10話 氷の魔女と古の探検家
クレバスの裂け目に足を踏み入れると、案の定そこは『不思議のダンジョン』になっていた。吹雪の島に入った頃のダンジョンに比べれば圧倒的にこちらの方が寒い。流石のカイトも寒さに身を抱え、軽く体を擦るほどである。口から吐く息はとにかく真っ白だ。じっとしていると凍ってしまうのではないか、と思うほどである。
カイトがふとアカネを見ると、同じように体を抱えて震えていた。相変わらずマフラーをできる限り体に巻き付けてギュッと握りしめている。カイトでさえしのぎ切ることが難しい寒さだ。アカネには辛いものがあるだろう。
「あ、アカネ、上着貸すよ、寒いだろ」
「けどあんたもそれなりに寒いでしょ……って言いたいとこだけど」
少々申し訳なさそうにカイトの上着をアカネは頭から被った。二匹の体格差の分だけやはり上着も大きいが、中に詰められているものはかなり軽い素材の為、少々動きにくい程度で移動に影響は無かった。
カイトがずっと羽織っていた上着は、彼の体温が乗り移りかなりぽかぽかと暖かかった。自分が着ていればそのうち冷たくなってしまうだろうけど……と思いつつも、その温度はアカネにとって救いである。
もしもこの『クレバスの洞窟』のような場所にまでケンシンの捜索が及んでいたとしたら、体調を崩す者が出ても無理はない。アカネもカイトもそれなりに早く切り上げなければ不味い。このような時の為に『穴抜け玉』は予備も含めて所持しているが、いつ最奥部に到着するのか見当がつかない。
唯一この洞窟の良い所は、天候の変化が少ない事だ。先ほどのダンジョンに比べて道を阻んでくるものがない。あるとすればこの凍てつくような寒さであるが、特に強い風も吹いていないこの場所は案外進みやすかった。
二匹は出来るだけ距離を取らないように横に並んで進み続ける。アカネは衣類に体を埋め尽くされてだるま状態になってしまっているため、先ほどのダンジョンとは違いカイトが主に戦闘を行った。そこはやはり炎タイプであり、火炎放射や火の粉を使っているうちに徐々に体が温まってくる。外から感じる刺すような寒さは依然として変わったように思えないものの、体の内側から沸いてくる暖かさを取り戻していた。
アカネはそんな彼の様子を見て『大丈夫そうだ』と判断したのか、カイトが数回戦闘を行った頃から特に何も悪びれることもなくカイトが戦うのを見つめていた。生憎、アカネの種族では動いただけで身体がぽかぽか温まる、というのはこの場所では少々難しい話である。
「はぁ、はぁ…………なんか、こんなに寒いと息が辛いね……空気がすごい乾燥してる」
「思ってたわ、それ……」
口をマフラーで覆い、出来るだけ外気が口の中に流れ込まないようにしながらアカネはもごもごと口に出した。そんな彼女の姿がまた愛らしく感じて、カイトはそんな状況下でにこりと笑みを浮かべる。何故そんな風に笑うのかまだ理解できていないアカネは、『何笑ってんの?』と訝し気に目を細めてカイトを見つめた。
「い、いや……あ、でも。
大分階段通過したよね……あと何回くらい通ればいいんだろ」
「言ってる傍から階段よ。ほら、こっち」
また目の前のフロアに階段が出現した為、二匹はさむいさむいと口を零しながらその階段に踏み込む。通過すると、そこには何か先ほどのダンジョンとは明らかに違うオーラを放つものが佇んでいた。
大きく開けた場所だった。洞窟内にも関わらず、日の光が差し込んでいる。天井部分を覆う半透明の氷を貫くように日の光が洞窟内に差し込み、天井は光を多方面に反射してキラキラと光っている。散りばめられるようにして様々な色の光が所々壁や天井、地面に映っていた。とても美しい場所である。今までに今場所は見たことが無い。どうやらここが、クレバスの洞窟の最奥部で間違いない様だ。
そして、その部屋の中央に佇む巨大な物。地面にペタリと飾る様にしておかれた氷塊、その中に眠る赤い何か。アカネもカイトも、その正体はすぐに見当が付いた。というよりも、それしかないだろうという確信がある。
「は、ハッサム……?」
一匹のハッサムが氷漬けにされ、巨大な氷塊の中で静かに目を閉じ、眠っていた。実際に眠っているのか死んでいるのかは分からない。ただ、一つの生命として生きているとも死んでいるともいえない、そんな神秘的な何かを感じる。まるで生きた氷のオブジェのようだった。
