38話 空の花束
兎にも角にも、ベトベター達は「ボスからの指示だった」という理由を持ってここに居るわけだ、という話だった。しかし、その「ボス」とやらは何処かへと消え、ベトベター達も「ボス」について尋ねられると本気で困ったような顔をする。
ひとまず、ベトベター達にはこの場所から立ち退いてもらうことになった。彼らは少々ごねたものの、この場所が空の頂であること、このままにしておいてはシェイミの里復興にも支障をきたすと説明をすると、渋々ながらも自分たちの元の住処へと帰っていった。ハンナが申し訳なさそうな表情を浮かべながら「今度お礼を持って伺いますからね」とベトベター達を見送る。
ベトベター達が去った後に残ったのは、毒々しい靄がかかった空の頂だった。
「お宝があるって聞いたけど、これじゃ正直なにがあるかさっぱりだね」
セオが眉間に皺を寄せ、口を尖らせてそう言った。今にも「取り越し苦労じゃん」と言い出しそうな雰囲気の彼の口にシャロットが自分の尻尾を押し付ける。「何、何なの」と文句を言いながらもがくセオに構うポケモンはほかに居なかったが、ハンナとミーナが向き合ってじっと見つめ合っていた。
「…………話が、あります」
「……そうね。私もあなたに話がある。
だけれど、それよりまずはここを綺麗にしましょう」
酷い悪臭が漂っている。ベトベター達が出したガスのような靄の所為で視界もとにかく悪い。セオが言った通り、屈みこまないかぎり足元に何があるのかさえよくわからないような状態だった。
こんなに酷い状態の場所を今すぐに元に戻せるのか、と周囲は騒めいた。
「心配させてしまってすいません。けれど、それほど時間はかかりませんから。
ミーナ、できる?」
「ハイ。いつでも大丈夫ですよ、ハンナさん。
……では、皆さん。少し離れていてください」
不思議そうな様子でアカネ達はハンナとミーナから距離をとる。そして、ハンナとミーナも少し感覚を空けて横に並ぶと、その後の二秒ほどで既に空気に大きな変化が起こっていた。
空の頂には酷い悪臭が充満していたが、その臭いが空気の流れと共にハンナとミーナの方へ集まっていく。漂う靄も一緒にミーナたちの体に吸い込まれ、そんなことをして大丈夫なのかとアカネやシャロットが困惑するほどに沢山の汚染された空気を吸収していた。
「そろそろだわ」
「はい、皆さん、伏せてくださいね!!!」
探検経験のあるポケモン達は皆その声に合わせて素早く地面に伏せた。その瞬間、ハンナとミーナを中心に渦巻く緑色のエネルギーが光を放ち、その体から眩しい程のフラッシュが発生した。同時に凄まじい衝撃が起こり、皆その光の眩しさと勢いに驚いて思わず目を覆い隠す。
一瞬の出来事だった。直ぐに衝撃は収まり、瞼を焼くような輝きも消える。アカネ達はゆっくりと立ち上がり、目を開いた。
「…………わぁっ!!!」
シャロットが感嘆の声を上げながらゆっくりと歩み始めた。
「…………これは…………」
「これが頂上……さっきとは全然違う……」
目を開けたポケモン達は皆ミーナたちの方へと集まり始める。靄が晴れ、妙な臭いもすっかりと消え去った。靄が晴れた空の頂は、一番近い場所から空の青さを見ることが出来る場所だ。
太陽の光が惜しみなく降り注ぐ。鮮やかな新緑の草原が日光を反射してキラキラと光り輝き、彼らの足元には無数の桃色の可憐な花が咲き乱れていた。シェイミの放った光のエネルギーによって靄に覆い隠されていた花々は瑞々しさを取り戻し、プリズムを宿しているかのように一つ一つが強い生命力と共に独立した輝きを秘めている。
足を進める度に舞い上がる花の香り。カサカサと風に揺れ、下から撫でつける様な風を受けて空へ舞う花弁。ベトベター達の悪臭を一切思い出させない程の心地の良い香りは、戦闘で興奮していた皆の感情をゆっくりと鎮めていく。
