【獅子と狐物語】≪後編≫
「即オッケーだったよ」
「マジで!!?」
このまま飛んでいくのではないかという勢いで、チェスターは強く体を起こした。先ほどまで窓から入り込んでくる光の中で日向ぼっこをしていたようだ。セオの言葉に反応したチェスターの顔は興奮のあまり真っ赤になっていて、セオはシャロットを彼に預けるのが少し不安になっていた。
一応のため、とでもいうようにセオはチェスターに尋ねてみる。
「……変な事言うようだけど、あのー…………
お触り禁止だからね」
「はああああ!?何言ってんの!?何言ってんの!?え、恥ずかしいこと言うなよ!触んないよ!危機的状況以外!」
「とりあえずこのダンジョンで危機的状況はないと思うんだけど?」
指定したダンジョンは『リンゴの森』である。奥地にあるセカイイチの木を見たいが、電気タイプの自分だけでは突破し切れるかどうか不安。だから、炎タイプの探検の知識のあるポケモンに来てほしいという依頼をシャロットに渡してきたのである。
シャロットはそのダンジョンの名前を聞いて即座に了承した。そのダンジョンは果実の宝庫ともいえる様な場所である。おそらく、カフェの従業員に差し入れられるものを取ってきたいと思ったのだろう。これは都合がいいとばかりに、セオは自分の兄の事を話した。
チェスターは、セオがシャロットに自分の事を話したという事実を聞いて再び赤面する。ちゃんと話をする前から自分の事を聞いているなんて、実際に会った時にどんな反応をされるのだろうか。
「うわー、はずい……」
「兄さんそんなにシャイだっけ?なんか情けなくなるんだけどー。
ま、シャロットも兄さんに興味を示してたし。エレキ平原に押し掛けた時の事も謝りたいって言ってたから、意外と話のタネは転がってるかもねー」
「ま、ま……
まじかーーーーーーーーーー!!!」
チェスターの絶叫に近い声がセオの家の中で響き渡る。セオははた迷惑そうにしながら、大きな耳を内側に折り曲げてぐっと塞いだ。
シャロットとの約束は明日の朝だという事である。チェスターは明日の勝負に向けて万全な体調と毛艶で挑むべく、体に良い木の実をたらふく食べ、慣れない水浴びをして毛を乾かしてから寝床に付いた。勿論遅くならないように、日付が変わる前にはしっかりと寝床につく。
チェスターの体はがちがちだった。緊張で眠れない。当然である。遠足へ行く前の子供のようだ。
「…………眠れん」
「だろーね」
今日一日、一体何度弟に呆れられ、冷たい視線を浴びせられたのだろうか。まどろみのまの字も無いような状態で布団にもぐりながら、チェスターは思った。顔だけ布団から出して天井を見ている。顔が火照って、やはり緊張して寝られない。セオはまた呆れたように深くため息をつくと、昔セオ自身が使っていた探検用バッグの中を漁り、その中から何かを取り出した。小さな種のようなものを二つ、軽く唇で噛むとチェスターの元へと運んだ。これはなんだと眺めてみると、どうやら睡眠の種のようである。一粒食べれば忽ち眠りこけてしまうという恐ろしい食物だが、半分ほど食べれば安眠効果がある。セオはそれを床に置いて足でチェスターの方へと種を蹴った。
「さんきゅー」
「いいからさっさと寝て。こっちまで緊張してくるじゃんか」
やはり、可愛くない弟である。しかし感謝した。チェスターは一刻も早く眠って朝を迎えたいため、一粒を半分に割ることなくそのまま飲み込む。すると忽ち眠気がふわりと襲ってきて、瞼が徐々に引き下がり視界がぼやけて行った。
「おやすみー」
「はいはい、お休み」
セオは眠ってしまった兄の顔を覗き見た。まだ緊張で固いしまだ真っ赤になっている。本当にどんだけだよ、と思いながら、セオはもう一つの睡眠の種を半分に割って飲み込むと、素早くベッドに飛び乗って体を横に倒した。
明日は面倒くさそうな一日になりそうだとおもいながら、ゆっくりと目を閉じた。
* * *
「セオ、起きてる?」
ドアを叩く音が聞こえる。セオは寝ている。だがチェスターは起きていた。起きて軽い筋肉トレーニング的な物を行っていた。セオから貸してもらった探検バッグの中に必要なものを詰めて、漏れがないか三回ほど確認した後ひたすらに筋トレをする。片方の後ろ足をぐっと後ろに伸ばして前足を何度も繰り返し曲げては伸ばし曲げては伸ばす。そんなことをしているうちにシャロットが来てしまったのである。既に朝だったが、時間にルーズなところがあるセオは未だに起きなかった。自分の好きな子がドアの外に居て、自分たちの事を待っていると思うとたまらない。チェスターは弟の顔を二度ほど軽く叩くと、起きてくれと言いながら体を揺さぶった。
「……あ、時間?」
「早く出てくれ!心の準備はできてる!!」
「大袈裟なんだよなぁもう……」
気だるそうにベッドから身を起こすと、セオはおぼつかない足取りでベッドを下りてドアを立った。シャロットに対して特に謝罪の言葉を述べることも無くドアを開ける。すると、少し起こり気味の顔のシャロットがドアの隙間からひょっこりと顔を出した。
立ちくらみがした。
「おはよー…………」
「あ、寝てたでしょ。相変わらずルーズだよね。それで、依頼人は?」
「あぁ、うん。こっちこっち、入っていいよ」
「お邪魔します」
やばい、来る。
チェスターの心臓が未だかつてないほど強く高鳴り始めた。ドアから現れた一匹のロコンは、やはり自分が見たままの通り可愛らしい少女だ。記憶の中のシャロットと完全に一致しており、チェスターは顔が急激に火照る。エレキ平原で見た時からしばらくたつが、あの時よりも多少、どこか大人っぽい雰囲気と顔つきになっていた。エレキ平原に居る方の弟が言った通り、シャロットは成長したら化ける。今も可愛らしいが、あの時とは違う魅力も備えていた。倒れ込まないように足に力を入れるが、生まれたてのオドシシのようにガタガタと震えている。緊張が既にピークに達していた。
嗚呼、近づいてくる。
シャロットはチェスターを目にとめると、自身も少し緊張したような面持ちでチェスターの方へと歩み寄った。チェスターは恥ずかしさのあまり後退しようとしたが、足がガタガタと震えているため叶わない。
「あの、こんにちは。ご依頼を受けました。シャロットといいます」
「こ、こんにちは!せ、セオの兄のチェスターと言います!セオがその、お世話になってます!」
「あ、いえ!あの、その節はどうもすいませんでした。あなた達の縄張りで勝手に暴れちゃって……」
「い、いや!あの時は俺達もやりすぎたっていうか、俺の方こそすいませんでした!他の兄弟達も、そんなこともあったねって感じで、気にしてません!」
完全にテンパってはいたものの、どうにか言葉はつながった。セオの方も、チェスターが支離滅裂なことを言わないか心配だったが、話し始めるとちゃんと話せているようで少し安心する。
「ま、あとは二匹でいろいろ話し合ってよ。僕まだ眠いから。早く行って」
そう言ってセオは二匹の事を部屋から押し出すと、さっさとドアを閉じて再び眠りこけてしまった。早々に追い出されてしまった二匹は、どこかぎこちないままではあったが依頼へ向かう事にする。
