【闇夜の蜃気楼】≪中編≫
* * *
今日一日休暇を貰えないか、と彼がペリーの元を尋ねてきたのは、朝の朝礼が始まる前の、まだ皆が起床していない時間帯だった。いつものように朝礼場にて朝の体操を行うペリーに声を掛け、今日一日仕事から離れたいという話を伝える。ペリーは訝し気に眉をひそめたが、最近の彼の様子で心配なところもあった。疲労が溜まっているのかもしれないし、まだ精神的に安定していないのかもしれない。そんな想像がいくつかペリーの頭の中を駆け巡っていき、決していい顔はしなかったものの、渋々了承した。
「朝礼も出ずに、いったいどこへ行くんだ?」
「それは……プライベートな事情だ。いろいろと」
今日一日、自由行動が許された彼は、その後すぐに自分の部屋に帰って荷造りに取り掛かった。今日、何処に行って何をするのかは決めていた。必要最低限のものを持つと、風呂敷の中にいくつか木の実を入れて括り上げ、トレジャーバッグの中に入れる。メンバーたちが起きてくるころ、彼は朝礼の一言目も聞くことなくギルドをあとにした。
早朝の少しひんやりとした風が彼の肌を霞める。影を避けるようにして日向を踏み、じんわりと伝わってくる太陽の光を浴びていた。太陽に照らされて明るくなった地面に張り付く影は彼のものだけで、彼の傍にはやはり、誰もいなかった。
トレジャータウンからは少し距離があるが、彼は『東の森』を目指していた。言わずもがな、それはステファニーの育った場所である。
彼自身でそこに行くと決めた割には、やはり足取りが重かった。沢山の責任感や罪悪感が背中にのしかかる様にして押しつぶそうとして来る。それでも行くしかないのだと自身を叱咤し、ひたすらに足を前へと進めていた。
目的が有ると、どうしても歩いている途中にその事ばかりを考えてしまう。彼は散歩が好きだった。それはあてもなく歩き回り、特に目的もない、何も考える必要がないからこその心地よさがある。目的の場所にどこかへ向かって行くというのは当たり前なのに、気がつけばそれが少し苦手になっていた。
『東の森』入り口付近には大きな家が建っている。そこがステファニーの実家であるローズ家だ。その巨大な家を見上げて彼はため息をつく。やはり、いつ見ても大きな家だ。一時期この家で生活をしたことがあったが、その生活っぷりを見るにお金にも困ってはいなさそうである。
家のドアの前にぶら下がっている呼び出し鈴に手を掛けようとして、少し動きを止めた。いきなり来てしまって迷惑ではないだろうか。おそらく、彼はこの家から疎まれる存在なのだ。ギルドを出てからしばらくたったとは言え、大体朝の十時だろうか。そんな時間から連絡も入れずに押し掛けると、余計心証を悪くするような気がした。
しかし、ここまで来てしまったからには仕方がない。彼は意を決して完全に呼び鈴に手を掛けると、小刻みに揺らして鈴を鳴らした。暫く待ってみたものの、誰も出てくる気配はない。留守だろうか、と彼は数歩ドアから離れて窓を覗き込んだ。白いレースが硝子戸の内側からかけられている。しかし、このローズ家は本来大家族で、誰か一匹は絶対家にいる筈なのだ。彼は首を傾げた。何度か窓に張り付いたレースを透かすようにして中を見ようとしてみる。じっと見つめて意識を集中させていると、何者かが窓を横切っていく気配がした。一匹ではない。二匹、三匹と、ローズ家のポケモンたちは普通に在宅のようである。それなのに何故、応答しないのだろう。
すると、ガサガサと奇妙な音が彼の耳に滑り込んでくる。真後ろの茂みが動いた。
「…………!」
彼は警戒したが、直ぐにそれを解く。不審な誰かの波導は、彼が知っているものだったからだ。彼よりも数倍小さな体に、憶えのある波導。彼はすぐにそのポケモンの名前を呼んだ。
「し、シモン!」
「げ…………」
苦虫でも噛んだかのような顔をして、彼の背後に立つフタチマルは顔をゆがめた。何故そんな顔をされてしまうのか、今の彼には分かっている。そして、おそらく自分に対してそんな顔をするのは彼だけではない。おそらくこのローズ家のポケモン達全員が、彼にそんな表情をわずかにでも見せる筈だ。
シモンという名前のフタチマルはローズ家の養子だった。ローズ家のポケモンは全員養子となっており、ローズ夫妻の間にできた子供ではない。勿論、それはステファニーも然りだった。
