第6話 “望まぬ台本”
12
裏社会におけるライアン・シンジケートの権威の大きさを象徴するかのように、それは途方もなく巨大な戦艦であった。ウルトラホールにせめぎ合う国々の境界線などものともせずに闊歩する勇姿、全長およそ二千メートル、漆黒に塗りつぶされた黒の金属から、断片的に光が漏れる。その光に誘われるように、無数の小型艇がせわしなく出入りしていた。
今この瞬間にも、船中で膨大な違法な取引がめまぐるしく繰り返されている。しかも、すべて匿名で。この船において、名を持つ者などひとりもいない。あるのは中枢コンピュータからテレパシーを通じて毎日与えられる、一日限り有効な番号だけ。これを答えられなかった者、言い淀んだ者は、その場で抹殺される。たとえ顔見知りであっても、メタモンやゾロアークといったポケモンが化けている可能性を排除するためだ。そしてもし誰かが警察機関に捕まっても、他の構成員を匿名でしか知らない以上、芋づる式に捕まることを防ぐことができる。それゆえ、ライアン・シンジケートは裏社会の重要なインフラとして成長を遂げた。
たった一代でこれほどのシステムを構築し、組織を育て上げた『ライアン』は、戦艦の頂点に鎮座する摩天楼から見下ろしていた。
「報告です」女のインテレオンが執務室に訪れるなり、機械のように淡々と告げた。「第七セクターからの貨物が盗まれました」
「盗まれた?」低い声で唸り、ライアンはジロリと振り返る。「運んでいたバカはどいつだ」
「番号DX02831と番号DX02832。管理者権限で顔と名前を確認しましたが、ストリンダーの兄弟ですね。テメレイア帝国から指名手配を受けています。定時連絡に応答なし、貨物の現在地は不明。彼らが盗んだ可能性もあります」
「それはない。シンジケートの一員ならば、オレの所有する『時の波紋』を盗めば死よりも痛ましい結果が待っていることを知っている。が、万一ということもあるな」
死のタクトを握る奏者。ひとたび振れば、下にひしめく殺し屋たちが一斉に標的を定めよう。ライアンは小さな指を宙に乗せて、ホログラムのモニターに命令を打ち込んだ。
「二匹に懸賞金をかけた。生け捕りにして事の顛末をすべて吐かせる。時の波紋の在処は、お前が探せ」
「了解しました」
インテレオンは深々と頭を下げて、来た道を引き返した。与えられた任務を遂行するためだが、自分の身を守るためでもある。
終始冷静を装っていたが、時の波紋を盗まれたと知ったライアンは怒りに燃えていた。今の彼にはたとえ命令でも近づきたくないものだ。エレベーターに乗り込んで、ドアが閉まる寸前、フロアの空気が震えて雷鳴が轟いた。
*
ウルトラホールを航行するノーザンライツに、雷鳴が轟いた。そして悲鳴も一緒に。
コックピットで頬からバチバチと放電しながら、ライムは目尻に涙を浮かべ、顔を苦悶に歪ませている。もう嫌だ。耳をつんざく悲鳴も、肉の焦げる匂いも、何もかも不快極まる。しかし放電を弱める度に、女は血反吐を吐きながら言うのだ。
「休んでる暇なんてないでしょ、早くしなさい」
「他の方法はないのかよ!?」
「何度も説明した通り、これが最善策よ。今度は脇腹を後ろから狙いなさい。手加減しちゃダメよ、逃げる私を追うつもりでやって」
「うぅ、うぅぅうう……!」
くるりと背を向けたミオに、ライムは再び狙いすます。「いつまで待たせる気!?」と急かされて、ライムはぐすぐす泣きながら放電した。
ミオ曰く、これが帰るために必要な策のひとつだと言う。彼女から「元の世界と時代に帰る方法がある」と聞いたときは、もう何も恐れるものはない、マドカとまた会えるんだ! と意気揚々だったが、計画の説明が進むにつれて、ライムの顔はみるみる青ざめていった。
絶対無理だ、こんなのできっこねえ!
