第9話 “Mind / Discovery”
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暗夜の街にけたたましいサイレンが鳴り渡り、ならず者たちの怒号が飛び交う。あるエレブーが空を見上げて指差す先、宙を駆けるシェイミはライムを乗せて、交錯するレーザーと破壊光線の雨をかいくぐった。縦横無尽に、時にはアクロバットな回転飛行で、光線を紙一重でかわしていく。だが、次第に逃げ道は狭まっていくばかりだった。
後方から狙われ、過ぎゆくビルを挟んで横にも追っ手が迫っている。摩天楼を通り抜けたら最後、挟み撃ちにされてしまう。シェイミは摩天楼の合間を抜けて、しつこく追いかけてくるオニドリルとサザンドラに振り返った。
「ほんとにだいじょうぶです!?」
「いいから、言った通りに頼んだぜ!」
シェイミの背をポンポンと叩いて激励し、ライムは思いきって後ろに飛び立った。突然目の前に迫ってきたエモンガに、オニドリルとサザンドラは驚き……暗夜を照らす稲光とともに、雷鳴轟く激しい『放電』に吹き飛ばされた。
飛膜を広げて滑空するライムの前に、翻してきたシェイミが躍り出て、再び彼を背中で受け止めた。
「ほらな、上手くいっ……うグぁ!?」
肩と脇腹に亀裂が走る。勝利と引き換えに弱っていくライムに、シェイミは不安げに振り返った。
「むちゃです!」
「だけど時間を稼げただろ」ライムは息を荒げながら、無理に笑みを浮かべた。「このままシャトル発着場に向かってくれ、そこにオレたちが乗ってきた船があるんだ!」
「ッ……はいです!」
際限なく湧いてくる追っ手と戦い続けることはできない。ライムの限界も遠くない。ならば、せめて誰も追ってこられないほど速く。彼が戦わなくてもいいように。シェイミは追っ手の群を抜いて急降下し、床すれすれの高さを猛スピードで駆け抜けていった。
目的地に唯一通じる門を守る屈強なボスゴドラさえ、ただの突進で吹き飛ばして、シェイミは発着場に飛び込んだ。たくさんの小型艇が並んでいる中、ライムはひとつを指さした。翼を畳んで、速度を落としていく。
中はすっかり荒らされて物が散乱していたが、幸いにも損傷はないようだ。ライムはコックピットの制御盤に乗って、深呼吸をする。その後ろから、ランドフォルムに戻ったシェイミは、おそるおそる尋ねた。
「これ、うごかせるの?」
「いいや。でも、ミオとイヴが動かしているところは見てた」
どれだけあいつらを注意深く観察できていたかが試されるな。ライムは冷や汗を垂らしながら、得意げな顔で取りかかった。
まずは航行システムを立ち上げてみよう。慎重にひとつひとつボタンを押す。あっちかな。いやいや、こっちだ。ポチッとな。
『左舷スラスター、パワーダウン』船のAI音声が無惨にも告げた。
「……ほんとにだいじょうぶ?」いよいよシェイミが本気で疑ってきた。
「大丈夫だって、間違えたら戻せばいいんだから」と笑ってごまかしながら、同じボタンを押すと。
『左舷スラスター、パワー復旧』
ほらな、としたり顔をするライムに、シェイミは返事もせず、ただ絶望的な状況に頭を抱えていた。
さあ次を押すぞ、と意気込んでいたところに。
『ミスター・ライム、ただちに操作を中断してください』AIが平坦な声で直球を投げてきた。『あなたの操作権限はイヴによって付与されています。音声による命令が可能です』
「それって例えば、あー……転送も使える?」
『はい、使えます』
「そっか、良かった。うん。助かるよ」
言葉とは裏腹に、なんだか恥ずかしいというか、悔しいというか。ライムは不愉快そうにため息を吐いたが、シェイミは安堵のため息を吐いた。
ライムは続けて言った。
「このフカフカちゃんにも、その操作権限って奴を移せるのか?」
『あなたの承認があれば可能です』
「まって」シェイミは顔を上げて、心配そうに鳴いた。「わたしが、うごかすの? あなたは?」
「オレはここでやることがあるんだ、一緒には行けない。後で仲間たちが戻ってくるはずだけど、もしも危険が迫ってきたら、お前だけで脱出するんだ。きっと仲間も同じことを言うはずだから」
「じゃあ、もうあえないの?」
問われて、ライムは思わず止まってしまった。そうだ。ミオたちに拾われてから過ごしてきたこの船も、乗るのはこれで最後。明日のオレは、また平凡な日常に戻るんだ。オレの帰りを待つ、マドカの家に。ここにはもう……。
