第7話 結晶塔の帝王
半世紀もの間、誰とも関わらない日々を送るうちに、きっと心のどこかが凍りついてしまっていたのだろう。誰かに勝って嬉しい、誰かに負けて悔しい、身を焦がすような激しい感情は、久しく味わっていなかった。
色あせたかつての激情。その一部でも、もう一度手に入れることができれば。もう一度、輝けるなら。
そうして望んだものを手に入れたとき、ミュウツーは独りで見知らぬ場所に放り出された。どこかの屋内、氷に覆われた神殿のようだが、ここがどこでも関係ない。行かなければ。冷たい床を這いつくばり、深く傷ついた身体を無理やりにもつき動かす。震える足で立ち上がり、睨み上げたその先に、一匹の獣が佇んでいた。
「……邪魔だ、犬っころ」
これもゾロアークが用意したゲームか。ミュウツーは砕かれた腕を庇い、一歩後ずさった。さっきの一撃でサイコパワーは使い果たした、あとは肉弾戦でどこまで戦えるかに掛かっている。
だが、どれだけ相手の出方を伺おうとも、その獣、『エンテイ』は、襲う気配を見せなかった。ミュウツーを見つめるその目は深い思慮に溢れていて、どこか優しく、そして厳しい。踵を返したエンテイは、ただこう告げた。
「ついて来い」
ミュウツーは少し驚いたが、彼の穏やかな言葉に導かれて、素直に従うことにした。
クリスタルの階段を登りながら、エンテイはこの場所について教えてくれた。ここは緑豊かな自然に囲まれた街『グリーンフィールド』にそびえる大屋敷。今はミィという少女の住む居城で、エンテイはここでずっと主を守り続けているのだと言う。
「先日、人間の女がここに訪れた」エンテイは先導しながら言った。「不思議な金色の輪を通ってだ。彼女はそれで数多の世界を行き来しているらしい」
「それで、女は何て言っていた?」
ミュウツーが尋ねると、背後からは伺えないが、エンテイの眉間に深いシワが寄った。
「この世界が幻影で、我々はゾロアークに支配されている、と。自由になるために手を貸せとも言われた」
嫌な考えがミュウツーの頭を過ぎる。まさかとは思うが、こいつも奴らの仲間なのか。鋭い殺気を感じてか、エンテイは穏やかに続けた。
「断ったよ。どのみち、私はここを動けない。ミィのそばを離れる訳にはいかない」
「俺のことは?」
もしもミィを守るなら、幻影たちを倒そうとするミュウツーは敵のはず。必然の質問を、できれば聞きたくなかったと、エンテイはため息を吐いた。
「それは私の一存では決められない。すべて彼らが決める」
「ミィか?」
「会えば分かる」
そう言って、エンテイは立ち止まった。巨大な扉の前で、ミュウツーに「先へ」と促す。
ミュウツーはごくりと唾を飲んだ。エンテイがミィの他に従っている何かがここにいる。その取っ手を掴んだ瞬間、その奥から途方もない大きな存在に、自分の皮膚から内臓まで、すべてを見透かされているような気がした。だが不思議と嫌な感じではない。まるで試されているようだ。一歩、そこから先へ踏み出せるかどうか。
ギギギ、と重い扉をこじ開けた先に、想像を絶する光景が広がっていた。
「アンノーン……!」
部屋の中枢に浮かぶ球体。よく見れば、無数のアンノーンが連なり、絶えず隊列が変わっている。恐ろしいほど複雑な方程式に基づいて。しかし美しいほど規則的に。エンテイに振り返ると、彼は何も言わずに頷いた。臆することなく、ただ進めばいい。
球体に近づいて、ミュウツーは自然とそれに手をかざした。その行為を求められていることが、なんとなく分かった。そして、膨大な声が頭の中に雪崩れ込んできた。
「時間と空間を超えて」「我々は存在する」「アンノーンの」「連続体である」「リオンは要求した」「我々に対して」「ゾロアークの支配を」「打破するために」
脳を滅多刺しにされるような激しい頭痛が襲う。アンノーンの伝えたい意思が一番大きく聞こえるだけで、その声には常人が発狂するほどの莫大な情報量を含んでいる。ミュウツーは辛うじて途切れそうな意識を繋ぎ止めながら答えた。
「それに対する、貴様らの返事は何だ!?」
「要求を拒否した」「何故なら」「彼らの存在が」「混沌に満ちている」「このような異常現象は」「連続体に致命的」「一方で」「ゾロアークによる支配は」「看過できない」「我々はアンノーンの」「連続体である」
「それで、俺を……どうす……」
言葉が出てこない。自分の身体が、まるで自分のものではないみたいだ。アンノーンの声と混じり合い、自分というものが少しずつ蝕まれているような。
これは会話じゃない、攻撃だ!
