【闇夜の蜃気楼】≪後編≫
*
―――――――たすけて。
空から地へと響き渡るような声が世界を包む。
世界は灰色だった。灰色の世界の中に点々と見慣れぬ摩天楼。そして、世界を囲むように存在する赤く冷たい花がいくつもこちらを見つめては、風に揺れている。灰色の世界に存在する彩はそれだけで、薄暗いその世界はどこか存在しない未来を連想した。
俺はその花々の目の前に立っていた。花が灰色の町を囲み、俺がいる世界とは明らかに別の世界を護っているように見えた。赤い花に守られたその町の中には輪郭のはっきりとしない灰色のポケモンたちが、まるで日常を過ごすかのように存在している。
その中に、灰色と赤以外のもう一つの色を見つけた。
鮮やかなブラウンを煌めかせて、灰色のポケモン達にただひたすらに紛れている一匹のイーブイの少女。俺の良く知っているあの少女の姿だった。
――――――ステフィ!
俺は花の輪の外から名前を呼んでいた。遠吠えのような、空に響き渡る声だった。何重にも重なって聞こえるその声は、少女には届かない。
―――――ステファニー!!!
もっともっと響け。喉がじんじんと痛んでいるように感じた。冷たく乾いた空気が喉に流れ込んでくる。体の中が酷く乾く。それでも俺は名前をよんだ。彼女の名前を叫び続けた。
それなのに何故届かないのか。
嗚呼、距離が遠すぎるのかもしれない。
そう思って俺は足を踏み出そうとした。目の前に咲き乱れる赤い花々を踏んで先へと進もうとした。けれど、足先が赤い花の花弁に触れそうになったとき、ふと動きが止まる。
何故だかわからないが、体が動かなかった。花に近づこうとするたびに気持ちが悪くなる。行きたくない。そう思った。
敷き詰められたように咲く花々の切れ目を捜して、赤い花の輪の周りを沿うように歩き続けた。けれどどこにも切れ目はない。どうしよう。これでは先に行けない。
あいつに会いたいのに。謝りたいのに。あいつのことを知りたいのに。おれのことも話したいのに。この妙な赤い花がある所為で俺は先に進めない。
いっそのことこいつらを引きちぎってしまおうか。手を伸ばして花の茎に触れた。触れた途端に、冷たい感触が指先から伝わる。こんなに冷たい花があるのか。引きちぎろうとした途端に、指先がじくじくと痛んだ。その痛みが、指から腕へ、腕から首へ、胸へ、腹へ、更には頭へ足へ。じわじわと広がっていく。
苦しかった。
体がどこもかしこもひどく痛んで、俺は膝から崩れ落ちてうつ伏せに倒れ込む。くしゃりと何かを体が押しつぶし、ぽきりぽきりと何かが折れる音がした。
俺は、赤い花の中へと倒れ込んでいた。
視界がぼやける。力が抜けて動くことが出来ない。
最後の力を振り絞って目を開き、少し顔を上げると、ステフィの体がどんどんと滲んでぼやけてきた。
いやだ、もう見失いたくないのに。
そんな感情も意思も虚しく、そこで意識は途切れた。
「…………ゆめか」
* * *
「……えー……というわけで、お前達。突然ではあるが、リオンは事情があってギルドを去ることになった」
朝礼の場が騒めく。親方パトラスとペリーがいつも朝礼場の戦闘に居るのは何ら違いはないのだが、今日はその隣にルカリオの彼も佇んでいた。彼の身なりは既に旅に出る者の装いそのもので、いつも軽めに道具が詰められている彼の探検用バッグは、今はパンパンに膨れ上がっていた。首元にはスカーフが括られており、ギルドを去るというのは二日後三日後の話ですらないという事を皆に悟らせる。メンバー達が不安気に騒めき、まるで予想通りの反応を示す中で、ペリーは自慢の鮮やかな翼でふわりと飛び上がり、彼の耳元で嘴の先を開く。
「おまえ、本当にこれでいいのか」
冷静か且つ、厳しさを含む声だった。そもそも、このパトラスのギルドというのは修行が厳しすぎる故に脱走するポケモンすらいたという環境。ギルドから抜けるなどということなど簡単にできることではないのだ。しかし、ペリーとパトラスは彼から事情を聴いていた。だからこそ無理には引き留めず了承したのだが、それでもなおペリーは彼に確認する。
