51話 奇跡の海と雫
『奇跡の海』という不思議のダンジョンの状態は、非常に『閉ざされた海』のものと似ていた。
水のエネルギーで満たされている。辺りは全て光を帯びている。水のエネルギーそのものが仄かな光を含むような透明度と輝きである。『閉ざされた海』も美しかったが、水のエネルギーに晒されているにも関わらず体はポカポカと暖かい。ダンジョンの気候は『晴れ』のようだ。
アカネとカイト、二匹がダンジョンに踏み入る時、ある程度冷静さを取り戻していた。アカネの瞳の奥は通常の茶色に戻り、カイトのほうはここに至るまでのアカネの様子を見て冷静さを取り戻したようで、今は尻尾の炎も落ち着いていた。
『閉ざされた海』よりも美しいダンジョンである『奇跡の海』に踏み入っても、アカネは何も反応はしなかった。そんなことよりも、先に進むことが先ずは重要である。閉ざされた海を探索している時ほどダラダラとはしていられないのだ。二匹は普段から適当に会話をしたり、周囲の様子を観察した結果を連絡し合いながら進むことが多いが、現在は殆ど会話は無いと言ってもいい。『奇跡の海』のポケモンは『閉ざされた海』よりも好戦的であり、『閉ざされた海』ほどスムーズに進むことが出来ない。
時間を少しでも短縮するためには手を留めずに攻撃し続けるしかないのだ。アカネは電光石火を繰り出しながら周囲に電撃をばら撒き、近づいてくるポケモンに手あたり次第直撃させていた。ダンジョンを着実に進みながら、倒すことよりも攻撃で怯ませ足止めをさせることが先決だった。
それでも後を追ってくるポケモンはカイトが物理攻撃を仕掛けて止めを刺し、時には煙幕を使って潜り抜ける。二匹はとにかく最深部に向かう事を考えて行動していた。電撃が殆ど通用しなかったのであろうランターンとチョンチーの群れが二匹を追う。アカネは一旦足を止めて尻尾を硬化させると勢いよく覆い被さってくるランターンに叩きつけた。一斉に放電を仕掛けてくるチョンチー達の攻撃を潜り抜けると、カイトは『竜の息吹』でチョンチー達を飲み込んだ。
まだ動けそうな個体が一匹二匹と浮遊してくるが、既に手負いで早く移動することはできない。アカネは身を翻してまた電撃を振りまきながら走り始めた。
怒涛の勢いで既に階段を十個程通過している。延々と走り続けていたカイトは喉が引きつるような感覚を覚えていた。アカネもカイトも体力がある方だがここ数日まともに運動をしていないのである。走り続けてカイトがかなりの疲労を感じているのであれば、技を同時に繰り出しながら走り続けるアカネは更に体中悲鳴を上げている筈なのだ。
「アカネ!少しペースを落とそう!」
「…………」
「アカネ!」
「…………ッ……ハッ……はぁッ」
パチパチと赤い頬から電気が漏れる。アカネはゆっくり速度を落として立ち止まると、肩で息をして胸を押さえた。止めどなくは走っていたせいで動悸が体中を揺らしているのではないかと言う程に大きく波打つ。立ち止まると酷い喉の渇きと頭痛を覚える。アカネは前かがみになって呼吸を整えた。
カイトも同様に息を切らしている。彼の動きは不規則的だったので、少なくともアカネ程疲れてはいないようだが、それでも酷く疲れた顔をしていた。
「……は……」
「……あそこ……ハァ、開けてるね……。ッ少し休もう」
カイトが指さした先はダンジョンの中間地点だろうか。開けており、気配も穏やかな空間である。アカネはカイトの補助を受けながら、動き続けた反動でダメージを負った体を引き摺り気味に岩の上へ腰かけた。座り込んだら足の感覚が何となくおかしいし、痺れている。腰も重たかったし、頭は鉄を落としたような痛みである。
「アカネ、食べて。相当体力は削れてるでしょ」
カイトはバッグからオレンの実を取り出してアカネに差し出した。そろそろと手を伸ばして来てオレンにかじりつくと、中から多くの水分が口の中に溢れ出して喉を潤してくれる。アカネは食べるというよりも飲むようにしてオレンの実を口に運んだ。
「……ごめん」
「急ぐのは分かる。僕も……うん」
すぐにでも動き出したいが、アカネの足は痺れて直ぐに走り出すことが出来そうには無かった。数分の休息はやむを得ない。カイトも同様に、この後の事を考えればここで五分から十分は休むべきであると考えていた。
