第2話 水の都の護神
ラティアスの頬をひっぱたくと、クスンクスンと泣き始めた。あまりに手応えがないので、カブトプスみたいに潰すのは思いとどまった。やりたい事は命懸けの戦いに勝つことであって、一方的な虐殺ではない。参ったな、とミュウツーは腕を組んで考え込んだ。
そもそもゲームのルールは何だ。このアルトマーレで何をすればいい。とりあえず目に見えるものを手当たり次第に倒せばいいのか? この憐れみを誘うラティアスも?
困り果てていると、鋭い雄叫びと共に、一瞬辺りに暗い影が落ちた。月明かりを切って飛ぶ古代の翼竜、プテラだ。空を旋回しながら、こちらの隙をうかがっている。ふぅむ、とミュウツーは唸りながら見上げた。
「とりあえず、こいつは倒して良さそうだな」
指をひとつ向けるだけで十分だった。翼を持つポケモンすべてに共通する弱点だ、翼を折れば落ちてくるしかない。プテラは「今だ!」と言わんばかりに翼をたたんで……翼があられもない方角に捻じ曲がった。『サイコキネシス』から逃れる術などあろうものか。悲鳴をあげて墜落したプテラの頭を、ミュウツーは得意げに踏みつけた。
「ふん、凶暴と知られる古代ポケモンもこの程度か! ゲームは俺の勝ちだぞ、ゾロアーク!」
大層なことをほざいた割には、指一本で片付いたぞ。もっと強い奴はいないのか。呼びかけても、深夜の静寂が返ってくる。おまけにラティアスがポカンと口を開けているので、少し恥ずかしくなってきた。やはり倒さなければならないのだろうか。心苦しくも彼女を見やると、ラティアスはキリッと口を結んで、何かを決意したようだった。
「クゥ! クゥウ!」
曰く、力を貸して欲しいとのことである。悪い人間たちが兄を誘拐して、アルトマーレの古代兵器を動かすための生贄にされているのだと言う。
「アルトマーレにそんなものあったか?」
首を傾げていると、ラティアスの目が光り始めた。ミュウツーは驚いたものの、それがテレパシーの類いだと知るや、身構えていた手を下ろした。
辺りの景色が、仰々しい聖堂の中に変わる。周りを球体の檻に閉じ込められて、「何だこれは?」と手を伸ばしたが、当然のようにすり抜けた。すぐそばには、まるで古代の天体望遠鏡か、高い天井まで届くほど巨大な装置が蠢いている。その操縦席には人間の女が座って高慢な笑みを浮かべていた。
「つまりこいつらが黒幕か」ミュウツーは顎をさすりながら言った。「そしてこの映像を俺たちに発信しているのが、お前の兄だな。そうか分かったぞ、お前はこれに捕まった兄を救うために大聖堂へ向かって……」
「この力があれば、世界を手に入れることだってできる!」ミュウツーが言い終わらないうちに、操縦席についた銀髪の女が高らかに叫んだ。「もっと試させてもらうわよ」
ミュウツーは思わず背筋がゾクッとした。これはただの人間の女だ、しかし声には途方もない欲深さと悪意に満ちている。こいつは古代兵器の力を試すために、この俺を実験台にしようとしているのだ。他でもない、この俺を!
とたんに、テレパシーが途切れた。切ったのはおそらくラティアスの兄だろう、寸前に彼の悲鳴が聞こえた。女が何をする気なのか、ほどなくして分かった。海の水が唸りをあげて、巨大な怪物となってこちらに迫っていた。
とっさにラティアスは逃げ出そうとしたが。
「俺の後ろにいろ!」
ミュウツーに怒鳴られて、身がすくんでしまった。だが不思議と恐れはない。空を覆うほどの海水を前にしても、ミュウツーの背中の方がよっぽど怖く見えた。
だが、迫りくる海水に対して、ミュウツーは無策を選んだ。何もせず、ただ勝ち誇った顔をしていた。海水はミュウツーたちの周りで渦を巻き、あっという間に彼らを飲み込んでしまった。あとは溺れるのを待つだけだ……という訳でもなかった。
激しい水流に揉みくちゃにされながら、ミュウツーは一心に集中していた。『サイコキネシス』で海水の支配権を奪うために。のみならず、海水を操る古代装置の念波を辿って、古代兵器そのものにアクセスするために。それには海水に飲まれた方が都合が良かったのだ。
超能力のハッキングとも呼ぶべき荒技を、ミュウツーは見事にやってのけた。システムのバックドアをぶち破り、インターフェースをめちゃくちゃに荒らしまくり、コアとなるシステムを焦土に変えてやった。当然、支配の消えた海水は弾けて、ミュウツーとラティアスは宙に投げ出された。
静かになった街に降りて、ミュウツーは肩を鳴らす。そして未だ呆然としているラティアスに向かって、薄く笑いかけた。
「一丁上がりだ」
「何を得意げに言っているんだね」ゾロアークは欠伸を交えてひどく退屈そうに言った。「こんなもの、危機のうちには入らんよ」
ラティアスの影から現れたゾロアークには、冷ややかな視線を送る。
「負け惜しみもいいところだな。俺はアルトマーレを破壊しようとする古代兵器を壊して、ラティアスとその兄を守ったぞ」
「まあ、その点について言えばその通りだ」たいして興味もなさそうに、ゾロアークは時間の止まっているラティアスを眺めた。「本来の歴史であれば、ラティオスは死んでいた。なんとも悲劇的じゃないか、あーあーこんなにも美しい兄妹愛が引き裂かれてしまうなんて見ていられない。だがお前はその手で運命を変えた。ひどく好戦的で野蛮だが、同時に慈悲の心を持っているようだ。しかし残念なことに、この事件以来、ラティオスは人間に対して強い恨みを持つようになり、やがて復讐の花が咲く。古代兵器を我が物にしようとした女は、その翌年、獄中で身体を捻り殺された」
「後日談がどうなろうと知ったことか、どうせ幻影だ」
「どうせ幻影? おぉひどいじゃないかミュウツー君、自分がやったことの結末ぐらい知るべきだ。視野を広く持ちたまえ、ただ強いだけの脳筋ポケモンが最強と呼べるのかね?」
挑発じみた言葉を並べ立てながら、ゾロアークは指をパチンと弾いた。第二ステージの幕開けだ。
ミュウツーが去ってから三日後、古代兵器を奪おうとした銀髪の女こと『リオン』は警察に逮捕され、カントー地方の刑務所に移送されるべく連絡船に乗っていた。最新式の電子ロックされた手錠をかけられ、両脇にはガーディを従えた警察官たち。怪盗と呼ばれたリオンも、脱走を諦めることにした。少なくとも、いまのところは。
アルトマーレを出航して、延々と続く海の景色にも飽きてきた頃のことである。リオンは警察官と船室で缶詰になっていたが、ふと、ドアの外で物音が聞こえてきた。ごとん、ごとん。何かが倒れるような音だ。
「何なの?」リオンが眠そうな目を擦りながら言うと。
「お前は黙っていろ」
警察官の男にたしなめられて、肩をすくめた。ガーディは低く喉を鳴らして警戒する。ドアの外に何かがいるのは確かだ。警察官はごくりと唾を飲んで、拳銃を握りしめた。
そして、おそるおそるドアを開けた。
「ぎゃっ」
短い悲鳴と、それからガーディの断末魔が響いて、静かになった。なに、これ……リオンの眠気は一瞬で吹き飛ばされる。巨大な灰色の手が、か細い女の腰を鷲掴みにした。