50話 発病
「…………」
サメハダ岩の牙とカイトお手製のバリケードの隙間から、マナフィは真ん丸な目で海を眺めていた。
潮の匂い。水の音。水とぶつかる岩々の声。微かに聞こえてくる、海の底の声。旋回する生物。自分が生まれるよりももっと前に生まれた場所。生まれた場所がある場所。
「…………」
サメハダ岩のドアはカイトが簡単に開けられないようにいじっていて、触ってもどこをどうすればいいか、幼いマナフィの頭ではわからない。
二匹と離れたいわけではないのだ。そこにマナフィの意思はない。
ただ、吸い寄せられるように体が動くのだ。
生まれた時より腕の力は強い。マナフィはバリケードに手をかけた。手をかけて、サメハダ岩の牙の隙間へと体をねじ込む。片手に握りしめたピカチュウドールが邪魔だ。
サメハダ岩の内部から水色の姿が消える。そしてバシャン、と遥か下の方で着水音が響き渡った。
「カイトッ!!!起きて!!」
アカネの怒号にカイトは勢いよく目を開いた。最近は特に何事もないというのに、アカネが先に起きているのは珍しい。しかもかなり明け方で、まだ十分に明るくなっていない時間だった。
アカネはガチャガチャとサメハダ岩の出入り口を空けていた。その動作は酷く忙しなくて、アカネは大きな声を出していたにも関わらず表情は真逆の様子で、泣きそうな顔をして目の奥を真っ赤にしていた。目が真っ赤に染まっている。アカネは酷い興奮状態に陥っていた。
「マナフィが落ちたの!!」
「え!?」
「海に落ちた!!」
アカネは出入り口を開くと勢いよくサメハダ岩から飛び出した。カイトは内部を急いで見渡すと、確かにマナフィはどこにもいない。しかし、マナフィがいつも使っている小さなベッドはひっくり返したような痕跡がある。アカネがひっくり返したのだろう。そしておそらく、時空の叫びを発動したのだ。
「マナフィ……!」
全身から冷や汗が零れるのを感じた。いくら水タイプのポケモンとは言え、いくら「海の王子」と呼ばれているとはいえ、ここから真っ逆さまに落ちたら。もし岩があったら。沖へ流されたら……。
カイトも駆け出した。戦闘時と同じくらい本気を出して走った。
とにかく海岸へ行かなければ。潮の流れの関係で流れてきているかもしれない。同じことを考えているのか、電光石火を使いながらまだポケモンが少ないトレジャータウンを駆け抜けていくアカネの背中を追いかけた。
ギルドの途中の十字路まで来てみると、ペリーが飛びながらギルドから出てくる。アカネは全く気に留めずに真っすぐ海岸に向かって走っていくが、それをみたペリーが不審に思ってその後ろを追うカイトを呼び止めた。
「おい、マナフィはどうした?一匹にしてるのか?」
「ッ……マナフィが居なくなったんだ!海に落ちて……!!」
「はぁ!?何だと!?」
ペリーは思わず怒鳴り散らした。あんなに小さな子が、海に落ちた。おそらく落ちたという事は『サメハダ岩』から落ちたのだ。アカネとカイトと同じ考えに至ると、ペリーは話をしている場合じゃないとばかりに大きく羽ばたいて高く飛び上がった。
「話はあとだ!海岸へ……!」
「マナフィ……マナフィ……」
海沿いの砂浜にアカネが蹲っていた。下手に動かさないということすら頭から抜けているのか、アカネはマナフィを腕の中に抱えこんでいる。アカネの目の奥は先ほどは真っ赤であったが、今は真っ青に変化していた。アカネ自身が持つ治癒能力でマナフィを治そうとしているようだが、どこも怪我はしていないようだった。ただ呼吸が荒く、目を覚まさない。胸か、腹か、頭か。アカネはあらゆる部分をペタペタと触っていたが、一向にマナフィの呼吸が安定することはない。
「なんで……なんで……」
「マナフィ!!」
「見つかったのか……!!?」