嫌がるライムに、ミオはこの上なく悪そうな笑みを浮かべて言った。マドカちゃんに会いたいなら、つべこべ言わずにやりなさい。
「もういいだろお……?」
「まだ私に喋る元気があるでしょ!」ミオは放電を浴びながら声を張り上げた。「殺す気でやりなさい! 役になりきるつもりで!」
「オレがやってたのはポケモン演劇部! 子供の部活動! 役でもこんなことやらねえよ!」
「分かった、ならいい。ああ、可哀想なマドカちゃん。今日も枕を濡らしながら、独りぼっちで眠れぬ夜を過ごすのね」
「そんな言い方ずるいだろ……!」
「しかし効果的です」これまたミュウが視界の上から口を挟んできた。「これからあなたが演じる役に、道徳観はありません。したがってあなたはこれまでの道徳観を捨てた、新たな価値観を探求する必要があります。これはその練習にふさわしいかと」
「絶対無理だ〜!!」
ええい、ままよ!
半ば自棄を起こして、ライムは嫌々ながらも激しい電流を放った。
確かにスパイ映画を観て、敵地に潜入するシーンにドキドキしたことはある。だがそれはあくまで観て楽しむだけであって、自分がやることになるとは誰が想像できようか。
とはいえ、これしか方法がないのだと言われて納得したのもまた事実。しばらくミオを焦がしている間に、ライムは心の中で彼女が語った計画を思い出していた。
「シンジケートのタイムマシンを盗む方法はただひとつ、あなたが組織の一員として潜入するのよ」
「……今なんて?」
聞き違いかと思った。だがミオはまるで子供が自分の工作物を嬉々として語るように、らんらんと目を輝かせて作戦を披露した。
「組織は巨大で、しかも匿名性が非常に重要なの。だから奴らは組織を個人の繋がりでなく、システム上で番号管理している。ただ、その番号は毎日変わる上に、DNAに刻まれたナノチップを通してテレパシーで送られてくるから、番号は本人しか知り得ない」
「もう頭が痛くなってきた」ライムはフラフラとよろめいて尻もちをついた。
「これを回避するために、私はあのストリンダー兄弟を殺すつもりだった。奴らの肉体を丸ごとミラージュ・システムに取り込めば、イヴはDNAまで複製した完璧な肉体を得られる。残念ながら、それはできなくなったけど」
意気揚々と語るミオの顔が、一瞬だけ綻んだ気がした。
口を挟む暇もなく、彼女は語り続ける。
「そこでもうひとつの方法。あのストリンダー兄弟から番号を直接聞き出して、ライムとイヴがシンジケートに潜入する。奴らは本拠地である戦艦の奥深くに、タイムマシンを隠しているはず。私が盗んだ時の波紋と、私自身を手土産にして、奴らの信用を得たら、しばらく様子を見てて。『ライアン』はきっとすぐにタイムマシンを使おうとするに違いない、ずうっと待ち望んでいたんだもの。そこで一気に横取り! あとはイヴが時間と次元の行き先を設定して、ライムが飛び込むだけ。あなたはマドカちゃんのところに戻って、万事丸く収まるってワケ」
ちゃんちゃん。
最後まで聞き届けた頃には、ライムの口が開きっぱなしになっていた。
「ちょっ」ライムは思わず言ったものの、突っ込みどころを頭でまとめるのに間が生じた。「……といいか?」
「なんでも」
「オレがあの悪いストリンダーたちに成り代わるのか? ほんとに? オレが?」
「ホロ・チェンジャーで見た目を変えられるから大丈夫。幸いあなたは電気タイプ、技も使えるでしょ?」
「無理無理無理! 絶対にすぐバレるって! オレそんなに悪ぶれないし!」
「あら、自分は演劇部だって言ってなかった?」
「そうだよ! オレはポケモン演劇部であって、スパイじゃない!」
「じゃあ残念だけど、帰るのは諦めるしかないわね。身体が分子レベルでバラバラになって死ぬの、どれだけ痛くて苦しいのかしら……」
「〜〜〜!!」
そして今に至る。
……いや、もうひとつあった。ストリンダー兄弟から番号を聞き出したときだ。ミオは喜んで拷問の準備を進めていた。刃物と銃はもちろん、不気味な緑色の液剤が詰まった注射器、絶対に良い予感がしない小さな種など。カートに乗せて、拘束室へと向かった。