「……もしも助かったらさ」ライムは寂しげに笑って返した。「オレのかわりに、ミオって奴の友達になってやってくれよ。あいつ気は強いし自分勝手な奴だけど、本当はすっげえ頼りがいがあって、見ず知らずだったオレを助けてくれた、いい奴なんだ。だけどきっとオレがいなくなると、あいつもオレも……少しだけ寂しくなると思うから」
シェイミは悲しそうに俯いた。船が揺れて、機体の軋む音がする。だがそんなことは気にならなかった。すぐに顔をあげて、彼女はしかと頷いた。
それはどんな励ましの言葉よりも心強く思えた。
「ありがとうな」ライムはぽつりと零して、天井を見上げた。「コンピュータ、オレをミオたちのところに転送してくれ!」
『転送プロセスを実行します』
AIが答えている間に、ライムの身体から光が湧いてきた。
*
何が待ち受けていようと、今なら乗り越えていける。なぜだか今ならそう思える。それはまるで消えかけの蝋燭が最後のあがきで燃え盛っているようだったが、ライムには確信があった。今は限界を超えてでも立ち向かうべき時なんだ、と。マドカが待っている。もうすぐ家に帰るからな、もう少しで……!
光が晴れて、ずしりと重力がのしかかる。転送が終わって、そばにミオを見つけるなり、ライムは笑みを浮かべて、凍りついた。
「……ミオ? イヴ?」
彼女たちは返事をしなかった。イヴはミオの肩にしがみついて。ミオは小刻みに震える身体でライフルをしっかりと構えて、銃口を一点に定めていた。その先にあるものが、ライムの目に留まった。
鏡を見た気がした。毎朝、マドカと一緒に洗面台で歯磨きをするとき、彼はいつもそこに映っている。普段であれば鏡の自分と目が合うことは多くない。なんだか気恥ずかしくて、おでこや胸元に視線が逸れてしまう。そんな負い目は、今度ばかりは吹き飛んだ。
「お前を待っていた、ライム」アーチ状の装置に繋がる制御盤を操作しながら、ライアンは言った。「予定外のことが重なってしまったが、お前は今、ここに来た。この場所に。これもまた運命だな、いよいよ時間の輪が繋がるときだ」
「黙れ、ライアン!!」
ミオが叫び、ライフルが火を噴いた。青いレーザーがライアンを襲った……が、寸前で光が花火のように弾けた。アーチを覆うバリアーが、ライアンを守ったのだ。
彼は薄ら笑みを浮かべて振り返ると、呼応するように暗がりからインテレオンが現れた。水の滴る指先を、ミオの頭に向けたまま。
「お前は一体、誰なんだ……」ライムが問うと。
「分かりきった答えを聞くもんじゃないぜ。もしもお前が映画の主人公なら、とっくにオレの正体を悟っている」
「そんなわけ……そんなわけないだろ、だってオレは……!」
「そう、お前は悪党じゃない。ならず者たちを結集させて犯罪組織を作ったりもしない。もちろん誰かを殺したこともなければ、違法な時間技術に手を出したりもしない。平穏な日常で、大切な誰かと一緒に暮らしていただけのエモンガだった」
「ならどうして……」
「お前の苦痛が、オレを生まれ変わらせたんだ」
インテレオンに続いて、バンギラスやルカリオ、ロズレイド、他にも屈強そうなポケモンたちが何匹も暗がりから出てきては、ミオたちを取り囲んでいく。「諦めなさい」後頭部にインテレオンの指を押し当てられて、ミオはしぶしぶ銃を下ろした。
ライムもロズレイドの茨の鞭に縛られて、棘が食い込んだ節々から血を流した。
「お前を蝕んでいるその病は、決して終焉をもたらすものではない」ライアンはバリアーを解いて、ライムに一歩ずつ近づいた。「神経という神経がすべて焼き切れて、全身を火で炙られながら身体を引き裂かれる地獄の痛みが待っている。おかげでオレはそれまでの全てを忘れてしまったが、目的だけは見失わなかった!」
「目的?」
「家に帰ることだ」
迫ってきた目は、もはや鏡ではなかった。真っ黒に淀んだ深い泉を覗き込んだような、底知れない深淵がどこまでも続いている。
「あいにくここでオレが歩んできた歴史は、お前とまったく違う。オレはそこの女と出会うことなく、ウルトラホールを独りで漂流しながら、延々と苦痛を味わっていた。
そしてオレは、永遠のような地獄を経てバラバラになった。痛みがスウッと引いたが、自分の破片を見たとき、これで死ぬんだと思った。その時だ、オレの中で凄まじい衝動がこみ上げてきた。
唯一覚えているのは、無機質な病院の天井。寂しさ、孤独、胸が張り裂けそうなほどの絶望、そして無力感。だが、誰かがそれを優しく包み込んで、あたたかい別のものに変えてくれた。気がつけば誰かが側にいてくれた。手を握ってくれた。オレの蝋燭に、火を灯してくれたんだ。
その誰かに、オレはまだ何も返せていない。あの温もりが恋しくてたまらない。たとえオレ自身のすべてを投げ打ってでも、元の世界へ帰ると決めた!