今までの日常を本当に手放すつもりか、と。
「…………みんな。ちょっと話を聞いてくれないか」
「リオン、あんたどういうこと?ギルドを抜けるなんて……聞いてない」
ギルドメンバー達の中でも特に動揺していたのはアカネだった。ほんの少し憤りを含んだ瞳で彼の方をじっと見つめている。彼女の瞳の奥にぼうっと赤い光が浮いていた。その怒りはどうやら本物らしい。彼女の隣では、カイトが少し気まずそうな顔で俯いていた。彼には既に話してあることだったのだ。アカネには話していなかったらしい。それでも可笑しくはなかった。あの話をした翌日には既に発つつもりだった、なんてことはカイトには一言も言っていない。彼からすれば計画していたことだが、メンバー達にしてみれば突然の話だった。
「…………俺が、この世界に帰って来た日。皆気が付いていたと思うが……俺は、今までのような振る舞いが出来なくて、ずっと皆に壁を作って来た。
実際、今も同じで……正直、このままじゃどうやっても壁を取っ払うことはできないし、前のように皆と接することも難しいと思う。俺が帰ってきたとき、今までのリオルの姿じゃなくてルカリオになってた時も、皆普通に接して、受け入れてくれたが……俺は、それが出来なかった。
俺は消滅する前、希望を持っていたというよりもどちらかと言えば……絶望してたのかもしれない。それに近い、諦めのような感情を持っていたのかもしれない。未来が変われば俺達は死ぬ。存在しなかったことになる。暗黒の未来を食い止めるためには、俺達が死ぬことが大前提で……どこかでそうやって見切りをつけてたから、ステフィがいなくなったところで変わらず普通に皆と接せていたのかもしれない。
けど、俺は戻ってこられるなんて思わなかったから。戻ってこれたのは自分の意思だったのかもしれない。けど、いざこうなるとどうすればいいか……わからないもんだな」
彼は悲し気な笑顔を作って皆を見た。先ほどまで騒がしくしていたのが嘘のように、皆しんとして彼の話に耳を傾けてみる。大勢の前でその顔を一つ一つ眺めていると、彼の中の思い出が頭の中を幾度も通り過ぎていく。
ギルドを辞めたら、もうそんな思い出達を更に重ねていくなんてことは出来なくなるのだろう。どこかそれを寂しく思っている彼がそこに存在した。
「…………俺はあまりにも自分の使命を引きずりすぎてて、こんな風に目的がなくなるとどうすればいいかよくわからなくなる。だから、とは言わないけど、俺が今一番求めているものを……新たな目標にしたんだ。
俺は、ここから出てステフィを捜そうと思う。一体何年かかるかわからないし、もしかすれば一生見つからないかもしれない。そもそも、ステフィが俺やアカネのように帰ってきているのかさえ分からない。無謀だと思う奴もいるかもしれないが、それでも俺は…………」
口に出していると、いかにこの考えの計画性が皆無なのかを思い知らされる。彼の声は、徐々にフラフラと不安定になって来た。
しかし
「良い…………と、思うわ」
突如飛んできた言葉に、彼は目を見開いた。それはアカネから発せられたものである。驚いた。てっきり、こんな無謀且つ無計画な話、あまり乗ってくれるポケモンなどいないと思っていた。
とくに、先ほどまで動揺を隠しきれていなかった彼女は。
アカネの一言で、他のメンバー達も声を上げ始める。それはすべて、彼の考えを肯定するものだった。
「何年かかろうがいいじゃありませんか。今アナタにとって大切なのは、ここで探検家として過ごしていくよりも……彼女を捜すために動くことなんですわね。
けど、年単位で話を出されては私達も寂しいですわ。たまには、顔を見せてくださいね」
女性陣の中では、ステファニーと仲が良かったフラーがそう口にする。他のメンバーたちは首を縦に振りながら肯定した。ちらりとアカネの顔を見て見ると、彼女は腕を組み視線を逸らしつつも小さく頷いている。そんな彼女を見て、どこかほっとしているような表情を浮かべるカイトの様子も目に入った。