「…………リオンさん、だよね?」
「……ああ」
「そ、そっか。進化したんだ。すごく……かっこいいね」
顔が引きつっていた。どうにかこうにか、歪みそうになる表情を必死にいい方向へ持っていこうとしているのだろう。彼は何も言えなかった。ただ、『ありがとう』と一言告げただけである。
「…………姉ちゃんは、いないの?」
「……今日は、ご両親に会いに来たんだ」
やはり、シモンの瞳には悲しみの表情が浮かんだ。一時期この家に滞在し生活を共にしたことがあるから、彼は知っている。彼女がいかに家族の話の中で輝いていたのか。どれだけ愛されていたのか。
それなのに、その輪の中から飛び出させるような真似をさせてしまった。その原因を作ったのは、彼自身だと思っていた。
「あ……い、今お母さんよぶから。ちょっと待っててくれる?」
「一応鈴を鳴らしたんだが、いらっしゃるのか?」
「……あ……その、その鈴。今は鳴らしても中まで響かないようにしてあるんだ。その……いろいろあって。
……えっと、そんな風に突っ立ってないでドアの前に来なよ!お母さん呼ぶから!」
シモンは無理やり作ったような笑顔で笑うと、ドアの前に速足で向かって行く。彼も、シモンが向かう方へと足を進めた。シモンが少し高めの取っ手をどうにかして触ってドアを開くと、大声で母親を呼ぶ。音もなく、誰かの波導が近くなってくるのを感じていた。勿論、それは母親であるジュリアのものだった。
深紅の瞳と鮮やかな色彩、しなやかな体がゆっくりとドアから出てくる。ジャローダという種族であるジュリアは、相変わらず美しかった。
「お久しぶりね、リオン君」
予想外にも、ジュリアはその端正な顔にふわりと笑みを浮かべた。敵意も殺意も、負の感情を感じない。そんな状況に彼は戸惑ってしまい、微かに目を泳がせた。
「入って。大したものはないけれど、お茶位なら出せるわ」
女性らしい落ち着いたトーンの声。それが耳の中に滑り込むようにして響いてくる。彼は躊躇ったものの、彼女やシモンを中途半端に外に出したまま勝手に話し始めるわけにはいかない。彼は今日、彼女らに話をするためにここを訪れたのだ。意を決してドアの向こう側へと踏み込む。どこか、懐かしい香りがふわりと鼻の中に入り込み、体全体を包み込んだ。
安心する、どこかなつかしい香りだった。
木造の広々とした部屋に、木の木目の残る床。ふわふわとした鮮やかな色のカーペットに、包み込むように漂ってくる懐かしい家の香り。レースのついた綺麗なカーテンに、先ほどまで彼が覗いていた窓が透けている。
気を抜いていいような瞬間ではなく、むしろ一番緊張を感じるべき場面だったにも関わらず、どこか肩の力が抜けたような感覚になった。
「ハティ、お茶を用意してくれる?」
テーブル前に腰かけた一匹のモココの驚いたような視線に、パチリと彼の視線がぶつかった。彼女の事は彼も知っていたし、面識もある。ジュリアがハティと呼ばれたそのモココにお茶出しを頼んだのを聞くと、少し遠慮気味に彼は首を横に振って、手を揺らした。
「いや……そんな」
「いいのよ。ほら、腰かけて。シモン、お部屋に戻ってなさい」
「……うん」
家の中の空気がキシキシと音を立てて軋み始めているのを感じていた。台所に入っていそいそとコップに紅茶を入れているハティの動きもどこかぎこちなく、相当やんちゃ者だったであろうという記憶のあるシモンも、大人しく自分の部屋へと帰って行った。こっそりドアの影から覗いているという事も無く、波導は徐々に離れていくのが分かる。
そわそわとしてしまって、彼はつい部屋の中を見渡した。まるで、この世界に初めて来た頃のような感覚を覚えた。
「少しだけ懐かしいわね。懐かしい、という程前の事でもないのかもしれないけれど……初めて会った時のあなたもそんな風に家の中を見渡してたわ。緊張しているというより、あの時は驚いている風だったわね。その時はよくわからなかったけれど、今なら……なんとなく、分かる気がする」
「…………この家に驚いていた、という訳ではなく……この世界に驚いていたんです。
