第二章 ヤドリギの種
第3話 死の恐怖
 かつてミオがポケモントレーナーの旅に出たときも、初めてカントー地方のイワヤマトンネルを歩くのは大変な苦労があった。辺りは真っ暗で何も見えないし、懐中電灯で照らしても、死角に蠢くズバットやイシツブテにビクビクしたものだ。ミオ自身もこうなるとは思っていなかった。世界を震撼させる大悪党とも渡り合うだけの度胸を備えているのに、ただの洞窟に震え上がったとなってはあまりに恥ずかしい。結局リザードンに先導させながら、終始ツタージャを渾身の限り抱きしめて、やっとの思いでやり過ごしたものだ。
 クロンキストの通路に『転送』されたとき、ミオの頭にはイワヤマトンネルの経験がよぎった。ひんやりと冷たい空気。鼻の奥を突くような鉄臭さ。照明の落ちた真っ暗な通路に、ぴちょん、ぴちょん、と水滴の音が響き渡る。得体の知れないものに首筋をべろりと舐められるような、嫌な感触が拭えない。
「ワイルドジャンパー、炎を借りるよ」ミオが唱えると、ボールから出てきたリザードンが、尻尾の火を一層強めて、通路を赤々と照らし出した。
 辺りはまるで水遊びでもした後のように、すっかり水浸しになっている。壁は蔓に覆われていて、アボットとシラモが二人がかりでかき分け、やっとの思いで制御盤のパネルがあらわになった。
 パネルの表示はメガロポリス語で書かれていたので、ミオたちには読めなかったが、シラモは久しぶりの母国語をなでるように読み込んだ。チームにも伝わるように、船の状況を淡々と並べ始める。
「メインパワーはオフライン。非常用電源のみで、環境制御システムが辛うじて動いています。生命反応は複数あるようですが、いずれも不安定な状態です」
「ここから一番近い生命反応はどこです?」アボットが周囲を警戒しながら尋ねると。
「内部センサーによれば……この上です」
 言われるままに見上げた瞬間、ミオは全身から血の気が引いて立ちすくんだ。見るもおぞましい憎悪に歪んだ大口を開け、ミイラのように干からびたモウカザルが、天井で磔にされていた。幾重にも絡みついた蔓の間から、水滴が垂れて、真下に水たまりを作っている。
「彼を降ろせますか?」シラモが冷静に尋ねる。
「何とも言えません」ビクティニはゴウカザルの顔に寄って、残念そうに首を振った。「見た限りでは、植物は身体に絡みついているだけじゃなく、体内にも根を張っているみたいです。植物とほとんど融合していて、無理に離そうとすれば死んでしまいます」
 リザードンの炎で赤く照らされているので気づかなかったが、シラモが通路に電力を戻すと、赤い絵の具を撒き散らしたような光景がどこまでも続いていた。
「どう見ても、ひとりふたりの量じゃないよね……」
 ビクティニはぽつりと言いながら、もっと大きな、漠然とした不安を感じていた。血の量に対して、それを流した死体が一体では少な過ぎる。血を流した主はどこへ消えたのだろうか。答えを知るのが、何よりも恐ろしく思えた。
「この植物は『ヤドリギの種』に似ている」通路を這う蔓を入念に観察しながら、アボットは言った。「ゴウカザルを養分にしているように見える。しかし、まだ生きているのが信じられないな」
「誰かがヤドリギの種で、この船を襲ったのかな」
 ミオのひと言で緊張の糸が張る。クロンキストの乗組員を無惨な姿に変えた何かがいるのなら、戦いは避けられない。アボットが連れてきたアブソルは、ビクリと身を竦ませて、パートナーの影に身を引いた。
「いずれにしても、情報が不足しています」シラモは一堂に振り返った。「ブリッジを目指しましょう。そこですべてが明らかになるはずです」

