【闇夜の蜃気楼】≪前編≫
誰も隣にいないことが苦しく思う。
終わりの無い虚無感は、最終的には俺だけに訪れたような物なのだろうか。彼女の痕跡が残っている部屋で、いつか彼女が帰ってくると期待していた。大切な誰かと再会して、幸せそうに過ごしている親友を妬ましいと、少し目に染みると、そう思ってしまう俺の心は歪んでいる。
どんなに辛い思い出を共に乗り越え、友情をつなぎながら過ごした仲間でも、やはりそんな感情を抱いてしまうのはおそらく、感情を持つ生き物として生まれた者の本性なのだろう。
* * *
夕暮れ時。空が薄い青色と橙色に別れ、世界の色が薄れてくる頃。淡い橙色の光に照らされ、遥か遠くに見える茜色の空と夕日に手を伸ばす者がいた。広大な海にぽっと浮かぶ夕日は今日も美しい。美しい故に放たれる橙色の光が目に痛くて、思わず手を伸ばして光を隠したのである。
パトラスのギルドの階段を下り、十字路を更に降りたところに位置する海岸は、最近ではこの大陸意外でもそこそこ有名な場所となっていた。『英雄達が出会った場所』と、そう言われているだとかいないとか。
何匹かのポケモンが海岸を夕日を横目に通っていき、また一日の見納めにと夕日を眺めてリラックスしている者もいる。そんな中に紛れて、一匹のルカリオが、夕日に向かって手を伸ばしている。あまりにも眩しすぎる夕日を、本当は手で覆い隠しているだけだったのだが、その光景はどこか神々しく凛々しい、そして彼の表情を見つめれば、それはどこか悲壮感が漂うものだった。
ルカリオは、少し儚げに俯くとそっと腕を下ろした。目に光が入ってこないように地面の方に軽く視線を向けつつ、海から目を背ける。そして、体を横へと向けると、海の縁にそってゆっくりと歩き始めた。
彼の名前は『シリウス・ハルガート』という。それが本名だ。ギルドやトレジャータウンでは、元々リオンという名前で通っていたものの、それは最早、彼の中では過去のものとなっていた。元々彼の事をリオンと呼んでいたポケモン達にはそれぞれ好きなように呼ばせているが、初見の相手には必ず『シリウス』と名乗っていた。リオンという名前を自分から自称することは、『時の歯車事件』に並ぶ数々の事件が完全解決したと世間から見なされた時点ではもう、既に少なくなっていた。リオンという名前は、本当の『シリウス・ハルガート』という存在を覆い隠すために用意した名前であり、事件にかかわる様々な事情からすでに、そんな必要も無くなった。
リオンという名前は頭の隅に置き、自分を再びシリウスと思うようになってから、彼には気が付いたことが数個ある。
いろいろと思うことがあり、彼は事件以降、よく散歩に出ることがあった。それこそトレジャータウンの一本通路であったり、簡単なダンジョンの中であったりと、ふらりとどこかを歩いては考え事をしている。何も考えていなくても、誰にも声を掛けられることなく、誰にも見られることのない場所での散歩は心地がいいものだった。
散歩、という一見何の変哲も無い趣味が、案外自分にあっているという事を知った。事件が解決し、以前まで隣にいた相棒が姿を消した。そして、事件によって脳が沸騰するほどに何かを思いつめていた日々もなくなり、特別悩むようなことも無くなった。だからこそ見出した唯一の趣味である。
心地いいというだけではない。一番の利点は、何も考えなくてもいい時間が生まれることにあるだろう。歩きながら空を眺める。ポケモン達の声を遠目に、赤の他人の視点から耳にはさむ。ふわりと吹き抜ける風にあたって、それらが運んでくる外の不思議なにおいを感じる。それだけで、意外と何も頭の中に浮かんでこなくなる。
あの事件の終結によって彼が得たものと言えば、平穏な日々、平和な世界、仲間たち。そして、言い様のない罪悪感や虚無感、胸のなかのざわつきである。
世界を救った。事件に長く携わり、重要な役割を果たすことでそういう結果に落ち着いた。しかし、達成感というものは薄れゆくものだ。罪悪感や虚無感は消えない。どうでも良いと思えるようになる日なんてこないのではないかと思う程に、それらは彼の心の中に染みついている。
何も考えずに、ひたすらに歩く。歩きながら、世界を感じる。脳の中がふんわりとした白色に染まっていく。そんな風に、彼の心の蔓延るものから逃れる唯一の方法が、散歩だった。
特に、海岸を歩くのが気に入っていた。海の縁を踏むように、しっとりと濡れた砂を踏みしめるようにして、潮風の香りや感触を感じることが最近は何よりも好きだった。彼自身に、特に群を抜いて好きな食べ物や娯楽は存在しない。だからこそ、この趣味は彼にとって心の砦のようなものとなっていた。
ギルドでの一日の仕事を終える度、夕方になるとふらりと海岸に現れるようになった彼のことは、あの事件から少しの時がたち、周囲からも知られるようになっていた。世界を救った英雄の一匹とされる彼の事である。夕日の方をゆらりと眺めては海の淵を歩き、クラブの吹いた泡の中を歩き続ける彼がいる夕暮れ時の海岸の風景は、いつもの静けさと美しさを持つ風景とは違う、どこか悲しみの漂った一枚の絵画のようだった。
空が閉じていく。夕日の彩る茜色と空の切れ目が薄くなり、徐々にグラデーションを掛けるようにして、夜へと時が向かって行く。波に揉まれる海に空の影でゆがんだ形で映り込み、海岸の彩は少しずつ薄暗くなってきた。夕日が沈み、そしてそろそろ今日という日が終わることを感じると、彼はふいと顔を海から背けて、どこにも目を振ることも無くただひたすらにギルドへの帰路を見つめた。夕日から目を背ければ世界はふわりと灰が下りてきたように薄暗い。安らかに居られる時間が終わりを告げているのだ。散歩という趣味を見つけてから、その時間との別れを寂しいと感じることにはそこそこ慣れてきた。
それでもまだ、今日も一日が終わっていくことを寂しく思う。
* * *