青々と茂った緑と、窓から差し込んでくる光に……青く透き通った空。部屋の中は炎なんて灯さなくても日が出ている時はずっと明るくて、あの硝子の花瓶なんか、日の光を受けるだけで七色に光って……未来とはまるで性質が違って。世界自体は同じなのに、全然異次元の空間に迷い込んだかのような……そんな気持ちだった」
「そうね。本当に、まるでそんな感じだった。……あなたが未来から来たポケモンだったって聞いた時は驚いたけれど、それよりなんだか納得しちゃったわ。
あの子は……ステファニーも……初めてであった頃、どこかそんな……浮世離れしたような感じがあったから」
ジュリアがステファニーの名前を出した途端に、台所でガチャリと鋭い音が微かに響く。ジュリアや彼は台所の方へ注意を向けると、その音の正体をすぐに発見した。どうやらハティが誤ってお茶の入った二つのカップをぶつけてしまったようだった。幸い割れてもおらず、お茶も零れていない。ハティは少し困惑したような表情でごめんなさい、と静かに謝ると、ゆっくりとお茶をお盆に乗せて二匹の所まで運んでくる。そういえば、ローズ家にしては家の中がやたら静かである。そう思った瞬間に、ことりと目の前に湯気が立ち上る紅茶がおかれた。微かにモモンの甘い香りが漂ってくる。モモンティーだった。
「お母さん、私は……」
「皆の事、見ててあげてくれる?戸棚の中にドライフルーツの練り込んであるクッキーが入ってるから、皆で食べて」
「うん、わかった」
ハティはぎこちなくほほ笑むと、彼に視線を向けて小さく頭を下げた。どうすればいいのか分からず、彼も小さく頭を下げる。条件反射とでもいうのか、頭を下げるときに瞼も下ろしてしまった。顔を上げて瞼をゆっくりと開いた時には既に、ハティの姿は消えていた。
「…………」
「ごめんなさい。あの子も……今は接し方がよくわからないみたいで」
仕方がないことだ、とは思っていたものの、実は少しショックを受けていた。というのも、彼がこの家に数日間居候することになった時も、彼がローズ家になじむことが出来たのはハティのおかげだったともいえる。もともと一家全員血のつながりがないということもあり、そういうところには寛容な過程だったとは言えど、年頃の娘が突然見ず知らずの同年代の男を家に連れてきたのだ。いきなり家の中で受け入れると言っても、そこまで簡単な話ではなかったはずである。
しかし、ハティは持ち前の気立ての良さで彼に対し姉的立ち位置で接し、すんなりと家族の中に引きこんでくれた。話やすい方であったし、さっぱりとした性格の分彼の身元についてもまったく気にしていない様子があり、好感を持っていた。
だからこそ、そんな彼女が今こうして彼に対して先のような態度をとっているという事が、今この家にとって自分がどのような存在なのかを知らしめられる一因ともなっている。
大切な家族を悪の道へと引き込んだポケモン、と言われても間違いではないのだ。
「……いいえ」
「ステファニーの事は気にしないで……って言っても、多分無理なお願い何だと思うんだけど。
今日来たのも、その事なのよね?」
「……ステフィの……ことを、少し……話さなければと思って。
でも、果たしてそれが必要なのかは……俺にはよくわからなくて」
「へケート……だったかしら。そのことについて目を瞑るつもりは一切ないの。だから……何も考えず、話してほしいと思ってる。夫には、私から何とか伝えるから。
だから……あの子について、話してほしいわ」
彼は小さく頷いて、軽く深呼吸をした。
それからの時間は流れるように過ぎて行った。
未来でステファニーといつの間にか成り代わっていた彼女の存在を初めて知った時の事、それに対する後悔の念や、へケートという女はあくまで二重人格だという訳ではなく、自分こそが記憶を失っていたステファニーだと自称している事。しかし、そのことに対してやたらとムキになっているところがあり、真相はよくわからないということ。へケートという女の、常軌を逸した思考回路のことや、その価値観の話。
そして、彼女がどうしてそこに至ったかという話まで。
「あいつの母親は、容姿に強い執着を持っていたらしく……自分と同じく、綺麗な姿をしたあいつを溺愛していたらしいです。だけどあいつがまだ小さいころ、誤って顔に一生ものの傷を負ってしまった時から、その態度は一変して……主に容姿や、アイツ自身の存在をなじるようなことを言って、精神的に追い詰めていたらしいです。