……気がついたら、オレは地球連合の船に乗っていた。医者の話では、オレの分子がこの時代と世界に適応したらしい。奴は奇跡だと言っていたが、オレは違う。運命の女神がオレを家まで導こうとしてくれたのだと確信した。
だが、地球連合は時間渡航を許さなかった。裁判を起こしたが判決は覆らず、オレはまたどん底に突き落とされた気がした。
そんなとき、連合を賑わすニュースが飛び込んできた。ミオという名の反逆者が、ウルトラホールのあちこちで『時の波紋』をかき集め、タイムトラベルを実行したという。奴と同じことをすれば、オレにもチャンスがあるはずだと思った。
しかしちっぽけなエモンガに何ができようか。無数の世界を当てもなく何年も探し歩いて、ようやくひとつだけ波紋を見つけた。それは二百年の時間を遡るには到底足りなかったが、オレはまた運命の女神が微笑んだのを感じた。
過去に遡って、ミオが集めるはずだった『時の波紋』を、オレが手に入れれば、確実に家へ帰れるじゃないか!」
力強く弁舌を振るうライアンを前にして、ライムは呆然と立ち尽くしていた。
確かにオレはマドカのことが大好きだ。あいつのためなら、オレは何だってできる。でも、他人を犠牲にしてまで貫きたいとは思っていない。だからオレはあいつとは違うんだ……違う、はずなのに。
「はは、は……あれ?」
乾いた笑みがこみ上げてきて、ライムは自らに困惑した。
ただオレはマドカに謝りたいだけなのに。家に帰って、ケンカしたことを謝って、仲直りして、また演劇の練習に励みたいだけなのに。
オレって何なんだ。誰かを踏みつけにして、平然と笑っていられるような奴だったのか。だったらこれで良かったんじゃないか。オレみたいな奴がマドカのそばにいたら、いつか必ず取り返しのつかないことをやってしまう。マドカを傷つけてしまう。ならオレは、オレは……最初から帰るべきじゃなかったんだ。
「迷うな、ライム! あなたは……!」
言いかけたミオが、インテレオンに殴り倒された。床に血反吐を吐いて転がる彼女は、それでもなお顔をあげて、ライムのことを睨み上げていた。
そんな情けない顔は許さない、と言わんばかりに。
「あなたは、まだ決断を下していない!」
「だけど……」ライムは憔悴した笑みを返しながら、バチバチと頬から電気が迸る。「あいつを止めるためには、オレがいなくなればいいんだろ? そうすれば未来のオレが消えて、マドカに危険は及ばねえ。あいつの幸せは、オレが必ず守るんだ」
「相棒が消えて、いったい誰が幸せになれるんだ!!」
「ミオ船長」肩にしがみついたままのイヴが口を挟んだ。「今はあなたの破れた心臓を私の『サイコキネシス』で止血し、かろうじて機能を維持しています。あまり興奮なされると大量出血の危険が」
「情けないものだな、ミオ提督!」ライアンは高らかに笑いながら言った。「もうじき『時の波紋』の充填が終わり、過去への扉が開く。ライムも無駄なあがきはやめて、オレと同じ道を歩め。そうすれば必ず家に帰れる。オレがその証だ」
ライムは何も返さなかった。ただ床をジッと見つめて、ある光景に思いを馳せていた。
オレが家を飛び出したあの後も、マドカは窓から夜空を見つめていた。雲の切れ目から覗く星々から、いつオレが戻ってくるのだろうかと待っている。時計の針が刻々と過ぎて、他の家族が寝静まっても、マドカだけはずっと帰りを待っている。
それはオレの願望が生み出した、ただの妄想かもしれない。だけど相棒が待っているのなら、オレには帰る義務がある。ミオが言った通りだ。オレがいなくなって、幸せになれるマドカの姿なんて、オレには想像できなかった!