一日の始まりはいつも、ギルドの弟子たちに与えられた個室から始まる。先程目覚まし係が起こしに来たので、彼はせっせと一日の準備をしていた。バッグの中に必要最低限のものを詰めて蓋を締めて、肩にバッグの紐を掛けて立ち上がる。見渡した部屋は随分と小奇麗にされていて、どこか生活感が無く住んでいる者の雰囲気を感じない内装だった。ふと、彼はそんな部屋を一瞥すると、音もなく扉を開き部屋を後にした。部屋の扉を閉じた途端に、窓の外から聞こえていた鳥ポケモンたちの小さな囀りが途絶える。
ギルドの朝礼は騒がしい者で、朝から思い切り声を張り上げて今日一日分気合を入れるというものだった。すでに『時の歯車事件』の残した薄暗い空気は殆どが世間から霧散し、心の底にそれを持つ者はもはや自分だけなのではないと、朝礼を行うたびにいつも思うのだ。
朝礼が終わり、ギルドのメンバーたちはそれぞれ自分の仕事場へと散り始めた。
さて、今日はどうしようか。基本的に単独で動いている彼は、腰に手を当てて周辺を見渡しながら考える。とはいっても、彼の担当は依頼の消化の為、今ある依頼書を適当に選んでそれを遂行する他無い。お尋ね者討伐か、ダンジョンに潜って探検隊らしい仕事をするか。考え込んでいると、自分より少し斜め下にポケモンの気配を感じて、ふと足元へ目を向けた。
「ねぇ、あんた今日も一匹で行くの?」
少し機嫌が悪そうな丸みを帯びた瞳と視線が重なる。一瞬その瞳に、とある人間の瞳が重なった。
「嗚呼、アカネ」
「予定無いんだったら一緒に行かない?連れてって依頼でさ、居てくれると助かるんだけど」
何の悪気も無しにそう口に出す雌のピカチュウ、アカネの目は澄んでいた。機嫌が悪そうなのは、彼女が朝に弱いからだろう。機嫌が悪そうな顔つきの中に気だるさが混じっている。それでも仕事に関しては苦しさを感じていないのか、むしろ行きたがっているようにさえ見えた。
彼の目の隅がぴくりと動く。それは何も悪い事ではない。しかし、微かに彼女に対し苛立っている自分に嫌悪感を抱いていた。彼女のそんな目はどこか満たされていて、それが彼には無いからだろうか。彼は感情を押さえつつも、少し目線を逸らして顔を横に小さく振った。
「いや、わるい。既に昨日連絡を取った依頼者がいるんだ。また誘ってくれ」
「そう……」
アカネは眉間に微かに皺を寄せた。しかし、彼にとってはこの状況こそ珍しい。彼女から行動を共にしようと誘ってくることはそうある話でもなく、むしろ誘ってくるのはどちらかと言えば彼女というよりも、彼女のその相方である。一瞬、彼女が誘ってくるのが珍しいからとそのわけを聞いてみたいと思った。彼女の様子を見る限り、自分から話してくれるような雰囲気でもなさそうである。
「それにしても珍しいな、お前が誘ってくれるなんて」
「まぁ、なんていうか……そうね。確かに珍しいかもしれない」
「どうかしたのか?」
「私は別にどうもしないけど………………いえ。大したことじゃない。たまたまよ」
明らかに何かを言いたそうにしていたが、それをあえて隠すとアカネは首を横に振った。『気が向いたらまた誘うわ』と言って、彼女は黄色い手を小さく振ると、身を翻してゆっくりと彼から離れて行った。彼女が何を考えていたのかはよく分からないが、その場に立ち尽くしたままでは何も始まらないと思い、とりあえずアカネの事は頭の片隅に置くと保留していた依頼書の確認へ向かった。
一枚一枚を確認してため息をつく。世界の時が安定し平和になった所で、やはり悪党というものは一定数存在するし、不思議のダンジョンの傷跡の被害は尚も存在する。地獄のようなあの未来に比べればまだすべてマシに見えるが、彼自身平和に浸されて染まってしまったところが有るのだろう。暗黒の未来だった状況がどうというよりも、大したことも無い茶番のような悲劇から沈み込むような悲壮感漂う出来事まで、何事に対してもあまりにも心を動かされすぎていた。
ペラペラと依頼書を確認しながら今日の仕事を選んでいると、ふと手が止まる。かなり暗いデザインの紙に綴られた依頼書だった。大まかにお尋ね者討伐と書いてある。それ自体は慣れていたし何も変わりなかったのだが、強く印象に残ったのはその内容だった。
『恋人が殺されました。犯人に敵討ちをしたいので同行してくださる探検家を募集しています。警察は介してあるので討伐依頼という形になります。遂行後は直ぐに犯人を引き渡し、きちんと報酬もお支払するつもりです。
お願いいたします』
簡潔に書かれたその依頼書の内容や、依頼者自身の者であろうと思われる時はどこか切羽詰まっているように感じられた。この依頼が更新された日はつい一昨日である。なんとなく気になったその依頼書を複数の中から一枚引き抜き、ペリーの元へ確認へ向かう。この依頼書が他のギルドなどにも回っており、誰かが既に引き受けたというのならばいいのだが、そうでないのならば今日の依頼はこれにしようと思った。
一見すれば討伐だが、よく見れば『連れていって』といった内容の依頼でもある。つまり依頼者を守りつつ敵を倒さなければならない。しかし何となく依頼そのものに違和感を感じた。この違和感に気付いていない者が遂行しようとするより、自分がやってしまいたい。
「む。まぁ、確かにまだこの依頼は誰も引き受けていないようだが、一匹で大丈夫か?」
ペリーはそう言って心配そうに彼を見上げた。赤い瞳だけが動いてペリーを見下ろしている。そんな彼の顔つきはどこかふらついていて、意図がつかめないものだから、ペリーは更に心配になってもう一度依頼書に目を落とした。
「大丈夫かって、どういうことだよ?」
「いや、だって書いてあるだろう。この依頼者はお前に討伐だけを望んでいるわけではない。あろうことかお尋ね者の所にまで連れて行ってくれと言っているんだぞ。一匹で行くとなると骨が折れるのは間違いない。お前が受けるのは良いとして、他に誰か連れて行ったらどうだ?
