13話 求められるもの
「さて、アカネ様、カイト様」
夕暮れの海を眺める暇もなく、二匹は初老のコロトックに声をかけられた。少々厳格な様子のポケモンであったが、口調は至って丁寧であり、清潔な印象を受けた。潮風に触覚を揺らしながら、コホンと小さく咳をすると、コロトックは背中に手を回し、二匹を上から睨むようにして言った。
「まずは……アルストロメリアの王宮に身を置くことを考え、二匹様には少々厳しい食事マナーや言葉遣いを学んでいただきます」
「……えっ」
四日間の海上のバカンス。ギルド卒業後でも中々休日という休日がなかった、束の間の少々長い休息……そんな心持ちで来たのが間違いだったのか、コロトックの瞳にはそんなことは一切させる気がないという感情が溢れていた。気品が違うものの、ペリーと似たようなものを感じたのか、アカネは少し気に入らないという表情でコロトックを見上げる。船が進むたびに流れてくる潮風が、カイトには何故か少しだけ冷たくなったように感じた。
しかし、それはまだ序の口に過ぎない。渋々二匹がそのプランを了承した後、コロトックは二匹から視線を離し、そして再び……次はアカネのみに視線を向けた。
「そして、アカネ様。元人間だ……と、伺いましたが」
「……ええ、まあ。そうね」
どうも半信半疑だと言わんばかりの言い方に、アカネは少し眉をひそめた。そんな彼女の表情の変化も気にすることなく、まだ自分の名前を名乗ってすらもいないコロトックは話を続ける。
「我らが君主が、ヒトの奏でる『歌』を所望しております。アルストロメリアへ到着後、アカネ様には歓迎会の舞台にて、我らが君主ジルバスター様、そして話を聞きつけおいでになってくださった会場の高貴な身分の皆さまに『妖精の歌』を披露していただきたいのです」
「…………唐突に、随分勝手なことを言うのね。やりたくないって言ったら?」
「やらずとも構いませんが、貴方方はパトラス様のギルドの暖簾を背負いこの船に乗っていらっしゃいます。
何が一番適切か、聡明な貴女ならわかるのではありませんか」
アカネとコロトックの視線の間に、パチパチと火花が散る。カイトは海上の不穏な空気に若干の冷や汗を垂らしながら、既にどこか冷たくなってしまった潮風と、気が付けば茜色から紺色に変わってしまった風景を全身に感じていた。船の上は明るいが、時期に灯も消されるのだろう。その時、この船からみる月明りは一体どんな色をしているのか。
アカネは反抗的な瞳でコロトックを睨みつけていたが、埒が明かないと思ったのか、小さくため息をついて体中の緊張を解いた。話だけは聞いてやる、と言いたげな、少々嫌そうな顔つきを再びコロトックに向ける。
その意志を汲み取ったのか、コロトックは小さくため息をつくと、再び口を開いた。
「我が国には、古代より『歌』に関する言い伝えがあります。
歌は崇高なものであり、その旋律や歌詞の一つ一つに歌い手の思いを乗せることで、歌い手の力やエネルギーが音に乗って大地を巡る。そして、それらは空気や水、大地や草木、生命などの全てに力を与え、実りの力を恵み、国の美しさや富みを保つ。大地や草木、水にしみ込んだエネルギーは自然の循環に乗り、そして空へ、雨となり雲となり空気となって、永遠に巡り、大地に豊かさを与えるのだ……と。
どこから、どうしてやってきたのか。未だに判明はしていないのですが、アルストロメリアにはこのような言い伝えがあります。そのような理由で、歌はわが国では神秘的なものであり、故に歌声とは王や民への捧げものとしては非常にふさわしいものだ、ということです」
まるで『時の雨』のようだ。と思いながら、アカネは反論する。
「だからってなんで私?カイトじゃ駄目なわけ」
ピシっとアカネは指差しでカイトを指名した。カイトは一瞬困った顔をしたものの、アカネがそんなに嫌なのならば、と引き受けるつもりでいたが、コロトックは力強く、ゆっくりと首を横に振った。
