第三章 ミュウツー
第6話 超克の時空へ
 ミュウツーたちはフーパに別れを告げて、最後の世界へと飛んだ。ゾロアークの悪戯から始まった物語も、最後の敵であろうアルセウスとの決戦を残すのみ。そのはずだった。
 アルセウスの空間と呼ばれる世界は、純粋なエネルギーで溢れていた。炎のように明るく、水のようにしなやかで、風のように集まってくる。ミュウツーがエネルギーの流れにそっと指を触れてみると、サラサラと砂が落ちるような澄んだ音が聞こえてきた。ウルトラホールまで探索の手を広げる人類にとっても、ここだけは未だに人智の及ばぬ神秘の領域だ。幻影とはいえここに足を踏み入れることは、神への冒涜にも思えてならない。せめて最大限の敬意を表するため、不意打ちはしない。正面から堂々と戦いを挑もう。ジラーチを肩に乗せて、ミュウツーは創造主の姿を探していた。
 ところが、いくら空間を探っても、アルセウスの気配を感じない。襲ってくる気配もない。あまりに静かな時間が続くので、ジラーチは痺れを切らしてさえずった。
「何もいないの? ねえ、誰かいないの?」
「そんな訳がない……そうだろう、ゾロアークよ」
 尋ねると、ゾロアークは空間から上半身だけニュッと出てきて、首を傾げていた。
「おかしいな。すぐに出てくるはずだ、何しろアルセウスは千年以上も人類に対する恨みを溜め続けてきた。もうダムは決壊寸前、奴はすべてを破壊したくてたまらないのに、何でこんなに大人しいんだ?」
「とにかく、探してみるしかないな」
 そうは言ったものの、アルセウスの空間はあまりに広大。飛んでも飛んでも景色は変わり映えなく、ただエネルギーの川が揺らめいているばかり。ひょっとして、ここで飢えさせるのがアルセウスの狙いなのではないか……そう思いかけたところで、ミュウツーは何かの気配を掴んだ。
「何かいたかね?」すっかり飽きて退屈しているゾロアークが、鼻をほじりながら言った。
「そうだと思う」ミュウツーは自信なさそうに返した。
「らしくないじゃないか、倒すべき敵が見つかったというのに」
「波動が弱すぎる、とてもアルセウスとは思えない。まるで荒野の枯れ木と同じだ」
 ジラーチに合図すると、彼は快く『テレポート』を発揮する。気配の感じたその場所へと一瞬でジャンプして、一斉に言葉を失った。あのゾロアークでさえも。
「……アルセウス」
 ぽつりとミュウツーがこぼす。彼らの眼前には、変わり果てた創造主が漂っていた。
「ある意味、ミュウツーが正しかったな」ゾロアークも唖然として言った。「これじゃ枯れ木だ」
 干からびた四肢。空洞と化した目。砕かれた石版の破片に囲まれて、白く神々しいはずの肉体は面影もなく、まるでミイラのようであった。
 倒すべき敵が既に死んでいた。それよりもミュウツーには恐れていたことがあった。
「……この幻影からどうやって出ればいいんだ?」
「さあね」
「おい」ミュウツーはゾロアークの胸ぐら(体毛)を掴んで、静かに怒る形相を突きつけた。「ふざけるのも大概にしろ。用は済んだだろう、俺を現実に戻せ!」
「よ、よせ、暴力はいかんなぁ。分かっているとも、その握った拳も本気じゃないんだろう? 俺だってできることなら出してやりたいが、できないんじゃあ仕方ないだろう?」
「あるいは貴様を殺せば、外に出られるかもしれんな」
「冗談じゃない! そんなことしても無意味だ、俺は不滅の存在だぞ! お前には手が出せんよ! だからやめておけ!」
「じゃあ慌てることもないだろう。なのに虚勢を張るということは、つまりお前も、この幻影の中で不滅の力とやらを失ってしまったのだ。哀れなものだな、ゾロアーク。だから退屈な捜索でも、俺についてくるしかなかった。そうしないと自分が幻影に殺されてしまうからだ!」
 吐き捨てながら、ミュウツーはゾロアークを突き放した。彼はゲホゲホとむせ返りながらも、強気の目で睨みつけてくる。
「良い気になるんじゃないぞ、この下等生物め。たとえ不滅でなくとも、あいにく脳は全知全能のままでねぇ、こんな無様な状態だろうがお前を殺す方法なんていくらでも……」

 時が止まる。そう錯覚させられるほどの重圧感。ゾロアークは口を開けたまま閉じられず、ミュウツーも眼球が乾いても瞬きひとつできない。ジラーチも凍りついたように動けなかった。
 空間が歪み、金色のリングが現れる。そこから見覚えのある魔神が這い出てきた。解き放たれしフーパの影だ。しかし先ほど倒したものとは明らかに異質。まるで底のない崖の深淵を見下ろすような、えも言えぬ恐怖。肺が握り潰されるようで、息ができない。
 アルセウスの空間を流れるエネルギーが、従属するように魔神へと集まっていく。神々しいエネルギーが、漆黒の憎悪に染まる。そのとき、ミュウツーは雷に打たれたようにはっきりと確信した。創造主を殺して、この影が王に成った!