ぎこちないとは言えど、もともとシャロットは誰かとコミュニケーションをとるのが好きなので、そんな事では黙り込んだりなどはしない。リンゴの森へは、『ギルド』の前の十字路を通って行くことが出来る。その十字路を通る際に、大陸を代表するギルドであるパトラスのギルドがちらりと見えた。シャロットが口から言葉を零す様にしてチェスターに話しかける。
「最近起きた事件に携わった、英雄について知ってますか?」
「え?……時の歯車事件、でしたっけ?」
いきなり話しかけられてテンパってしまうが、話の流れの作り方が上手いので、何か口に言葉を載せてみようと思ったら普通に話すことが出来た。
「あのプクリンの形をした建物はギルドなんですけど、その英雄はあそこに所属しているんですよ」
「そうなんですか?」
「はい。興味とかありますか?」
「あ、えと、実はちょっと。俺達の住んでるエレキ平原、殆どそう言う情報が入ってこなくて」
「え?じゃあ、避難警告があったことも知らなかったんですか?」
シャロットはひどく驚いた顔をしてチェスターの話に相槌を打った。段々とスムーズに話ができるようになって、チェスターの顔には段々と喜びの表情が浮かび上がる。そんな彼の顔を見てシャロット自身も緊張が解けたのか、業務的な感じではなく、ふんわりとした言葉を放ってくるようになった。
「あれは結局、なんで避難警告が出たんですか?」
「あの時は……まるで侵食されるみたいに空に赤い雲が広がって、徐々に隅の方から各地の時が止まって行ってたんです。けれど、既に時が停止した場所なら影響を受けないことが判明して、キザキの森に避難って事になって」
「それで、シャロットさんも?」
「あたしは、その。ちょっと、我が儘を言ってしまって」
それは一体どうしてだろう。そう思ったところで、ふとチェスターは踏み止まった。一応シャロット自身から話はしてくれているが、果たしてそこまで踏み込んでも良いものなのか。随分と緊張がお互いほぐれて、いい感じで話が出来ている中、彼女の心の中に踏み込んでしまってもいいものか。
聞きはしようと思ったが、その時に確認を取ることにした。
「あ、もしも話したくなかったらいいんですけど、我が儘っていうのは……?」
「我が儘っていうか……トレジャータウンに、大切な友達がいて。その友達は、動けない状態だったんです。あたしだけ逃げるのが嫌で、無理言って残してもらって。立場上、一番逃げなきゃいけなかったのに……」
シャロットの最後の言葉が少し気になったが、そうこう話をしているうちにリンゴの森の入り口へとたどりついた。しかし、シャロットの姿を見てふと疑問に思うことがあった。何か忘れてきたような気がする、と。
「……あっ!!」
「どうしたんですか!?」
「ば、バッグを忘れてきました……!」
セオに締め出された時、バッグを一緒に持ってくるのを忘れたのである。セオの所為にしたかったが、シャロットの目の前でテンパってしまった自分のミスである。あれほど中身を確認して不備が無いよう備えたにも関わらず、バッグ本体を忘れてしまっては意味がない。不覚だった!チェスター落ち込んだようにしてがっくりと首を折った。
「す、すいません!」
「ふっふっふ、気にしないでください!あたしがいっぱい持ってきましたんで!あたし、そこまで強いわけではないけど弱いわけでもないので、泥船に乗ったつもりでドンとしておいてくだされば大丈夫!」
『女神か』と、チェスターの心の中に潜む何かが真顔でつぶやいた。泥船と言ったのは軽く流しておいて、落ち込むチェスターを、どこか面白そうな視線で見ているシャロットはやはり可愛らしい。道具が完璧に詰まったバッグをさり気なく身につけて格好つける作戦は失敗してしまったが、そんな彼女を見ていろいろと本当に『可愛いからいいや』という気持ちになった。
ダンジョンに入ると早速敵ポケモンが出てきた。やはり、ダンジョン内であると二匹だけで、とはいかないものだ。攻撃を仕掛けてくるバタフリーに火の粉を吹きかけるシャロットは、やはりエレキ平原の時と同じで割と強い。
「うぅん。実際に戦ってみると意外と強いですね、ここのポケモン」
「大丈夫ですか?少し休みます?」
この調子だと、直ぐに最奥部へ辿り着いてしまいそうだった。もう少し落ち着いて話をしたくて、チェスターはそう言葉を持ち掛ける。すると、チェスターの方が疲れたのかもしれないと思ったのか、シャロットもその提案に乗って来た。木が生い茂るダンジョンだった為、身を隠しながら休むことが出来る場所はすぐに見つかった。
「そういえば、林檎が好きなんですか?」
「え?林檎……あ。はい!シャロットさんは?」
「あたしは甘くておいしいものなら何でも好きです!」
質問の意図がよくわからなかったが、ふと思い出す。ここは林檎の森で、表向きの目的はこの場所の最奥部にあるセカイイチの木を見に行くことに有るのだ。相当な林檎好きか何かだと思われていても無理はなかった。危ない危ない。
けれど、この森を選んだのは正解だったなと思う。シャロットは楽しそうだった。大好きな甘い木の実などが所々に落ちていて、このダンジョンは林檎の木に囲まれている。鮮やかな赤い林檎の実と、まだ熟れ切っていない若々しいリンゴの実の仄かなにおいが、林檎の木に近づくとほんの少しだけふんわりと漂ってくる。うっとりとした表情でそれを嗅ぐシャロットは可愛らしかった。
「結構沢山林檎拾いましたよね。誰かにあげるんですか?」
返答はなんとなく予想がついていたが、シャロットの口から直接聞いてみたくて知っているようなことを尋ねてみた。柔らかに笑いながら、シャロットは答える。
「あたしは、一応探検家だから、食料は大切なんですけど…………自分の為、なのかな。何というか、お詫び……のつもりなのかもしれません」
「お詫び?」
「さっき話した、時の歯車事件に関する話です。いきなりこんなことを話したらなんか、ちょっと重いんですけど……あの事件で、あたしは大切に思ってる友達を自分の事に巻き込んで、ひどい目に合わせてしまったんです。
そのポケモンは、お料理をするのがとても好きで、ごはんもお菓子も絶品で、そういうことをしている時が一番幸せだって言ってて。……あたしは、一時的にそのポケモンからその幸せを奪ってしまったんです」
「だから、料理をいつでも作れるようにって、材料を差し入れてるんですか?」
「そうですね。あ、でも。結果的に良い思いするのはあたしっていうか、そのポケモンが作るお料理があたし大好きで、差し入れたものは大体湯気をふわふわさせながら帰ってくるんです。とびっきりおいしくなって」
自身の口から重い話と言っている割には、シャロットはあまり苦しそうではなかった。しかし、初対面でこんな風に話してくれているのはいったいどういう事なんだろう。ふと考えてみるが、よくわからない。シャロットというポケモン自身が、もとからあまり包み隠したりしない性格なのか、それとも心を許してくれたからこそそんな風に話をしてくれるのか。