ところが、そんな必要はなかった。ストリンダーの弟があっさりと吐いた。
「俺の今日の番号はDX02832だよ。兄貴のはいつも俺よりひとつ先だから多分DX02831だと思う」
注射器を握ったまま、その先端から液剤を垂らすミオが、丸めた目をぱちくりさせていた。隣りで「絶対に喋ってやるもんか」と頑なだったストリンダー兄も同じ顔を浮かべている。
ミオは非常に訝しげに返した。
「それは、どうもありがとう……私の手間を省かせてくれて。でも何で?」
「さっきあんたが撃とうとしたとき、兄貴は俺を身代わりにしようとした。ひどいよ、俺たち兄弟なのに。だったら俺も兄貴を裏切ってやる、これでお相子だよ」
「どこが相子だ!」ストリンダー兄は黄色いタテガミを爆発させて叫んだ。「お前いま自分が何をしでかしたのか分かってんのか!?」
「へへーんだ、困った兄貴の顔が見れてせいせいしたよ!」
「バッカこの……お前のせいで俺たち揃って破滅だ! 全部終わりだ! シンジケートの秘密を漏らした奴がどんな末路を辿るのか、そのバチュルよりも小さい脳みそで考えてみろ!」
「あー……あっ」
ようやく理解できたらしい。ストリンダー弟は既に青い顔をさらに青くして、ミオに向かって申し訳なさそうに言った。
「ねえ、さっきのアレ、なかったことにしてくれる? そしたら俺たち、今まで全部何もなかったことにして帰るからさあ」
「……ダメ」
ミオはにっこりと笑った。
「とは言ったものの」ブリッジに戻るなり、ミオはライムに振り返って、険しい表情を向けた。「手に入れた番号は一日経てば上書きされて、使い物にならなくなってしまうわ」
「そ、そうか、じゃあオレは何をすればいいんだ?」
「ホロ・チェンジャーの準備はイヴが進めてくれてる。船の進路はシンジケートの本拠地にセットしたから、あとは到着までに私をボコボコに痛めつけなきゃ」
「よし、分かった!」
意気込むライムは、時が止まったように凍りついた。
「……誰を、どうするって?」
「あなたの役は、逃げる私を追いかけて時の波紋を取り戻したのよ? 捕まえたときに当然痛めつけてなきゃ不自然でしょ」
「それって、どのぐらい……」
「私が喋れなくなるまで」
あまりにもさらりと言ってのけるので、ライムは自分の方がおかしくなったのかと錯覚した。頬が引きつり、乾いた笑いがこぼれる。なぜか今、マドカと一緒に読んでいた台本のことを思い出した。
13
ミュウがコックピットに戻ってきたとたん、ライムは思わずビクリと震えた。手は真っ赤な血に染まり、傍らには縄で縛りかけのミオが横たわっていた。赤黒く焦げて焼け爛れた皮膚が露出し、おびただしい血の跡が床にべっとりと染みついている。
計画通りのこととはいえ、やってはいけないことを目撃されてしまったような恐怖に駆られる。だがミュウは、いかにも機械らしく平然と振る舞っていた。
「ホロ・チェンジャーの設定が終わりました。あなたのバッジにシステムをインストールします」
「あ、あぁ……」
胸のバッジに、ミュウの小さな手が触れる。すると淡い光が宿って、電子音が鳴った。インストールとやらはスムーズに終わったようだ。
「バッジに触れると、いつでもストリンダーに変身できます。ただし気をつけて、ホログラムは非常に脆い。攻撃を浴びると、変身が解けてしまいます」
「分かった、ありがとう」
ライムはギクシャクしながら礼を返すと、再びミオの拘束に取りかかった。ただ縄で縛るだけなのに、手が震えて作業が進まない。命じられたこととはいえ、自分がやってしまったことが恐ろしくてたまらない。マドカと読んだ台本の役にしたってそうだ。どうして誰かを傷つけても平気でいられるのだろう。
次第に焦っていくライムを横目に見ていたミュウが、ひと言声をかけた。
「大丈夫ですか?」
「あ、あぁ、もちろん大丈夫だよ……」引きつった口角が、ぐにゃりと歪んだ。「いいや大丈夫なもんか! こんなの全然違う、オレができることじゃない。役だと分かっててもオレにはできない」