けれど、その時はまだあいつも……それを本気で自分の所為だと思っていたようで……母親に抵抗することなく、一日をやり過ごしていたようで……」
「…………」
話の内容がそういう類のものだということもあり、彼も俯き気味に話をしていたが、ふと視線を上げてみると、ジュリアの顔はひどく怒っているような、悲しんでいるかのような様子を漂わせていた。口元が不自然に歪んでおり、奥歯を噛みしめているのだろうというのが見て取れる。ルビーの宝石のような瞳は濡れて、今にも涙が零れ落ちそうだった。
「っ……やっぱりこの話は……」
「あっ……ご、ごめんなさい。いいの、続けて」
「…………あ」
ガタン、ギシギシと何者かが階段を下りてくる音がした。ひどく重々しい音だ。そして、彼はその波導の持ち主を知っている。
彼の様子がおかしいことに気が付き、ジュリアも階段の方へと顔を向けた。
「あっ…………あなた」
「…………よぉ」
ゆらりと壁の向こうから何かが顔を出す。威圧的なオーラを放っているポケモンが、壁の向こうからじっと彼の事を睨んでいた。その体の巨大さとオーラの鋭さに、彼は思わず息を飲む。鋭い眼光でみられて、どうすればいいかよくわからなくなり、彼は小さく頭を下げた。
「今日は具合がいいの?自分から降りてくるなんて……」
「具合がいいってことは無いけど、懐かしい奴の声が聞こえたもんだからな。家の奴らもやたら静かだし……もしかしてと思ってさ。
座っていいか?」
「だいじょうぶかしら?リオン君」
「あ……はい」
彼がそう返事をすると、そのポケモンは一度立ち止まって小さく深呼吸をし、そのご気を取り直したようにジュリアの隣へと移動した。随分と顔色が悪く、体調も良くなさそうである。
睨んでいるように見えていたその目は、ただ単に半開きになっているだけで、近くで見るとどこか気だるそうだった。ジュリアの発言からして、以前から体調がすぐれないのだろう。雰囲気がどこか張り詰めているのも、体調の悪さから来ているのかもしれない。
きっと、敵意など持っていない。彼はそう思いたかった。
「久しぶりだな、リオン。進化したのか。どうりで……声がちょっと違うなと思った」
「お久しぶりです。テッドさん」
かすれた声が彼の耳に届く。彼の目の前に座ったテッドという名のポケモンは、一匹のガブリアスだった。相変わらずのインパクトのある見た目に、彼は背筋を正した。しかし、その見た目とは裏腹にその声は優し気で、口元も柔らかく笑っている。だが、笑っていてもやはり悪人面なところがあるな、と思ってしまったのは秘密である。
「……お前、なんで泣いてるんだ?」
「あ……い、いえ、その……なんでもないの」
「……ステファニーの話してたんだな」
弱々しく半開きになっていた瞼がさらに細まった。微かに肩を震わせる。敵意を向けられる恐怖などではなく、ただただ申し訳が無かった。テッドがステファニーの事を溺愛していたという事を知っていたからである。今はこうして普通に話をしているが、初めてこの家を訪れた時のテッドの対応は少し厳しめだった。おそらく、娘に悪い虫がついたとでも思ったのだろう。暫く一緒に生活してどうにか敵意を拭い去り、そして今に至るわけだが、『悪い虫』という意味では別のことで良くない展開になってしまった。
どういえばいいのか、分からない。
「なぁ、リオンよ」
「なんですか」
テッドは少し身を乗り出して彼に話しかけた。何か聞きたい事でもあるのだと思う。できる限りのことはすべて、応えたいと思った。
「お前が最後に会った時のステファニーはどうだった?」
「…………」
駄目だった。
即座に応えられるような質問では無くて、彼は少し口ごもった後視線をテーブルへと向けた。ティーカップと、そこに入っているぬるくなった紅茶に埃が浮かんでいるのが見えた。温かみはないが、モモンの香りがまたふわりと鼻をくすぐってくる。その匂いを嗅いだ途端に、ふわりとステファニーの顔が彼の頭の中に浮かんできた。しかし、それはテッドの質問に重なるものではない。
そもそも、最後に会った時のステファニーとは?