「…………ありがとう」
「……てか」
じろりと睨むようにアカネの瞳が彼の方を向いた。少し低めのトーンを乗せた声に微かに肩が揺れる。いきなり話すものだから、少し驚いてしまった。そんなことはお構いなしにと、アカネは口を開く。
「なんていうか、決める前に相談してくれなかったのはほんと、気にくわないんだけど。……ねぇ?カイト」
そのまま流れるようにじろり。彼女の瞳はカイトの顔へと向けられた。がちがちに固まった笑顔で『そうだねぇ……』と返事を返す彼は、どこからどう見ても怪しい。おそらくアカネは気が付いた上でこんな風に追い打ちをかけているのだろう。彼はそんな光景を見つめながら微かに冷や汗を流すようなぞわぞわとした感覚を感じる。明らかにいじけたような目をアカネに向けられて、彼も結局がちがちの微笑で対応するしかなかった。そんな様子を見つめる周囲の視線はどこか暖かい。
「……ま、それは別にいいけどさ。…………それに。あんたがステファニー捜しに行くって言って…………どこか、ほっとしてる。
頑張ってきな。ところで……いつ行くの?」
「嗚呼……もう、数時間後には出る予定だ。探検家としての権利を手放すつもりはないし、あくまでギルドを抜けるだけだから……手続きにもそこまで時間はかからない」
「探検家は続けるのよね?」
「嗚呼。あいつが戻って来たって、俺が探検家やめてたらきっと怒るだろうからさ……だから、チームブレイヴを手放すつもりもないよ。ずっと一匹で動く予定ではあるが……仲間がいるのも、悪くないしな」
彼はそう言って微かに微笑む。それを聞いているうちに、アカネの目元は徐々に潤んできていた。それを隠すようにして目を拭うと、『あっそ』と、小さくつぶやいて彼から顔を背ける。
「アカネはこうだけど、本当はすっごく寂しがってるから」
カイトがダイレクトのアカネの頭の上に手を伸ばし、優しく撫でながらそう言った。アカネの瞳は別の意味で潤み始め、黄色いふわふわとした毛の下を真っ赤に染め上げてカイトの足を軽く何度か蹴りながら反発する。怒っているというよりかは照れ隠しなのか、本気の蹴りにも見えず、どこかカイトも嬉しそうだった。
「な……ちょ、勝手な事言わないで!別に寂しいとかないから。会おうと思えば会えるわけだし……!」
「はいはい。だからさ、リオン。ホントちょいちょいでいいから帰ってきてよ」
朗らかに笑うカイトの横で、少し顔を伏せつつ彼の顔を睨みつけるアカネが可愛らしく見えた。彼女は、ポケモンとして初めて出会った頃とは比べ物にならない程に、分かりやすく感情を表現するようになったと思う。感情そのものも豊かになった。
そんなアカネは、ほんの少しだけではあるが、人間だった頃の彼女と重なって見えた。
「お前なんか、デレの割合増えたな」
「は?」
ついつい言うつもりのなかったことをぽろりと口に出してしまった。この雰囲気だから簡単に流れるか、微かに思ったものの、アカネの冷めた目と低い声で微かに足元が震える。自分の属性を理解していない女はこれだから怖い。彼は再びガチガチの苦笑いを顔に浮かべた。
「……ま、まぁ。とにかく…………みんな。今まで世話になったな。本当に……ありがとう」
「おうよ!俺達もお前と一緒に修行できて楽しかったぜ!」
「別に永遠の別れじゃないでゲスから、寂しくなったら戻ってくるでゲスよ!」
仲間たちの声が響く中で、彼はほっそりとしたしなやかな身を折り曲げて、深く頭を下げた。視線は真っすぐに地面を見つめているが、ふと目尻が熱くなる。どこか鼻がふさがったような感覚になり、うっすらと目に薄い水の膜が張っていることに気が付いた。頬が熱くなってくる。
(……なんでこういうときは、泣けるんだろうな)
皆にばれないように鼻をすすり、軽く右手で目に浮かんだ涙を拭きとった。