「迷いは吹っ切れましたか?」
イヴにぽつりと問われて、思わずライムはきょとんとしてしまった。とりあえず頷いて返したものの、周りを敵に囲まれて、挙げ句ミオは負傷して、イヴは応急処置にかかりきり。吹っ切れるのがずいぶんと遅かったかもな。
がっくり肩を落とすライムに、イヴは。
「準備が整って良かった」
と言った。
ライアンはミオと何やら口論しているおかげで、イヴが言ったことは耳に届いていないらしい。
準備って、なんの準備?
肩をすくめたり、訝しげに伺ったり、ジェスチャーで聞いてみると。イヴは小さな指を三本立てた。
何をするつもりなのだろうか。注意深く目を細めて見ると、イヴは一本指をたたんだ。少し置いて、また一本。それがカウントダウンを意味しているのだと気づいたとき、ライムはクリッとした目をさらに見開いた。
イヴが指を全部たたんだ、次の瞬間、激しい揺れとともに床が大きく傾いた。
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ブラックシティを統括するブリッジは、悲鳴と爆発が入り乱れて混沌と化していた。突然五隻の艦隊が現れたと驚くのも束の間、艦隊の砲台が一斉にこちらを向いて、レーザーや弾頭が雨あられと降り注いできたのだ。
たまらず指揮艦の女は長い髪を乱しながら、目を剥いて叫んだ。
「シールドアップ、反撃しろ!」
「司令官!」オーロンゲが振り返り、野太い声で慌ただしく報告する。「敵船から通信です!」
「チャンネルを開け!」
女は立ち上がり、怒りで鼻息を荒くしながら大声で怒鳴りつけた。
「我々ライアン・シンジケートに戦争を仕掛けるとは、いい度胸だな! お望み通り、ウルトラホールを貴様らの血で染め上げてやろう!」
『こちらは地球連合第七艦隊、旗艦プロメテウスのハーヴィー・ブライス艦長だ』物静かで、どこか力強い意思を感じる男の声が返ってきた。『お前たちが違法な時間渡航技術を所有していることは、既に調べがついている。言っておくが、今のは威嚇射撃じゃない。時間協定第四条三一項の規定に基づき、ただちに脅威を排除させてもらうが、人道的な観点から一度だけ警告してやる。武装解除して無条件に降伏しろ、でなければ……戦争だ』
「連合のイワンコにくれてやるものは、ひとつだけだ!」
女性指揮官が頷くと、オーロンゲは迷わずボタンを押した。
巨大なレーザーが白銀の旗艦プロメテウスに直撃した瞬間、戦いの火蓋が切って落とされる。激しい光学兵器の応酬が、再び始まった。
*
全員が一斉にバランスを崩した。その隙を突いて、ミオはインテレオンの足を払い、倒れてきた彼女の顔面を膝で蹴り上げた。そして長身の銃を抱え、襲いかかってきたバンギラスに熱線を発砲し、岩石の巨体を灰に変えてしまった。
ライムは茨の鞭に縛られたまま、ロズレイドに飛びかかった。小さなかかとで薔薇の脳天を踏みつける『アクロバット』だ。鞭は緩んで解けたが、毒の棘がチクリと刺さった。構うもんか! 頭突きでロズレイドの顔面をぶっ飛ばした。
「死に損ないが!」インテレオンはチロリと舌なめずりをして、指先の狙いをミオの頭に定める。「くたばれ!」
水弾の『狙い撃ち』。発砲の寸前、その軌道を読んでいたミオは、重い銃を捨てて、飛びかかってきたルカリオを盾にして防いだ。かわりに彼の胸から噴き出た血を頬に浴びてしまったが、ミオはものともせず、むしろ垂れてきた血を舐めて、インテレオンの視界を邪魔するために、ルカリオの死体を放り投げた。
もちろんインテレオンは難なく死体を長い尻尾で払ったが、晴れた視界にミオはいない。どこに行ったかと振り返れば、横っ面を思いきり殴り飛ばされた。ミオはそれを逃がさず、肩を掴んで再びたぐり寄せて、鼻血を垂らすきれいな顔を容赦なく殴り続けた。