「……私おかしいわ……」
オレンで濡れた両手を合わせてアカネは俯いて軽く頭を抱える。相当参っているようだ。未来の世界で逃亡していた時ですら、アカネはもっと冷静だった。普段、依頼を受けている時ですら、目の前で保護対象が殺されかけていたとしてもそれなりに冷静である。そこで取り乱せば命の危険があるということを知っているからだ。
「……そうだ。アカネ、時空の叫びを使ったよね?気分は?」
「分からない……覚えてない……あぁ、そうか。あれ、時空の叫びだったのね」
頭痛の説明がついたのか、アカネはそう呟いて少し笑った。カイトは微かに眉間にしわを寄せてアカネを見下ろす。時空の叫びを発動したことにすら気が付いていなかったのか、もはや時空の叫びを使った事そのものを忘れていたのだろうか。アカネが直接マナフィが落ちるところを見たのなら、直に海岸に流れ着いているのは可笑しい。おそらく、時空の叫びで落ちるところを見て『海岸』という場所が思い浮かんだのだろう。その矛盾にアカネが気が付かないとは、その精神的ダメージの大きさは計り知れない。
「アカネはマナフィが本当に、大事だよね」
「……よく分かんないのよね」
「分かんないって?」
「さぁ……わからないものはわからないの。いいから、もう歩ける。行くよ」
ふい、と顔を逸らした。そんなアカネを見てカイトは顔をほんの一瞬しかめる。彼女はそんな彼の様子には気が付かず、痺れが軽く取れてきた足でフラフラと立ち上がった。バッグを持ち直し、最深部への道へ歩き始める。
あたたかい海だった。あたたかくてキラキラしていて、だからこそポケモン達はこの環境を侵す何者かの存在を拒むのだろう。遠目に見れば、水に棲むポケモン達は皆気持ちが良さそうにまどろみ、どこからともなく差し込むプリズムを混ぜ込んだような光を浴びて目を細めている。
ダンジョンそのものの空気の流れが本当に微かな物に変わってきている。奥に行けば行くほどに水と光のエネルギーが満ちて、目がチカチカするほどに輝かしい空間が幾つも連なっている。水の中にいるようなのに何処よりも澄んだ空気を感じる。
マナフィもきっとこんな海で生きるはずだったのだろうか。こんな場所で生きていくべきだったのだろうか。水の中に生きるポケモンにとっては何があるのかもわからない外気に晒されて生きているよりも、きっとこっちのほうが良かったのだ。
閉ざされた海も心地の良い場所だった。マナフィはあの場所で一匹で生まれ、そして一匹で旅立っていくべきだったのだろうか。
水が流れる音が微かに耳元で響く。道を阻む者がいなくなってきたので、頭の中はマナフィのことだけになっていた。
「…………誰かいる。敵とは雰囲気が違うけど……」
アカネの前を歩いていたカイトが岩陰に身を隠し、アカネの体を軽く引き寄せた。ぼうっとしていた彼女はされるがままに岩陰に一緒に引き込まれる。カイトがのぞき込む方を何の気なしに見ると、そこでは何匹ものポケモンが愉快な声を響かせながら舞い踊り、楽しそうに遊んでいる。
「……マナフィに似てるわ」
「多分あれがフィオネだ。あの場所、広さも全然他の通路とは違う」
フィオネは水と光を振りまきながら踊っていた。この美しいダンジョンはこのポケモンが作っているのだ。
クスクス、クスクスと笑い合い、おぼつかない言葉で何かお喋りをしながら仲間同士で踊って、歌って、本当に楽しそうだった。
水を差すようで悪いが、『フィオネの雫』について聞かなければならなかった。アカネとカイトは視線を合わせ頷き合うと、そっと岩陰から出ようとした。
その瞬間、勢いよく巨大な何かが水のエネルギーを巻き上げながらフィオネの方へと泳いでいった。その圧に押し込められ、カイトは一瞬よろめきアカネを上から押さえつけるようにして支えた。
「ぐ、ぁ、た、助かるけど……」
「あ、ご、ごめん……あれは……ギャラドスだ」
カイトが岩陰から覗いてその存在を確認した瞬間、先ほど勢いよく突っ切っていったギャラドスがフィオネ達の前で泳ぎを止め、ドラゴンのような咆哮を轟かせる。楽しそうに遊んでいたフィオネ達もすっかり怯え、体を縮こめてしまった。ブルブルと体を震わせ、仲間と抱き合って何とかやり過ごそうとしている者もいる。
「ガハハハハハァッ!!!お前達が万能薬を作り出す『フィオネ』だな!?