例えばシャロットとかどうだ。最近あまりギルドに顔を出していないようだしな」
「シャロットさんをこんな危険な依頼に連れて行けるわけないだろ」
「危険だという自覚があるならもう少し何とかせんか……ここのところ、お前はどうも孤立しがちというか……そういうところが増えたようだし……私は別に心配しているわけではないがな!ギルドという集団生活の中で浮く者がいるというのは些か問題だというか、それだけだ!」
何を誤魔化しているのか、一々語尾を強くしながらペリーはそう訴えた。そうかそうかと首を盾に小さく振っていた彼も、やがてはその言葉の意味を少し考える。
孤立しがち。浮いている。自覚はあった。しかし、自覚があったからどうなるという訳ではない。
今の彼に、それを変える意思はない。
「……時間のかかりそうな依頼だし、そろそろ行かなきゃな。忙しそうなのに引き留めてすまん、ペリー」
「結局一匹で行く気か……」
ハァ、と深くため息をついた後にペリーは依頼書を彼へと引き渡した。呆れたような顔つきの表面には心配の色が浮かんでいる。それに気づいていながらも、彼は小さく手を振って身を昼が返した。朝礼の前にすでに探検への準備は済んでいる。更に念入りな準備もそこそこに、彼はギルドから足を踏み出した。
ギルドの外はやはり朝の日に晒され明るかった。彼が一番求めていたもの。命を懸けて取り戻そうとさえしたもの。それなのに、どこかその日の光を感じるのが気だるく感じてしまうのは、あの時の情熱がいったいどこから来ていたのか今となってはあやふやだからだろうか。
太陽から目を逸らしつつ青空を見上げた。あの頃の、世界の時間を取り戻したいという気持ち。それは無くなってはいない。いずれまた時が止まりそうになれば同じことを考えるだろう。しかし、今はどうだろうか。燃え尽き症候群のような物なのかもしれない。あそこまで頑張ってはいつくばって手に入れた物、実際は彼一匹で取り戻したわけではなく、大部分はほかの仲間が成し遂げた事ではあるが、それでも彼自身が何より一番に望んだことではあった。それを手に入れればきっと、もっと幸せになれるとでも思っていたのだろうか。
幸せなところは沢山ある。世界の現状について一々悩まなくなったこと、大切な恩師と形は違えど再会できたこと、本来消える筈だった存在である彼が再生することができたこと。この世界で平和に暮らしているという事。
数で言えば幸せのほうがずっと多い。しかし失ったものは数ではなく質があまりにも大きすぎて、抱えきれない。幸せが押しつぶされて息苦しくて……それでも底なしの息苦しさという訳ではないから、毎日毎日どこか地に足がついていないような、ぼんやりとした感覚に陥るのである。
違和感があった。彼一匹でこなす依頼の数々の報酬は九割ギルドに吸い込まれ、あとはすべて流れるように銀行に入っていく。何度確認しに行っても一向に減ることの無く、むしろ天から注がれるようにして徐々にふえていく残高は勿論、ギルドの自室がやたらに広くて小奇麗なのもまた、違和感だった。
以前なら違った。銀行に入っていた一万ポケがいつの間にか二百ポケになっている事など何も珍しい事ではない。そしてそんな日に部屋に帰ると大抵、見知らぬ埃臭い分厚い書物が十冊以上増えているのだった。夜中に聞こえてくる紙をめくる音や、それらの書物の文字に目を滑らせて聞こえてくる不気味な笑い声はいつのまにか消えていた。高く積み上げられた本も、真実に気が付く前に殆ど部屋から消えていた。
寂しい
その感情の原因を作ってしまっているのは、彼自身だった。
* * *
「よろしくおねがいします」
そう呟くようにして言葉を発した一匹のポケモンの第一印象はただ一つ、不気味だった。
依頼者と連絡を取った結果、とあるダンジョンの前での待ち合わせとなった。種族は把握していたが、思い描いていたものとはまるで違う雰囲気のポケモンが力なく目の前に現れる。まるで幽霊のような雰囲気を纏っていて、ルカリオという種族であるにも関わらずすぐには『波導』を感じることが出来なかった程である。
彼の目の前に現れたポケモンは一匹のブースターだった。体格的にどうしても彼が見下ろすような形になってしまうが、挨拶の瞬間もブースターは彼と目を合わせようとはしなかった。むしろ顔さえ見せようとせず、鬱々とした雰囲気が態度などではなく、もはや体全体に染みついているようだった。