……いや、そう考えてしまうと自惚れる。あくまで妄想で、好きな女の子が少し弱みであることを話してくれているからと言ってそれが必ずしも自分に好意的な感情を持ってくれているというそういうアレではない。まだ決断するには速すぎる。落ち着こう。チェスターはそう頭の中でまとめ上げると、小さく息を吐いた。
「あ、すいません。あたしばっかり話しちゃって……敬語あまり使い慣れてないから、気を抜くとすぐにぼろが出ます」
「俺もですよ。エレキ平原の方ではいろいろと散々ですから。セオとかほら、冷めてるから。少し俺が笑わそうとするとすぐに冷たい目で俺を見てくるんです」
「そうなんですよ!あたしも結構ふざけたりするの好きなんですけど、セオがすっごく冷たい目で見てくるんです!」
「昔からそうです!あいつ末っ子なもんで、色々と甘やかしすぎちゃったんですよ!可愛くないったらありゃしない!」
弟と元パートナーの話題(とまとめておくが有体に言えば悪口)でひとしきり盛り上がった後、そろそろ進もうか、という具合に二匹は腰を上げた。チェスターはもう少しここに居たかったが、一応依頼という形で来ている以上は進まなければならない。しかし、シャロットの接し方は先程よりも何倍も柔らかくなった。敬語を頑張って使っているが、一緒に居るのが長くなるにつれてどんどんぼろが出てくる。それがうれしかった。
しかし、戦闘は上手いし誘導もできているのだが、どこか最初ぎこちなかった。もしかして、連れて行く系の依頼は慣れていなかったのだろうか。これを尋ねるともしかすれば少しデリカシーが無いかもしれないが、聞いてみることにした。
「もしかして、このタイプの依頼ってあまりやったことが無いんですか?」
「え!?わ、分かりましたか?うぅん、まぁ、そうなんですよね……あたしと依頼者さんだけで行った事がなくて、他の探検隊と混ざってたから……下手糞でしたか?」
「いやいや、最初ちょっと緊張してたのかなって。今ほら、すごく話しやすいし!お互い最初の方ぎこちなかったなって」
「確かに!セオから一応話は聞いてたんですけど、エレキ平原の件がありましたから。怒ってたらどうしようってちょっと思ったりしてました」
「す、すいませんでした……」
「でも実際はセオのお兄さんとは思えないぐらい優しくて、よかったです。優しいし、知り合いの身内だからすごく安心してます」
やはり、弟はシャロットに対してもあの態度をとっていたようだ。我が弟ながら恥ずかしい、と顔を地面へと向けようとしたとき、シャロットの言葉が引っかかった。『優しい』……『よかった』?『安心してる』?
優しいと言ってくれたのか?俺がこんなで良かったと言ってくれたのか!?今、安心しているというのか!?
「……どうしましたか?」
「い、い、いやいや!!や、優しいだなんてそんな!う、嬉しいっていうかなんていうか、あ、その、ありがとうございます!」
「ううん、本当の事を言っただけですよ」
そう言って、シャロットはにっこりと微笑む。チェスターは、自分の目に狂いはなかったと思った。容姿だけで惚れている、などとはもはや言えない。優しくて可愛くて明るい。何故彼氏がいないのかが逆に疑問である。そもそも情報がでまわっていないだけで、本当は彼氏はとっくにいたりするのではないかという妙な事も考えてしまう。そんなことを考えたところで、今この状況ではどうしようもないというのに。
ここはこう、自然な感じで聞きだせないものか。チェスターはそう考え、隙を伺い始める。すると、ころりとシャロットの口からこんな言葉がこぼれた。
「……なんだか、タメ口の方が話しやすそうだなって思っちゃいます」
「え?」
「あ!すいません、勿論仕事上の関係なので、そう言うのあんまりよくないってことは分かるんですけど、さっきからすごくボロボロと普段の口調が出ちゃってて、違和感が……」
「じゃ、じゃあお互いタメで行きませんか!?俺も勿論そうするし……そしたら、ほら。平等じゃないですか。大体俺、あれです。セオのアニキですから!セオのアニキ程度にそんなかしこまることないんですよ!」
「じゃ、じゃあ……」
シャロットは納得したような顔つきのまま目を瞑ると、軽く深呼吸をして目を開いた。少しぎこちない声色ではあったが、『じゃあ、よろしくね』と、小さな声で口調を柔らかくしつつチェスターに応えた。自分の事でありながらもなんとなく口の中が甘酸っぱい。順調に行き過ぎてて怖い。つい昨日までシャロットの中では顔と名前の一致すらしていなかったであろうというのに、たった一日でここまで到達するとは。一般的にこれは進歩というのかどうかは分からないが、恋愛偏差値が低いであろうチェスターにとって一年分の出来事のように思えたのだ。
「えーと、じゃあ、そろそろ行くか」
「そうだね」
少々ぎこちないながらも敬語を卒業した二匹は、あまり難しくも無く長くもないであろうダンジョンの先を見つめながら、更に奥地の方へと進み始めた。目的(一応)であるセカイイチの成る木はあと数回階段を通過すれば現れるだろうと思われる。このダンジョンは『モンスターハウス』や『落とし穴』といった類のものがあまり存在しないため、野生のポケモンが異常なほどに強いとかいうことが無ければ、歩い程度スムーズに通過できるダンジョンなのである。
そんなダンジョンで、迫りくるアゲハントにチェスターは十万ボルトを落とした。十万ボルトが羽を霞めて痛々しい音が微かに響き渡るが、何とか持ちこたえたアゲハントは身を翻して『毒の粉』を二匹に向かって吹き付けた。鱗粉と共に散ってくる毒の粉末がふわりと宙に舞い上がり、二匹に降りかかる。シャロットは口から勢いよく炎を吐き炎の渦を発生させると、自分と一緒にチェスターもろとも体を炎で包み込む。毒粉から身を守る様にして体自体を炎で覆った。その所為でアゲハントも近づくことが出来ず、空中でフラフラとしながら二匹を覆う炎をじっと見つめていた。パチパチと二匹を覆う炎はやがてはじけ、その中から『火の粉』が唐突に飛び出してきて、渦に気を取られていたアゲハントを直撃した。アゲハントはふらりと宙を舞いながら、地面に落ちていく。
「すごいな」
「状態異常って大変だから、結構前に考えたんだよ」
探検をしている時のシャロットの顔つきはとても輝いていた。本当に探検が好きなんだろうと思うし、チェスターもそんな彼女を見ているとどこか嬉しくなる。キラキラとしていて惹きつけられて、思わず表情が緩んでしまう。
これは彼女なりの才能なのかもしれないと思った。安らぎを与えてくれるこの感覚。彼女が好きだからというよりは、彼女だからこその感覚だった……と思う。セオもこの感じを知っているのだろうか。セオは、気に入ったポケモン意外とはあまり距離を縮めないたちのポケモンである。そんなセオも気に入って、一時期は一緒にチームまで組んだ彼女には、何か不思議な力でもあるというのか。自らの恋心をそんな神秘的に例えたりしてみるが、アゲハントを倒した時点でセカイイチの木は更に近づいてきていた。セカイイチの木に辿り着いて、ある程度それを観察するふりをしたら、この依頼は終了。チェスターとシャロットの関係もここまでになってしまう。