へケートの事だろうか。しかし、彼はへケートの事をステファニーとは認識していない。そんな風には思えない。では最後に会った時のステファニーと言うが、それはいつの話だろう。いつステファニーとへケートが成り代わっていたのかもわからず、あの日記の内容が最後のステファニーだということは出来ない。
何と答えるべきなのかわからない。最後に彼女と出会ったのは、いったいいつだったか。彼には考えてみても分からなかった。
「………………俺が最後に見たときは、もうへケートなのかステフィなのかわかりませんでした」
テッドはへケートの事も全て知っているのだろうか。彼は一旦言葉を止めて、ちらりとテッドの顔を盗み見る。目を瞑り、何も言うことなく彼の言葉を聞いていた。嗚呼、知っているのだ。即座にそれを察すると、また話を続けようと息を軽く吸う。その時だった。
「ステファニーがどうなったとか、それを全部お前のせいにするつもりはない。だから、あまり気にしなくていい。というか……気にしないでくれ。
……お前がどうってより、あいつが望んで出て行ったんだ。その選択の先がたまたまそうだったってだけ……だと思いたいんだけど、そうもいかないのもわかる。
お前は何も悪くない。悪くないけど、親ってのはホント馬鹿で、悪くないってわかってるんだけどつい言い訳したくなる。自分の子供がやらかしたことをどうにか誰かの所為にしたくなってな。
だからつい数日前まで俺は、ずっとお前の所為にしてた。娘を外に出してやるのも反対だったし、知らない男と一緒に行かせるなんてもってのほかだって。俺はそう思っていたし、そもそもお前が現れなければステファニーはあんなことにはならなかったんだって……俺達の前から消えるようなことも、もしも消える運命だったとは言え、誰かを殺して楽しむような奴にはならなかったんだろうって……思えばそうだな。ガキみたいだったよ。ガキ以下のクズみたいな考え方だったと思う。でもそう考え始めた最初のころからどこかでその考えが可笑しいんだってことは分かってたし、ステファニーのことが気がかりで体調崩して、自分の考え方に罪悪感みたいなもんがあって、さらに体調悪化させてやつれちまってさ。
ステファニーもだけど、俺も迷惑かけたよ。やるべきことなんも出来なくてさ……」
「ちょっと……あなた」
「今はもう、そんな考え方をお前に押し付けようとは思ってない。けど、教えてほしいことがある。お前のいうへケートってのは、結局ステファニーだったのか?それとも、見た目があいつなだけの、全くの他人だったのか?」
「…………他人だった、と……俺は、思っています。けど、多分本人にもよくわかってなかったんじゃないかと……そうも思います。
へケートは、自分がステファニーであることにとにかく意固地になっていました。日記にも……そう書いてありました。けれど、ステファニーがへケートだとしたら、人格が分裂したように日記に別々の人格が書き込むのは可笑しいから……ステファニーは多分、おふたりの子供としての人格だった……と思います。
へケートがどうしてステファニーであろうとしたのかは、わかりません……けど」
「その……へケートさんっていうのは、ポケモンをその、殺すっていうところとはまた別に、どんなポケモンだったのかしら……」
ジュリアはつぶやいた。おそらく、彼の言葉を聞いて少しばかり安心したのだろう。自分たちの知っているステファニーがそんなことをするポケモンだという訳ではなく、実際は『操られていたのだ』ということを聞いて。本質は変わらないものの、心の余裕を作れるほどのことではあった。
「彼女はシリアルキラーやサイコパスを自称しているし……俺も、実際今はそうだとおもっています。ただ、生まれた頃から特定の感情が欠落しているそれらとは全く違う種類のものだったと……後天性のそれだったんじゃないかって思います。おそらく、母からの扱いや、あの暗黒の世界の環境が影響してるんじゃないかって。あの時のへケートは自己顕示欲の塊で、自分の存在がいかに偉大なのかをとにかく重視していました。だからあえてそれを考えてみると…………」
「そのへケートってやつの中では、本当は全くの逆……ってことか?」
