Mind of Discovery
第1話 “時空を超えた遭遇”


 冷蔵庫の扉を開いた先にライムを待っていたものは、底なしの絶望であった。
 エモンガの男の子、ライムは苦労が絶えない日々を送っていた。今日もパートナーの少女が通う中学校から帰るまでの間に、いきなり突風に飛ばされて迷子になり、うっかり野良ヨーテリーの尻尾を踏んで追い回され、やっとの思いで見知った道路に出ると、雨上がりの水たまりをトラックが踏んで、それはもう見事なまでにびっしょりと飛沫を浴びてしまった。
 いつものように散々な目に遭いながらも、やっとの思いで家に辿りつくと、パートナーの少女ことマドカがそわそわした様子で立っていた。ライムを見るなり、彼女はホッと胸を撫で下ろした。

「無事で良かったあ! このまま帰ってこなかったらどうしようかと心配したんだよ〜!」
「えも……」

 細い腕に抱かれながら、ライムはぐったりした。今日もまたひどい一日だった。いい加減に不幸体質をなんとかできないものだろうか。このせいでマドカにも危険が及ぶ前に……。
 いつもであれば、陰鬱とした気分をずるずる引きずったまま、マドカと一緒に演劇の自主練習に入るところである。学校でマドカと励んでいる部活、『ポケモン演劇部』のためだ。しかし今日は不幸な出来事の数々を差し引いても余りあるほどの、大いなるお楽しみが冷蔵庫の中で待っている。控えめな甘さが優しく不幸をなぎ払い、至上の悦びが味わえる数少ないおやつ……そう、カップケーキがあるのだ。
 冷蔵庫でカップケーキが俺を待っている。考えただけでも元気が湧いてくるのだ。ライムはシャキッとした顔で、マドカに言った。

「えも、えもえも、えも!」
「ライムったら、どうしたの? 今日はやる気満々じゃん」
「えも!」

 ライムの目はすっかりカップケーキになっていた。
 とはいえ、自主練を適当に済ませてしまうような雑なことは、ライムにはできなかった。マドカと一緒にやる演劇は、絶対に台無しにはできない。手抜かりは一切しないつもりだった。
 部屋のベッドで寝転ぶマドカに寄り添うように座って、小さな台本を隅々まで読み解いていく。今度の劇で演じる役は、校内のポケモン不良グループを率いる番長というヒールな役柄だ。悪役というのはあまり馴染みがない。というよりも、なんだか板につかない。凄んでみたり、悪ぶってみたり、いろいろ試してみたが、どうして不良がそんなに威圧的に振る舞えるのか、未だによく分からないのだ。周りには迷惑になるだけなのに。
 それをマドカに相談してみることにした。

「えもえも……えもぉ?」
「なになに?」マドカはパタンと台本を閉じて、横目を傾ける。「どう演じていいかコツが掴めないって?」
「えも」
「そうだねぇ」

 マドカも天井を見上げて考え込む。彼女が演じるのは、生徒会の副会長役だ。兄が生徒会長を担っているため、イメージはしやすいだろう。普段の彼女がそこからかけ離れていることは別として、いい経験になるということで配役をもらっている。とはいえ、ライムと敵対関係になる配役には困惑を隠せなかったが。
 彼女はしばらく悩んでいたが、ふとした拍子に閃いた。

「とりあえず、怒りを覚えるところから始めてみたら? 周りに不満をぶつけてみるの。たとえば、こう……ライムの大好きなものを奪われたりすると腹が立つでしょ? 不良たちが生徒会に抱く思いもそれと同じじゃないかな。ほら、この風紀委員にゲームを取り上げられるシーンとか」
「えも」
「あー……取り上げられるのは仕方ない? 風紀委員の方が正しい?」
「えも」
「そっか、それは……困ったね」

 まずったな、とマドカは苦々しく頬をかいた。
 ライムは昔から病気がちで、それなりの時間を病院のベッドで過ごしてきた。だから周りから「それはやっちゃダメ」と言われても、身体のことを考えたら仕方のないことだと諦めが先に立つ。だからだろう、彼は滅多に怒らない。最後に怒ったのはいつだったかさえ、マドカどころかライムにも思い出せないほどだ。
 結局この問題は解決することなく、晩ご飯に呼ばれてしまった。

