モンスターボールを砂に埋めた
短編
エネコロロ
「えねころ!」
「え、ね、こ、ろ、ろ」
 
 甲高い声で笑い声をあげる小さな子供のルイは、ごろんと背中から床へと転がった。まるでキャタピーのように体を内側に丸めると、高い声で『きゃぁ』と楽し気に笑う。白とピンクの明るいカラーの靴下を纏う足をばたつかせ、まだぎこちない動作で、ルイは近くに転がっていたヒメグマちゃん人形をキュッとつかんで口に運んだ。
「ルイちゃん、それ、ちがう」
 口に運ぼうとしたヒメグマちゃん人形は、声の主によって取り上げられる。代わりに手渡されたのは小さなおしゃぶりだった。ぱくんと口に含むと、それを咥えたまま、また楽しそうにキャッキャと笑う。
「キャハハハ、えねころお!」
「え、ね、こ、ろ、ろ」
 痛くないようにそっとルイの柔らかいお腹に手を当てると、くすぐるようにして手首を動かした。次はくすぐったそうな声が小さなルイから上がって、小さな子供部屋はまたその子一人の笑い声へと包まれる。
 宝箱の中からゆっくりと響き渡るオルゴールの歌い声、ルイが足をばたつかせると同時に足に纏わりついて飛び上がる毛布、いつの間にかまた転がっているヒメグマちゃん人形。笑い声と同時におしゃぶりをしゃぶる音も聞こえてくる。小さくて可愛らしい部屋はとても賑やかだった。
「えねこりょお?」
「ちがう、ちがう。エネコロロ。え、ね、こ、ろ、ろ」
 静かで澄ました笑い声が小さく零れる。
 中々呂律が回らず、言葉にできないその言葉にいじけたようにして『ぶう!』と、ルイは口に含んでいたおしゃぶりとプッと吹き出した。そして自分が吹き出したおしゃぶりを見ると、機嫌を損ねることも無くまた笑った。『こまったこだなぁ』とその隣で誰かが呟くと、ゆっくりと転がったおしゃぶりに近づいて拾い上げ、再びルイの頭のすぐ傍へと落とした。
 
 その時、ガチャリと部屋のドアが開いた。少し息を切らして現れた大人の女性は、ルイを目に留めて心から安心したように微笑むと、床を軋ませないように抜き足差し足になってルイへと近づいていく。ルイも女性を見て嬉しそうにキャッキャと笑った。『ママ』と、上手く使える数少ない言葉を何度も口に出し、笑う。ルイはよく笑う子供だった。

「あらあら、もうしかして、この子の面倒見てくれてたのかな?




 ありがとうね。エネコロロ」 
「にゃあ」


 *


 ほんの子供の頃に、ポケモンが喋るのを聞いたことがあるという人はそんなに少なくもないと思う。
 子供は想像力が豊かだからという話ではなく、現実に、体験に基づいてそう話す人たちがこの世界に存在するという事を、私は十五歳になった今、初めて知った。
 ポケモンが喋るというのも何やらおかしな話ではあるが、それなりにロマンも感じる話題だと思う。ポケモンが本当にしゃべるのならば、それこそおとぎ話の中に出てくるポケモンたちのように、人間と一緒に様々な危機に立ち向かったりするのだろうけれど、今はもうそんなことをする必要がない位には平和だ。ポケモンが喋った所で需要は無いし、むしろ喋らないでほしいと思っている人もたくさんいると思う。
 小さい頃にポケモンが喋るのを聞いたという人に対して反論をする人たちは、そもそも人の言葉をしゃべるにはあまりにもポケモンと人間の声帯は性質が違いすぎるだのなんだのという。それは確かにそうだ、と頷きたくもなるけれど、それはそれで面白みがない。
 
