青い瞳と光‐111
* * *
――――――まだ、辿り着いていないようだな。
グラードンとの戦闘が始まる前に、たった一匹で脱出したリオンは、彩のある風景を見てふと思った。目の前に広がる透き通った湖。岩から天然水の滴がポタポタと垂れる音。この場所は知っていた。否、この場所に『歯車』の一つが有るのは知っている。
湖の奥で輝きを放つ神秘的な光。その中で小さな心臓がゆっくりと時を刻む。
リオンはこの場所、『霧の湖』にたどり着いた後に、自分の行動をかなり後悔していた。仲間を置いてきてしまったことだ。忘れていた筈の激情に駆られ、何も考えもせず走り出した。自信の感情を優先し、我が儘を許してしまったのには、多少の理由がある。
あの『グラードン』が本物な訳がない。あんな粗末な威圧感とオーラは、本当の伝説のポケモンに比べれば天と地との差がある。リオンはそれを良く知っていた。この『霧の湖』を守っている本当の守護者……その者が作り出した『意思のある幻影』。さすが『幻』とされるポケモンが作った幻影だ。良くできている。しかし、そのポケモンが『幻影』だと知っているリオンにとっては……ただのお芝居。ハリボテにしか見えない。
しかし、だからと言って自分の『任務』を投げ出すとは何事か。しかも、守らなければならない筈の『あの方』を放り出すなどということは言語道断……リオンは自分自身を叱咤する。
戻った方がいいのか。良いに決まっている。戻らなければ……。わかってはいるが、体が光の方を向いて戻ることを許そうとしない。
「…………あれ、は……」
湖に浮かぶ一つの『光』に、思わず手を伸ばしたくなった。思わず手が震え、手首を折った状態でゆっくりと光の方へと持ち上げた。湖の上に浮いており、ここからかなり遠い。届くはずはないのに、とてつもなく手に入れたい。……手に入れなければならない。
「……侵入者……あなたは何者ですか」
落ち着いた声がリオンの背後から聞こえた。『光』に惑わされ、気配を感じることが出来なかったリオンは、勢いよくそちらを振り向く。
そこには、リオンが知る『本当の守護者』が佇んで居た。
「お前が……噂のユクシー、か」
「……ええ。仰る通り。……質問にお答え願いたいのですが。あなたは何者でしょう?」
「俺は探検家だ……と。名乗った所で、結局お前は俺の記憶を消すのか?」
「あなたが悪意を持つ者とみなせば。……いえ。あなたは、あの光の正体を薄々わかっておいでのようですね」
小さき、『霧の湖』の守り神……ユクシーは、静かな声でそう話すと、ゆっくりと口角を上げて微笑んだ。ここから、リオンはどう出るべきか考える。下手に動けば自分の記憶が消されてしまう。
あの湖に浮かんでいる物が目的で現れた者だと判断されてしまえば、即記憶を消されることは目に見えている。ユクシーは無暗に『霧の湖』の情報が出回ることを避けたいはずだ。リオンや、その手前で戦っているアカネ達がここに来た目的は、あくまで『霧の湖の探索』である。そのことを正確に伝えなければ、ユクシーは間違いなく記憶操作を行うだろう。
「何を考えていらっしゃるのですか?」
「……どういうことだ?」
「視線が斜め上を泳いでいます。考え事をなさっていたようですね」
「嗚呼。少し考えをまとめていたところだ。お前のその様子だと、俺の記憶を消す気満々らしいな」
「それが、この湖を守ってきた手段です」
冷静な声でそう言い放つユクシーの顔には、既に笑顔は浮かんでいない。リオンを信用していない証拠である。……信用できる材料が無いのだ。あの有名なプクリンのパトラスが率いるギルドの一員……そういえば、少しは材料になるだろう。リオンは視線をユクシーに真っすぐと向けながら、また思考の海を泳ぎ、陸地へと上がる。
「……俺たちは、霧の湖を探してここまで辿り着いた。俺に仲間がいるのは、なんとなくわかっているだろう。
有名な探検家、パトラスの率いるギルド。俺はそこに所属する者だ。俺や、グラードンと戦っている仲間は石像の謎を解いてこの場所へ辿り着いた。あの光が何なのか……ユクシー。お前がそれを悪と見なすなら、俺は詮索しない。ただ、身を削ってここに辿り着いた仲間のことを考えれば……霧の湖は存在する。その事実だけでも伝えたいと思うんだ」
「……成程。あなたが仰いたいことはわかります。ですが、あなたの言葉だけで、外で戦っている者たちをここに入れるわけにはいきません。
…………一つ目の門。グラードンが、倒されたようです」
ユクシーは柔らかく口角を上げると、ゆっくりと手招きをした。
* * *
『霧の湖』手前にて、グラードンと戦っていた一行は、更なる『予想外』の出来事に遭遇していた。
アカネに『アイアンテール』で背中を叩かれたグラードンは、攻撃の衝撃により、今までとは比べ物にならない程体制を大きく崩し、苦しそうに唸り足を空回りさせながら地面に倒れ込んだ。
以前、アカネの瞳は目立つほどに激しく『青色』に輝いている。何者かに乗っ取られているように、アカネの体はスムーズに軽々と動いた。グラードンが倒れ込むと同時に、体制を立て直す隙を与えないよう次は尻尾で大きく体を空中へ跳ね上げると、重力の力を使い、突き刺さるような『アイアンテール』をグラードンに叩きつける。それと同時に電気をそこから流し、更に麻痺状態へとグラードンを追い込んだ。
「アカネ!!?」
カイトは驚いた。先ほどまでぐったりとしていたアカネが、いきなり起きだしてグラードンをひっくり返したからである。意味の分からないどんでん返しに、カイト自身は嬉しいというよりかは『驚き』の方が勝っていた。シャロットはただただ目を見開き、倒れ込んでいる今がチャンスという状態のグラードンを攻撃するのを停止してしまう。
「……アカネの目、何、あれ……」
ステファニーは、以前にもアカネの『瞳』が『赤く』光ったような光っていないような、そんな場面を何度か見たことがある。しかし、青色とはいったいどういうことか?