「もしかして、アレがケンシンなのかな。どうしてあんなことに……」
「待って」
そう言ってカイトがその氷塊に近づいて行こうと一歩踏み出すと、アカネの尻尾が勢いよくカイトの目の前に割り込み、歩き出すことを制止する。
「どうしてあんなことになったのか分からないけど、この場所に一匹で来ただけであんな凍り方をするとは思えない。凍っているケンシンの姿もそうだし、氷だって今まで見た物とは違ってとにかく透き通って……まるで美術品みたいじゃない」
「確かに……すごく透き通ってるから、この位置からでも姿は良く見えるよね……」
「あのポケモンが行方不明になったのはもう百年以上前の事でしょ。それなのに誰の手も加えずあんな状態で残ってるのはおかしい。多分、私達の他に誰か……」
アカネがそう言って鋭い目つきで辺りを軽く見渡した時だった。突然、二匹の目の前に勢いよく吹雪が降り注ぐ。それは視界を覆うほどの勢いだが、不思議と風や冷たさを急激に感じたようには思えなかった。
吹雪は一瞬勢いよくふり注ぎ、そして一瞬にして降り止んだ。そして、今まで二匹には見えなかったものが、目の前に一つ存在していた。
「…………あら、久々のお客様ね…………」
艶のある女の声。クスクスと指先を口に当て、妖しく笑う一匹のユキメノコがそこに佇んでいた。目を細め、興味深いものを見るかのようにしてクロッカスの二匹に微笑んでいる。
周囲の環境の所為ではない、どこか肌寒さを感じる風が二匹の間を吹き抜けた。とても楽しそうに笑っているそのユキメノコは、二匹の姿を上から下まで舐めるように観察すると、ちらりと自分の背後に佇んでいるハッサムの氷漬けに目配せした。
どう考えても犯人はこのユキメノコで間違いない。随分と長生きなユキメノコのようだ。ゴーストタイプも持ち合わせているのだから、そこまで変だとは感じなかったが、しかしなぜこんなことを。
「こんな何もない場所に来たということは、あなた方は勇敢なる探検隊?それとも迷い込んでしまったのかしら、とても不思議ですね」
「……そんなことどうだっていいわ。その後ろのやつ、あんたがやったの?なんでそんなことすんのかは知らないけど、見つけてしまったからには簡単には帰れない」
「あら、連れ帰るの?私を倒して、奪い返す気?」
「さぁ……下手に手も出せないから、協力してくれない?」
「面白いことをおっしゃるわ」
それが戦闘の幕開けだということはその場にいる誰もが察し得たことだった。ユキメノコは『影分身』を繰り出し、二匹を囲うようにして自分の分身を無数に作り出した。アカネがカイトに目配せする。カイトはただ、自分がその場から離脱するために口から炎を吹き出し、自分が通れるだけの道を作ってそこに滑り込んだ。アカネは体中に力を籠め、頬に意識を集中させるとそのまま四方八方へ電撃を打ち出す。電撃がユキメノコの分身を霞める度それらは霧散するようにして消えていく。ついに最後の一匹になった時、カイトが『炎のパンチ』でユキメノコに殴りかかるように飛び出した。
「なかなかやりますね」
ユキメノコは指先から冷気を発生させ、大きな『氷の礫』を三つ作るとカイトに向かって飛ばした。勢いよく向かってくる巨大な塊を、カイトは拳で殴るように砕くが、流石に拳へのダメージが多きい。カイトは一度だけそれを殴る様に壊すと、後はするりと避けるようにしてユキメノコに迫っていく。
数秒遅れた。ユキメノコはクイ、と指先を上へ持ち上げる。
「え…………ッ」
飛び掛かるカイトの目の前に巨大な氷の壁が突如出現した。カイトは対応し切ることが出来ず、氷の壁に真正面からぶつかっていく。元のものを大きく変形させたものだったためか少々脆いが、それでもダメージはある。カイトは地面に叩きつけられた打ち身の体を引きずるようにして起こす。地面に散らばる無数の氷の欠片が、彼の腹や手の平に軽く突き刺さり痛みを与える。
「面倒ね…………」
アカネはそう呟くと、地面に尻尾を地面に叩きつけて空中へ跳ね上がる。ユキメノコの頭部を狙うようにして『アイアンテール』を振り下ろすが、ユキメノコが勢いよくアカネの方を見上げ、『氷の礫』を放つ。アカネの尻尾はあえなく礫を叩き割ることになる。更に、追い込むようにユキメノコは『凍える風』を発生させた。
