52話 伝えるべきこと
サメハダ岩に帰宅後、直に『フィオネの雫』をマナフィの口に落とした。マナフィはアカネ達が出て行った時よりも病状が悪化しており、呼吸も途切れ途切れ、苦しそうに呻くなど酷い状態だった。ペリーや町医者兼育て屋のラッキー「アリーナ」も、汗だくになりながら治療を行っているようだった。
「…………スゴイ。呼吸、心拍、落ち着いてます」
雫を口落とした瞬間、マナフィの体の熱に吸い込まれるように雫は消えてなくなり、マナフィの体からは熱が少しずつ引いて行った。呼吸も徐々に安定して来たのか変な音はしなくなり、苦しみで引きつった顔が緩んでいくのが目に見える。
「……うん。……うん……。安定。呼吸、心拍、安定しました。熱も少しずつ引いてますね。一体どういう薬なの……?」
アリーナは医療に準ずる者として『フィオネの雫』に興味を持ったのか、それを持ち帰って来たアカネとカイトに尋ねた。それを聞かれても、フィオネが掌の上で作っていた、としか言えない。アリーナは残念そうにしながらも、暫くマナフィの様子を見てサメハダ岩を後にした。
マナフィは先ほどとは全く違った様子で横になり、すやすやと寝息を立てながらピカチュウドールを抱き締めて眠っている。フィオネの雫によって体も解されているのか、気持ちよさそうに伸びをしてベッドの外に頭についた日本の房のようなものを放り出していた。
そんな中、ぐったりと疲れた様子のペリーがマナフィの隣で蹲っている。アカネは安心からか脱力するようにその場に座り込み、表情を失っていた顔が微かに綻んだ。
「……お前達、ちょっと……そこに座れ」
「…………うん」
疲労と緊張感でぐったりしていたペリーはよっこいしょ、と体をもちあげると、虚ろながらもマナフィから少し離れたところまで移動し、アカネとカイトを目の前に呼び寄せた。
何の話が始まるのかは、二匹もよく分かっていた。アカネも何も言わずにペリーの目の前まで来て座り込む。その視線は斜め下を向いていて、ペリーの目を見ることは無かった。カイトはそんなアカネの様子にも気を配りながら、彼女の真横に腰を下ろす。
「まだ、全快ではない。相当体力を削られているから、あと二日は気を配ってみてやらなければ安心し切ることはできない。
…………もうわかっているとは思うが、マナフィは生きるべき場所で生きるのが一番安全だ」
「…………」
「『奇跡の海』のエネルギーを蓄えた雫の効果が残っているうちに海へ返す。今はそれが一番リスクが低い。分かるな」
ペリーの言葉は静かだがとても厳しかった。アカネとカイトが言い返す隙を一切与えない。元より、二匹にもそんな気は毛頭なかった。気持ちとは関係ない所で、マナフィは海で暮らすのが何よりも良いということは嫌と言う程思い知らされているのだ。
フィオネの雫を与えたその一日、マナフィは失った体力を回復するかのように眠り続けた。アカネもカイトも日常生活を送りつつもずっと近くで見守っていた。次の日の朝にはよろよろとではあるが動けるようになり、その日の昼には立ち上がってサメハダ岩の中を少し歩くようになる。
いつもより元気は無かったが楽しそうにも笑うようになったし、相変わらずアカネに抱っこをせがんではカイトに絵本を読ませようとした。
いつものマナフィに戻りつつある。つまり、別れが近づいているという事だった。一日数回、ペリーは合間を縫ってはマナフィの様子を確認しにくる。徐々に元気になっていく姿に安堵を覚えながら、ペリーは二匹に『自分達のタイミングでいい。二日後、マナフィと一緒に海岸へ』と、去り際に静かに伝えてくる。どうやら上手く海のポケモンと連絡が通っているようである。
徐々にマナフィが回復してきているということは、フィオネの雫はマナフィの体内に残留し、その影響を与え続けているということだ。時間がたつごとに肌の色艶や体の動きは変化していく。フィオネの雫の効能が残っているうちに海に帰し、無理やりにでも環境に適応させる。適応さえすれば陸上で暮らしている時ほどのリスクは無い筈である。マナフィの体調が完全に良くなろうがまだ本調子ではなかろうが、雫の与える影響が目に見えているうちに海に帰さなければいけない。時間は限られている。
