53話 巣立ち
「マナフィ……あぁ、勿論存じ上げてます」
「マジか。結構海のポケモンは皆知ってるのか?俺、聞いたことなかったんだけどさぁ……」
「いえ。海のポケモン達も皆は知らないでしょう。知っているのもこちらに一割程いるかいないか……マナフィへの認知が強いポケモンに出会えたのならそれは幸運でしたね。そもそも、あなたは自然からかなり離れていらっしゃるでしょうし、当然ですよ」
真昼の海岸で二匹のポケモンが立ち話をしている。片側は陸上に足をつけ、もう片方は海の上に浮いていた。陸上に足を付けたポケモンはフローゼル。レイセニウスであった。もう一匹の海に浮いたままその場にとどまっているのはラプラス。彼の名はラウルといった。時の歯車と星の停止を巡る事件の際、アカネ、カイト、リオン、ルーファスを幻の大地まで送り届け、解決に大いに貢献したポケモンである。あの事件が解決し、それ以降は特に周辺のポケモン達とかかわりも無かった。特にレイセニウスはあの事件に間接的にしか関わっていない。にも拘わらず、本来何の関係性も無いであろう二匹がこうやって立ち話をしているには理由がある。
事件が解決してからというもの、この海岸は所謂「英雄が出会った場所」として有名である。観光としてそこそこの数のポケモンが観光がてらこの海岸を訪れ、最近では共に海岸に訪れたカップルはどんな困難に阻まれようとも離れることはないとかなんとか、そういうジンクスのようなものもあるのである。
レイセニウスには多少(?)プレイボーイな一面がある。随分前、観光に訪れる女子を口説こうと散歩兼ナンパ目的で今回は海岸を訪れていた。レイセニウスにとってはあまりいい思い出ばかりとも言えない場所ではあるが、ポケモンが多く集まることがある場所としては良いのである。
しかしレイセニウスが下心丸出しで海岸に訪れたその日はやたらポケモンが少なく、いるのは雄ポケモンばかりだし、雌ポケモンもとことん彼の好みではない。ちぇ、と思い帰ろうとしたレイセニウスは海を横切る一匹のポケモンを目にした。中性的な顔立ちをしているが、レイセニウスからしてみればそれは完全に女性に見えた上に美人。知的でミステリアスな雰囲気。鮮やかな水色の体。レイセニウスはすかさず海に飛び込んで「やぁ君!すっごく綺麗だね!暇?もしよかったら俺と海上デートしない?」と怒涛の勢いで迫った。あまりに勢いよく迫ったため、直前までそのポケモンの体が二メートルを悠に超える中型以上のポケモンであることに気が付かなかった。あまりに必死である。
レイセニウスは自分よりも小柄なポケモンがタイプであるが、背に腹は代えられない。逆に言えばそれ以外はドンピシャなのだ。必死なアピールに困ったような顔をして、そのポケモンは言い放った。
「あの、僕は雄なんですが……」
それは思っていたより大分低い声だったのである。
何だかんだ話が合って今に至る。ラウルは時折この海岸に立ち寄ることがあるが、タイミングが合えばその度に軽い世間話をしている。ちなみにラウルがぱっと見で女性に間違えられることはよくあることらしい。そもそも俗世のポケモンとの関りが極端に薄いので特に間違えられたところで問題は無いが、怒涛の勢いで迫ってきたレイセニウスには若干引いたらしい。未だに「体が大きいこと以外はドンピシャなのになんで雄なんだよ」と目の前で言ってくる彼にも呆れることが多々ある。
「……ま、今更って感じなんだけどさ。もうちっと早く話してればよかったわ」
「そうですね。もしかすれば力になれたかもしれませんが、僕は立場上あまり向いてないので、きちんと海の事を教えてくれるポケモンに任せた方が安全です」
「へぇ……マナフィって結局なんなんだ?」
「……僕も良くは知りませんよ。話せることだけになりますが……海のポケモン達は皆、マナフィの従属なのです」
皆、従属。海のポケモンが?と、レイセニウスは目を丸くした。一割しかマナフィの存在を知らないにもかかわらず、マナフィは全てを従えることになる存在と言う事なのか。
そんな彼の様子を受け、ラウルは続ける。
「マナフィは海から生まれると聞きます。母も父も海なのです。海に存在するポケモン達は、海を広げたと言われるカイオーガでさえもマナフィの従属となります。海が生んだ海の子供。海に代わって、そこに生きるポケモン達を率いるポケモン。だから、『海の王子』と呼ばれるのですよ」