『また会いませんか』と言いたくても、ふとした会話の中でどうしてもその言葉を挟むタイミングや声の雰囲気などがよくわからなくて、なかなか切り出せなかった。
「あ、あのさ」
「なに?」
「シャロットさんって、その。お付き合い……?してるポケモンとかいる?」
「え!?おつきあっ……!……い、いないかな。ちょっと恥ずかしいんだけど」
交際相手はいない。よかった。言質が取れたとばかりに、チェスターはほっとした顔つきでふぅ、と息をついた。その表情を見たシャロットは、少し不思議に思って首を傾げる。
「好きな相手とかは?」
「いないんだよね。本当は欲しいんだけどな……。あたしって、結婚できてたのかな。聞いておけばよかったかもしれない」
「え?」
その言葉に、チェスターは思わず声を漏らした。不思議な発言だと思ったからである。その言葉の意味を瞬時に理解できなくて、チェスターは軽く首を傾げた。シャロットはチェスターの方をちらりと見て、その表情を目に入れた。チェスターの不思議そうな顔の意味がなんとなく理解できたのか、『何でもないです!』と、つい敬語を交えながらもそう伝える。
「変な事言っちゃった。ごめんなさい」
「い、いや。不思議なこと言うなぁって思ったもんだから、俺もついつい。ごめんなさい」
「ううん、大丈夫。先に進もうよ」
その不思議な言葉の意味を説明してくれる気はないようだったが、踏み込んでいい領域と悪い領域があるのだろう。シャロットが自分から話そうと思えるまでは……そうなる時が来るのかは不明だが、とにかくそっとしておこうと思った。第一、こうやって敬語を使わずに友人っぽい感じの雰囲気で話をできていること自体がとても幸運な事である。まわりの野生のポケモン達から見れば、もしかしたら番にさえ見えたりするのではないか?とかそういう事もちらりと考えてみたりしたが、猛烈に恥ずかしくなったので止める。
「ちなみに、セカイイチの実を取って行こうとかいう予定はないの?」
「セカイイチの実か……とってみたいけど、すごく貴重なモノらしいから、俺みたいなのが取っちゃうとかえって迷惑なんじゃないかと思うんだ」
「チェスターさんは採らないんだ。うーん……あたし、ギルドにお土産に持って帰りたいんだ」
「ギルドに所属してたのか?」
「ううん、あたしはフリーだよ。でもいろいろとお世話になったし、そのギルドの親方様がセカイイチの実が大好物らしくて……でもうっかり切らしたりしちゃうとギルドを吹き飛ばすくらい怒るんだって」
「え、えぇ……あ。プクリンのパトラスのギルド?セオの奴が前言っていたような言っていなかったような」
「そう!そこの親方様のパトラスさん!弟子のポケモン達も大変だし、力になりたいと思って」
ギルドの話をしたとたんに、シャロットの目がキラキラと輝き始めた。どうやら相当そのギルドの事を慕っているらしい。楽しそうにギルドの事を話し始めるシャロットを眺めつつ話を聞いていたが、ふと一瞬その姿が弟のセオに重なったような気がした。いつもふてぶてしく憎たらしい、可愛くない弟である。そんな彼とシャロットが重なるなんて、とチェスターは首をぶんぶんと横に振った。
セオも探検隊が好きだった。探検隊マニアを拗らせた結果、自分も探検隊を結成したのである。その時に見つけたパートナーが、きっとシャロットだ。何故シャロットだったのかはわからないが、今となっては感謝である。シャロットはセオと長く一緒に居たようだが、性格のタイプはかなりお互い離れているタイプである。一体何が重なってしまったのだろうか。
「チェスターさん達と鉢合わせた時の探検隊もそのギルドのポケモンで、ピカチュウのアカネさんはとっても強くてきれいで、探検隊のリーダーなんだよ!」
楽しそうに話をするシャロットの、そのキラキラと光る眼の奥を見て、チェスターはふと思った。彼女のキラキラと輝く目。嗚呼。これだ、と。
好きなものを真っすぐに見つめて語って、喜怒哀楽と彩に溢れたこの目がセオに似ているのだ。それが分かったからと言って特に何がある訳でもなかったが、何か腑に落ちるものがあった。
「……あの探検隊には、本当に申し訳なかったな。父さんに乗っかって好き勝手やっちゃってさ。昔、随分ひどい目に遭ったことがあったから、侵入者に対して俺達も敏感だったんだ」
「お互い様、って事でいいと思うな。あたしたちも目的が有ったし、そっちには理由があったんだから。たまたまぶつかっちゃっただけで、最後には何とかなったんだし、あたしたちもやっぱり謝らないといけないところがあるから……」
そんなシャロットの言葉を聞いて、『そうだな』と返事をしながらチェスターは笑った。自然に会話がちゃんとできているのが信じられなかったし、初対面で今日初めて一緒に探検に出かけているにも関わらず馴れ馴れしすぎたのではないかと思う程ぐっと距離を縮めたような気がした。そんなとき、ついに階段が見えてきて『嗚呼、そろそろか』と、別れを残念に思う気持ちがふわりと心の中に浮かび上がって、雲のように広がっていく。階段を通過するとほぼ一直線の通路があり、その先は開けた部屋になっていた。その奥には周りの木とは違って横にも縦にもかなり大きい木が一つ生えていた。その木についている林檎の果実は、周りのものとは大きさから色の艶まで何もかも違って、直ぐにセカイイチだという事が分かった。
これにて、依頼終了である。
「…………つきましたね…………」
一応、依頼の期間が終了したという事を伝えるためにシャロットは敬語でチェスターにそのことを告げた。何といえばいいのかわからなくて、とりあえずチェスターは『本当だ』と、小さく返事をする。『ありがとうございました』と言えば、本当に終わりなような気がした。シャロットにしてみれば引き留められる筋合いはないので、当たり前ではあるのだが、この先をどうしようかとほんの少し目を伏せて考えてみる。
リンゴの森奥地。そこにはポケモンは一匹もおらず、シャロットとチェスターのみが存在していた。シャロットは軽く辺りを見渡すと、これから何か悪戯でもするかのような子供らしい顔つきをして、チェスターに小さな声で囁いた。
「……ちょっと、セカイイチ食べてみまない?」
「えっ」
チェスターは少し驚いた顔でシャロットの方を見た。彼女は柔らかに微笑むと、小さく首を縦に振る。まだ解散という事ではないようだ。チェスターは心の底で深く深く安堵すると、シャロットの誘いに笑顔を作って大きく首を縦に振った。
二匹はセカイイチの木の方へ向かって歩くと、さてどう収穫しようかと話し始めた。木を傷つけてしまうのには抵抗がある。二匹の使う技は両方木を傷つけたり燃やしたりしてしまう確率が高いものだった。
すると、チェスターは木に足を掛けて昇り始めた。万が一木が燃えてしまうという事があっては大変だと配慮しての事だろう。シャロットは少しヒヤヒヤした様子でそれをみつめながら『気を付けて!』と、声を掛けた。