「…………あなたの話しを聞いていると、本当は大人の見た目をした子供で、どこか幼稚で……成長していくためのものを、取りこぼしてきたような……。
ホントは自分の存在がなによりもちっぽけで、だから、あの子に飲み込まれるのが怖くて……自分が消えるのが怖くて、現にステファニーとして生きていた自分に自分を見出せなくて……ステファニーを押し殺したところで、周りにいるポケモンの目にはどうやっても自分がステファニーにしかみえない虚しさに、どこか、投げやりな気持ち……そんな印象がある。
その場にいなかった私がそう思うんだから、もしかしたらリオン君なのかしら。こんな風に思っているのは」
ジュリアは、彼に聞いた話を自分の中でまとめて、それを口に出してみる。不思議な気持ちだった。そのへケートがステファニーでないのなら、本当はなによりも憎い相手で、でも体はステファニーで……自分の子供の体を意のままに操ってポケモンを嬲る最低な女なのだ。
ジュリアは自分の頭の中の情報をそんな風に口に出しながら、妙な気分に陥っていた。ひどく同情してしまうような、どこか哀れで、かわいそうで、暗闇に包まれたへケートという姿の見えない女の存在が、どんどんとぼやけていく。彼女の境遇は何かに似ていた。それも、ジュリアが今まで接してきた何かに似ているのだ。
「…………おかしいわね。さっきまで憎かったのに。憎くて、哀れだったのに。何故か受け入れてしまいたくなってくる」
ぽつりとそうつぶやく。彼の知るジュリアは、本当に母性の塊のような女性だった。海の母親に酷く虐げられてきたステファニーの体に宿るへケートという女でさえも、彼女のそんな感情の対象に成り得るのだろう。あの事件から大分月日が経った。ジュリアやテッドにとっては、我が子を失ったと同等の悲しみに明け暮れる日々だったことだろう。それでも尚、ジュリアがそんな風に感じ取れるのは、へケートという女に対して同情できる余地を見出すことが出来たからに過ぎない。
へケート自身を目の前にしてまでその感情を保ち続けられるかどうかは定かではないが、今になってみると彼自身も複雑だった。
どうしてステファニーだけ返ってこないのか。時の運命が変わったことにより、一度は消滅したと思われた彼らの存在は、何かがきっかけで再び現世へと蘇った。アカネも、彼も。
それなのに、どうしてステファニーだけが帰ってくることが出来ていないのか。
…………それとも。
「……今日は、ステフィの事を話しにくるほかに、もう一つ目的が有ったんです」
「なに?それは」
「俺は、探そうと思うんです」
「え?」
テッドとジュリアの目が大きく見開かれた。視線を少し下に傾け、それに気が付かないふりをして話を進める。このことに関しては、言葉に詰まる要素はなかった。昨日からずっと、考えていたことだった。
「どうしても、あいつだけが戻ってこれていないなんて思えないんです。アカネ……元人間の彼女はともかく、俺は……俺は、あの事件においてそれほど大きな役割を成したとは言えない気がして。それなのに帰ってくることが出来ている。可能性のはなしではあるけど、きっと役割なんかの問題ではなく、時の改変によって消えてしまったポケモンたち全員が、何らかの形で蘇っていて……なら。ステフィだってそうでなければおかしい……まだ、巡り合えていないだけだと……もしかすれば、また記憶が妙なことになって、彷徨っているかもしれない」
「で、でも、手がかりはあるの?ステファニーを捜すんでしょう?」
「今の俺には波導を使う力があります。どこまでが限界かは分からないけど……」
「待て。確か、ステファニーが居た頃のお前はまだリオルじゃなかったか?あいつの波導の形なんか覚えてんのか?分かるのか」
「……テッドさんの波導も直感的に分かりました。シモンの波導にも覚えがあった……俺はきちんと波導の使い方を知っている。きっとできる筈です」
「……そりゃ、そうなら……止める理由なんて……ねぇけどよ……」
テッドの目が微かに泳ぐ。期待してしまっていた。期待をして、裏切られるのは本当にまっぴらで、いずれまたそうなってしまいそうだという事にテッドは少し怯えていた。彼も、波導など読まずともそれを感じ取っていたし、そんな二匹をジュリアはただただ心配そうに見つめる。