 数か月前、私は旅行で親戚数人とミオシティへ船出した。ミオシティと言えば目立つのはポケモンジムや海の上にかかる巨大な橋、そしてミオ図書館だ。
 予約していた宿が食事を用意してくれるまでの時間、私は外出してミオ図書館で暇をつぶしていた。その時に見つけた妙な本も何やら印象的で、どこかの地方のナンタラ博士が書いた本のようだけれど、その本には『昔はヒトとポケモンも結婚できた』とかどうとか書いてあった。人がポケモンと結婚できるのなら、そこには合意の意思も有ったのだろう。それをお互いどう伝えあっていたのか。ポケモンに言葉を発する術があるとするならば、小さい頃に誰かが聞いたその声はきっとポケモンの意思だったに違いない。
 ちなみに、私は幼い頃にそんなものを聞いた記憶は特にない。私が小さい頃に触れあったポケモンと言えば、今は年老いて寝そべっている一匹のエネコロロだった。どうも私が生まれてくる前からずっと我が家に居るようだけれど、もしあのエネコロロが喋ったことがあるなら、うちのお喋りな母親は毎日のようにその話をするだろうと思う。けれど、そんな話は聞いたことが無い。
 机の上に大きな本を広げて読んでみるものの、その本の著者が『ポケモンが人語を発した所を幼い頃に目撃したことがある』という内容以外は全く理解できないものだった。ただそれだけの話だというのに、やたら妙に胡散臭い理論やポケモンという生体について余計に書いているものだから読みにくいことこの上ない。
 ポケモンは果たして人の言葉を喋るのか否か。夏休みの課題である読書感想文は、この本について書こうかと思っていたが、私が題材にするにはどうも難しすぎる話だった。それに、万が一これを題材に描いた文章を学校で読むような事態に陥れば、私は突如クラスでオカルト少女扱いされることになってしまう。オカルト少女が悪いと言っているわけではなく、それはただ単に私の性に合っていないだけだ。
「ねぇ、あんた喋ったことある?」
 本をパタンと閉じると、リビングに出て行って私はエネコロロにそう話しかけた。人の言葉をしゃべれないと言っても、長く人と一緒に居ればある程度理解できるようになるようで、エネコロロは寝そべった状態で頭を上げて、私に向かって『にゃぁ』と鳴いた。
寝そべるエネコロロの横に私も腰かけて、エネコロロのふさふさした頭によっこいしょと言いながら軽く手を置く。もうそれなりの年齢だというのに、エネコロロの艶やかな紫色の体毛は若々しく、柔らかだった。
「あんたが喋れるよーになったら楽しい気がする。私兄弟いないしな……『私もしゃべれるよぉになってみたいもんだねぇ』?だよねー」
 何となくエネコロロがそんなこと考えてるように見えたからアフレコしてみたけれど、エネコロロは少し呆れたように目を細めて、ポケモンの割に上品に欠伸をした。エネコロロというポケモンは若い頃から身の手入れを怠らないという。年老いたエネコロロの口の中は薄ピンク色で、歯もまだ生えそろって白かった。何なら私の歯の方が少し位汚れが溜まっていそう。
「ほんとに話せるようになったら面白いのに。あー、でもエネコロロおばあちゃんだからお饅頭とか昆布茶とか私に言ってくるのかな。それはちょっと鬱陶しいような」 
 自然な手つきで喉の下に手を持って行くと、エネコロロがゴロゴロと喉を鳴らした。不思議な音が振動となって軽く手に伝わってくる。
「一人でブツブツ何言ってるの?おかーちゃんにも教えてよ」
 んふふふ、といつものように機嫌良さそうにお母さんがやってきて、ドスンと私の隣に腰かけた。お母さんは別に太ってはいないけど、容赦なく床に座り込むからちょっと家が揺れたような気がする。
「あのさー、お母さんってポケモンが喋ったの見たことある?」
「んん?おはようございます、こんにちはって感じ?」
「まぁ、そんな感じで」
「ふーん…………あ、お母さんはないけどね、昔あんたがそう言ってたのは聞いたことあるよ」
 お母さんは私にその衝撃の一言を浴びせた後、エネコロロの方にくるりと体を向けて『おぉーよちよち』とエネコロロに負けないくらいの猫撫で声で擦り寄った。エネコロロの小さなため息のようなものが少しだけ聞こえたような気がする。一応エネコロロ、おばあちゃんだし。さすがに赤ちゃん扱いはいやだろう。
 そんなことより、と。私はさっきお母さんが言った衝撃の一言について問いただした。
「私が言ったって?」
「そうそう。まだあんた小っちゃかったから、アニメの見せすぎたかなぁとも思ったんだけどねぇ。今までお母さん忘れてたわ。
 あんたが三歳のときね、今だ!って思ってあんたに聞いたのよー。『おかーさんのお腹の中で何してたの?』って」
「あぁ、三歳がお腹の中の記憶をギリギリ憶えてられる年齢ってやつ?」
 うろ覚えの知識を何となく尋ねると、お母さんが嬉しそうに何回か首を縦に振って肯定した。
「そうそう。あんた、『でんぐり返りしてた』って言ったんだよ。そのときエネコロロも一緒に居たんだけど、あんたその時不意にお母さんに聞いたのよ。『なんでエネちゃん喋んないの?』って」
 その頃私が教育の一環で見ていたという子供向けアニメには、絵で平面的に描かれたポケモン達が歌って踊って楽しく遊んだり、時には協力して悪いポケモンをやっつけたり、というようなエピソードが数多く存在していた。三歳だから、まだそこらへんの区別が少し曖昧だったのかもしれないとお母さんは思っていたらしい。けれど、私がその時口に出したことはお母さんの想像とは随分違う物だったようだ。
「エネちゃんはポケモンだから喋らないのよって言ったら、あんた凄く機嫌が悪くなって。その時アニメ見せすぎちゃったのかな……って思ったのよ。でも、その後に言ったんだよね。
 昔はエネちゃんいっぱい喋ってたよって。エネちゃんがお歌を歌ってくれたり、本を読んでくれたことがあるって。まだ上手く言葉が使える時期じゃなかったけど、大体そんな感じのこと言ってた」
 面白いよねぇ、とニヤニヤ笑いながら、お母さんはエネコロロの頭をわしゃわしゃと撫でた。もっと撫でてくれとばかりにエネコロロも頭をお母さんの手に押し付けていく。私は複雑な心境でその光景を見つめていた。

「エネちゃん、かー。昔はそう呼んでた……かも」
「あんたのこと好きだったからね、昔から……だから、ルイにだけ話しかけてたかもね。エネコロロは」
 ゴロゴロ、とエネコロロは喉を鳴らした。

「………………話しかけてたの?エネコロロ」
 
 そう尋ねると、またいつものように『にゃあ』と鳴いた。
 まぁ、やっぱポケモンが喋るわけないんだよね。そりゃ。


ミシャル ( 2017/09/25(月) 22:50 )