「数年前まで、我が国には『歌姫』と呼ばれる存在が居ました。月に一度、王の管理する高台に立ち、大地に向けて歌を捧げる女性です。
代々、歌姫は女性ということになっております。女性だけ、ということでは小さな反発も度々起こった為、歴代の王の中には男性を組み込もうとした者もいたようですが、無駄でした。男性では、いくら声を張り上げようと、祈る様に歌おうと、大地が答えてはくれないのです」
「……数年前までってことは、今はそういう子はいないのかい?」
カイトが純粋な疑問をぶつける。コロトックは暫く上を向き、頭上を照らす月を見ていた。何かを思い出すかのように目を細めると、カイトの言葉に応える。
「……数年前、我が国の歌姫は突如行方知れずとなりました。その際、ジル様は非常にショックを受けられ、それ以来高台には誰も立たせていないのです。
年を重ねるごとに国内で採れる作物や資源は減っていく一方。近頃は悪天候も増えていまして、ただの言い伝えと思われるかもしれませんが、かなり困っているのです。他の大陸から取り入れるという手も無いわけではないのですが、なんせ『アルストロメリア』という国の性質上、安易に他の大陸から物を取り寄せたりは出来ないのです」
「……困った王様ね」
アカネは話を聞いていて、少し同情するような感情を抱いた。成程、数年『歌われること』を望んでいなかった王が、アカネ達の登場がきっかけにより再び歌を望むようになった。国の安寧を考えれば、それを逃すわけにはいかない……と、そういう訳だろうか。
しかし、アカネはもともと舞台で歌うなど性に合わない。カイトと出会った頃なら、かなり冷たい言葉を吐き捨て、船の中のどこか一室に籠城してでも嫌がっただろう。しかし、カイトと長い時間を積み重ねてきたアカネは、ある程度そのような事情も考慮しようという感情を持つようになったのである。
アカネは自分自身を見世物にするようなことは嫌いだが、ここで拒否をすれば、あとでトレジャータウンに帰った時ペリーに何を言われるか分かったものではない。加えて先ほどのコロトックの言葉を聞き、やるだけやってみようという気持ちは持ち始めていた。カイトは心配そうにアカネを見つめていたが、コロトックは潮風を全身に浴びるように船の進むほうを見ながら、また小さくため息を零した。
「……しかし、もう夜です。お食事にいたしましょう。お食事のマナーについてはしっかりレクチャーさせていただくので、いい加減な気持ちで臨まぬよう。
……そうだ。申し遅れましたが、わたくしの名はゲイルズと申します」
* * *
食事を済ませた二匹は、ゲイルズと共に船の中の小さな一室に居た。夕食はそれはそれは豪華で、美しいとも形容できるようなものだった。できるだけアルストロメリアで出るものと相違ないものを、という配慮のようだが、その分食事のマナーにも厳しい。アカネはもともと未来の世界で育ち、親のことも全く覚えていないのである。そんな彼女は、下品なものの食べ方をすることはなくても、作法や礼儀の知識を持ち合わせているわけがなかった。
カイトもまた、両親が作法や礼儀に興味の無い部類のポケモンだったことに加え、そもそもアカネと出会うまで両親とはほぼ絶縁状態。家族の関係は非常に悪かった為、教わろうと思った事もない。そもそも、まともに一緒に食事をした記憶が殆ど無いのである。しかし、アカネが荒れた未来で過ごしていたことや、カイトが元不良少年だったことなど考慮されるわけがなかった。
ナイフやフォークを持ち、ナプキンの使い方、お皿の配置や食べ終わった後の行動まで、とにかくゲイルズが眉間に皺を寄せながら二匹を監視し、そして少しでも粗相をすると『違います』や『そんなことも……』と口を挟むのである。素晴らしく質の高い食事でも、いちいちそんなことをしていては味わえたものではない。実質、アカネは食べた食事の味など全く覚えていないため、『おいしいな……』と遠い目をしながら、先ほどまで船の縁に身を寄せてモモンの実を齧っていたところであった。