敵討ちなどというからてっきり依頼者は雄のポケモンかと思っていたが、体つきや顔立ちを見て見ればそのブースターはどうやら雌のようだった。波導を読むまでも無く彼女には生気のような物が殆ど感じられない。依頼を受けて早々に何を話せばいいかわからず、とにかく依頼のことを聞こうと彼は腰を軽く落とし、ブースターに視線を近づけた。
「依頼を受けました、パトラスのギルドに所属するシリウス・ハルガートです。よろしくお願いします」
「…………カリン・ポクシーです。こちらこそ……」
よろしくおねがいします。
そう言って顔を上げたブースターのカリンの顔が一瞬、見知った誰かと頭の中で鮮明に重なった。グラグラと頭の中が沸騰していく。立ちくらみが起こったかのように彼の足元が一瞬揺らぎ、カリンはそんな彼の様子を不審に思ったのか、その生気を感じない顔を更に暗くして彼に歩み寄る。
「…………大丈夫、ですか」
「……あ、嗚呼。はい……」
「よかったです。……じゃあ、行きましょう」
大丈夫か、と言いたいのは彼の方だった。常に声が単調で、その上顔色がとてつもなく悪い。何故そんな彼女と、彼の中のあの少女が重なったのかは分からない。種族が似通っていたからだろうか。それとも他に、何かあるのか。
「このダンジョンにその相手がいるんですか」
「…………はい」
できれば、その相手と何があって彼女は恋人を殺されてしまったのかも聞きたかった。しかし、彼女が話し出す様子はない。あまり踏み込むのは良いと思えないが、あまりにも不自然なところが多い依頼だった為、一応確認することにした。
「犯人がここにいるとわかっているのに、警察は逮捕しないんですね」
「…………証拠がないんです」
カリンの声色は更に沈み込む。彼女の気を悪くしてしまう質問だったのは承知の上だったが、それでも聞いておかなければならないと思った。
「証拠がない……?」
「証拠が無くても、犯人はあいつなんです。あいつなのよ……」
カリンの目に執念の色がじんわりと滲む。やはり、この依頼は少し危険だった。見て取れるのは、彼女の精神状態はまずまともではないという事だ。おそらく彼のこともほとんど見えていないのだろう。彼女の瞳に広がっていく執念の色は、この先に居る疑い深いポケモンを追い詰めて敵討ちをすること。探検隊の中で敵討ちの定義とは、戦闘不能状態にし警察に引き渡すことだ。しかし、彼女の目的はおそらくそんなところには無く、もっと高い所に在る筈だった。
殺意がふわりと彼女の体から滲み始める。波導を通してみるとそれは痛いほどに分かった。彼女の殺気と、この先へ向ける殺意は半端なものではない。
そして、下手に話を進めようとするのも逆効果だろう。
「今回の依頼は、警察を通していたのでは?」
「……はい。けれど、話を聞いてくれなかった。だから、証拠を持ってくれば……あいつを制裁することが出来るでしょう?」
そう言ってカリンは儚げに笑った。光の無い瞳と、瞳の下の皮膚の色の悪さが痛々しい。おそらく、普段ろくに眠ることが出来ていないのだろう。彼は同じような顔色のポケモンを何匹か見たことがある。ある時期、彼自身もそうだった。
彼女の儚い顔つきが、また彼の脳裏にある誰かと重なる。目の前が白くなってその今年か考えられなくなってしまう。顔をブンブンと振り、先ほどのように頭からそのイメージを振り払った。そして彼は自分に言い聞かせる。よく見て見ろ、と。カリンは彼の知っている誰かとは似ても似つかない。似ていると言えば種族ぐらいで、姿かたちはよく似ているものの、顔立ちや雰囲気、声も全く違う。体格はひょろっとしていて不健康的であり、鼻がすこしぺったりとしており、目が少し垂れているようなところも全く違う。別物だ。重なる筈がない。
「…………あたまの可笑しい女だと思いますか?」
「……え、は……?」
「恋人が死んでから時々言われるんです。それがからかいじゃないことも分ってるんで」
「…………思ってませんよ」
「そうですか」
「俺も、似たようなもんなんで」
彼は呟くようにそう言った。カリンは少し驚いたような顔をして、その薄い表情を変える。独り言だったのだろうか。彼の目は、カリンの方を向いてはいなかった。
いかにも胡散臭くて怪しい依頼だった。そして、カリンの恋人を殺害したという疑いがあるその討伐対象は、少し難易度高めのダンジョンの奥地に住んでいるらしい。カリンとその恋人が、その討伐対象と一体どのような関係なのかは不明だ。彼と彼女は二匹でダンジョンへと向かったが、少し敵のポケモンと戦闘をしただけでも様々な事が見て取れる。
カリンは戦闘が得意ではない。要するに弱い。技を避けるのが精いっぱいな上に、少し走っただけでも息切れしてしまう程に身体能力が低いのだ。技も『火の粉』位しか出していないし、その威力はとてもこのダンジョンに生きるポケモン達に敵うものではなかった。