「大丈夫だよ、こういうの得意だし!」
にんまりと笑いながら足を少しずつかけて昇っていく。万が一落ちたとしても着地は難しくはないだろうが、やはりどこか不安になってしまう。チェスターは枝に軽く前足を掛けると、よいしょと上半身を持ち上げて木の太い枝部分へと乗せた。木は軽く音を立てながらもチェスターの上半身を支える。手を持ち上げて爪を軽く出すと、木に生っている林檎の頭の方へと爪をそっと当てて切り取った。それを木の幹に伝わせるようにして地面に落とす。シャロットが他にも持ち帰りたいと言っていたのを思い出し、自分とシャロットの分、更にあと三つほど地面へと落とした。
それからバランスを木の上で整えると、地面に向かって勢いをつけて飛び降りた。種族上、足から無傷で着地することはたやすい。空中で再び体制を整えて足から着地した。
「おお……!!」
シャロットの目がキラキラと輝いている。いつの間にか『かっこいいところ』を見せることに成功していたようだった。それが分かると、チェスターは照れたようにして口隅を吊り上げた。シャロットがあまりに嬉しそうだから、ついつい調子に乗って足元に落ちていたリンゴの一つを地面の上でコロコロと弄ぶ。
「えっと、これどれ食べていいの!?」
「この三つがシャロットさんが持って帰るやつで、後は俺達が食べる分だよ」
転がっている五つの巨大な林檎。その一つに齧りつくようにして飛びつくと、シャロットは満面の笑みを浮かべて『ありがとう』とチェスターに礼を延べた。それを見る度バクバクと心臓が飛び跳ねる。嗚呼、こんなに幸せでいいのだろうかとさえ思ってしまうのだった。
シャロットはほかの三つのセカイイチをバッグに詰め込むと、木の幹のあたりに少し姿勢を崩した状態で座り込み、爽快な音をさせながらセカイイチに齧りつく。それを確認した後、チェスターも座り込んでセカイイチに口を付けた。
シャリ、と爽快な音が響く。ほんのりと酸味が口の中に広がり、そして強めの甘みが舌の上を撫でて行った。甘さが強いリンゴのようで、やはり『セカイイチ』というだけあってかなり中毒性の高そうな味だった。トレジャータウンにあるギルドの親方が、これが無いと発狂するというのも頷けないという訳ではない。誰に何を言われたわけでもなかったが、ウンウンと顔を頷かせた。
ところで、先ほどからとなりでセカイイチを食べているシャロットは、食べ始めたあたりから言葉を一言も発していない。少し不安になって彼女の方を見て見ると、彼女は先ほどのままセカイイチを食べ続けていた。とてもおいしい食べ物で、この数時間彼女を見ている限りだと、『おいしい!』と声を上げそうなものだ。ほんの少しのぞき込んでみると、心なしかその表情は暗かった。
「……あの…………どうかしたのか?」
「…………うん…………」
実はあまりおいしいと思わなかったのだろうか。チェスターは疑問に思うが、自分以上にセカイイチを楽しみにしていた彼女にそれを言うのは少しばかり躊躇われる。
「おいしいね、これ」
「そうだな。こんなリンゴは食ったことないかも」
「…………だから、しあわせだって思ってた」
リンゴがおいしいから、幸せ?
よくわからない。また不思議な事を言っているな、と思った。おいしいものを食べているから幸せという意味にもとれるが、なんとなく彼女の表情はそういう意味にはとれない。リンゴがおいしくて、だから幸せというのならば、そんな不安気な表情をする必要はないだろう。
「幸せ?」
「うん。こんなに幸せで、大丈夫なのかなって思ってた」
「……幸せだから、不安になるのか?」
「…………いきなりだけど、ちょっと暗い話してもいい?」
「唐突だな……うん、いいよ」
シャロットは一呼吸おいてから一度しゃりっと林檎を噛み、そして顔を上げた。その瞳は、チェスターでもこの森のどこかでもない、目には見えない遠い場所を目に移し、じぃっと見つめているような気がした。どこを見ているのかはわからない。シャロットは少しだけ口角を上げると、微かに口を開いた。
「あたしは、今まで自分はそこそこ気が強いところが有るっていうか、道理はちゃんと通す主義のポケモンだと思ってた。
でも、最近それが全然違ってたんだって思い知らされた。あたしは本当は、結構臆病で卑怯なところが有ったんだってことに気付かされた」
「…………誰にだってあるよ」
「ちがう。普通に生活していればちょこちょこ気づくようなところはありそうだけれど、そうじゃない。そうじゃなくて、本当に卑怯で臆病で、無責任な自分を見た。言い放った卑怯な言葉が反響して聞こえて、気づいたら上から自分を見下ろしてた感じだったの。あたしを責めたポケモンもいたけれど、あたしはそのポケモンの言いたいことがちゃんとわかっていて、分かっていたから反抗してしまった。あたしのために言ってくれてたことも有ったのかもしれないのに。あんな卑怯な事を言ったのに、話が収まってからは誰もあたしを責めたりしなかった。
…………自分の事、前向きな方だと思ってた。今思えば、意地でもへこたれてやるもんかって思ってたところもあったと思う。どれだけ辛いことがあっても嫌なことがあっても、誰かの前ではそれを引きずるような真似はあまりしたくないなって思ってた」
チェスターには、シャロットが言っている話の内容があまり分からなかった。そう思うに至るまでの経緯も、何があったのかも、彼には分からない。
しかし、言いたいこと自体はなんとなく理解できるような気がした。今までの自分を全て、自分で否定してしまったような悲しみと罪悪感。誰に責められるわけでもないし、きっと誰も気にしていないようなこと。もう覚えていないようなことをずっと気持ちの中で引き摺っている。耳にこびりついたのは紛れもない自分の声で、それが誰のどんな言葉よりも心に染みついて離れない。思い出す必要もなく、突然にやってくるその声は、喉を震わせれば出てくるいつもの自分の声。
シャロットは弱っているのだろう。先ほどまでの彼女はどこまでも聡明で鮮やかに見えた。不意に襲ってくる不安と、自分の声。リンゴを齧った瞬間に、この穏やかなダンジョン奥地の空気と、和らかな緑の香りに包まれて、つい自分の声が聞こえてしまったのだろうか。
シャロットはチェスターに縋っているのだろうか。チェスターとは出会って間もなく、それどころかまだ一日も経っていない。このタイミングでただ単に不安になってしまっただけなのか。はたまた、助けを求めているのか。一体何があったのか、それをチェスターに伝える気は特になかった。ただ聞いてほしかったのだ。
誰かに話す機会なら、いくらでもあった筈だったのに。