「この匂い……クリームシチューだ!」

 ライムを肩に乗せて、マドカはドタドタと慌ただしく階段を駆け下りていく。途中廊下で鉢合わせた兄が「はしたないぞ」と呆れがちに言っても華麗にスルーして、居間の食卓に飛び込んだ。
 ほっかほかの湯気を立てて、光り輝く(マドカの目にはそう見えた)シチューが並んでいた。もちろんライムの分もある。フローリングの床に、ポケモンフーズ用の皿と分けて置いてある。
 これがまた大変おいしいのだ。まずはカリカリする固いポケモンフーズを、シチューに浸して味を染みこませ、スポンジのように柔らかくしてから、ひと息に頬張る。じゅわぁぁ……噛んだ拍子に口いっぱいに広がるなめらかな味には、困り顔が似合ってしまう苦労者のライムも、思わず顔がとろけてしまう。だが、今日の良いことはこれだけではない。晩ご飯の後に、アレが待っているのだ。
 皆の皿が空になると、あちこちから満足そうな息が漏れた。

「最高だったねえ」マドカがすっかり背もたれに身体を預けながら言うと。
「最高だったな」生真面目な生徒会長の兄も同じように答えた。

 ふたりの横をふわりと飛び抜けて、ライムは最後のお楽しみに手を伸ばした。冷蔵庫の奥に眠る秘宝、大好物のカップケーキを求めて。今日の苦労、心労、そのすべてが報われる瞬間だった。
 そのはず、だった。
 冷蔵庫の扉を開いた先にライムを待っていたものは、底なしの絶望であった……。

「……えも?」

 探した。「えもぉ」それはもう必死に探した。「えもぉ……!」冷蔵庫のあちこち、隅から隅まで探した。「えもー!」昨日の夜、確かに見た。カップケーキを。だが昨日はお腹がはち切れるほど晩ご飯を食べてしまったので、泣く泣く明日に回すことにした。それをパパもママも、兄もマドカも知っているはずだ。ライムのお楽しみを、誰かが間違って食べるなんてありえない。
 後片付けに移っているママの袖をくいくい引っ張って、半泣き状態で冷蔵庫を指して訴える。するとママはしばらく考えた後、「あぁ」と思い出した。

「あのカップケーキ、今朝マドカが食べちゃったじゃない」
「ふえ?」何やら自分の名前が聞こえてきたので、当のマドカは涎を袖で拭いて答えた。「あたしが何て?」
「今朝も遅刻ギリギリで、何か手軽に摘まんで食べられるものがないか、冷蔵庫を漁ったでしょ?」
「そうだっけ?」
「ライムのでしょって言う前に食べちゃうんだから、帰りにカップケーキを買ってきてあげなさい、とも言ったわよね」
「あー……あっ」

 ようやく思い当たったらしい。マドカはポンと相づちを打って、ペロリと舌を出しながら申し訳なさそうに。

「ごめんねライム、明日はちゃんと買ってあげるから今日は許して! ほら、シチューおいしかったでしょ?」

 天国の門に手が届きかけていたのに、一瞬にして奈落の底へと突き落とされたような気分だった。
 今日は、今日はカップケーキがあると信じて、どんな目に遭おうとも、カップケーキがあるから、耐え抜くことができたのに。それをまた、明日もきっと痛いことがたくさん待っているだろう。あの苦しみを、また味わえと言うのか。それを、マドカが。大して悪びれもせず、シチューで済まそうと。そんな、そんなの……。

「……も」
「えっ何て?」
「えっもぉぉおおおぉぉぉおおー!!!」

 一家の空に、雷鳴轟く。
 大切なものを奪われた苦しみ、悲しみ、絶望が、吹きすさぶ風となって怒りの炎を燃え上がらせる。もう何がどうなってもいい、マドカの大切なものを破壊するまで、復讐の炎が消えることはないだろう。

「ご、ごめんって! そんなに怒るほど楽しみにしてたなんて知らなかったの!」

 もはやマドカの声は聞くに値せず。悪鬼に取り憑かれたライムは、衝動のままに二階へと駆け上がった。マドカが楽しみにしているものを、ライムは知っている。今まさに練習に励んでいた次の演劇そのものだ。それを亡き者にしてくれる!
 マドカの部屋に飛び込んだライムは、ベッドの上に放り出されたままの台本を引っ掴むと、怒りのままに本を八つ裂きにした。散らばったページを踏みにじり、最後には放電して消し炭にしてやった。

「えーっもぉー!!」

 まだ壊し足りない!
 怒りは鞘に収まるどころか、さらに膨らんでいく。何か、マドカを決定的に傷つける方法はないだろうか。その矛先は、すぐに自分へと向かった。
 そうだ、家出してやる。俺がいなきゃマドカは絶対に心配する。夜も眠れなくなるほど心配する! いいじゃないか、心配するがいい! 俺がいなくなって、カップケーキに手を出してしまった自分の浅はかさを、心の底から後悔すればいいんだ!