ギルドの仲間たちは、快く送り出そうとしてくれている。何故か、嬉しいのか悲しいのかよくわからなかった。
朝礼が終わり、彼は最後に自分とステファニーの部屋だった場所へと足を踏み込む。今ではすっかり彼女の香りは消えてしまっているが、以前はギルドの中の匂いに、彼女の香りが混ざったような不思議な匂いがしていた。実を言うと、彼は最近ローズ家を訪れるまで、彼女の匂いなど忘れてしまっていたのかもしれない。
ステファニーが居なくなってからも、この部屋にはずっと寝泊まりをしていた。にもかかわらず、このタイミングでどうしてか懐かしさが胸の奥からじわじわと溢れでてくる。徐々に、写真を見返すかのように記憶が鮮明に蘇えってくる。この部屋でステファニーと寝泊まりしていたころ、確かに彼は焦っていた。自分の使命へと真っすぐに突っ走っていて、頭が沸騰するほどに悩むような時だって存在した。
しかし、彼は幸せだったのだ。
彼は、自分の部屋に向かっても深く頭を下げた。さようなら、の意をこめて。
* * *
ざざざ、ざざざ。
繰り返すように鳴り響く心地の良い水の音。水が海岸へと押し寄せては、何かをあきらめたかのように引いていく。足元の黄色い砂はじっとりと濡れていて、地面を踏むたびにざくざくと音を盾、足元が沈み込む。
水がかかるかかからないかと言うところを、海の淵にそって歩く。今日も又、橙色の空に透ける七色の泡がふわふわと空に浮いていた。目の前をよぎっていく泡越しに眩い光を放つ夕日が飛び込んでくる。今日も美しい風景である。
海に広がる夕日の色は一体何色を表現しよう。あまりにも眩しすぎるそれに微かに目を細める。ここに頼るのも今この瞬間が最後だと思った。既にギルドに別れを告げ、部屋を引き渡して出てきたばかりである。暫くはこの大陸の中も捜すが、見つからなければほかの大陸へと足を運んでみようと思っている最中だった。
海を渡る手段。ラウルが手を貸してくれればどうにかなるだろうか。『時の歯車事件』と、それに関連する事件にて大きな役割を担った彼は、あれ以来よくこの海岸を通る様になった。否、元々彼が散歩を始める前からよく立ち寄っていたのかもしれないが、今頃になると海の夕日を横切っていくのを彼はよく目撃していた。彼の美しいシルエットが夕日を横切っていくのは、どこか神秘的な光景にさえも見えるのだ。今日は会っていないが、後々そのような話をしてみようと思考する。
ギルドを離れるという事は、前から考えていたことではあったものの、今こうしてギルドを離れるという選択は少々早とちりのように思えた。何故なら、彼はまだこの大陸で深くステファニーを捜していたわけではないからである。ギルドという場所を抜けたという事はつまり、安定した寝床も居場所も存在しない。ローズ家の夫婦は受け入れ態勢ではあったものの、あそこを彼の帰る場所や居場所というのは少し無理があった。
しかし、早い決断でよかったのである。
それを引きずれば引きずるほど、自分は駄目になる。無気力と虚無感に飲み込まれてしまう。彼の中の何かが、そう警鐘を鳴らしていた。だから、これでよかったのだ。まだ寂しさを拭えず、流しかけた涙が糸を引きつつも、彼はほんの少しだけ安堵のため息を漏らした。
さて、と。夕日をバックに気を取り直し、彼はバッグの蓋を開いた。中から丸まった地図を取り出し、その内容を眺める。探検用に配布された不思議な地図は、基本的にこの大陸のことしか書いていないものだ。この大陸の中を捜した後、もしもの時はどうするか、既に彼は決めていた。
朝礼が終わり、ギルドから発つために本格的に動き始めた頃。
彼の元にアカネとカイトが寂し気な顔をしながら訪れたのは丁度昼過ぎ頃だった。彼がギルドを発つということも有り、おそらく仕事に行って帰ってきたころには既にいなくなっているだろうと踏んだのか、今日は二匹とも仕事時間を詰めて帰って来たらしい。仕事先で少し掠ったのか、カイトの腕には軽い擦り傷が残っていた。かき集めた荷物の入ったバッグを自分の足元に置き、彼がそれを指摘すると、カイトは苦笑いしながら大丈夫だ、と怪我をした方の腕を振り回す。それを捕まえて持ち前の能力で治療を始めるアカネを見ても、既に心の底から湧き上がる何かは姿をひそめて湧き上がっては来なかった。治療が終わったのか、アカネは一旦カイトの手を放し、丁度彼のバッグが置いてある直ぐ近くまで来て尋ねる。
