1-1. 「春一番」
今年もまた、桜の花が咲く季節がやってきた。
カバンを提げた手を肩へ回して、聡は悠々と桜並木の道を歩いていく。男子にしては長めの黒い髪、細身だが引き締まった身体、平均より少し高い背丈。外見的な特徴は、概ねこれくらいで説明が付く。特段何か目立つところも、人と異なるところも見当たらない。あまり使いたくない言葉ではあるが、いわゆる「普通」という形容がピッタリ当て嵌まる風貌をしていた。
同じようにして学校へ向かう生徒たちの姿を目にする中で、聡はぽつりと呟いた。
「桜の舞う季節、か。新しい出会いの予感がするね」
「そう……桜のように可憐で、初々しくて、かわいい女の子との運命的な出会いを感じるよ、僕は」
一つ目で止めておけばそこそこ風情があったものを、しょうもないことを言ってオジャンにしてしまう。これが私のパートナーたる聡の常だった。我ながらとても情けなくなったので、情け容赦なく突っ込むべきだと判断した。
「先人たちも『春眠暁を覚えず』とはよく言ったものだ。寝言も大概にしておけ」
「む、失礼な。僕はちゃんと覚醒して現実を満喫してるさ。だいたい、目が覚めてたら『寝言』は何の意味も成さないしね」
まあ、それもその通りではあるが、どこか釈然としないものが残る。私と聡の会話は、概してこのような形で終わることが多かった。
ここ最近のところは、特に。
「ネクロだってさ、かわいい女の子が欲しいって思うことくらいあるでしょ? 僕は常に思ってるよ」
「無い。聡が忘れようと忘れまいと、私はれっきとした♀だ」
「やだなあ、そこがポイントじゃないか。女の子×女の子、時代は百合だよ、ガールズラブだよ。最高だと思うよね」
「同意を求めてくるな。下らないことを考えるのはさっさと終いにしろ」
やれやれ。ため息交じりに吐き捨てて、暫し聡を視界に収めるのを止める。その代わりという訳ではないが、春らしく晴れ渡った空に目を向けてみる。
呆れてしまうほどに清々しい快晴だというのに、私の心がどこか晴れぬのは、決して気のせいではあるまい。
「ねえネクロ、呪文教えてよ。僕の目の前にさ、摘みたてのいちごみたいな甘酸っぱいガールズラブしてる、かわいい女の子二人が出てくる呪文。できれば中学生くらいで」
「無い。そんな呪文は存在しないし、あったとしても教えるつもりは毛頭ないし、だいたいムウマージが呪文をどうこうするというのがある種の迷信の類だ」
聡と私はこうして連れ立って歩き、聡の在籍している学校まで通うのが日課だった。聡が小学校の四年生だった頃から続けているから、かれこれ六年近く同じことを続けている計算になる。六年と言うと、随分長い時間だ。そんな中にあっても、聡はほとんど変わっていないように見える。
少なくとも――表向きのところは。
「しょうがないなあ。よーし、じゃあ代わりに、曲がり角からパンをくわえたかわいい女の子が走ってくる呪文で」
「少しは私の話を聞いたらどうなんだ」
かような下らない会話を交わしながら、聡と私はたまたま、口にした通りの曲がり角へ差し掛かって。
そして、そこで。
「うわーんっ! たいへんたいへんっ、遅刻遅刻っ、遅刻ーっ!」
「……って、ええーっ!?」
我が目を疑うとは、このことだろうか。
トーストの端を口にくわえて両手に提げたかばんを揺らしながら、聡よりも年下と思しき桜色の髪の少女が、こちらに向かって猛然とダッシュしてくるではないか。つい先ほど聡が口にしたしょうもない戯言そのものの光景が、今まさに目の前で展開されている。私よりも聡の方が呪文を使えるのではないか、そんなさらにしょうもない考えが頭をよぎった直後。
「どいてどいてー! どい……うぐぅっ!」
「うわっと!?」
桜色の髪の少女はそのままノンストップで突撃してきて、聡の胸にどんと勢いよくぶつかった。聡は軽くよろめいた程度で済んだが、小柄な少女の方は思い切り吹き飛んで、後ろへ尻餅を付く形になった。あまりの唐突さにいささか呆気に取られつつも、聡が素早く駆け寄って少女に声を掛けてやる。
「ねえ、大丈夫? 思いっきり正面衝突したけど」
「ふぇえ……ご、ごめんなさい……」
顔から聡に直撃したせいか、少女は少しばかり涙目になりながら鼻をさすっている。聡のことはきちんと見えているようだ、弱々しい声ながらも謝っているのが分かる。