レイセニウスは思わずメモを取るためにバッグに手を突っ込もうとバッグの蓋を開けた。しかし、なんとも言えないラウルの冷ややかな視線に気が付きそっとバッグから手を離し、体の横に這わせた。
「メモするのは構いませんが、記事にしようとは思わないでください。そういうのは……好きではありません」
「あぁ、そうか。悪い、時限の塔の件でも色々と大変だったもんな」
「……えぇ。本来はこれほどまでにも広く知られてはいけなかった。やっと収まりましたが、かなりの間後始末に追われていましたからね。……しかし、ある程度は仕方がないことです。大きな力が動いたおかげで、今はまた幻の大地に辿り着くのはほぼ不可能になっているでしょうね」
「……上のお方々、ってか?」
「……さぁ……しかし、未だに『幻の大地』の記憶がポケモン達の中に存在しているという事は、この世界においては『大した事』ではないのでしょう。彼らは、そう……多かれ少なかれ、隠蔽体質ですから。あのディアルガでさえも……ね」
レイセニウスは目を細める。ラウルは口が堅いポケモンだ、と聞いていた。少なくとも彼を知る前の彼についての情報は、役割に忠実であり、そして堅実。口が非常に硬い。そんな印象だったのだが、結構喋るのだな、と不思議に思う。
「それ、俺なんかに話していいことか?」
「……僕にも不満の一つや二つはあるので。あの事件を経てからは特に」
そう言ってラウルは少し微笑んだ。
レイセニウスは思う。こうやってよく話をしているが、結局ラウルとは何者なのだろうか、と。明らかに『普通』のポケモンではない、とは思う。普通とはいったい何をもって普通というのか、という話ではなく、浮世離れしているのだ。どことなく雰囲気はアカネと似ているが、それでも違う。彼の周囲に漂う空気は、アカネの持つ雰囲気とも全く異なっている。
ラウル、お前って本当は何歳なんだ。いつから生きてるんだ?
そんな言葉が喉の奥で引っかかって、止まった。ラウルは太陽が傾き始めているのを見て、「そろそろ失礼しますね」と浜辺を離れていく。静かに泳ぐその姿を、レイセニウスは後ろから見つめていた。
いつも彼は、何を目的に泳ぎ続けているのだろう。
アカネとカイトがマナフィに別れについて話したのは別れの前日の夜だった。
「マナフィと僕たちは離れて暮らさなきゃいけないんだよ」
「マナフィで海で生きていかなきゃいけない」
「僕たちは海では生きられないから、いっしょに行けない」
「明日お別れなんだ」
「マナフィ、わかる?」
アカネが最後にそう問いかけた時、マナフィはきょとんとした顔をしていた。
わからないのだ。
マナフィは海に行く。明日。もう「おうち」には戻ってこれない。海のポケモンと一緒に暮らす。アカネとカイトは一緒に居られない。
「…………?」
「……わかんないか」
アカネは擦れた声でそう呟いて、軽くため息を零した。カイトは説明の仕方が悪かったのかもしれない、と他の言葉を選んで説明しようとしたが、アカネはそれを制止した。カイトは「絵を使って説明を」と提案したが、それは更に混乱させるだけだとアカネは告げた。マナフィは絵本が好きだから、伝わるかもしれない。ただ、それはあくまでピカチュウとヒトカゲとマナフィが登場する絵本なのだ。碌に自分の顔を見たことも無いマナフィが、絵にうつった自分を自分であると知覚できるかどうか分からない。
それ以上に、これ以上事実を口に出し続けるのはちょっと耐えられない。
アカネとカイトにとっては長く生きてきた中での数週間かもしれない。しかし、マナフィにとっては生まれてきてから今までが生涯なのだ。生まれた時からアカネが居てカイトが居るのが普通で、其れだけがマナフィが生きてきた証なのである。突然お別れ何か言われたってわかる訳がない。それが自分と結びつくわけがない。
「……勝手でゴメンね」
「あかねー」
マナフィが様子がおかしいアカネを気遣ってか、ただ単に触りたかっただけなのか。パチパチとアカネの赤い電気袋を叩く。「だから危ないんだって」と力なく言うアカネと、マナフィに近づいて頭をなでてやるカイト。ついに前日の夜。眠って起きたら明日が来る。ペリーは明日一日時間を貰って海岸で海のポケモンと話をしているらしい。だから、いつ来てくれてもいいという話だ。流石に明日の夜は勘弁してほしいが、出来れば夕方までにはマナフィを連れてきて、海へ返す。