彼女の瞳の奥が赤くなるのは、主に彼女の感情が大きく動き、怒りや興奮しているときに現れていたような気がする。
「……あれ、は……」
それを認識した瞬間、ステファニーは何とも言えない気味の悪い感覚を感じた。その妙な感情がどこから来るのかは分からない。だが、アカネの『青』に支配された瞳に、びりびりとした感覚が全身を伝っていく。
「アカネ!?どうしたの!?」
「………………」
更に彼女のグラードンに対する追撃は続く。『アイアンテール』の後に『十万ボルト』を、まるで雷のような勢いでグラードンに放つ。本来ダメージはあまりない筈だが、それでもすでにグラードンはお手上げ状態。しかし、アカネはなおも攻撃を続行しようと、体に力を巡らせた時だった。
彼女はふと我に返り思った。『何をしていたのか?』と。
意識はあった。やっていることも理解していたが、これ以上攻撃する必要はない。しかし、自分はまだグラードンに攻撃を放ちたがっている。何の意味があるのか。目的はグラードンをすり抜けてこの先へと向かうことである。
そもそも……先ほどまで自分が考えていたことが思い出せなかった。……何を考えながら私は戦っていた?何をしていた?……何も考えていなかった?
「アカネ、グラードンから離れて!」
「え?」
スッ、と。目を覆っていた『青色』が消えた。しかし、その直後思いもよらないことが起こる。
先ほど会話をし、そして戦っていた筈のグラードンが、眩いほどの光に包まれた。アカネは咄嗟に反応することが出来ずに目を瞑る。瞼の裏から明るさが消えたと同時に目を開くと、グラードンがひっくり返っていた筈の場所には……何も存在していなかった。
「は!?」
「グラードンが消えた……」
どこを見渡しても、あの巨大な赤い姿は見られない。すぐに逃げられるわけでもないだろうし、あんな巨大なポケモンが隠れればすぐに見つかるはずだ。あの光は一体なんだろう。全員の頭に疑問符が浮かび上がる。
「どこにいったんですかね……?」
突如姿を消したグラードンに皆動揺していた。一体どういうことだ。あの巨大なポケモンはいったいどこへ?
アカネのいきなりの変貌の事や、光に包まれた後姿を消したグラードン。目的はこの先に進む事だったはずだが、グラードンが姿を消したことで思考が吹っ飛び、疑問符ばかりが浮かんでいく。
「……あれは、本物のグラードンではありません。私が作り出した幻です」
「な……誰!?」
聞き覚えの無い声だった。消えてしまったグラードンでもなければこの中にいるメンバーでもない。リオンもこんな声ではなかった。聞き覚えの無い、研ぎ澄まされた落ち着いた声色。その声はどこから響いてくるわけでもなく、ただ淡々と語り掛ける。
「私はここを守る者。あなた達をこの先へ通すわけにはいきません」
「ま、待って!僕たちはグラードンが言っていたようにここを荒らしに来たわけでも何でもない……!ただ、確かめたいことがあって!」
そう言うと、カイトはちらりとアカネの方に視線を向けた。アカネは戸惑っていながらも、それに頷いて応える。ステファニーとシャロットには、『確かめたい事』が何なのかは分からなかったが、とにかく情報を得るために、ひたすらその声に耳を傾けていた。
「確かめたい事?」
「疑うかもしれないけど、嘘じゃない。ここに来た理由だって……そりゃ、僕たちは探検隊だ。ここまで来たからには何かお土産や収穫があると嬉しい。けど、君にとってそれが悪いことになるならそんなものはいらない!