だがインテレオンも一方的にやられっぱなしではない。シュルシュルと尻尾がミオの腰に伸びて、彼女を縛ったとたん、一気に床へ引き倒した。そして尻尾を戻しながら、指先から水弾を三発、ミオの胴体に撃ち込んだ。
「ミオ船長、これ以上の損傷は……」
「うるさい!」
床を転がって、さらに続く追撃の水弾を避けながら、ミオは捨てた銃に手を伸ばす。それを阻止しようと宙から襲ってきたピジョットを、とっさに仰向けになって撃ち殺した。
一方のライムは、カイリキーとロズレイドに追われていた。再びロズレイドの茨の鞭が迫ってくる。逃げ切れないと悟るや、ライムは宙返りをして、鞭を両手でしがみつくように受けとめた。棘が刺さって死ぬほど痛い。だがライムは歯を食いしばって、バチバチと頬から電気が弾けて『放電』した。電流は鞭を伝ってロズレイドを襲い、併走していたカイリキーをも感電させた。
痺れて膝をつく二匹にしたり顔を向けていると。
「ぁぐ……ッ!」
鋭い痛みが全身に走る。胸からさらにヒビ割れがじわりと広がっていた。もうあと一発撃てるかどうかの瀬戸際だと、自分でも分かる。
刹那、ライアンと目が合った。
『時の波紋のエネルギー変換が完了。時空ポータル、オンライン』
戦場に淡い緑の光が流れてくる。それはアーチの中から溢れていた。時の門が開いたのだ。ライアンはすかさず身を翻し、周りの戦いなどお構いなしに、宙を滑ってアーチに向かった。
ライムは走り、助走をつけて。
「待ちやがれ!」
鋭く宙を飛んで、ライアンに飛びかかった。たまらず二匹は墜落して、小さな取っ組み合いが始まった。だが、ライアンは何十年と鍛え上げた『放電』でライムを攻撃した。
悲鳴が雷鳴にかき消される。全身が千本の針山に刺されるように痛い。おまけに口の中は血の味が広がって、肺まで痺れて息も吸えなくなった。それでもライムはライアンにしがみついて、彼を絶対に離さなかった。
「邪魔をするな、ライム! これはお前のためでもあるんだぞ!!」
「今何が良いか決めるのはお前じゃない、オレだ!!」
ライアンは放電したまま、ライムの頬を殴り、腹を蹴り、床に叩きつけて引き離そうとした。
戦闘に慣れていないライムが勝てる道理などなかったが、それでも諦めはしなかった。このまま奴を行かせたら、オレが帰れなかったら、マドカが不幸になってしまう。それだけは絶対にさせてたまるか!
その執念が、今まさにライムの胸から溢れようとしていた。
「ッ……なんだ!?」
ピリリと痺れた気がして、ライアンは違和感を覚えた。自分の放電に、ライムの電気が混ざりつつある。それがどんどん強くなっていく。胸に刻まれたヒビは顔に達して、その頬にまで届いた。とたん、今まで『放電しないように』堪えていた膨大な電流が、爆発的に流れ出した。ダムの決壊だ。制御不能に陥ったライムの『放電』攻撃が、ライアンの電気をかき消して、部屋中に広がっていった。
ちょうどミオが体勢を崩して転び、インテレオンが勝利を確信して水弾を撃つ寸前だった。異様な放電がインテレオンを襲った。今だ! ミオはすかさず立ち上がって、彼女の顔面に見事なパンチをお見舞いした。
インテレオンをノックアウトした後、放電はすぐに収まった。遠くから爆撃の音が聞こえてくるものの、この辺りは一気に静かになった。見渡せば、放電にやられたポケモンたちが軒並み痺れているようだ。ライアンも含めて。その中で、ひときわ光り輝いているポケモンがいた。
「……ライム!」
彼は倒れていた。虫の息と言ってもいい。ゆっくりとか細い息を繰り返して横たわる、その身体には、全身に光のヒビが広がっていた。隙間から粒子が漏れて、今にも砂の城みたいに崩れてしまいそうだった。
もう手遅れだ、手当のしようもない。ミオは最悪の展開が頭をよぎり、身震いしたが、すぐにアーチ状の装置へと向かった。
「イヴ、ライムの状態を教えて」
「全身の分子構造が崩壊寸前です。影響は脳機能にも及び、前頭葉と海馬にダメージが生じています。彼の脳はタイムトラベルに耐えられない恐れがあります」