「あんた、何時頃にギルドを出るつもり?」
「予定としては後数時間すれば出るつもりだ」
「シャロットには会わなくていいわけ?」
「別に大陸を出るわけじゃないしな。いつでも会おうと思えば会える……筈だから。勿論お前達とも」
「ふぅん」
どこか納得のいかない顔で俺の方をじっと見つめるアカネだったが、ふと目を逸らして大きくため息をついた。憂いを帯びた顔つきで地面をじっと見ると、再び彼女は大きくため息をつく。一体なんだろう、と彼は少し不審に思った。又、その様子さえも面白くなさそうな顔で見ているのはカイトだった。カイトも少し目を細めると、リオンに話を振った。カイトの顔は嗤っていたが、どう見ても心から笑っていない。ぞわりと彼の背中に寒気が走る。どこか懐かしい感覚だ。
「……ところで、リオンは行く先にあてはあるの?ステファニーを捜すって言っても……」
「暫くは、この大陸の中を捜すことになると思う。情報収集もあるし、あまり長居はしないだろうけど……その後のことはあまり考えてないな……」
「はは……本当にノープランなわけだね……。じゃあ、僕から一つ提案させてもらってもいいかな。もしかしたら、探す上で近道になるかもしれないんだけど…………実は僕の出身した大陸に、過去と未来を見通して真実を見極めることが出来るっていう話を持つポケモンが居るんだ。けど、彼はあまりポケモンと接すのが得意じゃなくてさ……だけどリオンの事はきっと知ってるはずだよ。だから行ってみたらいいと思う。場所は大いなる峡谷にある、精霊の丘って場所だから。もしも必要になったら、声を掛けてよ。協力するから」
「俺の事を……しっている?」
どういうことなのか彼はカイトに聞き返す。しかし、カイトは何も答えずに困った顔をしているだけだった。その代わりに少し苦笑いをすると、こんなことをカイトは口にした。
「そのポケモンはネイティオ。名前はハルセリオ。多分声を掛けても反応してくれないだろうけど、くずぐるか何かすればリアクションはしてくれる筈だから。……だから、頑張ってね」
そうして寂しそうに手を振ると、アカネとカイトは踵を返して彼の元から離れていく。暫く不思議そうにその小さな背中二つを見つめていたが、ふと違和感に気が付いた。
ステファニーを捜しに行く、などというと、カイトならば全力で協力するだのなんだのと言いだしそうなものだが、今のカイトにその気配はない。
先ほどまでのカイトの寂しそうな顔を思い出して思う。もしかすれば、下手な手出しはしないようにしようと考えているのかもしれない。先ほどまでのカイトの提案を聞き、アカネもなにか突っ込みを入れそうなものだったと思うが、アカネはそれをしなかった。
彼は目を細めて並んで歩く二匹の背中を追う。
これから苦労することになるだろう。言われなくても分かる話だ。しかし、それを繰り返し伝えるようなカイトの行動に思わずため息をついた。
その溜息には、多少の感謝の意味も含まれている。
その数時間後、宣言通り彼はギルドをあとにした。盛大な見送りなどは無く、出る直前に一匹一匹に声をかけて挨拶をしてから去っていく。そのことについてメンバー達も皆気が回らなかったという訳ではなく、リオンがギルドを発つにあたり盛大な見送りになど意味はないと思っていたのである。別に永遠の別れをするわけではない。世界のどこかにいて生きていることに確信さえ持つことが出来ればまたいつでも会える。