一呼吸置くと、シャロットは自分の顔の真下にあるセカイイチをもう何度か齧って飲み込んだ。こんなことを言うのは柄ではないとわかっていたし、母親にさえこの気持ちは大きく吐露したことはない。そんな話を何故、この出会って間もない男にしてしまったのかは、今日一日だけ一緒で、あとはお互いすれ違ったら挨拶をするレベルの知り合いになるだけ……という、大雑把な未来が見えていたからだろうか。今こんな話をしても、いずれ無かったことにできる。チェスター自身だって、自分の話に興味を抱くとしても一週間もすれば完全に風化し、無かったことになる。なかったことにできるかもしれない。どちらにしても、初対面でこんな話を吹っかける女と仲良くしようとは思わないだろう。
世界が救われたあの日以降、シャロットの感情には大きな波があった。いつも穏やかで、何もかも楽しいと思える時が必ず存在する。手をつないで歩く親子を微笑ましく思ったり、仲睦まじいカップルを見て妬きつつも目を輝かせるような、そんな日常。そして不意に聞こえてくるあの時の自分の声がこだまするのだ。
『そんな起こっても無いことで縛り付けないでよ!!!』
現実から逃げた瞬間の声。アレが本心だったのかもしれないと思う。だとしたら卑怯だ。自分が『未来』で何をしているのか、自分の存在がいかに他のポケモンたちの生きていく道を操って来たのか。過去だとか未来だとかは関係なく、そうしたのは自分だというのに、それを頭の中で唱えるどころか口に出してしまうなんて。その途端に心を満たしている海がザバ、と大きな波を立てて気持ちをかき回す。暗い気持ちになって、腹と胸の中間が握りつぶされているような感覚に陥るのだ。誰も気にしてなんかいないだろうに、気にしているのは自分だけ。それにまた虚しくなって、握りつぶされる。
そんな状態が続き、そして二度も抹殺されかけた。一度目の抹殺の犯人はまだ怖くはないが、二度目の犯人はまだ捕まっていない。しかも、過去にも重犯罪を引き起こしているポケモンらしい。そんな中で、依頼人と二匹ダンジョンをふらつくのはいかがなものか。と、セオが持ってきた仕事を受けた直後にシャロットは思ったものだ。警察やギルドからも不用意にフラフラしないようにと注意を受けている。まだ、『時の歯車事件』から派生した事件は終わってはいない。
でも、こんな自分を頼ろうとしてくれているポケモンが居るのがうれしくて、気が付けば嬉しそうに声を上げていた自分が居た。また自分の声が耳の奥で反響して、何重にか重なって聞こえた。だからこの依頼を受けたのである。何の変哲もない『連れて行って依頼』だったが、少し日常に変化が欲しかった。
彼女の周りのポケモンは、シャロットのダメージをあまり敏感には感じ取っていなかったが、彼女にはかなり響いていたことが多かったのである。自分が必要ない存在などとは思っていない。むしろ、割と愛されている自覚はあるのだ。だから、自暴自棄になる前よりも、なりそうになる時の方が辛いのだ。
「……ごめんね。こんな話する予定じゃなかったんだけど、いきなり変な空気にしちゃって。気づいたらセカイイチ食べ終わっちゃいそうになってるし、早く食べよう」
「あの。さっきの話聞いてて思ったんだけどさ、今は……幸せなのか?」
「……やっぱり急に不安になっちゃうことはある。でもなんていうか、発作的だから仕方ないかなって思ってる。今日こうやって誰かに話せたっていうことは、暫く誰にも話さなくていいかなって思うし、引かれるかもしれないけど、そういう感じなんだ。こんなこと初めてというか、戸惑っちゃって。
……けど、平和だなって思ったから。あたしの所為で、これ以上誰かが傷つくことは無い。傷つくことは無いって信じたい。時の歯車事件とか、そういうものは起こっていないような……今はそんな世界だから。平和なだけで幸せだなって思うようになったの。こんな風に穏やかな場所でリンゴ齧って、しあわせだって」
不意に巻き上げるような風が吹いて、ふんわりとシャロットの前髪を揺らした。言葉を吐き出した後のシャロットの顔つきは先ほどよりは生きているような気がして、チェスターは少しの安堵で息を吐く。
役に立てたならよかった、と思った。何故自分に話してくれたのかはあえて聞かない。というよりかは、なんとなくわかる。出会ったばかりのポケモンだからこそ話せたことなのだろう。最初の方でそう伝えれば、その後はどうにでもすることが出来るから。この先、シャロットの事をどうとらえるかを、チェスターに委ねることが出来るからである。
「……話聞いてくれてありがとう。大分すっきりした。あ、どうだった?セカイイチの木!」
「こちらこそ……って、え?嗚呼、セカイイチ!うん、美味かった!思ってたより木も大きかったし」
「それはよかった!」
気づけば、シャロットのセカイイチは芯だけになっていた。チェスターは少し焦り気味に自分のセカイイチに齧りつく、どうにかこうにか噛み砕いて一気に飲み込んだ。飲み込んだ瞬間に大きく目を見開く。『しまった』と……。
「ン……ググ……」
「え!?」
「…………ング、ンン……ッハァ!ゲホッゲホッ!!ふぅ、ふぅ……」
「…………詰まらせたよね?」
「……おう」
疲れ切り、息を切らしながら返事をする彼に、シャロットはくすりと笑った。チェスターの顔の下に、食べ終わった後の林檎の芯が転がる。シャロットは自分のバッグの中に何個かセカイイチがあるのを再度確認すると、『そろそろ帰ろうか』と、立ち上がった。
「どうしようか?じゃあ、このまま『穴抜け玉』で帰っちゃう?』
「え?く、下って行かないのか?」
「いやいや、下りの方が結構キツイとおもうし……セカイイチの木に辿り着けたから、どうかなって」
「そ、それは……えぇと……うぅん、構わないけど」
構わないわけがなかった。もう少し一緒に居たいのだから下って行った方が都合がいい。しかし、シャロットにその気はなさそうだ。仕方がなくではあるが、チェスターは首を縦に振った。シャロットはバッグの中から『穴抜け玉』を取り出すと、それを発動させてチェスターの近くへと寄っていく。
嗚呼、距離が近いな。良いにおいする……などとまで考え始めた瞬間に、ふと目の前が光って、意識が一瞬どこかに飛んだ。
気が付いた時には、林檎の森のすぐ入り口の所に二匹で立ち尽くしていた。思ったよりもずっと時間が経っていたのか、空には微かに茜色が伸びている。朝早くに出てきたはずなのに、随分時間が経つのが速い。
チェスターがそう思っていた時、シャロットはぽつりとつぶやいた。
「時間たつのが早かったね」
チェスターは、その言葉に一瞬方を震わせた。まさかの同じことを考えていたパターンである。これは相当距離感的な物が近づいた、ということなのだろうか。嫌な奴と一緒に居れば時間が長く感じる筈だ。嫌……という訳ではなかったという事だろか。
ということは、一応成功したということになるのだろうが、とりあえず今後の関係が重要だと思った。あくまでチェスターの立場は依頼者なので、今後プライベートで会う……ということは、何かをどうにか頑張らなければかなり無理があるような気がしていた。このままで終わるのは嫌だ。
「あ、あの!」
「え!?あ、はい、なんでしょう!?」
「………………」