 血溜まりでぬかるんだ床に、ミオは何度も足を取られそうになる度、相棒のリザードンに寄りかかった。すると後ろに続くシラモとアボットは、ミオの滑ったところを避けていく。チームを守る保安の任を請け負っただけに仕方がないが、何だか自分だけが間抜けな姿を晒している気がして、損をした気分になってきた。
 しかし同じく先陣を切るアブソルはと言うと、これがまた利巧なポケモンで、滑りそうなポイントを上手く避けて進んでいた。横目で感心しながら眺めていると、勇敢に進んでいるかと思えば、そうではないことに気づく。アブソルと言えば凛々しい顔と、千里を見通すような澄ました目がかっこいいポケモンだ。しかし彼女は、どうにもひたすら逃げ腰を貫いている。表情はすっかり怯え切って、ぬかるみを避けるのもいちいち仔犬のようにビクリと跳ねていた。
「ねえ」ミオは冷や汗で湿気を帯びた光線小銃を滑らないように握り直しながら、アブソルに言った。「アブソルって危険を予知する力があるんでしょ? もしも何かが起こりそうなら教えてね、頼りにしてるから」
 返事は思ったよりも頼りないものだった。「そ、そんなこと言われても困るよ……」
「どうして?」
「あなたはアブソルを誤解してる、まるで万能の予知能力でも持っているみたいだって。本当は全然そうじゃないのに」
「でも実際に危険を予知してる」
「違うのよ、ただ……嫌でも分かるの。死の恐怖が迫っていることを。こ、ここに来てからもずっとそう。今だって吐きそうなぐらいなのに我慢しているんだから」
「意外ね……アブソルって、もっと恐怖に強いのかと思ってた」
「立ち向かえる奴もいるけど、わ、私は無理。四六時中、あちこちで死の恐怖に追い回されてたら、もう頭が変になってしまいそう」
「……今からでも副長に言えば、船の誰かと交代してもらえるよ?」
「でもアボットは帰らないでしょ? ダメよ、ダメ、一緒じゃないと心配すぎて頭がおかしくなりそう」
 へらっと笑う彼女の顔は、怯えに怯えて頬が引きつっていた。すっかり自分の中にある恐怖心に屈服しているようだ。ミオは何だか哀れに思えてきて、少しでも彼女への負担を減らしてあげようと、自身が一歩前に出た。

 ブリッジに来るまで、見かけたクロンキストの乗組員は全員ヤドリギの蔓に縛りつけられていた。奇妙なのは、その外見の変化には個々によって大きな差があることだ。最初に見つけたゴウカザルのように干からびた者もいれば、屈強な体格の男のように縛られながらスヤスヤと眠っている者もいた。
 だが、ブリッジを訪れると、もうひとつ意外なパターンが出てきた。草タイプのポケモン、ドレディアが、船長の椅子から立ち上がって快く出迎えてくれた。
「ようこそ、お待ちしていました」
「我々は地球の探査船プロメテウスの調査隊です」シラモは名乗りを上げながら、なお警戒した口調で尋ねた。「あなたの所属は?」
「クロンキストの科学主任で、エフェドラと申します。我々を救助に来て下さったのですね?」
「そうですが……」シラモはアボットに目配せをしてから、続けた。「てっきり、未知の植物によって全員が侵略を受けたと思っていました。ここに来るまで、無傷の乗組員は誰ひとりとしていなかったものですから」
「あぁ、全員ではありません」
 アボットがスキャン用の端末を背後に隠して調べている間、シラモはドレディアの注意を引くべく、ブリッジを歩き回った。
「他にも無事だった乗組員はいますか?」
「たくさんいます。貨物室に避難していますよ。全員が傷ついて、この侵略に怯えています。どうかただちにプロメテウスに乗せてください」
「その前に、ここで起きたことを説明してもらえますか?」
 チラリと視線がミオにも飛んだ。その意図を察して、彼女はリザードンと共に出入り口の前にさりげなく移った。
 ドレディアは戸惑いながら言った。
「難しいですね……何しろあっという間の出来事だったので、とにかく未知の植物が突然襲ってきたとしか」
「科学主任なのでしょう? 少なからず調査したはずでは?」
「調査なら十分……」
 ドレディアの言葉が一瞬詰まる。アボットが端末をシラモに見せている。
「しましたよ」
 へらりと笑う。さも開き直るかのように。もう全部バレているのだろう、その身にヤドリギの種が寄生していることも。
 瞬間、ドレディアは『ヤドリギの種』を散弾銃のようにばら撒いた。「危ない!」とアボットが叫んで、シラモを庇う。それはミオが相棒の名を叫び、リザードンが紅蓮の『火炎放射』を噴くと同時だった。ドレディアは炎に包まれ、金切り声をあげながら狂ったようにアボットへ飛びかかった。寸前、アブソルの頭部にある鋭い鎌が、ドレディアを真っ二つに切り裂いた。降りかかる火の粉に怯えて、アブソルは短い悲鳴をあげて飛びのいた。
 焼けて灰になっていくドレディアには構わず、シラモはアボットの腕を引き寄せた。
「中尉、怪我を見せなさい」
「このくらい平気です」
「いいから見せて!」と、ビクティニも血眼になって彼の傷を探した。ないことを祈りながら。
 だがあった。右肩の肩甲骨付近に、制服に開いた小さな穴を見つけた。ビクティニが手で押さえると、何かが脈打っているのが分かる。まずい、寄生された! すかさず手先に高熱を込めて、ビクティニは『火炎弾』で彼の肩ごと焼き払った。
 耳をつんざくほどの悲鳴がブリッジに響き渡った。目を覆うような激しい炎と、肉の焼ける匂いが充満する。アブソルはただただ身を丸めて震えていた。その地獄のような時間が、一秒でも早く過ぎ去ることを祈って。

きとら ( 2020/12/18(金) 23:41 )