あまりの冷気に、アカネの頬や尻尾には氷の皮のようなものが張り付く。負けじとアカネは冷気に耐え、『十万ボルト』をユキメノコの頭上から撃ち込んだ。
「っ…………」
ビリビリとした痛み。ユキメノコは電撃に思わず片膝をついた。更に、カイトがそれを逃すまいと『火炎放射』で追い打ちをかける。ユキメノコはごろりと転がるように彼の攻撃を避けるが、カイトはユキメノコが逃げた先へ滑り込む。
「強いね……君」
「ッ…………当たり前じゃない…………ずっと、ひとりで生きてきたんだから」
ユキメノコは地面を睨むようにそう呟くと、勢いよく顔を上げて強く足を踏み込んだ、カイトの頬を狙って手を出すと、『目覚ましビンタ』を繰り出す。しかし、一方のカイトはそれを『空手チョップ』で叩き落した。そして、彼女にまだ戦闘の意思があると判断したカイトは『切り裂く』を繰り出し、ユキメノコの腹部を攻撃した。
「あ…………」
ガクン、と完全にユキメノコは膝を折った。スタミナはあまりないのか、少し息が切れているようだ。呼吸のために体を上下に揺らすと、少し悔しそうに目を細めてゆっくりと立ち上がる。そして、二匹を交互に見つめると、目を瞑り囁くようにして呟いた。
「……すぐに、お帰りくださいな……彼は、返すから……出て行って」
ユキメノコは、少しだけ指先を持ち上げると、くるりと指を回して空中に円を描くように回した。氷を操ることができるユキメノコ。不思議なポケモンだ、とアカネやカイトが思っていると、パリッと背後で音がした。振り向くと、ハッサムを覆う氷塊に切れが入っていた。そして、その亀裂を中心として蜘蛛の巣状に氷に罅割れが広がっていく。氷塊が罅割れに従うようにパラパラと崩れ始め、最終的には解けていくかのようにハッサムの体を開放し、地面へと全て落ちて行った。
ハッサムの体が崩れ落ち、壁にもたれかかる。彼の肩に佇む旧式の探検隊バッジから雫が滴り落ちる。やはり、彼こそが『ケンシン』のようだ。
彼の体は少しの間停止していたが、数秒経つと体が上下に揺れ始める。生きている。長い間氷の中に居ても、彼は生存し続けていたのだ。
「カイト、オレンの実と……凍傷もあるわ。ナナシの実入ってる?」
「うん、あるよ。今絞るから待って」
「う…………うぅぅ…………」
ケンシンが呻き声を上げて目を開いた。二匹の小さなポケモン達の姿が飛び込んでくる。一匹はヒトカゲで、自分の体に絞ったナナシの汁を塗り付けている。もう一匹はマフラーを巻き、上着を着る……というよりも被ったピカチュウだ。微かな青色が瞳の奥の方で燃え上がる様に輝いているのが微かに見える。美しい瞳を持つポケモンだと、ケンシンは思った。
「せ、拙者は…………もしや、お主等、拙者を助けに……?」
「あんたがケンシンなら、まあそんなとこかしらね。動けそう?」
「あ、ああ……なんとか」
そう言って、ケンシンは壁にしがみつくようにして立ち上がる。カイトの手も借りながら、ゆっくりと自分の力で大地に立った。
「動けるのなら、直にここから出て行ってください」
ユキメノコが睨むように三匹を見つめている。アカネは腑に落ちないことはあったものの、フラフラとするケンシンに目を配りながら、ユキメノコの隣を通過して、ダンジョンの目の前で『穴抜けの玉』を取り出した時だった。
「……一つ、聞いてもいいでござるか?」
「何だい?」
「拙者がここにきて、一体どれだけ時間が経ったのだ?」
「…………そうだね。軽く、百年くらいは経ってると思う」
カイトの応答に、ケンシンは足を止めた。そして、視線をユキメノコに当てる。ユキメノコはもう三匹のことなど視界に入れておらず、ただただ時間が過ぎるのを待つように、目を瞑って腕を組み、下を向いていた。
「そうか。そんなに時間が経っていたとは……すっかり、時代に置いていかれてしまっていたのでござるな」
「…………何が言いたいのですか」
あまりに自分の方を見て話してくるものだから、ユキメノコは少しだけ苛立ったように視線をちらりとケンシンの方へ向けた。アカネやカイトとしては早くその場を去りたかったが、ケンシンが何か考えているような顔をしているため、迂闊に口を出すことも出来ず、ケンシンに付き添う形で一緒にその場に留まっていた。