とりあえず腹の奥から声を絞り出してみた割には何も言い出せない。シャロットは驚いた表情でチェスターを見上げていた。その姿がまた、なんとも可愛らしい事この上ない。それも有ったが、その下からのぞき込んでくる瞳がチェスターを焦らせた。シャロットの気持ちを引き留めるにはどうしたらいいか考えてみるうちに、チェスターの頭の中が段々とテンパってくる。ぐつぐつと頭の奥が煮えているようだった。チェスターがシャロットと今日、初めて顔を合わせた時の方がまだマシである。
チェスターの頭の中の整理がつかないまま、勢いで腹の奥から言葉を絞り出した。
「お、俺、あの、エレキ平原で最初に見た時からずっとシャロットさんのこと好きでした!!今から付き合ってくださいなんて言えないけど……あ、いや、付き合ってください!お願いします!!!」
そう言って、チェスターは頭を地面にこすりつけんばかりに下げた。ついにやってしまったと思った。本格的に顔を合わせてから約数時間。展開が早すぎる。これはフラれる。フラれてしまう。さよなら初恋……と、地面に頭をこすりつけながら思っていた。しかし、いつまでたってもシャロットは無言だった。断るならば早く……!と思っていたのだが、何も言わないシャロットに、チェスターは恐る恐る顔を上げてみる。
頭を上げて、そっと正面を向いてみた。丁度、斜め下にシャロットの顔が見えた。
ぽかんと、口を開けて黙り込んでいる。一体何が起こったのか分かっていないようだった。状況を理解できていないのである。そんなシャロットの唖然とした表情を見て、チェスターは自分の混乱が徐々に収まっていくのを感じていた。自分はさっき告白した。まだ返事は来ておらず、本人は告白の事を理解できていない。そこまで頭の中で整理できた。
「…………!…………あ……」
やっと我に返ったシャロットは、ほんの半歩身を引いた。目が潤んでおり、元々赤みを帯びた体毛がさらに赤くなっているように見えた。やっと状況が分かったように戸惑っており、シャロットの口からは『えっと……』『その……』という困惑の形がこぼれていた。
「ご、ごめん……そっちからすればあったばかりなのに、いきなりこんなこと言われてもさ、困るよな……ほんとにごめ」
「ま、まって!」
チェスターが突然の告白について謝ろうとした瞬間、シャロットはその言葉を遮った。そして、チェスターが疑問の声を上げる隙を与えることなく、シャロットはチェスターに向かって言葉を告げた。
「少し考えさせてもらっても、いい?」
「…………へ?」
失敗……ではなかった。
* * *
「うああああああああああああああああ!!」
――――時と場所を変え、セオの自宅にて。彼の家の床の上にて、すさまじい動きでのたうちまわる一匹のポケモンが居た。
それは先ほど、勢い余って思い人に恋心を告白してしまったチェスター・スカイウォーカーというルクシオである。そんな兄を弟のセオは、何か汚らわしいものでも見るかのような目つきでじっとりと見つめていた。うるさくて気持ち悪くて近所迷惑になる……セオの頭の中にはそんな言葉がめぐる様に流れていた。当のチェスターはそれどころではない。告白をしてしまったのだ。話をして間もない相手に告白をし、絶対に振られるとおもいきや、まさかの保留と来た。体の中で暴れまわる感情を押しとどめるには、とにかく凄まじく動きまくりながら奇声を上げるしかなかった。返事が聞きたい。けれど、困らせる様な真似をしてしまったのはチェスターであって、せっかちに早く返事を聞きたいなどとは言えない。
「あのさぁ、どうしたの。もうフラれたの?」
「いや、フラれてはいない!でも付き合えてもいない!」
「あー、なるほど。引き延ばされちゃったわけか。てか、告白するの早くない?」
「勢いでつい」
「ま、どーでもいいけどさぁ」
自分で聞いてきた癖にそれはないだろう、という顔でチェスターはじっとりとセオを睨んだ。セオもにらみ返す。勘弁してほしいのはこっちだよ、と見せつけるようにしてため息を一つ、深く深くついた。何かを察したように、チェスターはおとなしく口を閉ざすと、その代わりのように尻尾を大きく振り始める。
まぁ、改善しただけいいか。と、セオはジト目で見つつももう何も言わなかった。
気持ちが落ち着かない。結局、返事はいつ来るのだろう。先程告白をしてすぐ、とにかく保留という形で。と約束をし、その後トレジャータウンの十字路のあたりで別れた。誤魔化されたりするかもしれないという心配もなかったわけではないが、なんだか真剣に考えているようだったし、『ちゃんと連絡するから』と去り際に言ってくれたのである。あらかじめ用意していた報酬を渡すという話題を振りはしたが、それは断られた。セカイイチを持って帰れただけで十分だった。また今度、という時のために取っておいてほしいということだ。ちゃんと連絡するということを保証するという意味合いも込められているのだろう。それに納得し、チェスターは報酬を家に取りに帰ることなくシャロットと別れた。
本当に告白してしまったあの時、了承されるとは思っていなかった。ただ、保留されるとも思っていなかった。ただただ、彼女は困ってしまって『ごめんなさい』……そうなると咄嗟に思った。
しかし、とチェスターは思い返す。シャロットは弱っていた。普段の彼女を知らないことから一概には言えないものの、彼女はあの時弱っていたようだ。普段仲のいいポケモンには見せられないようなところを、まだであって数時間というポケモンに打ち明けたのだ。シャロットは少し心が弱くなっていて、図らずではあったがチェスターはそういうところに付け込んでしまったのではないか、と思う。それだけでシャロットが了承するとは思えないのだが、大なり小なりそういうところも関係しているのかもしれない。
「で、どーすんの?シャロットの返事来るまでここで待つつもり?」
「え、駄目なのか?」
「冗談じゃないよ。いくら心の広い僕でもそれはちょっとね。大体、一生来ないかもしれないんじゃん?返事」
おい、なんてこと言いやがる。
チェスターの綿の詰まったガラスのハートに、セオのそんな言葉がぐさりと突き刺さる。やはり彼にはデリカシーが無い。もはやデリカシーを持とうという気すらない。チェスターは泣きそうになりながらも、尻尾の動きを止めてぐっと涙を堪え、項垂れた。そんな彼を見て、セオは再び大きくため息をつく。一体今日、何度ため息をつかれたことか。
「……まぁ、できる限り家にいないでそこらへんうろついててくれるならいいけどさ。泊めるくらいなら……」
「まじか!!」
チェスターが勢いよく顔を起こした。それを気味悪そうに見つめていたが、やがてセオは何回目かわからないため息をついて『そうだよ』と返事をした。チェスターは『よっしゃ』と小さくつぶやく。これでこの家の宿泊権的なものは手に入れたわけだ。あとはシャロットを待つだけなのだが、肝心の彼女との連絡をどうしようかと思った。ここでフラフラとしているなら、シャロットにばったり出会ったりしてしまわないだろうか。チェスターは全然構わず、むしろ歓迎するのだが、シャロットがそうではないかもしれない。
「とりあえず今日はいいや。さっさと寝てよ」