「綺麗……」
アカネは屈みこんで足元に咲き乱れる花を眺めた。シェイミたちの体についている花とよく似ている。
「オレ、こんなきれいなの初めてみたぜ」
グールが花畑を見渡しながらつぶやく。ナゴも同調し、アカネと同じようにゆっくりと花畑にしゃがみこんだ。
「皆さん、こっちに来て!見てくださいっ!!」
シャロットが空の頂の先端で叫ぶ。それを聞いたポケモン達は、花を踏みつぶしてしまわないように気を付けながらシャロットの方へ歩み寄った。シャロットはじっと空を見つめている。
「……あぁ」
小さな光の線が一瞬流れて消えていく空。
空に一番近い場所。空の頂。
天空から降り注ぐ無数の光が、青い空の海に浮遊する幾つもの白い雲を貫き、地上へと誘う。地上から生える幾つもの山々が静かに太陽の光を浴びて佇んでいた。
この景色を邪魔するものは何もない。澄んだ空気のおかげで曇りない視界に映るその世界は、まるで自分たちが生きていた世界とは全く別のもののように映る。
「…………世界って、見る場所一つでこんなにも違うのね」
ナゴがそう呟く。
自然の偉大さだった。世界の一角をこの場所で見れば、世界自らが作り出したものの美しさが分かる。誰が意図したわけでもなく、自然が偶然と必然をかけあわせ発現する世界の美しさ。
「どんな秘宝にも勝る……か」
「……俺、登り切って良かったなァ」
ベックが言った。ここに来るまで、シェイミたちのガイドがあったポケモンも無かったポケモンも、短い道が延々と続く「空の頂」までの道のりに心を折って帰っていった。
立場の上で登り切るのは当たり前だ。それでも、仕事として達成できたということ以上に、この場所に今存在することが出来て、この景色を他の探検隊のポケモン達と共有することができたことが何よりもうれしい。
フロンティアの三匹は達成感に笑い合った。
「ハンナさん」
「…………なぁに、ミーナ」
「見慣れた景色なのに、なんでですかね。
…………私、ちょっと色々考え直すことがあって」
「うん」
「ハンナさんが言った通り、私は炎が怖いです。身をもって改めて思いました。
……私は未熟です。あなたの妹でもありません。私があなたの妹代わりをしたくても、あなたの妹の代わりにはなれません。
私は私です。でも…………私なりに、頑張ろうと思います」
「…………代わりにならなくていいよ」
「……はい」
「ミーナとして傍に居てくれれば、それでいいよ」
涙を浮かべながら、ハンナはそう呟いた。
ミーナ、私ね、本当は生きていくのが辛いの。
今でもたまに夢を見るの。家族が死んでいく夢を見て、泣き叫ぶミーナを助け出して空へ逃げる夢を、ずっと見ているの。ずっとずっと、泣き叫ぶあなたを掴んで飛んでいる私は、心の中であの悪魔に呪いをかけ続けている。世界を返せと、心の中ではずっとずっと怒鳴りつけている。
毎日朝を迎えるのが辛い。私の時間は、あの時のままで止まってしまっている。
言葉をごくりと飲み込む。
見た目は大切な花が焼け焦げてしまったシェイミ。何も変わらない。だが、そんな彼女の視線が今までとは何か違う。そんなミーナを見て、ハンナはポロポロと涙をこぼした。
ミーナは何かを見出したのに、私は何も変わらないのだ、と。
「ハンナさん……?」
ミーナはハンナが何故泣いているのか分からずに困惑した。登山中にアカネとカイトのことでハンナを自分が強く責めてしまったからだろうか、と。ひどく心配になって、ミーナはハンナの顔を覗き込む。
「ハンナさん、登山中に失礼なことを言って、本当にすいませんでした。私……」
「いいの。そうじゃないの、ミーナは悪くない」
「ハンナ?」
「……アカネさん」
アカネがハンナに歩み寄る。どうして泣いているのかは分からなかったが、ひとまずミーナのことを報告しようと歩み寄った。それに気が付いたカイトもハンナの元に歩み寄り、ミーナには少し皆の所へ行って話を聞いてきてほしいと頼んでアカネの隣に立った。