「ギルドは……どうすんだ?」
テッドは尋ねる。その質問に、彼は自分のこれから起こす行動について伝えた。
『そうか』と言ったきり、テッドは彼に何も尋ねることはない。
彼の意思は固かった。
* * *
「一体どうしたのさ。リオン」
数日後。ざわざわと騒がしいカフェの中で、カイトは不思議そうな顔をして名前の主を見上げた。リオンという名前の主である彼は、『ちょっとな……』と、妙に深刻そうな顔で呟きながら、ズズズとグミジュースをすする。毒々しい紺色のどろりとした見た目とは裏腹に、すっきりした甘さのあるジュースだった。カフェのオーナーはそのジュースについて『出来栄えは最高』と自画自賛していた為、思わずほっこりとした様子でため息をつく。カイトも、林檎百パーセントジュースを口の中に流し込んだ。
「…………なんか、話しづらくなったな。俺達」
「……正直ね」
少し驚いたような顔をしたが、カイトはすぐに自嘲的に笑うと、またコップに口を付けた。
出会った頃の事を思い出す。彼は、確かに自分はこんな性格ではなかったな、と思い返す。あの頃、彼はこの世界に馴染もうと必死だったのもあるかもしれないが、なによりどこか満たされていた。カイトと話をするのも楽しくて、アカネとカイトを見ているのが微笑ましかった。カイトから世間話にみせかけた惚気話のようなものを聞いては、どこかでそれを応援するような、そんな日々だった。
カイトも、先輩であり恩人である彼の事を尊敬していた。その気持ちは今も変わっていないが、最近の彼の様子を見ていると、仲間として、友達として、どこまで踏み込んでよいものかわからなくなる時があった。
無意識に、ステファニーを連想させるようなことは言わなくなっていたし、それに関連しそうな話題もふらなくなっていたのである。あくまで無意識で、だから不自然な距離なんて出来る筈もない。少しずつ、少しずつ……しかし気が付けば最近はいつ話したか、と思うくらいに距離が出来てしまっていたようだった。
そのことにはお互い気が付いていたし、どうしてそうなってしまったのかはもう考えなくても分かる。
「なんていうか……俺に気使ってくれてたんだろ。すまなかった」
「……ううん…………いいんだよ。……僕は……アカネが戻ってきてよかったんだ。
でも、君は……たまに僕たちを見て、辛そうな顔をする」
カイトは、どこか遠い目をしながら、少量しか残っていないりんごのジュースをくるくるとコップの中でかきまわした。彼の手の中にあるジュースも又、彼の体の振動によって微かに震える。二匹はしばらくそうしながら黙り込んでいたが、口を先に開いたのはほかでもなく、彼の方だった。
「……羨ましかったんだ」
「…………」
カイトはその言葉には何も言わず、残り少ないジュースを飲みほした。彼の体の震えは、形容できないような緊張と、罪悪感のようなものから来ていたのだろうか。何にせよ、彼があの事件以来、初めて心の内を吐露してくれたことに思いを馳せていた。何か感じることは沢山あったのだろうとは思っていたが、やはりその土台は『嫉妬』から来ていたのだろう。カイトはどこかでそれを分かっていたし、分かっていたからこそ彼にどう言葉を掛ければいいのか判断がつかなかった。
何も言わず、おちついた顔つきでジュースを呑むその仕草から、嗚呼すでに分かっていたんだな、と彼は自分の浅はかさを恥じる。やはり悟らせてしまっていたのだろう。
「……なぁ、カイト」
「なんだい?」
「お前達二匹は、最高のコンビだよ」
カイトの肩が微かに震える。その言葉に覚えがあった。ルーファスがこの世界を去る時、最後に言った言葉の中に混じっていた言葉である。
ルーファスにすべてを託されたような気がして、アカネも世界も、俺の代わりにお前が守るんだと言われているような気がして、カイトの心の中に今もルーファスの言葉が深く刻まれているが、その中の印象的な言葉の一つだ。
あのとき、彼はいなかったはずなのに。カイトは顔を上げてじっと彼の赤い瞳を見た。
「俺とステフィは、そうはなれなかった」
「……そんなこと」