「お……あ、あぁぁああ!!」
 全神経を指先に注ぐ。動かせるサイコパワーを全てかき集めて、ミュウツーは『波動弾』を放った。山すら吹き飛ばす威力のそれを、魔神はその巨大な手で握り、潰した!
 だが一度動けば、恐怖は手足を縛れない。ミュウツーはジラーチとゾロアークを抱えて、魔神から十二分の距離を取った。これでも心許なさ過ぎるが。
「息をしろ、お前たち!」
 言われて意識して、初めて三匹は肺が空気を渇望した。胸いっぱいに吸い込んで、そして何度も呼吸を繰り返した。ミュウツーはなおも最大限の『波動弾』を準備しながら、ゾロアークに叫んだ。
「あいつは一体何だ!? さっきのとは次元が違うぞ!」
「その答えは、私から教えてあげる」
 背後から女の声。振り向く視線と、入れ違う蜘蛛の糸。それはジラーチを縛りつけて、ミュウツーの背中から華麗に奪い取った。アリアドスだ。銀髪の女に抱きとめられて、ジラーチは「いやだ!」と拒絶したが、口元に布を当てられ、何かの薬物を吸ったのだろう、すぐにぐったりと大人しくなった。
 もはやゾロアークは元の顔を忘れてしまうぐらい取り乱していた。
「リリリリ、リオンんん!? アルトマーレの怪盗姉妹!? 何で!? たかが人間がどうやって俺の支配を脱した!?」
「間抜けなポケモンねぇ、まだ気づかないなんて」リオンは高笑いを交えて続けた。「すべてはミュウツーがフーパ様を倒したときに始まったのよ。時間と空間の力を混ぜ合わせた『波動弾』は、フーパ様を次元の狭間へと吹き飛ばした。永遠のような時を彷徨い続けて、流れ着いたのがここ。とてもラッキーだったわ。だって瀕死のアルセウスが、力を蓄えるためにここへ戻ってきた、まさにその時に出会えたんですもの。それからフーパ様はアルセウスを殺して、無尽蔵のエネルギーが流れてくるこの空間で、怒りの炎を燃やし続けた。そして千年の時を経て、すべてを理解したの。ここが何なのか。誰に創られたのか……そう、ここは幻影の世界! ゾロアークのお遊びで創られたオモチャの世界だと悟ったのよ!」
 サアッとゾロアークの顔から血の気が引いていく。本気で事態の深刻さを悟ったのだろう、情けなくもミュウツーの影に隠れてブルブルと震えている。
 いい気味ね、とリオンは嘲笑いながら、さらに言葉を続けた。
「だからフーパ様は仲間を集めることにしたの、このふざけた幻影を創り出したゾロアークを殺して自由になるために」
「どうやって?」ミュウツーは彼女を睨みつけて言った。「そうは言っても所詮は幻影だ、自由になる方法なんて……」
 ある。ひとつだけ。ミュウツーが気づいたとき、それはもう奪われた後だと悟った。
「ジラーチよ」リオンは口角を歪ませて続けた。「ミュウツーのサイコパワーと混じり合ったジラーチは、もう幻影に支配されていないのよ。こいつで血清を作れば、我々はみんな幻影から解き放たれる。そしてフーパ様の怒れる炎が、あまねく現実をすべて焼き尽くし、唯一絶対の支配者として君臨するのよ!」
「させるか!」
 ミュウツーは『波動弾』を魔神に放ち、そして『サイコキネシス』でリオンを縛ろうとした。そのために指先を彼女に向けた。瞬間、灰色の手がリングから出てきて、ミュウツーの小さな手を掴んだ。
 ぐしゃ。
「ッ……あァア!!」
 短い悲鳴をあげるも、ミュウツーは歯を食いしばって魔神の手を蹴り上げた。そして折れ曲がった手を懸命に伸ばして、リオンに『サイコキネシス』を発動する。だが集中の乱れた念力は見当違いな向きに飛んでいくだけだ。リオンは背後のリングに飛び込みながら、「バイバーイ!」と嘲るように告げて、ジラーチと共に消えてしまった。

 止められない。まずい、まずい、まずい!