「役になる必要はありません、ただなりきればいいのです」
「何が違うんだ? 悪の巣窟に潜り込んで、オレを強く見せなきゃダメなんだろ?」
「シンジケートの構成員について、私も考察したことがあります。彼らの強さは一体何なのか。思うにそれは、必要性から生まれたものです。絶えず背中に向けられた銃を常に警戒している。弱さを隠すための鎧と同じです。しかしあなたにはマドカへの信頼がある。私も、ミオ船長も、あなたならやれると信じています。それが我々の強さだ。それを役という形に変えて、あなたの強さにするのです」
ライムは静かに聞き澄ましていた。しばらく時間をかけて友達の助言を呑み込んで、少しずつ顔つきを険しくしていった。結局は返事を返すことなく、先ほどまでもたついていた手が嘘のようにミオを縛り上げて、何食わぬ顔で座席に座った。
船のAIが淡々と告げる。
『ライアン・シンジケートの戦艦ブラックシティより通信』
「応答しろ」
強い語気で言い放ち、ライムはイヴと互いに顔を見合わせて、胸のバッジに触れた。
しばらく元の姿とはおさらばだ。ライムは黄色いタテガミのストリンダー兄に、イヴは青いタテガミのストリンダー弟に変身を遂げた。
「こちらノーザンライツ」ライムは低く唸るような声で言った。「歓迎の挨拶をどうも」
『お前は何者だ、なぜ未登録の船で接近している?』岩を砕いたようなガラガラ声が返ってきた。『返答次第では撃墜する』
「オレの……俺の船は敵に破壊された。かわりに向こうの船を奪ってやったがな」
『識別番号を送れ』
「弟の分と送ってやるから、その目でよーく確かめろ」
ライムが頷いて合図すると、イヴは手際よく制御盤を操作して情報を送信した。
もしも間違っていたら。嫌な考えが頭をよぎるが、すぐに頭の外へ追いやった。ストリンダーならそんなことは考えない。
返事はすぐに返ってきた。
『確認した。到着が大幅に遅れた理由を、後でたっぷりと聞かせてもらうが、その前にひとつ。例の貨物もちゃんと一緒か?』
「……もちろん」
『ようし上出来だ、コントロールがお前たちを出迎える。彼女に従え』
「了解」
通信が終わった。ひとまず最初の山場は乗り越えたようだ。ライムはひと息ついたが、ひとつ疑問をイヴに尋ねた。
「……コントロールってなんだ?」
「不明です」イヴも肩をすくめる。「おそらくブラックシティの管理AIか、何らかの地位を持つ指揮官でしょう。いずれにせよ、我々はまだ疑われています。油断しないように」
「言われなくても」
そうするよ。ドキドキ高鳴る心臓を抑えようと、ライムは深く息を吸い込んだ。
*
「貨物が戻ってきた?」
ひと筋の光もない暗闇の奥で、一対の目が開いた。ぴちょん、ぴちょん、と水が滴る音の他に、聞こえてくるのは報告に訪れたゴースの吐息。それからスルスルと床を滑るような音。湿り気のある冷たい恐怖が、ゴースの頬を撫でた。
「ご、五分後に当艦へ到着するとのことです、コントロール」
「それは良かった。ライアンもきっとお喜びになるでしょう」
「ただ気になる点がひとつ」ゴースは声を震わせながら続けた。「運び屋が未登録の船で戻ってきました。調べたところ、地球連合で製造された小型艇のようです」
「連合の?」
目線が鋭く流れる。身体もするりとゴースの側を抜けて、扉が開いた。
通路の光に照らされて、暗闇の幕が上がる。その部屋の奥に横たわるものを見たとき、そのおぞましさに、ゴースは思わず震え上がってしまった。人が鎖で吊されている。未だ暗闇に覆われている上半身から、べろりと何かが剥がれて、下には真っ赤で大きな水たまりができていた。何よりも恐ろしいのは、まだ足がピクピクと動いていることだ。
「そいつを医療室に運びなさい。聞きたいことがまだ残っている、死なせないように」
「はっ……はい!」
コントロールと呼ばれたインテレオンは、タオルで手をきれいに拭いてから、何食わぬ顔で通路を歩いていった。