彼女自身もそれを自覚してか、必要に迫られた時以外は自分から敵に向かって行くような真似はしなかった。
客観的に物を見ることが出来る目を持ち、頭も悪くはないのだろう。それならどうしてこんな無謀な依頼を出したのか。やはり彼女の出した依頼はどこか嘘くさく、何か別の目的が有る様に思えた。
「大丈夫ですか」
「大丈夫です。私は歩いているだけなので。貴方の方が大丈夫ですか?」
ポケモンから軽い攻撃を受けて傷を作った彼の体を、感情の見えない瞳がじっと見据えた。
その瞳を見てももう、彼の中の誰かと彼女が重なるようなことは無かった。
* * *
「嗚呼。……カリンさん。わざわざ男性を引き連れてここまでくるだなんて。
どうかなさいましたかしら」
ダンジョンの最奥部に佇む大きな洞穴には、上等な布がかけられて外からの視線を遮断している。訪問者の気配を感じ取ったのか、その洞穴の主は早々に彼と彼女の前に現れた。
白い体と、雰囲気からすでに醸し出されている美しさと気品が特徴のポケモンである。サーナイトだ。穏やかで心優しい印象のある種族だが、二匹の前に現れたポケモンはどこか異質な雰囲気を持っていた。少しでも体を屈めれば直ぐに踏みつけられそうな、酷く挑発的で自ら以外の全ての者を下とする者のような、そんなどこか見覚えのある瞳を持っていた。
「……どうして、だと思いますか……」
「そうですね。新しい彼を自慢にでも来たのかと思いました。あなたにしてはとても整った方を彼にされたのですね。面食いだな、と印象を受けましたわ」
「…………っ…………」
サーナイトの瞳は、どう見てもカリンの事を馬鹿にして下に見ていた。そのくせ、何処か気に入らないところが有るのかその嘲笑の顔つきは瞳だけが笑っていない。カリンは憎い者を殺さんとするような顔つきでサーナイトの方を睨みつける。顔色の悪さがそのにらみの強さを助長していた。
「あ、あなたは、いっつもそうだった…………わ、私が不細工だからってっ……わ、私の持ってるものが自分より優れてると、すぐ、そんな風にして、結局…………!」
「あら。何の事かしら?私は祝福しているのよ、大切な彼を失くしたあなたが、新しい運命の方と出会うことが出来たのだもの。お友達でしょう?喜ぶのは当然の事ではないかしら?」
「何のことか、分からないって…………?何が原因で、あ、あなたはこんなところでコソコソ暮らしてるのか、なんで、隠れるのか……説明してください……!」
カリンの声は震えていた。明らかにサーナイトを見て怖がっている。その証拠に体は縮こまり、声のトーンも定まらずに話すスピードもガタガタだった。一方で、サーナイトは余裕の態勢を貫いていた。カリンが自分よりも劣っていることを、何もかも勝らないという事を知っているのだ。
「あら、言わなかった?私、自然が好きなのよ。このダンジョンのポケモンは下の方々は荒々しいけど、上層部にいるのは皆常識をわきまえた方々達ばかりよ。頼んでもいないのに木の実を置いて行ってくれたり生活を助けてくれるの。あんな町へ居るときよりよっぽど暮らしていくのが楽で、今の生活気に入っているの。
あら、あなたもやってみる?良い場所紹介するわよ。ただ、暮らしていくのが大変でしょうけれど」
いかにも自分の容姿を鼻にかけたような言い方だった。
容姿の美しさを鼻にかけ、それに対する並ではない執着心……そう考えたところで、彼の頭の中にヂリリと電流が駆け抜けて行くような何とも言えぬ痛みが走った。母親の、美しさに対する執着によって生き方を自ら捻じ曲げてしまった一匹のポケモンの、最後に見た美しい顔が頭に過る。それをサーナイトと重ねてみた。
想像の中にあるその母親とされるポケモンと、サーナイトが重なる。
「わ、わたしは…………」
「済まないが話を切らせてもらおう。ポクシーさんの恋人を殺害したというのはお前か?」
カリンは縮こまってしまっている。埒が明かなかった。割り込むようにして何歩か前に踏み出すと、彼は自分の存在をサーナイトに見せつけるようにカリンの前に立つ。サーナイトは嫌悪の表情を一瞬浮かばせたが、直ぐに元の穏やかな顔つきに戻って話を続けた。
「本当に、何のことを言ってらっしゃるのかさっぱりだわ。どうして私が、私自身のお友達の恋人を殺すような真似をしなければならないのかしら。その理由を説明してくださらないとお話しが進みませんわ」
「と、友達じゃない……!り、理由だってある……分かってるくせに!