「彼ら『幻影解放軍』は」「ゾロアークを殺害した」「しかし幻影は」「未だ続いている」「すべての鍵は」「ここにある」「ミュウツーが死ぬ」「または」「解き放たれしフーパが死ぬ」「結末は」「ふたつにひとつ」
くそっ手足が動かない。もう身体が言うことを聞かない!
それよりもこいつら、ゾロアークが死んだだと? そんなはずはない、あの迷惑極まるお気楽キツネ野郎があのまま殺されるものか! 頭ごなしにいい加減なことを言いやがって、しかしどうすれば……!
「我々は決断を」「迫られている」「どちらを生かすか」「解き放たれしフーパは強大だ」「我々の力を超えた」「だがミュウツーは」「御しやすい」「思考を再プログラム」「できる」
分かったぞ、こいつは自我の戦い!
アンノーンは直接俺を傷つける力を持たないかわりに、俺の思考に容赦なく侵入して、好き勝手に支配しようとしている。こいつらに力で押しても意味がない、戦うなら心の中で……思考を使って勝つしかない!
「抵抗は無意味だ」「我々はアンノーンの」「連続体である」
そいつはどうかな!
ミュウが水の上に立っていた。
もうひとり、ミュウツーも、水の上に立っていた。
二匹は向かい合って、殺し合った。
「なぜ戦う!?」
「戦うために戦っているんだ!」
「やめろ!」
「生きるのをやめてたまるか!」
ミュウツーは料理を作っていた。
まな板の上に転がるミュウの首に、包丁を入れる。
首は言った。
「行動のための行動は矛盾している」
ミュウツーは答えた。
「本能に従っている、それが俺だ」
ミュウツーは落ちている。
もうひとりのミュウも落ちている。
「動機づけに苦しんでいる連中みたいになりたくない」
「そうしたいという欲求で、戦いを選んだ。なら、どうしてラティアスを助けた?」
釣り糸を垂らす。竿を握り、ミュウは水面を見つめている。糸が引っ張られて、振り上げると、ラティアスが釣れた。
「虐殺しようと思えば、いつでもできた」
その目を潰して、内臓を抉り出す。
湖に映るミュウツーは答えた。
「だが必要なかった」
ミュウツーはバイオポッドの中で液体に浸っている。それを外からミュウが観察する。
「お前は人間によって造られた、戦いの道具として。本能に従えば、すべてが戦うべき敵だ」
ポッドの中からミュウツーは答えた。
「俺はただの殺人兵器ではない!」
ミュウが水の上に立っていた。
もうひとり、ミュウツーも、水の上に立っていた。
二匹は向かい合って、殺し合った。
そして、ミュウの頭が潰れた。
「君の勝ちだ」
「俺の勝ちだ」
ミュウツーは、椅子に座っていた。向き合うべきもうひとつの椅子は空っぽで、他には誰もいない。
「……俺は勝った」
プロメテウスのブリッジで、ミュウツーは真ん中に立っていた。仲間である乗組員たちが拍手喝采を送っているが、音は聞こえてこない。
「……俺は勝った」
真っ暗な世界で、ミュウツーは立っていた。
「……俺は勝った」
暗闇の奥から、無数の目が見ている。物言わぬ目。ただ見つめる目。あらゆる目に向かって、ミュウツーは叫んだ。
「俺は勝った!」
目をくり抜かれ、腑をぶち撒けながら横たわるラティアスを前にして、ミュウツーは呆然と血に染まった手を見下ろしていた。
「違う、これは違う、俺は彼女を救った。その兄も、ディアンシーも、ジラーチも、フーパも! 俺はこいつを殺してなんかいない!」