マナフィが眠った後に二匹は話し合う。このことをマナフィに伝えるべきか否か、ということだ。突然海岸に連れて行って「はいさようなら」では、マナフィが今後ポケモン達と関係を築いていく際に支障をきたしてしまうかもしれない。
マナフィの存在は希少であり、海の中では唯一である。ペリーの話では、海の奥底に通じるポケモン達は皆マナフィの話を聞くと血相を変えたらしい。
「……まず、話しても理解してくれるかどうかって」
「この子は賢いからわかるんじゃないかな」
「でも、理解しているのは絵本の事とか。自分のことだって分かってくれる?」
「それこそ話してみないとわからないじゃないか。わからなければもうどうしようもないし、理解してくれたらちゃんと説明しないと」
「だけど」
マナフィへの説明を渋るアカネは話し合いにもあまり乗り気ではなく、あくまで静かに話をしていたが、それに反論するカイトの語調は少しずつ強く、苛立ちを覚えているかのようだった。
マナフィとの会話は殆どの場合明確には成立しない。マナフィが単語単語で聞き取って判断しているため、アカネとカイトが少しだけ複雑な話をするとすぐにキョトンとしてキャッキャと笑い始めるか拗ねてしまう。絵本は絵が付いていて、ポケモン達が何かやっている。物や物の名前が沢山書いてあって面白い。おそらくそれくらいの認識で読んでいるのだ。おそらく物語の全体を通して理解しているわけではない。アカネはカイトにそう伝えると、カイトは目を細めて暫く黙り込んだ。
カイトは横目にマナフィが眠っているのを確認する。ピカチュウドールがマナフィの眠っているベッドの外に転がり、マナフィの手はベッドからはみ出している。カイトはぐうすかと眠っているマナフィの手を布団の中に入れると、ピカチュウドールをベッドの内側へと連れて戻った。
「僕はちゃんと話した方が良いと思うよ」
「…………話したところで」
「またそうやって何も言わずに離れていくわけ?」
「は?」
お互いが咄嗟に出た言葉だった。押し殺していた言葉が内側から膨張してまろびでた。カイトの言葉が消えた後に残った微かな空気に不意をつかれたアカネの声が重なる。顔を挙げてカイトの表情を見上げると、目は細く開かれたままじっとアカネを見つめていた。
「…………まぁいいよ。けど話さないっていうのはマナフィにとっては気遣いじゃないんじゃない?
マナフィはこんなに小さいし、僕とアカネの事なんかもうすこし大きくなればすぐ忘れるかもしれないね」
「カイト……?」
堰を切ったように話し出すカイトに戸惑いを覚えつつ、アカネは何を考えているのか分からない彼の表情をじっと見つめていた。
「でもマナフィの知らないうちに勝手な都合でこっちに連れてきて病気にさせたわけだし、次はマナフィの意思関係なく海に帰らなきゃいけない。説明義務くらいは果たさないといけないんじゃない?結局僕達マナフィの為に何もできてないんだから」
「っ……」
「アカネのそれって気遣いなの?相手が悲しむかもしれないから大事なことを隠したままって、それって色んな過程すっ飛ばして強引に離れていくだけじゃない?自分が楽なだけじゃないの?それってただの――――」
「…………ふぇ…………」
二匹の険悪な雰囲気を感じ取ったのか、マナフィはパチリと目を空けて細い声を上げて泣き始めた。あまりにも弱々しい鳴き声に二匹は我に返ったようにマナフィの傍に這い寄る。体調を崩してから涙をこぼしたのも初めてだった。いつもはもっと大きな声を上げてごねるように泣くにも関わらず、マナフィの泣く声はいつものように訳が分からず泣いているような声ではなかった。
「ェ……ふぇェ……ぇぇ……」
か細い声がカイトの尻尾の灯のみが灯るサメハダ岩の中に響いている。マナフィの目から零れる涙はハラハラとゆっくり流れて落ちていく。