再びゲイルズに呼び出された二匹は、げっそりとしながら個室に入っていった。中ではゲイルズが仁王立ちで待っており、二匹は用意されていた小さな椅子に腰かけさせられる。
「数時間前に話しました、歌の件です。アカネ様の歌唱力がいかなものなのか、わたくしに効かせていただければと思うのです。カイト様はその立会人となってくださいませ」
「アカネ、僕が聞いててもいいの?」
「……ええ、むしろここに居て。近くに居てちょうだい」
別に深い意味をもった言葉ではないが、カイトは頬を微かに赤らめて少しだけ嬉しそうに頷く。アカネは既に疲れたような顔をして小さくため息をついた。ゲイルズは部屋の中を見渡すと、アカネを椅子から立たせ、そして自分の目の前、部屋の中央へと立たせた。
「では、アカネ様。これから私はこの譜面にある『妖精の歌』を歌います。それをまねて、もしくは譜面を見て……私が歌った後に歌って頂きたい。それでは」
すぅ、とゲイルズが息を吸いこむ音が微かに聞こえる。あんたが歌うのか、と思いつつ、アカネは音を記憶するように目を瞑り、ゲイルズの声に聞き入った。
音を出す為の器官が他のポケモンより発達しているのもあるだろう。しかし、ゲイルズの声は初老の男性とは思えない程に透き通り、そして美しく部屋中に響いていた。規則的な、しかし少しだけオリジナリティのあるビブラートや、喉の奥で、そして腹のそこから震わせているであろうメロディが部屋中に木霊する。はっきり言って美しい。これを歌っているのがゲイルズだと思わなければ、アカネも頬を緩ませて聞き入っていたかもしれない。実質、カイトの方は既にゲイルズに歌に入り込まれ、魅せられているようだった。
歌が終わる。音程は記憶したが、あとはアカネの喉の具合であろう。
「では、アカネ様、わたしに続いて……はい」
アカネは息を吸いこみ、そして歌い始める。初っ端から音を外してしまった自覚があり、歌っているうちに徐々に音階がずれているような気さえしてくる。喉の裏側を使い、出来るだけ腹部を意識しながら、足元はぐらつかせずしっかりと地面に根を張って。
アカネは歌い終わると、喉がひりつくのを感じた。慣れないことをしたからだろうか。アカネはもともと、歌などろくに歌ったことが無い。あって鼻歌だが、それでも殆ど経験が無いのである。
ゲイルズは暫く目を閉じて、何かを考え込んでいる様子だった。アカネもゲイルズが口を開くのを待っていたが、ちらりと背後に腰かけているカイトに目をやる。何故か、カイトは冷や汗を垂らしながらアカネにぎこちない微笑みを向けていた。一体どうしたんだ、その顔はと問おうとした時、ゲイルズが口を開き、一言言い放った。
「はっきり言って、ひどい」
「……は?」
「音程やテクニックのバランス、安定感、全てにおいて想像以上に酷い。おそらく、アルストロメリアでは子供でも貴女よりは上手く歌えるでしょう。そもそも少し高い音でさえ出切っていない。全て喉から出しているからそうなるのです。低い音を出そうとすると思っている以上に低くなっていることに気が付いておられますか。低音を出す際、むやみやたらに腹部に力を入れているように見受けられる」
「……そこまで言うことないと思います」
言いすぎだと感じたのか、カイトは椅子からたち上がり、少し起こったような顔つきでゲイルズの元へ歩み寄った。しかし気に留める様子もなく、ゲイルズは言葉を続ける。
「唯一いい点は声です。貴方の声は響きやすく、そしてニュートラルな声質を持ち合わせている。本人の感覚がしっかりとしていれば、何者にもなれる。そんな非常に高い声質を持っているにも関わらず……はあ」