やっと見つけたぞ!喜べ、お前達は今から俺様のシモベだ!!俺の為だけにフィオネの雫を作りだせ!!!」
怒鳴りつける様な大声だった。フィオネ達は耳を塞ぎ、更に怯えて体をガチガチに固めてしまっている。突如乱入してきたギャラドスの言葉を聞き、先ほどまで落ち着いていたアカネの目が一瞬にして真っ赤に燃え上がった。カイトも興奮気味に尻尾の炎を燃え上がらせると、二匹は同時にフィオネ達とギャラドスの間に滑り込んだ。
突然現れたポケモン二匹に一瞬ギャラドスは目を丸くしたが、見た所ただの小型のポケモンが二匹飛び出してきただけである。フィオネとサイズがそこまで変わらない為、脅しつければすぐに震えあがると思い「何だキサマ等ァ!!」と吠えたが、アカネとカイトには一切通用しない。目を真っすぐに睨みつけてくる二匹に苛立ち、ギャラドスは大きく体をうねらせた。
「貴様等、俺様に文句があるって顔してんなァ!?気に入らねぇ!!」
そう叫び『竜の舞』を繰り出しそうな気配の動きを見せたギャラドスの動きを阻止するべく、カイトは『竜の怒り』で先制攻撃を仕掛けた。ギャラドスは広い空間を天井スレスレに泳ぎ回るが、カイトの攻撃は確実にギャラドスを捕えようと迫る。竜の怒りに集中しているギャラドスの真横に滑り込み、アカネは『十万ボルト』でギャラドスの体を撃ち落とそうと攻撃を放った。
竜の怒りから逃げつつアカネの姿を目で追うギャラドスは、アカネが探検家御用達のリボンやバンダナを身につけていることに気が付き目を見開いた。体を翻しカイトの方を見ると、やはりバンダナを身につけている。しかも、ギャラドスから見れば小柄ではあるものの、よく見ればその体はしっかりと鍛えられている。カイトの戦闘姿勢、アカネがギャラドスを追うその移動スピード。そこらに転がっているようなポケモンではない。明らかに手馴れている。
「チッ!!探検隊かっ……」
ギャラドスが逃亡を図ろうと体を更にねじり上げた直後、アカネの鋭い電撃がギャラドスに撃ち込まれた。ギャラドスの体はびくりと跳ねあがり、先ほどまでのスピードを失い地面へと落ちていく。たった一発の電撃で巨大なギャラドスは既に意識を喪失していた。ざわめくフィオネ達。一方、アカネとカイトはギャラドスを見下ろして溜息を零した。
「まったく……」
「こいつ……僕達が探検隊だって分かったみたいだ。流暢にしゃべるし……もしかしてお尋ね者かも。でも先に手だしたの僕だしな……」
明らかに探検隊だとわかって動揺していたものの、証拠も無い。そのうえ戦闘中、アカネとカイトは一切の反撃を許さなかった。
「一旦治療ってことで探検隊連盟に送り付けて、実際お尋ね者だったらそのまま逮捕でいいんじゃない?不審な行動多数って伝えればしらべて貰えると思うし」
「そうしよっか」
治療と言う程の怪我もしていないギャラドスを探検隊連盟に送ると、アカネとカイトはフィオネ達の方へと向き直った。フィオネ達はやはり少し怯えているものの、突然脅しつけてきたギャラドスをすぐに倒した二匹に感動を覚えたのかそろそろと近づいてくる。警戒心の弱い種族のようだ。
「す、スゴイデス……」
「ううん、おどろかせてごめんよ」
「イイデス、こ、コレ!オレイデス!」
フィオネは片言でたどたどしくなりながらも、掌をカイトの方へ差し出すとエネルギーを集め、カプセルのような薄い膜に入った雫を作り出した。
「……フィオネの雫?だよね、これ……」
「ハイ!雫!」
フィオネはそう言ってキャッキャと笑った。その無邪気さはどこかマナフィに重なるものがあり、アカネはカイトの腕を掴んで軽く握りしめた。
「病気を治すには、これを飲めばいいの?」
「ハイ!」
「よかった。アカネ、すぐに戻ろう。マナフィが待ってる」