あなたが、か、彼に言い寄ってたことしってるの……あんなに器量の悪い子の相手をする意味が分からないって、言ってたのも知ってるの……それだけじゃない、彼が傍に付き始めてから満足に私を貶せなくて、ストレスが、溜まってたって……!」
「貶す?人聞きの悪い事を言わないでほしいわ。アドバイスをしていただけじゃない。いつも下を向いて後ろ向きな事ばかり言うし、身なりも汚いから。それなのに、そんな風に取られていたの?悲しいわ、私。
ストレスがたまるというか、私嬉しかったのよ?彼と付き合い始めてから、あなたはどんどん可愛らしくなるものだから。なのに彼が死んでしまうなんて、とっても悲しいわ」
「な、なにも知らない相手の前だからって、下手なっ……へ、下手な演技を打たないでください…………!」
「…………下手?」
サーナイトの目の色が変わった。思わず彼は身構える。サーナイトから、殺気が吹き出す様にして現れたのを波導で感じ取ったのだ。彼女の波導の色は禍々しかった。根から歪んでいるポケモンの出す波導の彩だ。今までも、彼はこんな色を何度も見たことがある。
「……下手だ……なんて。裏方の分際で何?舞台に立たせてさえもらえないドブスに、どうしてそんなことを言われなきゃならないの?いっつも舞台裏で炎吹いてるだけじゃない。あまりに炎が貧相だからやめさせられそうにさえなってたじゃない。それが……主演レベルの私にいったい何?」
「む、昔のことです……!げ、劇団からも逃げて、ここにいるくせに…………!」
二匹の関係性が、会話の中から段々と見え始める。カリンは彼に守られるようにして後ろにいるにもかかわらず乗り出す様にサーナイトを問い詰めた。その内容から察するに、おそらく二匹は友達関係、というよりかは職業柄の関係を持つポケモンたちなのだろう。劇団や舞台という言葉から考える限りだと、おそらくサーナイトの元の職業は舞台役者と言ったところだろうか。そしてカリンは、サーナイトの言葉から出たように舞台を演出する裏方である。
サーナイトがなぜこれだけカリンに対して上からなのかが分かった気がした。そもそも社会的立場からすでに二匹は格がかけ離れているのだろう。しかし、カリンの態度から察するに今はそうでもないようだ。
「何?ドブスの癖に、私に楯突くわけ?」
「…………なんでそう、見た目に固執するんだ?」
「……あなたは、いったい何者なのかしら?」
ぎろりと睨んでくるサーナイトの瞳は殺意が滲んでいた。彼女の美しい容姿も、殺意が滲めばただの恐怖の対象としかならないのだろう。滑稽に見えてくる。自分が今一体どんな形相で睨んでいるのか分かっているのだろうか。分かっていないにも関わらず、その姿に絶対的な自信を持っている態度が。
彼は黙り込んでいた。サーナイトに正体を尋ねられたが、それは依頼者の許可なくしゃべっていい事とは思えない。不安気なカリンがちらりと彼の方を振り向いて、小さく頷いた。その意味を悟り、彼も又小さく頷き返す。
一つ呼吸をして、彼はサーナイトのその瞳に視線を向けた。
「探検隊ギルドから依頼を受けて来た。ポクシーさんは、恋人を殺したのはお前だと疑っている。真相を確かめに来た」
「……ふぅん。そんな事だと思ったわ……あなたみたいな子が、二度もこんなにハンサムな男捕まえられるわけがないわね。
真相は……やってません。やってないわ、だからかえって頂戴。ほら、終わりよ」
ひらりと、馬鹿にするようにしてサーナイトは宙で手をぶらつかせる。カリンの目が鋭くなり、顔には複数皺が寄っていた。このままでは本当に埒が明かず、いずれ空が暗くなってしまうのではないかという程に張り詰めた空気。ブツブツとカリンが何かをつぶやいているような音が聞こえた。『うそつき』と、何度も何度も同じことを、同じ単語をつぶやいている。
「また、ブツブツ言ってるわね。私はそれを辞めた方が良いって、今まで何度も忠告してきたのに。だって気持ち悪いでしょう?気が振れてるんじゃないかって思っちゃうじゃない?嗚呼、でも今の貴女はまさにその通りなのかもしれないわね。もう帰ってくれないかしら。そろそろ夕飯の支度をはじめなければいけないのよね」
「っ…………いや、です……私は……私は、あなたをゆるさないから…………彼の事も関係なくても、私は、あなたがきらい……大嫌い……!」
「そう。なら、どうするつもりなのかしっ…………!!?」
吹き出す様にしてカリンから殺意が立ち込める。彼が気が付いた時には既に、それは地面の上を転がって輝きを放ち始めていた。彼の真横を通過していくそれは、このタイミングではもはや止められない。その色から判別できる、不思議玉の一つである『一撃の玉』だった。まともに当たれば命の危険さえあると言っても過言ではない道具である。このタイミングで、サーナイトを助けるべきなのだろうか。一瞬考えてしまった。カリンは彼もろとも負傷させようとしたのだろう。玉はコロコロと転がり、サーナイトの丁度目の前で止まった。
サーナイトは状況を把握し切れておらず、その場に立ち尽くしている。
「ッ……しんでください!!」
カリンの、決して高くはない、くぐもったような声が頭の中に反響した。彼は考える間もなく弾かれるようにして地面を強く蹴ると、サーナイトの肩を掴んで腕を握り、できるだけ遠くにと彼女の体を放り投げた。
茂みにぶつかって葉が強く擦れる様な音が響き、一撃の玉の発動によって一瞬辺りが真っ白に染まる。背中が熱く感じた。状況を確認できない中で、彼は瞳を閉じて気配を感じた。彼の頭の後ろについている四本の房が持ち上がる。光の線で描かれた目の前の景色が目ではなく頭の中に直接流れ込んできた。