ただ、僕たちはここに辿り着けたことがうれしいだけだ!信じてほしい!」
何者が発しているのかさえ分からない声に、カイトは懸命に訴えかけた。謎の声の主……ユクシーは、彼らの前に姿を現さぬままに考える。あのリオルの言うことと一致している。そして、パトラスのギルドに所属する探検隊……。
「……分かりました。あなた方を信じましょう。
私はユクシー。霧の湖の番人です」
ユクシーは彼らの前に姿を現すことを決めた。まずは希望に応えてみよう。記憶を消すのはそれからでも……ユクシーは、その考え方は自分でも甘い考えだと思っていたが、それでも向き合おうと決めた。
アカネやカイト達の前の空中に、突如光の胞子のようなものが発生した。一か所から湧き出ている光は、やがて何者かの姿に形を変えていく。黄色と白、額には赤い宝石、閉じられた瞳。
ユクシーは、姿を明確に現す。
「……普段は閉じてんのね。その目……」
「ええ。しかし、あなた達の姿はしっかりと見えます」
華奢なその姿を見て、ユクシー以外の皆が思う。これほどまでに礼儀正しく、穏やかそうなポケモンが他者の記憶を消してしまうのか。ポケモンとは不思議なものである。
ユクシーは顔をちらりと自らの後ろの方へと向けた。アカネ達から見た向かい側。アカネはその視線が気になり、ふとユクシーの後ろ側へと視線を泳がせると、ここからそう遠くはない岩壁にリオンが寄りかかり、気まずそうな顔をしているのが目に入る。彼は事前にユクシーと会っていたらしい。
「リオンッ!!」
それに気づいたステファニーは、怒ったような声をリオンに向けた。ゴメン。と、リオンは申し訳なさそうに軽く手を上げ、腰を緩く折る。ステファニーは無意識に頬を膨らませ、目を潤ませた。シャロットは片足を上げると、そんなステファニーの頭をポンポンと撫でるように軽く叩く。
「……私は、霧の湖を守っている者。彼は今回の一匹目の侵入者でしたが、彼が霧の湖に先に訪れなければ、私は交渉する気にはならなかったでしょう。あなた方が彼の有名なパトラス率いるギルドの探検隊である事。霧の湖に何があるのかをご存じないということ。形ある物よりも、真実を求めていること。それを前提に私はあなた方の目の前に現れたつもりです」
ユクシーは淡々と一行にそう告げた。ユクシーはリオンとの会話の内容を告げ、同時に彼をフォローしていたつもりだった。一番彼に反感を持っているであろうステファニーも、そうなんだ……。と、怒りを抑え、落ち着きを取り戻す。大人気なかったな、と思い、彼女もまた、リオンに向かって軽く頭を下げた。
「今から、霧の湖へ案内します。どうぞ……こちらへ」
ユクシーは一行を湖に案内しようと、後ろを振り返り、来た道を戻り始める。場がざわめきながらも、全員がそれを信じてユクシーの後を追いだした。
ユクシーは気づいていなかった。リオンが真っ先に霧の湖を訪れた意味を。グラードンという強敵。そして、その影にユクシーというポケモンがいる。それは真実だった。
しかし、そうではない。グラードンという『強敵』だからこそ、霧の湖へと足を踏み入れる意思があるのなら真っ向から仲間と戦う。それが考え方の『順序』なのだ。しかし、リオンは違う。真っ先に仲間を置いてグラードンをすり抜け、霧の湖へとやってきた。真っ先にユクシーに会いに行った。
伝説のポケモン、グラードンが目の前にいる。自分たちを追い払い、場合によっては殺す気でいる。そんな状況下で『ユクシー』に会いに行けばどうにかなる。そんな考えにたどりつくポケモンはなかなかいないはずだ。しかし、リオンは真っ先にそれを行った。ユクシーとリオンが最初に会話した時点から不自然だったのだ。
ユクシーはリオンの心を知らない。リオンが予め、グラードンが『幻影』だったということをしっていた。それをユクシーが知っていたなどということは無いのだ。確かに、現在リオンは霧の湖において『無害』であったが、今回は不自然なほどに、完全にユクシーの考えが甘いのだ。『自分と交渉しに来た』と単純に判断し、そのうえで霧の湖へと案内しようとしていた。
そんな不自然さに気づかないユクシーに対し、その状態をリオンは好ましく思い、そして……同時に苦々しくも思っていた。
しかし、『霧の湖』への執着故に、彼も又重要な事を見逃していたのだ。ユクシーとリオン省き、全員が目撃している事である。彼は『真相』を知る機会を逃したのだ。
…………真実が近づき、一歩遠のいた。