第一章 イリュージョン
第4話 悪夢の幕開け
「きっとこの事を話しても、誰も信じないだろうな」
 ウォーレンは表情を緩ませながら、相棒コールを伴い、森の奥へと通じる獣道の先陣を切っていた。後に続くシラモは一向に口を利く気配がない。この現象を説明づける材料を探っているのだろう。ところが、『不思議の国のアリス』に遭遇してから、依然として理解を超えた出来事が続いている。
 アリスの次には海賊船長が現れた。黒くて立派なヒゲを生やしたドクター・バークのようにも見える。剣を抜いて襲ってきたので、コールが『冷凍ビーム』でその足を凍らせた。続いて出てきた丸眼鏡を掛けたサーナイトの魔法使いには、ビームを防がれてしまったので『催眠術』で眠らせた。額に雷の傷がある以外、機関部の乗組員とそっくりだ。
「今のところは、機関部にいた乗組員が何かに操られているとしか思えない」ウォーレンは大きな木の根っこを跨ぎながら言った。「副長、君はどう思う? メガロポリスでもこういう現象に遭遇したことはないのか?」
「幻影や催眠術の可能性もありますが」一度言い淀んでから、シラモは続けた。「脳の認知機能にダメージを与える、ウルトラホールの放射線を浴びている可能性もあります」
「それは私も考えたが、みんな同じ幻覚を見るものか?」
「同じものを見ていると錯覚しているのです」
「考え過ぎじゃないか? あるいは、我々もアリスと同じように、不思議の国に迷い込んでしまったのかもな」

 地球人特有の戯言ね。シラモが無視を決め込んでいると……周りの木々が一斉に動き出した。正しくは木になりすましていたウソッキーたちだ。そんなバカな、さっきまで全部ただの木だったのに。
 辺り一面の視界が晴れて、原っぱが出来上がる。ウソッキーたちは場所を開けると、再び木に戻った。
 はじめは身構えていたウォーレンたちだが、すぐに状況を理解した。原っぱの奥に、古代カロスにも似た小さな神殿が建っている。玉座には見るからに怠惰そうなゾロアークが、足を組んで頬杖を突きながら、訪れた三名をニヤニヤ笑って出迎えた。
「ようこそ船長、我が不思議の楽園へ」
 明らかに乗組員ではない。ウォーレンはゾロアークを見上げて、務めて厳かに名乗りを上げる。
「私は地球連合の探査船プロメテウスの船長、ナサニエル・ウォーレンだ。君は我々の船の機関室を不当に占拠している、これは明らかな……」
「明らかな敵対行為である」ゾロアークは欠伸を交えてウォーレンの声に重ねた。「それから今すぐこの幻影を止めて、船から出ていけと言うのだろう? まったくどいつもこいつも、何万年経とうが言うことは変わらないな。なんてつまらない連中なんだ。せっかく俺の力で、つまらないお前たちのつまらない日常に刺激をもたらしてやったと言うのに」
「刺激だって?」ウォーレンが片眉を上げて訝しむと。
「そうとも! 俺の眠りを邪魔した女から聞いた話では、お前たちの娯楽は空想から生まれる『物語』だそうだな。面白い! そこで俺は、この船のデータベースに記録されている物語を基にして、お前たちの大好きな物語を再現してやったのだ!」
「そんなことは不可能です」シラモが一歩前に出てケチをつけた。「乗組員たちは自らを物語の人物と思い込んでいます。ゾロアークの特性『イリュージョン』では、そこまでの強力な錯覚を起こせません」
「ところが俺にはできるんだよ」
 ニヤリ。ゾロアークの口角が上がると世界の景色が一変した。

 無限に広がるウルトラホール。その数多あるワープホールのひとつに、ゾロアークの世界があった。そこにはひとつの確かな現実があるのではなく、無数の幻影によって創られていた。
 ウォーレンたちは目を開けたまま、瞬きすることもできずにいた。ゾロアークが見せる彼の世界の景色を、脳で処理することができないのだ。
 森。青空。分子。水。鉄。太陽。原子。血管。惑星。葉っぱ。海。嵐。銀河。ミクロからマクロまで、あらゆる事象が物理法則から解放されて、ひとつのキャンパスに描かれている。それが絶え間なく変化していた。
「こんな……ところで……生命が……生きられ……るのか……?」
 ウォーレンが喉から声を絞り出すと、徐々に混沌の景色がまとまり始める。たとえて言えば、ひとつのスポンジだ。絞って垂れた水滴のひとつひとつが、ゾロアやゾロアークになった。
「俺たちは何万年もかけて、お前たちとは別次元の存在に『昇華』した。ただ幻影を見せるだけにとどまらず、時間、空間、物質を操り、現実を幻影で上書きする力を得て不滅の存在と化したのだ」

 景色が森に戻るなり、ウォーレンたちは地面に崩れ落ちる。まるで酷い船酔いを起こしたみたいに、胃袋の中身をひっくり返した。
 まずいぞ。ウォーレンの心臓が早鐘のように鳴って危機を告げる。幻影や催眠術の類いだろうとたかを括って油断していた。こいつはまるで神のように、乗組員を意のままに操り、船を好き勝手に作り替えている。これでは、我々はただのオモチャではないか!
「何が、望みだ……」
 袖で口元を拭いながら、ウォーレンは震える足で立ち上がった。コールも立てないながら、口に冷気を溜めている。
 気づけば、ゾロアークは玉座にいない。彼は皆の視線をすり抜けて、コールの背中にのしかかった。
「俺は退屈なんだよ。十万年前にも遊んでいたところを封印されて、欲求不満が溜まりっぱなしだ。どうか俺が飽きるまで遊ばせてもらえないだろうか……なあに、気にすることはない。なんて言っても地球連合艦隊の一員なら、困っているポケモンを見ると助けずにはいられないんだろう? 俺を助けてくれたまえよ、ウォーレン船長」
 吊り上がっていくゾロアークの口角。次の瞬間、景色がまた変わって別の物語が動き始めた。

きとら ( 2020/12/07(月) 00:30 )