蹲って顔を伏せているカリン、林の中に埋まって頭をぐったりと下げているサーナイト。二つの鼓動を感じる。大丈夫だ、生きている。
光が消えた。先ほどまで輝きを放っていた筈の一撃の玉は地面に転がって粉々に砕け散り、ただの硝子の破片となっていた。目を開いた先には、波導によって見ていた光景がそのまま目に映り込む。カリンは俯いて黙り込み、サーナイトは尚も気絶している状態だった。
彼はカリンの方へ歩み寄り、ゆっくりと腰を落として視線を近づける。少し上目がちにその垂れた瞳を彼へと向けるカリンの姿は、まるで懺悔をしているかのようだった。
「本当に、殺したのは彼女なんですか」
「…………」
「わたしは」
「…………」
「わたしは、そうおもっています」
「…………ポクシーさん」
「けど」
「…………」
「……彼女に対する、かたき討ち、です」
今、私ができる精一杯の言い訳をした、かたき討ちです。
ずっと、苦しかったから。
* * *
サーナイトは大騒ぎしたものの、警察に行こうとはせず、また訴えるとも言わなかった。先ほどの様子から分かるのは、彼女は確かに根っから腐っているポケモンなのだろう。しかし、激情に駆られて怒鳴り散らすようなタイプではなかった。その上、やはり警察に行きにくい事情があるのだろうと思われる。警察という言葉は、彼女の口からは一度も出てはこなかった。カリンも自らの行いを謝罪することは決してなかったが、思っているほどの大惨事にはならずに済んだ。
「……あなたが受けてくれてよかったです」
帰り道。探検隊バッジをかざし、依頼者をギルドへと転送しようとした時だった。カリンはそう彼に告げると、微かに口角を上げて見せる。笑った、つもりなのだろう。彼は手を止めて、ゆっくりとバッヂを下ろした。
「最初会った時、私の恋人と少し似てると思いました。
…………ほんとうは、ぜんぜんちがったんですけれど。
あなたは、私と同じようなものだって言ったから。そんなポケモンが、彼と同じなわけないなって、思いました。
ありがとうございました」
相も変わらず顔色は悪い。しかし、どこか心の蟠りが取れたのだろうか。声は先ほどよりもはっきりしていた。素直には喜べないが、彼は小さく頭を下げて『こちらこそ』とつぶやくようにして彼女に告げる。
「ねえ、本当は気づいていらしたんですね」
「……何に、ですか」
「私が、彼女を殺そうとしていたこと」
「…………いや。焦りましたよ、普通に」
彼はそう言って目を逸らした。本当は気づいていたが、そう答えたところでいったい何になるというのか。証拠を探しにいくだなんて、当初の依頼内容と矛盾している。結局警察も正式に通していたわけではなかった。とりあえずダンジョンの奥地まで行って殺すつもりだろうか、という程度の発想はあった。
しかし、彼女も頭は悪くない。引き受けてきた探検隊が割って入ってきて、自分を止めるという事も想定内の事だったはずだ。
「……あなたじゃなかったら、止めて入られて、復讐は失敗して……絶望していただけだった。
悪い結果だったとは思っていません。ただ……まだまだ、恨み続けてます……彼女のことも、あなたのことも」
それだけです、と言うと、カリンは次は柔らかな笑顔を顔に浮かべた。その堅く冷たかった瞳さえもふわりと形を変えて、その笑顔が彼の頭の中に焼き付く。
―――――――――ステフィ。
「…………また、殺したいと思うかもしれません。彼女のことを。本当に、苦しくて、辛かったから。
そんな時は、今日の事を思い出せば……少しは、楽になれるでしょうか」
バッジを彼女へとかざす。淡い光が彼女を包み込み、はじけるようにしてどこかへと消えて行った。ワープ完了。
彼自身もまた、ギルドに帰ろうとした矢先である。ふと空を見上げて、目を見開いた。
空に、黒い影のようなものが広がり、世界を覆っているように見えたのだ。
「っ!?」
大きく目を見開き、これは夢かとばかりに目を勢い良く瞑った。そしてもう一度、自分自身に落ち着くように命じ、目をゆっくりと開く。
「…………きの……せい……?」
空には影などなく、ただ夕暮れ前の空が森の木の隙間から覗いている。まるで平たい宝石のような空だった。
* * *
穏やかな風の流れる世界。空の色が、薄いベールに包まれるようにしてゆっくりと変わっていくのを歩きながら見上げていた。
母であるポケモンは言った。あの空からはかつて、神と呼ばれしポケモン達が世界を見下ろし、そして加護を与えてくれていたのだということ。それは世界が灰色で塗りつぶされる更に以前、まさに今この光景のことを指しているのだろう。
地面をひたすらに歩き、海中を泳ぎ、雲にも満たない空という空間を羽ばたくしかないポケモン達には分からないこと。それが、神とかいう大層な肩書を持つ者達には分かるのだろうか。世界に生かされるしかないポケモン達にはできないことが、彼らにはできるとでもいうのだろうか。
世界は平和で、大切な何かを忘れそうになりながらも、少しだけ流れて行くのを待って欲しいと思っても、無情にも時間は流れて行く。そんな中で生きていくしかないという選択は、彼が一番望んでいたことだった。
顔や雰囲気が似ても似つかない、ただ少し種族の似通った少女が少し笑っただけで、容易に昔の相方と重ねることが出来てしまうのは、相当過去との決別が出来ていないのだろう。決別などできなくとも、ひたすらに時は流れて行く。次は時間が止まるのではなく、時間に置いていかれそうになっている。
こんな毎日の中で気が付いていないわけがなかった。しかし、それを口どころか、心の中で言葉にしてみるのもはばかられるほどに、『彼女』を失った彼は意固地だった。今日、奇妙な依頼を完遂するまでは。
「…………結局、お前らって何だったんだろうな」