「待って、ライム!」

 ちょうど部屋の窓を乱暴に開けたところだった。振り返ると、マドカがいた。はじめはただ困惑していた顔が、ビリビリに破かれた台本の残骸を見て、ようやくショックに歪んだ。目を潤ませて、彼女は叫んだ。マドカは、怒っていた。

「あたしの台本に八つ当たりするなんてひどい! たくさんメモも書いてたのに、あと少しで役の本質を掴めそうだったのに!」
「えも! えーも!」
「そりゃ、カップケーキを食べたあたしが悪かったと思う! でもここまですることないんじゃない!?」
「えもも? えもも!?」
「当然でしょ!? ちゃんと謝って。そうしないと、あたしもカップケーキ買ってやんないから!」
「え、も……えもー!!」

 顔が燃えるように熱かった。力任せに歯を軋ませ、ライムはもはや振り返ることなく窓から飛び立った。なんの未練もなく、それは簡単なことだった。
 背後からマドカの叫ぶ声が聞こえた気がするが、それもあっという間に届かなくなった。街の景色がみるみる小さくなっていく。今晩は風が強く吹いて、エモンガの小さな身体をぐいぐいと夜空に押し上げていく。じきに雲を抜けて、晴れ渡る月夜の下に出た。
 とたんに、周りが静かになった。今までずっとそこにあって当たり前だったマドカの声も、頭の中で喚いていた怒りの声も聞こえてこない。ただ自分を運ぶ風の音が、耳元でビュウビュウと囁いた。
 あれだけカッカと熱かった顔も、空気に冷やされて収まってきた。マドカを恨む気持ちはまだ変わらない。今ごろは俺を心配して泣いているだろうか。いや、ないな。自分は悪くない、俺が悪いと思っているに違いない。そう思うと、顔よりも腹の底が熱くなってきた。
 しばらく月下を飛び続けると、嫌でも冷静になってくる。勢いで飛び出したはいいが、どこへ向かおうか。街の外は嫌だな、怖い野生ポケモンにいつ襲われるとも限らない。そうすると、一番いいのはマドカの友達のところだろうか。頼るのは恥ずかしいけれど、背に腹はかえられない。ここはひとつ、頼んでみるとするか。
 ライムは身を翻して、来た方角へと引き返した。ように思ったが、風に押されて前に進めない。それどころか、どんどん流されているようだ。やけに風が強くなってきたな。ライムは焦り始めて、一旦高度を下げることにした。ところが両腕をたたんでも、落ちるどころかますます流されて……いや、違う。

「えも……えも!?」

 吸い込まれているのだと気づいたのは、風の向かう先に振り返ったときのこと。海のように切れ目なく続いていた雲が、ある地点を境にして、滝のように途切れていた。雲海にぽっかりと開いた穴は、まるでブラックホールのように雲を呑み込んでいる。ライムは思わず悲鳴をあげて、逃れようと必死に身悶えしたが、風に任せて空を飛ぶエモンガには、もはや逃げようがないところまで近づいてしまっていた。
 渦巻く烈風に逆らるはずもなく、ライムは深く暗い穴に落ちていった……。






 地球暦2249.07.30

 数多の世界と世界の狭間に流れる無限のネットワーク、ウルトラホール。神秘の超空間を踏み荒らす、神をも恐れぬ二隻の不遜な小型艇が、一方は絶え間ないレーザー光線を撃ちまくり、逃げるもう一方を執拗に追いかけていた。アゲハントのようにひらひらと読みづらい軌道を描いて避けるものだから、追っ手となる船の操舵手は憎悪とともに感心さえしていた。もっとも、虫けらのように踏み潰す結末には変わりないのだが。