それを少し寂しく感じるところもあったが、海岸での最後の散歩をしたその数時間後、まさにギルドならば就寝時間突然と言えば良いのか。彼はギルドから走って丁度三時間ほどで到着する場所にある少し古い宿に身を置いていた。ルカリオという種族が走ってその場所に到着するまでの時間ということは、それなりにギルドから離れた場所にある。その場所は以前、彼とステファニーが受けた依頼にて知り合ったポケモンの運営する宿だった場所だ。そこまで大した依頼を引き受けたわけでもなかったため、宿代はかなり浮くものの食事などの料金はきっちり取られた。とにかく最低の値段で食べられるものを腹に入れ、とりあえず今日は休もうかと藁を固めて厚めのシーツを二重に掛けたベッドに体を横たえる。ギルドのものではないために違和感があったが、毛布を体に掛けると少しずつウトウトと意識がぼやけてくる。
その時だった。
暗い筈の部屋にぼんやりと光がともる。彼は驚いて目を大きく見開くと、その光の源を見つめた。それは探すまでも無く、ベッドから少し離れた地面へと転がしてあるバッグから放たれているものである。ベッドに入る前に蓋を締め忘れたのか、バッグの中からぼんやりと光を放っているものがあった。
よく似た光り方を知っている。彼は急いで起き上がると、バッグの方へと駆けつけてその中に手を伸ばした。つるりとした感触に、ほんの少し暖かさを感じるそれは、通信機能の付いた不思議玉だった。
彼は光り輝いているそれを見て不審に思う。確かにいくつかそのような不思議玉をバッグに詰めた記憶はあるが、どれもこれもこんな風に発動するようにいじった覚えはなかった。戸惑いつつも通信を受け取れるように不思議玉をいじると、決してうるさくはない、落ち着いた声が不思議玉から聞こえてくる。
『…………あー。聞こえてるか。リオン』
「聞こえてるが……これ一体どうしたんだよ?」
不思議玉の向こうから聞こえてきたのは、間違えようもないペリーの声だった。彼の特徴的な声が不思議玉の向こうから飛んでくる。一体何事かと彼は眉を顰めると、ペリーの言葉に冷静に返事を返した。
『一つ言い忘れていたんだがな。お前の今持っている探検隊バッジなんだが、それは探検隊連盟によりギルドから支給されたものであって、実質フリーの探検家が使うものではないのだ』
「……は、はい?」
『ギルドを脱退し、所属する場を持たず探検家としての活動をするのなら探検隊連盟により別の種類のバッジが支給されることになるのだが、実はその手続きをしていなくてな。親方様のうっかりだったのだが、お前に充てられたバッジの回収をすっかり忘れていたのだ』
「は……じゃ、じゃあつまり?」
『お前は仮脱退している状態だ。つまり、実質まだパトラスのギルドのメンバーの一匹である』
「なっ…………」
思わず目が点になる。そんな彼の顔のことなど、不思議玉の向こうですっとぼけているペリーには全く見えていないのだろう。尚もどこかあっけらかんと話を続けようとするペリーの話を遮り、彼は少し声を荒げてかみついた。
「ちょ、ちょっと待て!というか、可笑しいだろ!ペリーが居ながらそんなミスが起こるものもそうだし、そもそもなんでギルドから通じるようにしてある不思議玉が俺のバッグの中に入っているんだ?入れた覚えがないんだが!」
『………………と、とにかく!お前は完全に脱退しているわけでは無い為、もしもほかのギルドに身を置こうとしてもそれは無理だからな!』
「ちょ、ペリー…………」
『あ、リオン?ごめんねー、僕が色々と間違えちゃったんだ。そういう訳だから、まだ仮にとは言え君はギルドのメンバーなんだよ。本当にごめんね』
「お、親方…………あ、まさか!この不思議玉…………」
とにかく、完全に脱退を完了した筈が実際の所仮脱退となっているのは、この二匹の策略あってのことだろう。そうでなければこんなに都合よく不思議玉がバッグに入っているなどという事は無いはずだ。そして、この不思議玉はおそらくあの時に仕込まれたのだ、と彼は記憶をたどって推測する。
「…………アカネとカイトもグルだったんだな……」
『さ、さぁ?なんのことかな』