「やるしかない」ミオは瞬きひとつせずに、装置の制御盤を凄まじい速さで操作しながら言った。「ライアンは自分の量子特性をベースに、故郷の世界を探し当てていたようね。行き先となる空間座標と時間座標は既に設定されている。おかげで手間が省けたわ」
「問題がもうひとつ残っています」イヴの尻尾が画面のひとつを指し示す。「ライアンの時間渡航技術に欠陥を識別しました。ワープホールが不安定で、座標を維持できない恐れがあります」
砲撃で床が大きく揺れて、壁や天井から火花が飛び散る。制御盤の表示も不安定に点滅している。
戦艦が傷つけば傷つくほど、ワープホールが崩れる危険は高まっていく。迷っている猶予は残されていなかった。
「いくよ、オレ……」
振り返ると、ライムが力なく微笑んでいた。小さな足は震えていて、自ら立てるのが奇跡と呼べるほど身体はボロボロなのに。
ミオは口を開きかけて、言葉を呑み込んだ。「でも」と続いて、脳機能やワープホールの不安定性といった問題を並べようとした。だがそれは言うだけ無駄だと悟った。ライムにはもう今しかチャンスが残されていないのだ。どんなリスクを並べても、彼は行くと言うだろう。
だったら、今できることはひとつだけ。ミオは膝をついて、ライムの手を握った。
「短い間だったけど、あなたとともに過ごせて光栄だったわ」
「私にとっても非常に興味深い経験となりました」イヴも長い尻尾を伸ばして、ライムの手に重ねた。「あなたという存在の喪失は、私のプログラムに対して新たな刺激をもたらすでしょう」
「……刺激って?」ライムが困ったように笑うと。
「つまり『寂しい』ってこと」ミオが小声で挟んだ。
それから少しだけ笑った。もっといろいろ喋りたいことはあったが、ライムは何も言わないことにした。話は終わり、もう帰る時間だ。胸のバッジを外して、ミオの手にそっと乗せた。
目の前で大きなワープホールが口を開けて待っている。この先に踏み出せば、マドカのいる世界にようやく帰れる。短いようで長かった気がする。ライムは最後にミオたちに振り返って、ひと言だけ。
「えもえも、えも!」
笑って一歩を踏み出した。
瞬間、ワープホールが弾け飛んだ。
*
ワープホールに足先から引っ張られて、あとは洗濯機に潜ってしまったようにひたすら重力の渦にもみくちゃにされた。いくらアクロバットが得意で飛行タイプを持っているとはいえ、上が下で、右が左で、前が後ろになった状態が続くと、酔って吐かずにはいられない。すっかりグロッキーになったライムが、ひたすら流されながら終わりを祈っていると、唐突に重力がはっきりと下に向いた。
頬を撫でる夜風が涼しい。ごうごうと唸る風が遙か後方に聞こえる以外、ここはまさにウルトラホールに呑み込まれる直前の景色だった。
(戻った……戻れたんだ!)
本当にやった! やったぞ!! ひゃっほう!!
夜空を旋回して喜ぶのも束の間、あれれ。ライムは月を見上げて、ぽかんと口を開けた。 ……オレ、どこから戻ったんだっけ。
ビュウと夜風が吹いて、遠くから甲高い悲鳴のようなものが聞こえてきた気がした。ギョッとして振り返れば、そこには何もない。延々と穏やかな雲海が広がっているだけだ。誰かいたのだろうか。深夜のこんな上空で。ひょっとしたら、自分と同じように、誰かが家出してきたのかもしれない。……なんて、いるわけないか。
って。
(そうだ、オレ家出してたんだ! マドカの奴がオレのカップケーキを勝手に食べて、それで……)
まるで寝起きのような感覚。寝る前の出来事を、順を追って思い返していく。そうするうちに、だんだんと寂しさが増してきた。
オレはなんであんなに怒ってたんだろう。マドカの大事な台本を破ってまで。おまけに空は寒いし、やたらとお腹が空いてきたし。
(……帰るか)
ぽつり、呟いて、ライムは家を目指して飛んでいった。