第3話 不思議の機関室のアリス
ウォーレン船長はシラモ副長と二人きりでエレベーターに乗っていた。
機関室のブライスに呼ばれて、ブリッジを一緒に出た時から、シラモはずっと黙っている。用件がない限り、彼女から口を利くことはまずない。おそらくは雑談を時間の無駄だと思っているのだろう。ウォーレンは居心地が悪そうに肩を揺らした。
プロメテウスが初めて地球から旅立った二年前から現在まで、この船に乗っているメガロポリス人はシラモひとりだけだ。彼女の強烈な個性に、はじめはわだかまりが絶えなかった。しかし共に苦難を乗り越えるうち、今では互いを仲間だと思っている……はずだ。その青白い鉄面皮からは到底読み取れないが。
「いよいよ今夜、ポケモンリーグが始まるな」
沈黙に耐え兼ねて出した話題は、怪訝そうにしながらもシラモの興味をわずかに誘った。
「今なんと?」
「ポケモンリーグ。全国のポケモントレーナーたちが集まって、ポケモンチャンピオンの座を賭けて競い合う競技大会だ、聞いたことぐらいあるだろう?」
「地球のメガロポリス大使館にいた頃に、少しですが」
「メガロポリスの子供たちも何人か出場するらしいじゃないか」
「そのようですね」
ゴウン、ゴウン、とエレベーターの下る音が虚しく響く。やはりどうにも雑談を強要しているみたいで気が引けてくる。ウォーレンはダメ元で、次の質問を最後にするつもりで投げた。
「……誰か、応援している選手はいないのか?」
「四十七番」
「そうか」
ほらね、やっぱり無駄だった。
……ん?
「今なんて?」
「ですから、背番号四十七番と申し上げました」シラモは機械みたいに真正面を向いたまま、つらつらと答えた。「メガロポリス出身の優勝候補です。パートナーはエンペルト、記録によると公式試合の勝率は七二・九パーセント、パーティのバランス指数は……」
「待ってくれ」急に饒舌に語り始めたことよりも、ウォーレンには見過ごせないことがあった。「君はポケモンバトルを、数字で語るつもりか?」
「過去の客観的事実から、論理的に推測をしたまでです。想定しうるすべてのデータを用いて計算したところでは、八三・七パーセントの確率で四十七番が優勝します」
「コンピュータ、エレベーターを止めてくれ」
目的地の機関室を前にして、駆動音が静かになった。
それは聞き捨てならないな。このままシラモの誤解を見逃したままでは、元ポケモンリーグチャンピオンの称号を汚すことになってしまう。ウォーレンは力強く腕を組んで言った。
「ポケモンバトルはデータが全てじゃないぞ。人間とポケモンがこれまでの冒険で、力を合わせて積み上げてきた知識、経験、そして互いへの信頼を、熱い魂に乗せてぶつけ合う真剣勝負だ。それで言うと、優勝は九十二番のライナスだな。彼らの冒険は波乱の連続だった。幾度となく危機に陥ってきたが、彼らには土壇場で戦況をひっくり返す強さがある。分かるんだよ。かつてポケモンリーグで優勝した私も、彼と同じだった」
「それは地球人特有の精神論ですね」シラモも毅然とした態度で一歩も引こうとしない。「しかし私の計算は、確かな事実に基づいています。その結果、優れた知識と論理的思考で組み上げた四十七番のパーティと戦略が、最も優勝に近いと結論づけられたのです」
冒険で積み上げた経験か、データ分析か。ふたりの交わした視線がバチバチと火花を散らした。しかし自ずと結果は明らかになるであろう。
ウォーレンは船のシステムにエレベーターの再稼働を命じながら、シラモに挑戦状を突きつけた。
「どちらの応援選手が優勝するか、ひとつ賭けをしよう。それとも、賭け事は非合理的だから受けられないか?」
「そんなことは、ありません」平坦な声が、少しだけ上ずっているように聞こえた。
今夜の試合をライブ映像で見るのが楽しみだ。エレベーターが開いた瞬間、ウォーレンの顔から挑発的な笑みが消えた。
「……何だ、これは?」
森が見える。穏やかな森が。エレベーターから一歩降りた先には、雲ひとつない澄んだ青空と深い森が広がっている。遠くではスバメたちの囀る声まで聞こえてくるではないか。
どう見ても機関室ではない。それどころか、ウルトラホールを航行中の船の中とも思えない。夢でも見ているのではと錯覚するも、頬撫でるそよ風が告げている。これは現実だ、と。
振り返ると、シラモも地面を何度も踏んでその感触を確かめていた。
「……どうやら本物の地面のようです」
「なにが本物だって? そんな訳がないだろう。ここは機関室、のはずだ」
こんな非現実的な景色を目にして、なおも事実を受け入れようとする姿勢には感服する。だが行き過ぎだ。ウォーレンは呆れがちに肩をすくめて、通信端末に手を伸ばした。
「こちらウォーレン、ブリッジ応答せよ」
返事なし。何かに通信を妨害されているらしい、ピー、ガガガ、と雑音ばかり流れている。エレベーターに戻ろうとすれば、届く寸前にドアが閉じて、幻のように消えてなくなった。
何にせよ、この異常事態は我々を逃がすつもりがないらしい。ウォーレンは用心して、ベルトに付けたボールから雪のように白いキュウコンを解放した。名を『コール』という、ウォーレンのパートナーだ。
外に出るなり、コールは辺りを見回してスンスンと鼻を鳴らした。
「なかなか良いところじゃないの、今日はあなた休暇だったかしら?」
「それならまだ救いがあったんだがな、あいにくここは船の中で、しかも機関室だ」
へえ、機関室ねえ。コールは言われるままに受け取って、空を見上げた。あれは照明? いいえどう見ても太陽が昇っているじゃないの!
「ねえ、これってどういう……」
「遅れちゃう! 遅れちゃう!」
コールのセリフを破って、大慌てでエースバーンが飛び出してきた。機関副主任のバーニィ大尉だ。懐中時計を何度も確かめながら、ウォーレンが呼び止める間もなく、目の前を走り過ぎていった。
「早くしないとお茶会に遅れちゃう!」
ポカンと口を開けたまま見送るウォーレンたちに、さらに不可思議な出来事が畳み掛ける。フリル付きの青いドレスを纏い、機関主任のブライスによく似た少女が、パタパタと森の中を駆けてくるではないか。
少女は息を切らしながら、ウォーレンたちに尋ねかけた。
「ねえ、おじさまがた。今ここに時計を持ったエースバーンさんが通りませんでしたか?」
三名が揃ってバーニィの走り去った方角を指で(コールは前足で)示すと、少女は丁寧にドレスを摘んでお辞儀をした。
「どうもありがとう!」そう残してバーニィを追っていく少女を、これまたウォーレンたちは黙って見送った。
他のふたりはともかく、ウォーレンは内心安堵していた。疲労で頭がおかしくなってしまったとしても、それは自分だけじゃない。奈落に落ちる道連れがいると思えば楽なものだ。さて、現実主義者のシラモはいかがかな。顔を覗いてみると、彼女はすっかり固まっていた。