昼頃に交わしたアカネとカイトとの会話。アカネと話した時、彼女はわざわざカイトの傍を離れ、彼のバッグの近くまで足を運び彼と接近していた。一方、カイトとの会話の際、殆ど彼女は口を挟んでこなかった。先に考えた理由もあったのかもしれないが、その理由はおそらく、その間にアカネが彼のバッグの中に不思議玉を紛れ込ませていたからである。そもそもの話、彼女がわざわざ近づいてきたことを疑問に思う事も無かったが、ようやく意味がわかった。そんなことにも気が付かなかったとは、すっかり油断していた。
『…………で、お前は一体……どうするんだ?』
「え?」
『一度、ギルドに戻って脱退手続きをするか?』
ペリーの声が、二言目でひどく弱々しく聞こえた。おそらくそれは、彼の心情を表しているのだと思う。改めて考えてみると、彼の胸はどこかキュッと締め付けられて痛かった。せっかく決心して、ギルドを辞める決意までして。彼なりのケジメのつもりだったのだ。
しかし、逃げ道が一つできてしまった。それが分かったとたんに、完全にギルドのメンバーではなくなるということが酷く怖いと思った。ギルドメンバーであるということは即ち肩書で、ギルドに所属していることを証明するというものであって、彼らとの絆や仲間だという事実は変わらない。
いつかまた申請し直し、メンバーに戻ることだってできる。しかし、それまでの彼は、パトラスのギルドとは関りを絶った、ただの探検家だ。
本当にそれでいいのか。彼の脳内に、ペリーの声とよく似たそんな声が、その言葉となって響き出す。
「……………………いや……すぐには、しない」
『……そうか。まぁ、不本意…………だっただろうからな。もしも思うところがあれば、また連絡をくれ』
「分かった。じゃ、そろそろ就寝時間だろ?」
『嗚呼……悪かったな。それじゃあ、がんばれよ。お休み』
「あ。……えーと。なんというか、ありがとう。じゃあ、おやすみ」
ぷつり、と不思議玉の光が途絶えた。急に暗くなった部屋に徐々に順応していく目を擦ると、彼は膝をついたままため息をついて窓からチラつく欠けた月を見つめた。
本当の意味でけじめをつけることは出来なかった。しかし、そこまでモヤモヤともしない。確かに不満だ。不満だし、出てくる前の覚悟を考えればケチをつけたくなっても仕方がない。あのポケモン達だって、ボロクソ言われても仕方がないという体で連絡をしてきたのだろう。
興奮冷めとでもいうのだろうか。やけに落ち着いている彼は自分自身を振り返り、そしてまた深くため息をついた。月がきれいだ。あの世界とは違い、美しい彩を纏いながら暗闇を照らす。その光の元、ポケモン達は知らぬ間に朝を迎える。
欠けているとはいえ、本当に綺麗な月だった。
さて寝ようかと、不思議玉をバッグの中に戻し、再びベッドに腰かけて脱力する。ごろりと寝転がる前に、最後に一度と窓から見える月を眺めた。
きれいだな。普通の言葉。普通の感想。しかしふとそこで、どこか懐かしい記憶が蘇ってくる。闇夜の上にふわりと浮かんだ月を見て、彼はその言葉を口にした。
「月が綺麗…………」
まだ、ステファニーが本当のステファニーだと認識し、ローズ家に居候をして数日経った頃の事。さすがにステファニーの父、テッドの頑なな反抗で同じ部屋で眠るということは無かったが、とある真夜中、ステファニーが得意げに頭に一冊の本を載せてノックも無く部屋に入って来た。
あの頃はまだ彼も居候という立場故、眠っていたのを叩き起こされたところでステファニーに文句をつけることは無く、『どうした?』と、彼女が自分の元に訪れた理由を尋ねた。彼女は、真夜中だというのに目が冴え切ってしょうがないという様子でふん、と鼻を鳴らすと、彼のベッドの上に一冊の本を放り出した。すでに題名など忘れてしまったが、ステファニーは彼が大して興味のないフィクションの話を切り出した後、やたらに印象に残ったあの言葉を彼に伝えた。