この時――どうも、少女の足元で小さな影が動いたように見えたが、私にはそれが何かまでは分からなかった。
「僕は平気だよ。こう見えても頑丈にできてるんだ。立てる?」
「あ……はい。ありがとう、ございます……」
「それと、これも。僕がキャッチしたから、地面には落ちてないよ」
「はわわ、パンまで……ホントにすみませんっ」
少女の手を取って立たせたあと、吹き飛んで地面に落ちそうになっていたパンも一緒に渡してやる。あわあわと赤面しながらパンを受け取って、けれどそのままどうすればいいのか分からずに、両手に持って立ち尽くしてしまう。聡は彼女の様子を見ながら軽く笑うと、続けてこう声を掛けた。
「ところで、中学校はこっちじゃなくて向こうだよ。君が走ってきた方」
「……えっ!? そうだったんですか!?」
「道を間違えちゃったみたいだね。始業までまだ時間があるから、落ち着いてゆっくり――」
聡がおそらくは「ゆっくり行けばいいよ」と言おうとした、その矢先。
「うわーん! また間違えたーっ!!」
桜色の髪の少女は慌てて踵を返すと、再び物凄いスピードで爆走していった。聡は呆気に取られた顔つきをして、あっという間に視界から消失した彼女の背中を呆然と見つめていた。間違いなく、私も聡と似た表情をしていたことだろう。
状況をかき乱すだけかき乱して、ほとんど何も掴めぬままその場から消えてしまった少女。聡と私は前を向いたまま目を合わせることもせずに、暫し路上に立ち尽くす。
「何が何だったのか、皆目見当も付かぬな」
「さしずめ、『春一番』みたいな女の子だったね。新入生みたいだったし、髪の色も春めいてたし」
「ああ。その意見には全面的に同意する」
「だよね。あの子が一緒に連れてたポケモン……確か、チェリムだっけ。それも、春にピッタリだったからさ」
「……チェリム?」
聡の言葉に耳を疑う。先ほどの少女がポケモンを連れていたなどとは、思いも寄らなかったからだ。ましてやそれがチェリムだったとは、尚更驚かざるを得なかった。
「足元にくっついて走ってたんだ。転んだときは後ろに隠れてたけどね。どうも、ネクロのことを怖がってたように見えたよ」
「この風貌だ。恐れられることなどとうに慣れている。だが、ポケモンを随伴させているとなると……」
「ま、学生トレーナーなのは間違いないね。それも最終進化系のポケモンを連れてるんだ、それなりに腕は立つはずだよ」
いつも通りの飄々とした口調で、しかし少女とチェリムのことを的確に分析して見せる。
率直に言って――こういうときの聡が、私には一番好みだった。
「まあ、あれだね」
「どうしたんだ」
ワンテンポ置いてから、聡は。
「あの子のせいで、僕たい焼き食べたくなったよ。今から食い逃げしに行こうか」
「炭でも食ってろこの馬鹿」
「あだだだだだだやめやめストップストップ」
あまりにつまらないことをほざいたので、後ろへ回り込んで全力で髪を引っ張ってやった。聡が濁った悲鳴をあげているが、その程度で止める必要はないと分かっている。
「痛いなあ、もう……。まったく、ネクロは僕をハゲにする気? ハゲのトレーナーのポケモンになりたいの?」
「カツラでも被ってろ」
あの怜悧さがこれっぽっちも長続きしないのが、とにかく、無性に残念でならない。
私の主は、残念な男子だ。
*
人影もまばらな旧校舎の、さらにその一番隅にある空き教室。悪い立地のわりに小奇麗な室内で、聡は悠々と船漕ぎしつつ、ニンテンドー3DSでゲームプレイに勤しんでいる。
「それにしても、静かでいいね。とっても気が楽だよ」
「気が楽なのは結構だが、このままでいいと思っているのか」
「いいんじゃないかな。僕は意外と悪くないって思うよ」
ここへ来るまでに見た光景を思い出して、私は肩を竦めた。
校門をくぐって中へ入った直後のことだった。入ってすぐ左手にある少し大きなフィールドに、聡が目を向けたのが見えた。
「やあ、精が出るね。ソフトテニス部が練習してるよ」
「どうやら、グラウンドは押さえられてしまったようだな」
「最近はサッカー部が広く使ってるし、野球部もスペースが欲しいからね。場所取り合戦は熾烈だよ」