「…………お前達は最高のコンビだ。だけど、たまに思うんだ。ずっと前から思ってた。お前達には、お互いがいないとどうなるかまるで想像がつかない危うさがあるって。お互い片方が消えてしまうだけで、もう片方さえも後を追っていなくなりそうな、危険なくらいに相手にのめり込んでて、表面上そうは見えなくても、内面はどこまでも深くお互いへの感情が根を張って……」
彼にしては珍しい表現の仕方に、カイトは戸惑う。彼は少し言葉に詰まりつつもそう言うが、一度息を整え直して再び、その口を開いた。
「海岸で小耳に挟んだ。以前、そこで自殺しようとした奴がいたと」
「………………」
「おまえだろ?カイト」
カイトは小さく首を縦に振る。耳の痛い話だった。あの瞬間、海岸に存在したのは自分とレイセニウスだけだと思っていたから、少し不意をつかれたようにも感じられる。しかし、あんなに大騒ぎしたのである。どこにも漏れていないという事はなかったはずだ。
自分の起こした過ちだった。だから、カイトは言い訳をするつもりはなく、ただただ少し俯き気味に首を縦に何度か揺らす。
「……褒められたことじゃない。けど、理解できないわけでもない………………」
「…………僕のは、何かを救うためとか、そういう自己犠牲じゃなかった。ただ……夕日が、綺麗だったんだ。吸い寄せられるみたいに体が動いて……黒い何かが、じっと見てるような……あの夕日の、海の向こうにはアカネがいるって言われてるような……そんな気がした。
一方的すぎるよね。本当にただ、自分を殺そうとしてただけだなんて」
また、自嘲的にカイトは嗤う。目には濃く影が出ていて、その問題はどうも、カイト自身がアカネを自分の元に取り戻した、というだけでは解決するようなものではないらしい。今も彼の意識の中に存在しているのだ。
「…………なのに、俺は今ここにいるんだよ」
「え?」
「俺の傍、どこにもステフィはいないんだ。なのに、毎日無気力だ。ただ無気力なだけで、あいつがいないからって、自分をどうこうしようだなんて、考え付きもしない……。涙すら、出てこない……。枯れたわけじゃない。ずっと出てないんだ。
俺の中では、あいつはどこか二の次で。大切じゃないわけじゃない、けど、他にも色々あるんだって……そう思っていたし、俺にとってあいつが重要な存在だったんだと気が付く前、俺は……簡単に切り捨てられる相手だって思ってたんだ」
「…………………」
「それが……俺とお前の違いなのかもしれない。お前とアカネの関係は正直、真似なんて絶対出来ないし、しようと思えるようなものでもない。
それ以上に、仲間として……仲間として誰もが持ち得るものが、俺達には欠落してたんだ。
それが何なのかは言葉では言い表せないが、取りこぼしたものが多すぎて……おれは、本当に後悔ばかりだ。
……涙さえ、出せれば。少しは楽になるのかもしれないが……なんでか、泣けないんだ」
彼は泣きそうな顔をして、毒々しい色のジュースの表面に浮かぶ埃をじっと見つめていた。不思議だった。顔はとてつもなく悲しそうで、くやしそうで……しかし、その赤い瞳に涙なんて滲んでいない。
カイトには少し理解がし難いことだ。アカネが居なくなる。またいなくなる。そう考えただけでも、じんわりと涙が滲んで、少し鼻声になるだろう。しかし、彼の声は弱々しくもしっかり通っていて、とても涙声や鼻声とはいいがたいものだった。
「……けど、このままじゃいい加減駄目なんだって……思った。
俺がこの世界に帰ってきた以上、何もせずに終わるなんてことは嫌なんだ。
カイト。……アカネを……クロッカスを、これからもよろしくな」
「ねえ、リオン。さっきから君は、なにを……」
「今日はそれを言うために呼んだ。クロッカスは……人間かもしれない。けど、今はアカネとして、お前の傍にいる。だから大事にしてやってくれ。見えてなくても、俺が安心できるくらいにな」
「………………」
カイトは黙り込む。彼が何を言いたいのかを自ずと察したからであろう。そんなカイトの様子を見て、ふと彼は口角を軽く上げて笑った。穏やかに目を細める。どこか、何かへと踏み出したような感覚があった。
パッチールカフェはいつものように騒がしいが、ふと見覚えのある二匹を見かけた。仲睦まじそうにお喋りをするロコンとルクシオ、そしてそれを微笑まし気に見つめるコジョンドも目に入る。
その光景を目にして、彼はふわりと笑みを浮かべた。
その顔に、憂いはない。