「昔ね、彼の有名な文豪が『愛しています』っていう言葉を聞いて、ならば自分はその言葉を『月が綺麗ですね』って表現するって言ったの」
「……なんだそれ?遠回しの告白なのか?」
あの時の彼は少し照れたように顔を背けてそう言った。今まで聞いているふりをして全く聞いていなかった彼が反応した一言に思わず可笑しくなってしまって、ステファニーはここぞとばかりに話尽そうと身を乗り出す。
「愛してるなんて言葉、一直線に言うなんて簡単にできることじゃないんだよ。だからそう、遠回しに好意と恋情や愛情を伝える言葉。ね、ね!それを察した相手はなんて言えばいいと思う?」
「ふ、普通に『はい』じゃないのか……?」
「これもまた誰かが言ったんだけど、今は『月が綺麗ですね』ってきたら、『死んでもいい』って返す。これでセットなんだって。まぁ、雑学だから何も知らないポケモンにこんなこと言ったら引かれちゃうけどね!でも、文学を嗜む者同士で言い合う言葉だって思うと、なんだかロマンチックだよね」
「そっかなー……」
彼にはよくわからず、ステファニーの熱気に押されて既に照れなどは冷めてしまっていた。そもそも、月という概念さえもがその頃の彼には新鮮で、それを愛の告白に例えるなどという事はあまりに彼の中に存在する次元を超えた話だったのである。
ステファニーはその時、どこか満足げに『そうだよ!』と訴えると、彼の寝泊まりしていた部屋にぽつんと存在するガラス張りの窓へと目を向けた。
その時に出ていたのは、真ん丸な満月で、夜になると暗い森の中を明るい光で照らしている。月の光が窓から差し込み、部屋の一部の床面をほんのり照らしていた。彼女はその光の中に立つと、背を伸ばす様にしてその大きな瞳に満月を映しだし、形の良い唇をゆっくりと動かしてこう言った。
「月が綺麗だね。リオン」
「そうだな……は?」
ふつうに返事をしそうになったところで、彼は大きく目を見開いてその月の下に居るステファニーの方を驚いたように凝視する。くるりと振り返った彼女の顔は悪戯に成功したような子供のような顔で、振り向いた瞬間にキラキラと輝いた瞳が一瞬、とてもきれいな光り輝く宝石のように見えた。そんな彼の心境を知る由もなく、彼女はとても機嫌よさげな顔でかれの元まで駆け寄ると、少し身を乗り出して意地悪そうな表情を浮かべながらも、柔らかく笑う。
「引っかかったー!」
「や、やめろ!もし聞かれたら俺がテッドさんにしばかれるだろ……!?」
「ごめんごめん。お年頃の男の子にはきつかったかな。
でも、あながち間違ってないよ。私からあなたへの友愛の言葉だから!」
無邪気に美しい笑顔を浮かべるそんなステファニーを目の前にため息をつくと、あの時の彼は呆れたように『もう寝るぞ』とベッドに横になり、それから嵐が去る様にステファニーは部屋から出て行き、夜を越えた。
流れるように記憶が蘇る中、今の彼はギュっと膝の上で拳を握りしめ、ふらりとした仕草で窓から見える月を眺めた。
ガラス張りも無く、ただただ壁に穴が開いているだけの窓。そこから見える月はあの時よりも一層眩しく、そしてどこか寂しいものだった。
はっきりと輝く月の輪郭がぼんやりと滲み始める。色の薄くなった闇夜の空に、蜃気楼のようにぼうっと佇む月は、どんどんとその形を上へ横へと滲ませ、光さえもぼやけてきた。
月がきれいだ。
その言葉が愛を示すというのならば、別に恋だとかそんな言葉だけに使う必要もない。
友愛。あの頃の彼らには、そんな言葉が一番ふさわしかったのかもしれない。
ただし今、彼女を目の前にして、胸をはってそんな言葉を口に出せるかと言えば、不思議とどこか寂しく、不安になってくるのである。
今の彼の目に映る月は、涙というものに滲んでしまって、お世辞にも綺麗だと言えるようなものではない。
彼はベッドからゆっくりと立ち止まって月へと手を伸ばす。
その光を遮る為ではなく、綺麗な月を手に入れるために。
月光の下に笑顔を浮かべる、美しい少女の言葉に誓って。
-fin-