37話 炎の記憶
「ミーナ、落ち着いて。落ち着いて息をして、浅く、ミーナ」
アカネの声が聞こえる。聞こえているけれど、何を言っているのか分からなかった。
呼吸の仕方も分からない。肺の動かし方を忘れてしまって、そもそも今何を見ているのか判断が出来ない。呼吸をする時口は開けていたか、鼻で息ってできたっけ。大きな炎の柱が目の前を横切って、悪魔のような、獰猛な鋭い瞳が自分をにんまりとした笑みで、あぁ。
「う、う、うぅ、ぁ…………」
胸が痛い。止めどなく体の空気の出入りが繰り返されて、汚染された空気が自分の中にどんどん入ってくる。入れて入れて、吐き出す。いや、吐き出し続ければいいの?分からない。静かに呼吸する方法が全く分からない。空気が入っている筈なのに息が詰まって、喉が閉められて、とてつもなく苦しい。息ができない。
「ミーナ、大丈夫」
アカネはミーナの口元を覆うようにして軽く手をあて、彼女のエメラルド色の目をのぞき込むように彼女の視界を自身の首元や顔で埋めた。片方の手で頭をなでながら、「大丈夫、大丈夫」と繰り返しミーナに伝える。
「大丈夫、苦しいのは絶対収まるよ。皆無事だから、大丈夫」
アカネが落ち着いて語り掛けているうちに、それを聞いていたミーナ自身はふと喉と胸の間にある引っかかりが取れたかのように、緩やかに息が胸から喉を通っていくのを感じた。それを認識した瞬間に、酷く早かった動悸がゆっくりではあるが落ち着き、規則的な呼吸を思い出したかのように普通の呼吸を自然と取り戻していた。
「…………落ち着いてきたわね」
安心したようなアカネの顔が目の前にある。宝石のように茶色くてきれいな瞳の中に赤や青の光が混じっているのを認識したとき、やっと自分が落ち着けたのだ、とミーナは気が付いた。
不安と安堵に揺れるアカネの瞳の奥で、何も聞こえていないのになぜか語り掛けられているような気がする。
アカネの瞳を見ると、その瞳の中に灯る美しい光を見ると、何故かとても落ち着くのだ。
「…………ごめん、なさい……」
「……いいよ、私達も悪かったわ」
「……やっぱり、炎は怖いみたいです」
泣きそうな顔でミーナが言う。アカネは何も言わずに首を横に振り、ミーナの柔らかな背中をゆっくりと撫でた。
気が付けば、ベトベトンとの戦闘を終えたカイト達もミーナの所へ集まっていた。カイトは心の底から申し訳なさそうにミーナを見下ろしている。炎は怖いが、炎への恐怖とカイト自身は結びつかないらしい。ミーナはカイトの方へ視線をやりながら、「ごめんなさい」とアカネに言ったように弱々しい謝罪を述べた。
「僕が悪いんだ。ごめん、苦しかったよね」
「いいえ……炎タイプだから、やっぱり炎技が一番出しやすいのは分かっています。私だって、咄嗟に出るのはいつもエナジーボールですから……すいませんでした」
ううん、とカイトは首をゆっくり横に振った。カイトの顔を見て、ミーナは泣きそうな顔をくしゃりと歪ませ、その次にほんの少し笑みを浮かべる。ミーナはゆっくりと立ち上がり、周囲を見渡した。ベトベター達が徐々に目を覚まし、不思議そうにミーナや他のポケモン達を見渡している。どうやら正気に戻ったようだ。
ミーナはゆっくりベトベター達の方へ歩み寄っていくと、諭す様に言った。
「目は覚めましたか」
「…………ン、へ、えぇえ?シェイミ?……ミーナちゃん……?」
ベトベター達は皆驚いたようにミーナの顔を覗き込み、そしてその後ろで怒ったように腕を組んでいるプロジェクト・Pのフロンティアたちを見てギョッとする。
「みなさん〜!!どうしたんですか、この靄は……!」
「シャロット……」
更に遅れてやってきたのはシャロット達だった。シャロットは困惑しつつもクロッカスやフロンティアの方へ走り寄り、セオはあまりの悪臭にえづくようにおぇぇ、と変な音を出している。ハンナはシャロットと共に走り寄ってくるチェスターの背中に乗せてもらっていた。
「酷い臭い……何故ベトベターの皆さんがここへ?」
チェスターの背中に載っていたハンナがぴょんと飛び降り、一番近くにいたベトベターに尋ねる。
ベトベターは何故責められているのか分からない、と言った様子で首を傾げた。ここは頂ですよ、とハンナが告げると、全員が度肝を抜かれたかのような反応で弁解を始める。あたふたとするベトベター達を落ち着かせ、改めて何故ここに居るのかを尋ねた。
「だってェ、ここ、汚かったからさぁ。ボスが住処にしてイイって言ったんだもん」
「…………ボス?それは一体誰の事です?」
「ベトベトンさんのことだァよォ。だってよォ、ボスがそう言ったんならそうするだろぉ?」
「……あなた方にはベトベトンというボスがいらっしゃるのですか?それは初耳ですが」
ベトベトンと戦ったカイトやフロンティアは驚いたような表情を浮かべてその話に耳を傾ける。
チェスターがシャロット達の傍から離れ、そのベトベトンがどこにいるのかとカイトに耳打ちして尋ねた。カイトから教えて貰うと、「確認してくる」と言い残して群れから抜け出し、チェスターはベトベトンがいるであろう場所へ向かう。それに気が付いたセオが恐る恐る、と言った様子でチェスターの後を追った。
「だってよォ、ボスがそう言ったからァ」
「……何度かあなた方にお会いしていますが、一度もそのボスとやらにお会いしたことがありません。本当に居らっしゃるのですか?本当にいるとして、いつから?」
「だぁかぁらぁ…………アレ?」
「そういえばボスって、いつからボスだぁ?……」
「あれぇ……」
ベトベター達の中にも混乱が起きているようだ。ミーナやハンナは、このポケモン達がお世辞にも上手い芝居をできるような性質の持ち主ではないと知っている。
「いや、でも確かに僕達は……」
カイトやグールたちも、困惑したように顔を見合わせた。
一方、ベトベトンの確認をしに行ったチェスターとセオは唖然としていた。頂の先端近くまで来たものの、何も居ない。なにかが地面に張り付いていたのではないか、と予測させるような粘液が地面にへばりついているのは確認したが、それ以外は何もいない。
「ベトベトンいないじゃん。あいつら嘘ついてんじゃないの?」
「おい、黙れ」
ぽつりとつぶやき、チェスターが耳を澄ませて周囲を見渡す。セオは「ハァ?」と言った後文句ありげな顔で黙り込んだが、暫くして眉間に皺を寄せたチェスターがセオに尋ねた。
「何か聞こえなかったか」
「いや、別に。あっちの声も聞こえるし」
「…………気のせいかな。……戻ろうか」
「あいつらも兄さんも意味わかんないや…………」
どうしようもないね〜、とセオは小馬鹿にしたように呟き、チェスターと共にアカネたちの下へと戻っていく。
『……しくじ……間違えた。
……クソ』
(……なんか聞こえた気がしたんだけどな)
空耳にしてはハッキリしていたような気がする。
チェスターは眉間に皺を寄せながら、もう一度振り返る。
勿論先程とは何も変わりなく、誰も居なかった。