そうぽつりと呟いた瞬間に、急激に時が進んでいるかのように感じる。もう今日が終わっていくのである。今日の分の依頼を遂行し、そして報酬も受け取った。まだ夕飯には時間があったが、彼は特に行動を起こす気はなく、ただひたすらに夕焼けの色に染められた、橙色と影が彩るトレジャータウンを散歩していた。特に何をするわけでもない。ただ、この場所では特に、彼は有名だった。以前までは軽く声をかけてくるポケモン達もいたが、最近の彼のとっつきにくいような雰囲気の所為で、気が付けばいつも一匹である。
右にも左にも、後ろにも前にも、誰もいないな。時折『寂しく』なって、そんなことを思うのだが、今日は少し違ったようだ。
後ろから、誰かが彼の名前を呼んだ。聞き覚えのある声、そしてよく知っている波導の色をしたポケモンである。そこには同じギルドに在籍する先輩、ビッパのグーテが佇んでいた。
「あ……グーテか」
「はは、やっぱり後ろ向いたままでも分かるんでゲスね。波導ってすごいでゲス!」
そう言われて、彼はゆっくりと振り向く。ビンゴ。確かにそこには、グーテが柔らかくほほ笑みながら佇んでいた。小太りの体をゆさゆさと揺らしながら彼の方へと近づいてくる。グーテも依頼から帰った後なのか、その表情には少し疲労が滲んでいた。
「散歩でゲスか?なんだか少し疲れているようでゲスが……」
「……嗚呼。ちょっと依頼が大変だったんだ。依頼者が少し複雑なポケモンだったから」
「そうでゲスか。あっしも今日は疲れたでゲスー……クロッカスの真似をして一日に五件の依頼完遂を目標にダンジョンに挑んでみたでゲスが、二件しか完遂できなかったでゲスよ!」
そう言って笑うグーテに、彼は微かに微笑を返す。果たしてそれが本当に微笑みになっているのかどうかは定かではない。グーテはしばらく彼の顔をみながら今日あったことについて話をしていたが、ふと口を止めてじっと彼の目を見つめてきた。今日の出来事以外に、何かとても言いたそうにしていた。
「……な、なんだ?」
「……大丈夫でゲスか?」
「え?」
思わず息をつくような声が出てしまう。
「最近、周りの空気が張り詰めてるっていうか……誰かと一緒にいるのもほとんど見ないでゲス。
……少し……変わったでゲスよね……」
その言葉を聞いた途端、何故だかじりじりと頭の奥が焼ける様な気がした。彼は、そんな言葉にどう返せばいいのか分からなかった。自覚はある。しかし、自分が何がどう変わったのかという事がどうしても言葉では表せなくて、どう形容すればいいのか分からなかった。
「…………あ……」
「ん?」
言葉に詰まっていると、グーテの二十メートル程先に見知ったポケモンが一匹、ゆっくりと視界を横切っていく。そのポケモンの隣には会ったことも無いポケモンが居て、それが男性だという事は確認できた。種族はルクシオ。何故だか、シャロットの方を見ながらやたらたるんだ顔をしている。それを見た彼の眉間には微かに皺が刻み込まれた。一体何者だ。心の中で脅した。
「あ、シャロットとチェスターでゲスね」
「チェスター……?」
話したこともない相手だ。それなのに、どこか聞き覚えのある名前だった。おそらく、グーテにこうして単語を聞かされなければ、その言葉を覚えていたかどうかも思い出せていない、その程度の微かな記憶。
「え!?あれ、知らなかったんでゲスか!?意外でゲス……」
「一体誰なんだ?」
妙な威圧感が彼から漂い始める。グーテは冷や汗を流しつつ、二匹を横目に説明を頭の中で組み立て、ぎこちなく口に出し始めた。
「え、えー……と…………元々、シャロットとその、探検隊をしていたポケモンのお兄さんでぇ……しゃ、シャロットとその……良い仲?っていうか、でゲスね……さ、最近でゲスよ!本当に最近、その……シャロットがその、恋愛……交際というかお付き合いを始めた相手?っていうか、でゲスね……お、お互い好き同士らしいでゲス!だからみんなみ、み、見守ろうってぇ……」
「姓は?」
「え、え!?」
「そのチェスターとか言う奴の、姓はなんていうんだ?」
食い気味にそう聞いてくる彼に、グーテは肩を震わせる。彼の表情は特に変わりないが、雰囲気が何やら焦っているようだった。チェスターの苗字を教える。いいのだろうか?でも名前をもう教えてしまったのだから……変わりない。
「チェスター……チェスター・スカイウォーカーっていうらしいでゲス……」
「…………スカイ……ウォーカー…………」
彼は口に出してみる。その、どこか懐かしい名前を。そして合点がいった。思い出したのである。どこでチェスターという誰かの名前を知ったのか。苗字を聞いてすぐに分かった。
音を立てるように彼の殺意というのか緊張感というのか、警戒心……それらがごちゃ混ぜになったものがひいていくのを、傍から見ていたグーテも感じていた。不思議に思って少し首を傾げる。彼の事だからてっきり、激怒して決闘でも申し込みにいくのかとおもった。
「…………そうか。チェスターか。
…………よかった」
「よ……よかったぁ!?頭でも打ったでゲスか!?てっきり頭狙って波導弾打つかと思ったでゲス!!」
「………………おい」
グーテの中で自分はどうなっているんだろう。ほんの少し、彼はそう思った。
(……シャロットさんにあいつがついてるなら……もう……)
彼はゆっくりと空を見上げる。橙色の空が、未だ嘗てないほどに美しく、そして悲し気にみえた。
(俺は必要じゃないな)
雲が流れて行く。穏やかに、その形を崩すことなく世界の時間が進む方向に向かって、ゆっくりと。留まることなく、向かって行く。
(……平和になったもんだな…………)
少しだけ、ほぐれた心と頭で考える。
そして密かに、決意した。