聡が口にした通り、フィールドではラケットを手にボールを追うソフトテニス部のメンバーたちが、朝から練習に精を出していた。
私はそのまま、彼らの足元に目をやる。
(……以前はもう少し明瞭に形が見えていた気がするが、ここまで掠れてしまったか)
私と聡がかつてあの場に立っていた頃は、はっきりとその形が見えていたように思う。
白一色の――モンスターボールのマークが。
「さーて。彼らを見習って、僕もバトルのシミュレーションに精を出すとするか」
聡がフィールドから視線を外す。あくまで軽い調子を崩さぬ聡の様子に、私は幾ばくかの寂しさを否定しきれないながらも、平静を装って言葉を返してやる。
「校内への携帯ゲーム機の持ち込みは校則違反だぞ」
「失敬な、あれはゲームなんかじゃないぞ。数値を精緻に整えて結果を見る、れっきとしたシミュレーターさ」
その声色から、聡が今どのような心境でいるのかがつぶさに分かる。
少なくとも、私にとっては。
*
「……聡」
「ん? どうしたのさネクロ」
私の呼びかけを受けて、聡は一応返事をして見せる。だがその視線は、手にしたニンテンドー3DSから片時も離れる気配がない。所謂生返事というやつだ。聡の態度に、やるせなさばかりがどんどん積もっていく。
時折聞こえてくる効果音やボイスに耳をくすぐられながら、私はため息混じりにこう呟く。
「一億歩譲って、約定通りバトルのシミュレーションをするなら許した」
「だが……なんだそれは」
聡が顔を上げて、爽やかな、今すぐ使い古した錆だらけの金槌を使って顔面が変形するまで殴りたくなるほどの腹立たしさを覚えるような爽やかな顔つきをして見せて。
「やだなあ。今流行の、ご町内を散策して『妖怪』を探すゲームさ。ほら見て、主人公の女の子」
「どうしてこうゲームになると毎回毎回女のキャラクターばかり使うんだ。聡は曲がりなりにも男子だろう」
「男子だからこそだよ。かわいい女の子の方がいろいろモチベーション上がるからね」
「そんなことより、バトルのシミュレーションはどうした、バトルのシミュレーションは」
「ネクロ、時代はネズミじゃなくてネコなんだよ。ついにトムがジェリーに勝つ時代が来たのさ。あるいはスクラッチーがイッチーをぶちのめす時代だね」
「いい加減にしろ」
無言のまま聡の後ろへ回り込んで、先ほどと同じように後ろ髪を引っつかんで力の限り引っ張ってやる。
「このまま毛根ごと死滅させてやろうか、ええ?」
「あだだだだだだ! ピカニャーン!」
謎の悲鳴を上げて悶絶する聡をひとしきり眺めてから、私は聡の髪から手を離した。
涙目になりながら頭をさすりつつ、聡はしぶしぶゲームを中止する。
「しょうがないなあ。バトルのシミュレーションすればいいんでしょ、ネクロったら頭固いんだからさ」
「おい、その拡張スライドパッドは何だ」
「何って、CTR−009だけど」
「誰が型番を答えろと言った。何に使うんだと聞いている」
「強いモンスターを狩ることを通じて、戦闘のシミュレーションをするのさ」
お前が戦ってどうする。
「聡……少しは真面目にやったらどうなんだ」
私が呆れつつ呟く。何気なく口にした、他愛ない言葉。
けれど、それに対する反応は、少しばかり感傷的で。
「真面目過ぎるのも考えものさ。これくらい緩い方が、きっと良かったんだよ」
「今となっては、詮なきことってやつだけどね」
穏やかな笑みを浮かべて見せてから、窓の外へすっと視線をスライドさせる。私は聡の視線を追いかけることができずに、そのまま背中を見つめる形になる。
成る程、確かに――そうかも知れない。
「……すまない、聡」
私の言葉を受けた聡が、静かに首を横に振る。
「ネクロの真面目なところ、僕は好きだよ。すごくね」
そろそろ教室へ行こうか。おもむろにそう口にして、カバンを持って席から立ち上がる。
未だ処理しきれない複雑な感情を抱えたまま、私はただ、聡の後ろに付いていくことしかできなかった。
(私は……聡のパートナーだというのに)
せめて聡に悟られぬように顔を俯けて、唇をぎゅっと噛む。聡は私が教室から出たことを確かめてから、そっと扉を閉めた。
ドアに貼り付けられた、陽に焼けて色褪せた紙には、大きな字でこう書かれていた。
――「ポケモン部」、と。