「ぇェ……ゥぇぇ……」
「マナフィ?大丈夫……?もしかしてまた気分が……」
「マ、マナフィ…………ぁ……あ、あれ……」
アカネはじんわりと熱く、自分の目の下が痙攣していることに気が付いて思わず指先で目を押さえた。指先がぐっしょりと濡れ、黄色い毛に痕をつけるように涙が目から零れ落ちていた。頬袋に涙が伝うのを感じて、アカネは訳が分からず腕で涙を抑え込むように塞いだ。
「え……ぇ……?」
自分が泣くのはおかしいだろう。涙を必死に抑え込むアカネの声はそんな動揺と困惑を帯びていた。一向に止まらない涙とバクバクと煩い心臓に意味が解らなくて、カイトに見られるのも妙に嫌で、アカネはカイトとマナフィから顔を背けて涙を拭った。
「…………アカネ、マナフィと離れたくないの?」
「あ、え……ちょ、ちょっとまって……」
当たり前のことを尋ねているようだが、当たり前ではない。
アカネはいつも自分の気持ちを言わない。マナフィと一緒に居たいというその一言すら言語化できない。大切だという事も言う事が出来ない。本当は海に帰らなくていい方法はないのかもっと考えてみたい。
マナフィに謝りたい。勝手に連れてきてしまったことも、病気にしてしまったことも、また勝手に海に帰すことも、そうすることしかできないことも、何もわかっていないのに離れていこうとすることも全て謝りたい。
「……マナフィに話そう」
「は……話したら、そうするしか……」
アカネの顔は見えないが、カイトは彼女の口から零れたその言葉に目を丸くした。マナフィはアカネが泣いているのに気が付いたのか、泣き止んでいながらも目元をグチャグチャに濡らしながらぽかんと二匹を見つめている。一体何が何だか分からない、と言う様子でアカネに手を伸ばした。
「あかね?」
よく分からずマナフィはアカネの背中をツンツンとつついた。カイトは勢いよく立ち上がると、アカネのベッドと自分のベッドを強引に蹴ったり引っ張ったりしながらマナフィのベッドにぴったりとくっ付け、毛布をめくると藁をごちゃ混ぜにしてベッドの境目を踏みつける。
「あか……きゃぁ!」
「ッわ、え!?」
ベッドからはいずり出そうとしていたマナフィを抱え、アカネを三匹のベッドが一体化した巨大なベッドの中に引きずり込んだ。アカネは予想だにしていなかったカイトの行動に驚いて頬袋から電気がパチリと漏れ、涙腺が塞がる様に涙がぴったりと止まりベッドの上に転がされる。マナフィは少しぽかんとした後にベッドに三匹一緒なのが嬉しかったのかゴロゴロと二匹の間で転がり始めた。
「何して……!」
「皆で一緒に寝よう!マナフィは真ん中!」
「キャァー!!」
こんな夜中に何をバタバタとしているのかとアカネは我に返ったが、カイトがマナフィを挟んだ向こう側でマナフィの体に軽く手を回しているのを見て少し驚く。
「アカネも、ほら」
向こう側、マナフィの頭の下をくぐる様にカイトが手を差し出してくるので、アカネはおずおずとカイトの手に片手で触れた。マナフィはやはりアカネの方に擦り寄っていくので、カイトもマナフィを捕まえておこうとすると自ずとアカネの方に寄っていく。もう片方の手はマナフィの体を抱きしめるようにマナフィの上に回すと、カイトにこちら側の手も握られた。
「いっしょー」
「……ベッドは広いのに、狭いねぇ」
「あの……こっちの手はいいんじゃない?」
マナフィの体に回した方はともかく、マナフィの頭の下に回している手もカイトががっちり握っていた。マナフィの頭はそこそこに重たいので、このままだと腕が痺れてしまいそうでアカネは握られた手を抜こうともぞもぞと動いた。
ただ、全く離してくれない。
「ううん、駄目。はは」
「なんでよ……」
「明日もこうやって寝ようか」
「………………」
向こう側で思い切り目を細めて顔をしかめるアカネが見える。フン、と無視をされたが、こういうことは嫌なら嫌と言うだろう。
「……さっきはゴメン」
「……私も悪かった」
マナフィは安心したのか、二匹の間に丸まって真っ先に寝息を立てていた。