一応、褒めているつもりではあったのだろうか。しかし、言い過ぎだと咎めることは出来てもそれは違うと否定はできない。何せ、カイトも殆ど同じことを感じていたからだ。声を出そうとするたびに音程はどんどんずれていき、本人も自覚している部分はあるのであろうが、その度合いがよくわかっていないようだ。
しかし、声はとてもきれいだと思った。ゲイルズの声も美しかったが、アカネの声は本当にどこから出しているのか分からない程に美しいと感じた。これでせめて音程とリズムがあっていたら……と、微かに感じてしまったのだ。
カイトはゲイルズを制止することはできても、否定することは出来ない。
「これはジル様にはがっかりしていただくしかないようですな……こんなひどい歌声、舞台で披露できるレベルにするには、あと三日ではとても矯正できない。せめて一週間……いや一か月……」
ぶつぶつとゲイルズは頭を抱えながら独り言を呟いている。アカネに対してかなり酷い言いようである。カイトはゲイルズのしつこい発言にかなり憤りのようなものを感じており、眉間に軽く皺を寄せていた。ふと、アカネが先ほどから喋らないので心配になり、彼女の名前を呼びながらそっと振り返った。
「アカネ……?」
「…………はー。ふーん……随分な言われようじゃない……」
「それほどあなたの歌声は酷い。こんなひどい歌を聞いたのは初めてだ……」
「へぇ……じゃあ、この三日であんたの言う『舞台レベル』まで引き上げるわ。それでいいんでしょ?文句ないわよね」
「いや……さすがにもう、このレベルだと無理があるかと。せめて、単調の曲に変えるかしなければ」
アカネが珍しくムキになっている。普段、このような煽りをどうでもいいとばかりに受け流すアカネだが、今回は我慢ならなかったらしい。アカネとカイトが出会ってから一年、アカネは以前よりも素直になることが多く、笑顔も増えたが、それは怒りや悲しみの部分でも同じらしい。彼女の腸は現在、煮えくりかえっている。それはもう、ペリーに煽られた時以上に煮えくり返っていた。彼女の瞳の奥は微かに……ではなく、遠目から見て分かるほどに燃え上がるような赤色に染まって輝いている。能力が暴発するのではないか、とカイトが心配したほどである。
「いいわ、この曲のままで。楽譜貸して、ちょっとひとりにして欲しいんだけど」
「はぁ……まぁ、当日はお遊戯会で歌うような曲を歌って頂くことになりますが」
「いいから」
アカネはゲイルズから楽譜をひったくると、カイト共々二匹を個室から押し出した。カイトはかなり心配そうにアカネが閉じこもった個室の扉を見つめていたが、一方でゲイルズは涼しい顔をし『さぁ、就寝準備でもいたしますかね……』と、古びたスコープを自らの顔から取り外し、キュッキュと磨き始める。
「アカネがあんなにムキになるなんて珍しい……」
「おや、普段は落ち着いた方なのですね。……まぁ、あとは本人の要領の良し悪し、努力次第でしょう」
「え?」
「歌に関しての感想は、正直なことを述べたまでです。酷い、ひどすぎる……が。一方で、彼女自身が逸材だとも感じます。平凡な種族にも関わらず既に、他の方々とは違う……どこか浮世離れしたような、神秘的な雰囲気を持ち合わせている。おそらく、王宮でもその場にいただけでなかなか栄える方でしょう。噂に聞いた通りだと、初めて見た時感じました。
……さて、カイト様。クロッカス様の部屋に戻りまして、就寝の準備をいたしますか」
何を考えているのかにわかに理解し難いポケモンだ、と感じたものの、カイトは小さく頷くと、アカネが閉じこもっている個室へチラリと視線を振り、そして自室へ向かって行く。
ここは、船の中、海の上だという事など忘れてしまうほどに、静かな場所だった。
そんな静かな船上で一つ、ゲイルズに連れられ自室へ向かって行くカイトを背後から見つめる影が、微かに体を揺らし、クスリと笑った。