「ゾロアーク!」
 リオンの元へ連れて行け、と言えなかった。ゾロアークはすっかり怯えていた。嫌だ、死にたくない、俺は不滅なんだ、と呟くばかり。もはや正気を失っている。
 ここから出る手段が潰えた。ならばせめて、神の力を得たフーパだけでも仕留めなければ!
 振り返ったミュウツーは、『サイコキネシス』で攻めるために……守るために盾とした。直後、漆黒に燃え盛る『悪の波動』が盾を一瞬で焼き尽くした。ミュウツーはゾロアークを足にひっつけたまま高く跳んで、渾身のサイコパワーを込めた『サイコブレイク』の光弾を握り締める。幸いなことに、ここにはエネルギーが満ち溢れている。おかげで光弾はあっという間に身の丈よりも大きく膨らんだ。そして、魔神目掛けて撃ち放った。あいにくエスパータイプの技は、悪タイプを含んだ魔神には通じない。それなら、寸前で起爆すればいい。ミュウツーは一目散に逃げ出して……魔神の眼前で、光弾は核分裂級の大爆発を引き起こした。
 紛れもなく手加減抜きの、自分が使いうる攻撃の中でも最大の威力だった。太陽のように燃え残る業火を眺めながら、ミュウツーは生まれて初めて神に祈る。出てくるな、頼む。これで生きている生物がいれば、俺にはそいつに勝つ手段がない。
 その祈りは、太陽と共に脆くも砕け散った。爆炎を払い、魔神の咆哮が世界を揺るがす。途方もない怒りの声だ。千年の時間と無限のエネルギーを糧に育った怒りは、もはや一匹のミュウツーで止められるものではなくなっていた。
 少しずつ確実に迫りくる絶望を前にして、ミュウツーは自身でも驚くほど落ち着いていた。焦りや恐怖がスッと消えて、今までになく頭が冴えている。きっと人間たちが自分をこう造ったのだろう。最悪の状況下で、最善の結果を尽くせるように。
「とはいえ詰んだな、これは」
 笑みさえこぼれてくる。そしていよいよ魔神が目の前に立ちはだかっても、ミュウツーは抵抗しなかった。ただ自然に身を任せる。魔神の手が肩を掴み、拳を振りかぶる。そして一瞬だけ、拳に力を集めるため、腹の力を抜いた。その瞬間を狙って、ミュウツーは『波動弾』を魔神の腹にぶち込んだ。
「……なるほど、これでもダメだったか」
 まるで鋼鉄を木の棒で突いたように、波動弾が弾けた。そして、すべてが終わった……。

 ぱしん。
 ゾロアークの手がミュウツーの胸を突いて、彼を弾き飛ばした。何が起きたのか、視界が歪んでいく。世界から世界へジャンプする感覚と同じだ。ミュウツーは叫んだ。
「ゾロアーク、貴様ッ!」
「し、し、し、信じてる、からな、お前が俺を……」
 助けてくれるって。
 ヘラッと笑う顔が、ミュウツーが見た最後の景色。そして視界が真っ暗になって、最後の分子の一欠片がアルセウスの空間を離れる寸前、ごしゃ、という何かが潰れる音が聞こえた。

きとら ( 2020/12/29(火) 16:15 )