「拙者、眠っている間、いつも声が聞こえていたでござる。今日はこういうことがあった、自分の家族はこうだった、好きなものはこういうものだ、と…………とても楽しそうに話している声が聞こえていた。
しかし、いつもそのようなことを一通り話し終えると、きまってその声は、何やら悲しそうに笑うのでござる。随分長いような、短いような。そんな声を、いつも拙者は聞いていたでござる。
そうでござるか……百年、ずっと拙者に話しかけていたのは、お主だったか」
「……それは、摩訶不思議な夢では無くて?私には関係の無いこと……この場に留まるなら、次は千年、そんな声を聴き続けるようにしてあげてもいいのですよ」
そう言って、ユキメノコは指を突き出し、クイっと持ち上げた。地面からつららが斜めに突き出すように生え、ハッサムの胸元へ伸びている。あと数センチのズレで突き刺さってしまいそうなほどに、それは鋭利だった。
「拙者と一緒に外へ出てはみないか?」
「…………は。何を」
「ずっとこの場所にいたのでござろう。これを機会に、拙者と共に外へ出ないか?」
「……ふふ。そんなことを言って、私を外に連れ出してどうするおつもり?また、火炙りにでもかけるつもりなのかしら」
アカネはその言葉にふと首を傾げる。火炙り?いったい何のことだろう。
そんなことを思いながらカイトに意見を求めようと思いチラリと彼の方をみると、カイトも何やら考え込むようにして眉間に皺を寄せていた。だが、一瞬でその皺は伸びていく。カイトは合点がいった、というような顔をしてその言葉を口ずさんだ。
「…………魔女?」
「魔女って何よ」
「奇妙な力を使うポケモン……主に雌の事を示すんだけど。あのユキメノコは、氷を指先一つで自由に操る奇妙な力を持っていたよね。普通の氷タイプのポケモンは技以外であんなことはできない。多分、同種のユキメノコでもできないと思う。
二百年くらい前、大陸によってはそういう力を持つポケモンを酷く嫌って、捕まえては拷問にかけたり処刑をしたりすることが度々あったらしいんだ。ユキメノコがもしその時代に生きていたとしたら、その対象だったと思う……けど」
考えてみれば、そうするとアカネも一応『魔女』と呼ばれるポケモンの部類に入るのでは?カイトは一瞬そんな風に思ったものの、現在はそんな言葉は世間から殆ど消えている。現在では既に、歴史や物語上のものに過ぎない存在になっているのだ。
「……そういうことでござったか。ならば、それは見当違いでござる。まず、拙者が生きていた場所にそんな風習は無い。それに、拙者は魔女と言われるポケモンに対し特別どうとは思ってはいないでござる」
「けれど、一緒に行く理由なんてないでしょう。いい加減にしなければ、本当にまた氷漬けに……」
「拙者はただ、あんな風に己の身の上を語る者を嫌いになることは出来なかったでござる。この百年、あの氷の中で拙者に存在していたのは、楽しそうに話をするおなごの声と、そしてその後に寂しそうに笑う小さな声、震えた声色。
そんなポケモンを、拙者は放っておこうとは思えない。魔女狩りを心配せずとも、拙者が守ってやるでござる。魔女狩りのない、しかしひとりではない世界に出ていけば、あんな風に悲しく笑う事も、きっともう無いと……拙者は、そう思う。
だから、時代に置いて行かれた者同士、一緒に生きていけはしないものだろうか」
ユキメノコは、あっけにとられたような表情をしてケンシンを見つめていた。戦闘をしている中でも、これほどまでに驚いたユキメノコの表情はアカネもカイトも見たことは無い。
「……拙者がいなかったこの百年の間に、時代は変わったか?」
ケンシンは、ユキメノコに言い聞かせるようにしてカイトに問いかけた。おそらく、魔女狩りなどない世の中になったのか、という意味合いを込めた言葉だろう。
「…………うん。
僕たちの住んでいる大陸は勿論、他の大陸でも……魔女狩りなんて存在しない、ただただ、穏やかに時が流れ続ける……そんな、平和な世界さ」
アカネが今もこうやって、トレジャータウンのポケモン達に見守られながら生きていることが何よりの証拠だと、少しだけそう思いながら、カイトは微かに微笑みながら言った。