識のうちに喉元で止めてしまう。
(――いや。それはきっと聡の望むことではない)
(捨てきれない私の思いを、後ろ髪を引かれるような私の思いを、聡の望みだと摩り替えている)
(ただ、それだけなのかも知れない)
もう決めたはずだ。どのような形であれ、聡の望む道を、望む在り方を、ありのまま受け容れるのだと。
私は――聡のパートナーなのだから。