離れ難そうにその場で二の足を踏むが、ミーナはチラリと彼女を見て微かに口角を上げたハンナを見て、何かを察したかのようにその場から離れる。心配と不安に駆られた表情を浮かべつつ、シャロット達の方へ向かっていった。
「ハンナ、大丈夫かい?」
「……いえ、すいません。お見苦しいところをお見せして……。ミーナはどうでしたか?」
「……ごめん、僕が誤って炎を……過呼吸になって」
「苦しそうだったけど、声を掛けたら落ち着いたわ」
涙は止まっていないが、「そうですか」とぽそりと呟き、アカネとカイトに頭を下げた。そして、つき合わせてしまって申し訳ありませんでした。ありがとうございました……と、感謝と共に謝罪した。
「ミーナのことはいいよ。僕達も迷惑かけたし」
「そんな……」
「……ミーナは、しっかりしてるけど、責任感が強すぎて、自分に厳しくて、なんだかずっと疲れているような……そんな気がした」
「…………そうかもしれません」
「でも、色々気持ちを聞かせて貰ったんだ。ミーナはいい子だね。それに、ハンナの事が大好きなんだと思うよ」
カイトにそう言われて、ハンナはどんな反応をすればいいのか分からず、微かにはにかむような表情を浮かべた。
口を閉ざしていたミーナが、この二匹には心の内を明かしたということだ。ハンナ自身だって、変わりたいのはやまやまだった。しかし、これ以上どう変わればいいのか分からない。先に踏み出すきっかけが、欲しい。
いい加減時を進めたいのだ。時間に置いていかれるのは、もう嫌なのに。それでも一方では、生きていくことすらも嫌だと思ってしまっている。
ハンナは顔を軽く振って涙を飛ばすと、ハァ、と軽くため息をついて悲し気な笑みを浮かべた。
「生きていくのって、なんだか難しいわ」
ハンナが誰も聞こえないような小さな声でぽそりと呟いたのを、アカネもカイトも少しだけ耳で拾っていた。アカネは何も言わず目を軽くそむけたが、カイトは視線を少し下げ、口角を上げると、ハンナよりももっと小さい程度の声でその言葉に返した。
「……僕もそう思うよ」
カイトは、ミーナの言葉や感情に自己投影してしまった事を重い出す。アカネにはその微かな言葉が聞こえていなかったのか、特に反応することは無かった。
その後も少し話をし、ハンナの気持ちが完全に落ち着いたであろうところで、二匹はハンナから離れた。さてと、とカイトはアカネにもういちど景色を見に行こうと誘って歩き始める。困ったような顔をしているミーナを囲んで話をしているシャロットやチェスターをちらりと見遣り、二匹は空の頂の先端に立った。ただ風で雲が流れていく世界を眺め、カイトは言った。
「霧の湖とは違うベクトルですごいよね」
「……雲が動いてるの見ると安心する。でも、なんか別の世界みたいで、怖いといえば怖いわね」
細かな雲が動き、太陽の光が角度によって見え方を変える。下から吹き上げる風に、舞い散る花弁たち。
時間が進んでいるのが分かる。
「………………」
アカネがふと悲しそうに目を細めた。景色はこんなにも綺麗なのに、哀しいことなど一つも無い筈なのに。カイトはアカネの視線になるように体を屈めた。彼女の見えている世界は、自分と特に変わりはない。
あまりにも眩しすぎて、カイトもじっと見ているのが辛くなって少し目を細める。あぁ、こういうことかとカイトは半ば強引に納得するが、アカネの表情は晴れない。光が赤い頬を照らしているのを横目に、「霧の湖」で見た彼女の横顔を思い出す。
「……あのさ、アカネ……」
「カイト、アカネ〜?シェイミ二匹から話があるってさ。
っていうか、考えてみたら帰りどうするんだろうね!?まさか下るのかな!?もうわかんないよ〜、もう疲れた〜……。