「でも考えがよぎったでしょ」ミュウが肩から囁きかける。「殺せるかどうかでみんなを測った。楽に殺せるから、殺さなかった」
「ああそうだ、確かに一度は測った、それは認めよう! だがそうしなかった、彼らは……彼らは困っていた! 守るべき弱者だ!」
「嘘だ! この出来損ないめ!」
ラティアスが、ディアンシーが、ジラーチが、フーパが、うずくまるミュウツーを取り囲んで罵倒する。
「嘘つき!」
「嘘つき!」
「出来損ない!」
「出来損ない!」
「うるさあぁぁぁい!!」
叫ぶと、取り囲んでいた四匹は煙のように消えた。また静かな暗黒が戻ってきた。
それから百年が経った。
ミュウツーはただ座り込んで、虚ろな目を浮かべていた。
「俺は最強だ、出来損ないじゃない」
「誰もそれを認めないよ」肩からミュウが囁いた。「君はどうして勝ちたいの?」
「それは……あ……あぅ……あぁ……」
誰カニ認メテ欲シカッタ
ゆっくりと、目を開ける。相変わらずアンノーンたちがぐるぐる回っている。どうやら戻ってきたようだ、ミュウツーは思わず立ちくらみでよろめく。倒れる寸前、エンテイが背中を支えてくれた。
「俺はどのぐらい……」
「三秒間だ」エンテイは優しく答えた。「アンノーンが、君の心を見極めた」
「……勝ったのか?」
「あぁ、そうだ。君は彼らに勝った」
この期に及んで呆れたものだ、とエンテイは苦笑しながら答えた。
まだ酷い頭痛が残っている。何時間もアルコールの中に浸っていたような気分だ。頭を押さえて、違和感を覚えた。この手は魔神に潰されたはずなのに、今はもうすっかり治っている。それどころか、枯れ果てていたサイコパワーも溢れんばかりに回復していた。
「失礼な態度を」「謝罪する」
あれだけノイズの激しかったアンノーンの声が、鮮明に聞こえてくる。ミュウツーはため息を吐きながら、彼らを訝しげに見上げた。
「この俺を試したな」
「必要だった」「あなたが我々を」「救えるかどうか」
「既に万能の力を持つアンノーンを、どうやって救えと?」
「イレギュラーにより」「幻影世界は解放されつつある」「我々は存続したい」「しかしゾロアークは」「それを許さない」
「だが俺は」ミュウツーは一瞬言い淀んで。「合格点には程遠い。戦う理由も利己的だ、俺はお前たちのためには戦えない」
「戦える」「我々は判断した」「ミュウツーは目的のために」「造られた存在」「あなたは目的を」「自らの意思で」「超越した」「それは我々幻影が望む」「理想の姿」「ゾロアークの意思を」「超越したい」「あなたなら」「理解できるはずだ」
何だかむず痒いな。ミュウツーは顔を赤くして、不機嫌そうに唸った。欠点とも言うべき肥大した自尊心を褒められると、どう反応していいか困ってしまう。だがそれで納得してくれるなら、これは十分勝ったと言える。ひとまずそれで満足することにした。
「それで、これからどうすればいい? 何やら気を遣って俺を治してくれたようだが、アルセウスの空間にでも送ってくれるのか?」
「あなたを幻影解放軍の」「本拠地に送る」「我々の力を」「あなたに託す」「彼らは全世界の」「破滅を望んでいる」「止めなければならない」「どうか彼らを倒し」「我々を自由にして欲しい」
「……その場所とは?」
「ジラーチから血清を作る」「施設が必要」「それはニューアイランド」「遺伝子工学研究所」「またの名を」「ポケモン城」
あそこか。嫌な記憶が蘇る、ミュウツーは目を細めた。