時間はない。マナフィが海に適応できる時間も限られているのだ。
最後の夜だった。一緒に眠ったあの日から三匹は川の字になって眠っている。明日からはもうこの場所で眠れないだなんて露程も知らないマナフィはスピスピ寝息を立てて眠っているのだ。
* * *
カイトの方が先に起床して、ある程度食事の準備を済ませる。その次にマナフィが起きてきて、カイトが用意した朝食をペロリと平らげるとそのグミでベタベタの手で寝ぼけているアカネの顔をベタベタ触る。アカネ顔を洗う。覚醒。
朝はいつもと同じだった。本当にいつも通りである。マナフィは昨日の話なんてまるで覚えていない。いつも通りの一日が始まって、今日はトレジャータウンに散歩に行くかもしれないし、ギルドのポケモンにかわいがってもらいに行くかもしれない。カフェに行ってポケモン達に囲まれるかもしれないし、レイセニウスやシャロットが遊んでくれるかもしれない。
昼前になって、アカネとカイトは立ち上がり出入り口の鍵を外し始めた。マナフィはお散歩だと思い、ピカチュウの人形を小さな肩掛けのポーチに入れて身につけると、二匹の方へよちよちと歩み寄り手を伸ばした。手を繋いで、とねだるように二匹の名前を呼ぶ。
「……じゃ……いこうか。ふたりとも」
「おさんぽー!」
お散歩じゃないよ、とも言えない。二匹はマナフィの手を片方ずつつなぐと、トレジャータウンを通って海岸へと向かった。可愛らしいマナフィは昼前に買い物に出ているトレジャータウンのポケモン達から注目の的であるが、いつも通りに立ち止まることも出来ずアカネとカイトはポケモン達をのらりくらりとかわしながら海岸へ向かう。
マナフィはそんな二匹の様子にはどこか違和感を覚え、少し戸惑うような表情を浮かべながら二匹に連れられて海岸へと足を踏み入れた。海は楽しい場所。流されて砂浜に打ち上げられても尚、マナフィの中には二匹と砂や水を掛け合って遊んだ思い出が残っている。きゃぁ!と歓喜の声を挙げようとしたとき、聞き覚えのある声と知らない声、両方がマナフィの名前を呼んだ。
「マナフィ!」
「マナフィか……」
一匹はペリーである。もう一匹は初老のトドゼルガだった。アカネとカイトは「お待たせ」と声をかけると二匹に向かって行く。ペリーは良いが、もう一匹のトドゼルガは全く知らない相手だった。何があるのかよくわからないまま、マナフィも一緒に二匹へと近づいていく。
「……思ったより早かったな……。
こちら、トドゼルガのガロンさんだ。かなり連絡に手間取ったが、北の海からはるばる来てもらった。ガロンさんは海を知り尽くしている。陸地にも海の中にも多くのコミュニティを持っている方だ。この方なら、マナフィを安心して任せられる」
「……ふぇ?」
ずずず、と巨体を引き摺ってガロンはマナフィに近づいて行った。人見知りは多少治っているとはいえ、体が大きく少々強面の彼に怯えたのか、マナフィはアカネのカイトの腕を強く引いて握りしめた。マナフィが戸惑っているのが二匹の手を握る指先から伝わってくる。
「……キミがマナフィか。
うむ、話は重々。マナフィは私が責任もって面倒を見よう。約束する」
「マナフィをよろしくお願いします」
「……お願いします」
ガロンとの間に余計な会話は不要だった。アカネとカイトはマナフィを挟んで頭を下げた。マナフィは二匹が何をしているのか分からず、困惑した様子でキョロキョロと二匹を見ている。カイトはマナフィの手をそっと離し、アカネはマナフィの体を自分と向かい合わせた。カイトがアカネの横に立ち、マナフィの目線に合わせるかのように膝をつく。
「あかね、かいと」
「マナフィ、これからはガロンさんの言う事をよく聞くんだよ」
「……?」
「……元気で……」
マナフィに向かい合っていると、マナフィの方にかかっているポシェットから顔をのぞかせるボロボロのピカチュウドールが目に入った。マナフィがよく引き摺って歩いているから本当にボロボロである。中の綿が痩せて、心なしかスリムになったピカチュウドール。マナフィの大事な人形だった。アカネはポシェットを両手で持ち上げると、恐る恐るというようにガロンの方を振り返った。
「……海の性質に耐えられるような代物ではないが、必要となれば私が預かろう。一緒に持って行かせればいい」
「……ありがとう、ございます」