……てか、どうしたの?カイト、怒ってる?」
「いや別に」
口をキュッと結んでじとりと睨みつけてくるカイトに、ミーナたちの話を連絡したナゴはびくりと震える。何なんだと思いつつ、アカネに視線を馳せると、既に彼女はあっけらかんとした表情でコクリと頷いていた。
「話?わかった、すぐ行くわ」
「う、うん。こっちこっち」
ナゴに連れられてアカネとカイトは空の頂の先端を離れ、頂上の入り口へ集まっているポケモン達の中に合流した。ミーナとハンナを囲むようにして集まるポケモン達は、空の頂からの下山について既に気が付いているのか、げっそりとした表情、ぽかんとした表情、意識を飛ばしかけているコリンクなど、様々な様子が見受けられる。
「アカネさん、カイトさん……あたしたち、帰りの事考えてませんでした……」
「ハッ!?穴抜け玉を使えば……」
これぞ名案とばかりに意識をどこかへ飛ばしていたセオがパッと目を見開きどや顔で提案した。
「ダンジョンの区切りが多いんだから足りないっての」
チェスターがそれを一蹴する。しかし、数個穴抜け玉を使って短縮するというのは悪い考えではない、とシャロットは言った。メッチャ疲れるのは変わらないけど、と付け加える。
「えーと、皆さん。色々と考えていらっしゃるようですが、簡単な方法がありまして……」 ハンナがそこに口を挟む。彼女が話始めると、シャロット達一行やフロンティア、クロッカスのポケモン達は一斉に彼女に視線を集中させた。注目されるのに慣れている様子のハンナは、特に動揺を見せず話を続ける。
「実は、私とミーナで皆さんを麓まで送り届けることができるんです」
「それはどうするわけ?」
セオが腑に落ちないという顔で尋ねた。にこりとしたハンナが、見ててくださいと言ってミーナにアイコンタクトを取った。ミーナは合図を受け取ると、こくりと頷き足元に咲いている美しい花に鼻先を近づける。そして、花弁に体を軽くこすり付けた。
「え?」
ミーナの体に変化が起こり、彼女の体が光を発するとともに丸みを帯びて小さかった体は足が長く、胴体が細く大きな耳を持つ、今までのシェイミとは思えないような姿へと変貌していく。
体の発行が止まった頃、千切れていたミーナの頭の花は一つの大きな花弁のように背中へ。足も体もスマートで、顔つきもスッとした「ほぼ別のポケモン」へと変わっていた。元々目元が涼し気な姿なのか、ミーナの吊り上がっていた目は険しさを増している。
「……キミが、あのかわいかったミーナちゃん……?」
「…………」
一部男性陣がショックを受けている中、ナゴやシャロットは「かっこいい」と声を上げて騒ぎ始める。その姿の逞しさに驚いているのかカイトは驚いた様子を隠せず、アカネは興味深そうにミーナの体をじっと見つめていた。
ハンナも足元に咲く花に鼻先を宛て、軽く体を花弁にこすりつけるとミーナ同様の変化が起こった。ゴーリキーのグールは密かに小さくて丸みを帯びたシェイミたちを気に入っていたのか、目を白黒してぽかんと口を開けている。ナゴの「情けない顔……」と刺さる一言がぽそりと飛んだ。
「驚かせてすいません。私達シェイミはこの花……「グラシデアの花」の花びらに触れるとフォルムチェンジをすることが出来るんです」
ハンナはそう言ってふわりとその前足で足元に咲く花「グラシデアの花」に触れた。
「こうなると、私達は空を飛べるんですよ!」
「空を飛ぶ……もしかして」
「シェイミは空の花束って呼ばれてるって前に聞いたことあるけど、そういう事?」
「空の花束……」
ふわりとハンナとミーナが空へ舞い上がる。今まで小さな丸い体で地上を歩いていたとは思えない程の軽やかさ、風になびく首の後ろの花弁は鮮やかな濃い赤色。白く艶やかな毛と緑色の鬣が空に舞う。
「確かに、空の花束だね」
誰かが納得するように言った。