カイトとペリーが到着し、アカネを諭してマナフィを砂浜へ寝かせた。マナフィのすぐそばにはずぶぬれになったピカチュウドールが転がっている。呼吸がとにかく荒い。胸のあたりから変な音もしている。しかしアカネが治癒を施しても一向になり止む様子はない。カイトが器用に目を開かせると、目は充血している。体が酷く熱を持っている。ペリーは羽をピタリとマナフィの体に寄せると、びくりと体を震わせた。
「すごい熱だ……!海に入ったようだが、マナフィは水タイプだ……それで風邪をひくなんてことは……」
「来た時にはもう倒れて……」
「とにかく運ぶぞ!」
ペリーにも協力を得て急いでサメハダ岩へと連れ帰る。マナフィのベッドはアカネがひっくり返してしまっていたので、アカネのベッドの上に敷いていた毛布を新しいものに交換してマナフィをそこに寝かせた。
相変わらず呼吸は荒いし鼓動はドクドクとせわしない。酷い熱にうなされていて、見ているこちらが苦しくなりそうだった。アカネはどうしていいのか分からないまま、マナフィの体を撫でてやる。良くなるようにという一心なのか、未だに目の奥底は癒しの青色で染まっている。
「これは海の者からの知恵だが、『海の妖精』と呼ばれるポケモン、フィオネ達が作り出す『雫』は、海に暮らすポケモン達にとっての万能薬らしい」
「……雫……」
「いいか。おそらくこれはただの風邪などではない。れっきとした病だ。それも、我々陸で暮らすポケモン達には非常に難しいものだろう。
マナフィは本来海で生きるポケモン。やはり、環境の違いで酷く体が弱ったのだろう。マナフィは陸では暮らせない。しかし、今まで海で生きてこなかったこの子は、今は海ですら暮らせない」
「僕達の所為で……」
紛れもない、本来生きていくべき場所から連れて来た二匹の所為だった。つれてきたとしても、もっと海と早く触れ合わせていれば。そうすれば適応できたのかもしれない。カイトはショックを受けた様子でマナフィを見つめ、アカネはやつれたような表情で目に涙を浮かべていた。
「ペリー……その『フィオネの雫』は、どこにある?」
「西の方にある『奇跡の海』というところだ。その奥深くにフィオネ達は暮らしている」
ペリーから場所を聞くと、カイトはバッグの中にいつも使う道具や複数の不思議玉を詰め込み始めた。地図を開いて場所を確認すると、道具を詰め来んだバッグを肩にかけて出入り口へ向かう。
「僕行ってくるよ。アカネはマナフィの近くに」
「おい、お前一匹はやめておけ。しかも炎タイプのお前には……」
「草タイプと電気タイプ……誰か連れていくよ。もしチェスターやフラーがこっちに居れば連れていく」
フラーは生憎他のギルドに出張中であるし、チェスターはそもそも所在地が不明である。カイトは一見冷静だが酷く焦っている。ペリーは一旦落ち着かせようと引き留めたが、カイトは話している時間も惜しいという程に炎を大きく燃え上がらせて強い口調で言い返した。
「……いいわ。私が行く」
「アカネはいい!マナフィのそばに……」
「いや、アカネが行くんだ。悪いが、お前達はお互いが居た方が冷静だろう。マナフィは責任もって私が見ておくし、医者も呼ぼう。だから二匹で行け」
どちらもいない間にマナフィに何かあったらどうするのだとカイトは食って掛かったが、アカネはそれを制止して自分のバッグを持って歩き出した。彼女の有無を言わせない雰囲気にカイトも押し黙り、マナフィに声をかけるとサメハダ岩を飛び出し、『奇跡の海』へ向かって進み始めた。
「……本当に、お前の親はどっちも面倒な奴らだよな」
マナフィが先ほどまでビシャビシャに濡れていたピカチュウドールを握りしめて苦しみにあえいでいる。ペリーは自分の柔らかい羽根でマナフィの体をよしよしとそっと撫でてやった。
(アカネもカイトも、親にはなれない奴らだと思ってたんだがな……)
どっちも特殊だからな。と、ペリーがぼやいていると、サメハダ岩の牙の隙間から大きな鳥ポケモンが横切るのが目に入った。ペリーは急いで声を張り上げた。
「おい!そこのお前、頼まれてくれないか―――――――――」