アカネはそう言うと、ポシェットからはみ出していたピカチュウドールを中にきっちり収める。もしマナフィが暴れても落ちてしまわないように、しっかりと蓋を締めてボタンをかけた。はみ出ているのが好きなのに、と言わんばかりにポシェットに伸ばしたその手をアカネは引き留めて柔らかく握った。
「……?」
「……マナフィ、僕たちのこと、忘れないでほしいなぁ」
「……?」
「ううん、ごめんね」
カイトの手がマナフィの頭をなでる。普通の散歩とは違う異様な雰囲気にマナフィが困惑していると、マナフィの手を握っていたアカネの手が微かに震え始めた。
「アカネ、カイトー……?」
「…………」
「……さぁ。これ以上は別れがつらくなるだけだ。
ガロンさん、そろそろ……」
「うむ。
さぁ、行くぞ。マナフィ」
「……ふぇ!?」
アカネが唐突に手を放す。カイトの手が頭を離れていく。その瞬間、ガロンの体が近づいてマナフィの手を握った。マナフィは突然アカネとカイトとの接触を断ったこととガロンに手を握られたことでパニックになり、アカネとカイトの方へ戻ろうと大暴れして砂をまき散らす。
「あぁ!?……あかね!?かいと!?」
「……ぁ……」
「あかねーー!?かいとーーー!!」
ズルズルと引きずられるようにして海に向かって行く。ガロンの体が砂を這った後、その後にマナフィの体が引きずられていった抵抗の印が残る。マナフィは大暴れしたが、ガロンは巨体で身体は厚い脂肪に覆われている。マナフィが暴れたところで痛くもかゆくもない。力が強いので振り払う事も出来ず、マナフィはズルズルと引きずられる。引き摺られている間にも叫び声をあげるように二匹の名前を呼んで海水とは違う塩辛い水痕を砂浜に残す。
「やぁぁーーーーーー!!」
マナフィが大泣きしている。絶叫しながら空いている片手を一生懸命に二匹に伸ばしているが、その体は海の中に漬かって遠ざかっていく。
まるで痛みに激しく抵抗しているかのようなマナフィの絶叫に、アカネの足が一歩海の方へと近づいた。カイトは咄嗟に腕をつかんで彼女の体を引き留める。数秒後、マナフィの体はガロンに連れられて海へと沈み、見えなくなってしまった。
二匹が沈んでいった後の泡がボコボコと水面に浮きあがり、そして徐々に小さく、細かくなって消えていく。
「…………またね、マナフィ……」
カイトが呟く。アカネは何も言う事が出来なかった。海の中へ消えていったマナフィを見て、何も言うことが出来なかったし、何か感情が湧き上がってくるのを感じない。その瞬間、ぽっかりと体のどこかに穴が開いたかのような違和感と、先程までこの場所を満たしていたマナフィの叫び声が、泣き声が残響の様に空気の中に留まって地面にパラパラと落ちていくような、そんな何とも言えないもの哀しさがあった。
「……短い時間だったが、マナフィにとってお前達は両親も同然だったんだな」
「…………どうかしら」
ぽそりとアカネが呟く。
「…………母親は向いてないわ」
本心なのか、それともただの強がりなのか、それとも口に出したつもりのなかったただの独白なのか。アカネはくるりと海に背を向けると、トボトボとゆっくりトレジャータウンの方へと戻り始めた。
「……ペリー。本当に助かった。ペリーがいなかったらここまでこぎつけてなかったよ」
「……いや、私は大したことはしていない。二匹は頑張った。アカネも、カイトも。
ガロンさんが言っていた。マナフィがこの時期に「親」を獲得することは、決して悪いことでは無いのだ。間違いなくお前達はマナフィの情緒を育てた。あとは、海の仕事だ」
そう言いつつ、ペリーのアカネの背中を見送る目は心配そうだった。ストレスで身体を壊さなければいいが、という懸念もある。
「……不思議なんだ。アカネのマナフィへの感情が、ポケモンとしての子供への母性なのか、それとも人間としての愛情なのか」
「……私には、普通の母親のように見えたがな。
それに、お前も。最初から最後まで「そんなつもりはない」みたいな顔をしていたが、そこそこ曲がりなりにも父親に見えたぞ。私は」
「……僕が一番不思議。そこについては」
一生無縁な感情だと思ってたから。ぽそりと呟くと、カイトはアカネの背中を追いかけるように駆け出す。
本当に微かな欠片を感情の中から拾い上げて、カイトは思った。
……こういうのが、「父性」ってやつ?