「あの船を止めろ! 今すぐに!」
「やってるよ、兄貴!」

 コックピットに並ぶストリンダーの兄弟が互いに吠えた。黄色いタテガミの兄は操縦桿を握り、青いタテガミの弟が砲撃の照準を定める。
 だがエンジンに狙いが定まらない。照準が近づくたびに、前方を飛ぶ小型艇が傾いて、急所となるリアクターをさあ撃てと言わんばかりに剥き出しにしていた。

「間違ってもあの船を壊すんじゃねえぞ、そうすれば例の貨物も吹き飛んで、俺たちの命もドカンだ! ライアンは必ず俺たちを殺しに来る!」
「なら兄貴が撃てよ!」
「つべこべ言わずにやるんだ!」

 ストリンダーの弟はやけを起こして発射ボタンを押しまくった。しかし狙いはデタラメだ。何発かは小型艇のシールドに当たって弾かれた。

 *

 そろそろ痺れを切らしてくる頃かしら。
 案の定、猛追してくる船から通信が送られてきた。気の強そうな蒼い目つきを鋭くして、口元には不敵な笑み。機翼に被弾した衝撃で、透きとおるような白い髪が一緒に揺れた。

『この泥棒ニャースが! 俺たちの貨物を渡せ!』
「変ねえ、あなたの名前はどこにも書いてなかったけど。自分たちだって盗んだんだから、お互い様ということで見逃してもらえないかしら?」
『ライアン・シンジケートを敵に回すとどんな恐ろしい目に遭うか知らないようだから教えてやろう。お前自身はもちろん、家族や友人、お前の大事な仲間が皆殺しにされる。想像を絶するほど残酷な方法でな!』
「それは残念。今の私に、家族も仲間もいないわ」
『俺たちから逃げられると思うなよ、今にその顔をぐちゃぐちゃに潰して……』

 言い終える前に、女は通信を切った。コックピットの制御盤に手を乗せ、ひとつ深呼吸。スクリーンに映るウルトラホールのマップに一瞥。近くに逃げ込めそうなワープホールは……。
 探しながら、視界の端に妙なものが映った。ウルトラホールの中に小さな光が溢れている。それはみるみる大きくなって、衝撃波を放った。荒れる波で揺れる船が、女性の声で淡々と告げる。

『警告、時空の特異点を検知しました』
「ワープホールなの?」
『タキオン放射線の特徴が一致。しかしニュートリノ放射レベルが極めて高く、亜空間連続体に亀裂が生じています』
「回避コースを設定、時空の波に捕まったらこの船じゃ逃げられない……!」

 光の穴が鼓動して、衝撃が波動のように広がっていく。知見が正しければ、これは前触れだ。しばらく無尽蔵のエネルギーが溢れるが、それを吐き尽くしたら最後、周囲一〇光年のすべてを一瞬で吸い込んで爆発するのだ。そうなる前に、並大抵の船は衝撃波でやられて粉々になるだろうが。
 追っ手の小型艇は早々に諦めて引き返していった。女もとにかく急いでここから離れるよう操縦する。衝撃を浴びて、身体が引き裂かれそうなほど激しく揺れる中、船は余計なひと言を加えた。

『生命体を一体検知しました』
「は、どこに!?」
『方位〇三七、距離およそ千七百メートル。漂流コースから逆算すると、出現地点は時空の特異点と一致します』
「嘘でしょ!?」

 スクリーンに鼻先がつくほど前のめりになって、目をひんむいてよく見ると、波動に紛れて小さなポケモンが一匹、ウルトラホールを漂っている。しかも、生身で。
 次の衝撃波が来たらあっという間に肉塊となるだろう。女は慌てて制御盤を操り、命令を下した。

「コンピュータ、生命体に照準を定めてコックピットに転送! ただちに! 急いで!」
『転送します』

 どこからともなく光の粒子が背後に溢れ始めるのを確かめると、その結末を見守ることなく、女はエンジンにゴーサインを送る。待っていられるだけの余裕はないのだ。船は瞬時に光速を超えて、ウルトラホールの彼方へと飛び去っていった。
 安全圏まで逃れると、疲労の波が一気に押し寄せてきた。張り詰めていた糸が緩んで、制御盤の上を駆け巡っていた手がだらりと垂れ下がる。
 ようやく女は拾った漂流者に振り返った。が、見えなかったので、よもやどこかに隠れたかと思ったが、そうではない。漂流者はあまりに小さい、たった一匹のエモンガだった。

きとら ( 2021/03/08(月) 00:17 )