そう言ってセオも欠伸をした。チェスターも伸びをして、ごろりと寝転がる。随分と疲れた日だった。肉体的にも、精神的にも。生きていて初めての告白というものをし、しかも今保留されている。この先どうなるのだろう。分からないが、こんなに大掛かりな事をしたのだから、成功したらいいな、と思ってみる。勿論、大掛かりだろうが何だろうが関係ない。全てはシャロットの気持ち次第なのだけれど。
虚ろになった目を床に無造作に敷かれたベッドへと向けた。そして、大きくあくびをするとごろりと横になる。
そして目を開けると、とっくに朝になっていた。
「……じゃ、昨日言った通り出てってよ。そうだな、空が茜色っぽくなってきたら帰ってきていいよ」
……そして、目を開けた瞬間に家の中から叩き出される。少しでも弟の心が広くなった、と思ってしまったのは間違いだったようである。朝の陽ざしは家の中に籠っていた目には強かった。何度か瞬きをすると、その場で伸びをする。さて、これからどうするか。チェスターは辺りを見回した。
「…………あ」
ちょうど数十メートル先に、見覚えのある後姿を確認した。このトレジャータウンでは、やることも特にない。相手がチャラ男だろうが何だろうが、少しは交友関係を広げるのもいいかもしれない、とおもった。
チェスターはその背中に向けて走り始める。距離は徐々に縮まっていき、あと数メートルというところで妙な気配に気づき、そのポケモンは振り向いた。しかしチェスターの足は止まらず、種族故の衝動というのだろうか。爪を立てて勢いよくそのポケモンに飛び掛かり、首の下の方を掴んで地面に倒した。ポケモンと地面が接触した瞬間に、そこそこ痛そうな音が地面から跳ね返った。
「うおぉぉぉぉぉぉお!!?」
「……あ。悪い」
つい、いつもの癖で。というように、チェスターは足をそのポケモン、レイセニウスの首から外すと、二、三歩後ろに下がる。レイセニウスは顔を真っ青にした状態で固まっており、何が起こったのかよくわからない様子だ。
「お……おぅ?エー……あ、エート……お兄さん……っすか?」
「い、いつもの癖でつい。エレキ平原では獲物を追う時しか殆ど走らないもんだから」
「こ、怖いこと言うんじゃねーよー!!」
涙目でチェスターから這うように離れると、勢いよく起き上がる。胸のあたりをさすっていた。どうやら地面と接触したときに打ったようである。申し訳ない、とチェスターは頭を下げた。
「……あ。そうだ、セオの奴から聞きましたよ。で、で?どうだったんすか、おデートは!」
「……まぁ、いろいろ?あったっていうか?うん……」
「え、察した方が良い感じっすか?」
レイセニウスの視線があからさまに可愛そうなものを見る目に変わった。もう少し位誤魔化してはくれないものか。そういうことではない、と小さく首を横に振る。まぁ、こんな目をするポケモンだってセオよりかはデリカシーがあるだろう。現に、彼の印象はチャラそうで軽そうで、そして賢そうだった。
「……あー。その様子だと、うまくいかなかったわけではないみたいっすね」
「ま…………まぁ。流れ的には、すごくうまくいったわけなんだけど……」
「よし、俺当ててみます」
そう言ってレイセニウスは指を顎において、格好つけたように考え始めた。おいおい、当てるってゲームかよ。げっそりとした顔をするが、チェスターはしばらくその口が開くまでまつことにした。
涼し気な目元が何度も瞬きし、その中の目玉はじっとチェスターの足元を見つめていた。そして、レイセニウスの口元が微かに開く。そのとたんにその目玉はぐるりと回り、チェスターの目を捕えた。
「上手くいかなかったわけではない。ってことはつまり、フラれてはないってことっすよね。でも告白するつもりなんて行く前は言ってなかったし、何もなくうまい流れのまま依頼を終了したなら今頃有頂天な筈。告白が成功したとすればこんな感じじゃ済まなそうっすね。つまり、告ったはいいけど保留された!!モヤモヤして仕方がない!そういうことっすか?」
「いや、そうだけどさぁ……」
レイセニウスの言っていたことは一つも漏れることなく正解だった。しかしここまで当たっていると、逆に『なんだこいつ』と思ってしまう。そう思っているうちに、彼はまた顎に手を当てて思考の海に潜ってしまったようだ。さて、次は一体何を考えているのか。
「……へー。シャロットちゃんが保留ねぇ…………意外っすね」
「意外って?いきなり告白して困らせた俺が悪かったんだ」
「いやいやいや、だって、シャロットちゃん中途半端が嫌いな子だと思うんすよね。即座に『はい』か『いいえ』で決めれる子だと思ってたけど……。
そんなシャロットちゃんが悩んでるって、困ってるっていうより悩んでるんだと思います。十分に希望あると思うし。シャロットちゃん軽い子じゃないから、たった数時間一緒に居ただけでどうやったらそこまで悩ませられるのか不思議なんすけど」
レイセニウスが得意げに力説する。確かに、シャロットの思考は一貫しているところが多い。自分の考えにかなり頑固なところが有るのだろう。チェスターの前で見せたあれは別物だとしても、普段の彼女はそうなのだろう。それをレイセニウスに言われてしまうと、なんだか少しムッとなるが、そもそもやきもちを焼けるような立場にいるわけでもないのでぐっと抑える。
「……まぁ、シャロットちゃんも色々あったからな」
「え?」
「……お兄さん、返事聞きたいっすか?」
「そ、そりゃ勿論」
「俺、さっきシャロットちゃんと会ったんすよ、パッチールカフェで。行ってみたらどうっすかね、ほら。偶然装ってふらーっと」
「そ、そんなことは…………」
シャロットから連絡してくれると言ってくれているのである。それなのに、わざわざ自分から返事を問うような真似は出来ない。シャロットに大なり小なり迷惑をかけてしまったのは事実なのだから、大人しく待つべきなのである。
……と、悶々と考えながらも、チェスターの足はカフェへと向いていた。レイセニウスと別れ、行く当てがないから、とりあえずカフェへ行ってみるだけだ。もしかしたらシャロットはもう帰っているかもしれない。別にそう言うつもりでは……頭の中でいい訳をしてみるものの、それは頭の中で反響して再び誰かの声として耳元でささやかれているように聞こえてくる。声の反響。口に出してはいないが、考えたことがそのまま再び自分に聞こえてくる。
確かにつらいな、と思った。しかし、これは言い訳だと認めたうえで考えてみよう。行く場所がカフェしかないというのは事実なのだ。ショッピングするにも金はそこまで無く、セオやレイセニウス以外には特にあてはない。
心のどこかではシャロットがいるようにと願っている。しかし、そんなことを考えてしまっている自分自身への罪悪感を振り払うと、十字路へ向かって少し駆け足気味に進み始めた。
そして十字路の近くに来た時だった。向かいの道から誰かが角を曲がって、チェスターが今いる道へと入って来る。チェスターは思わず足を止めようとするが、間に合わずにそのままそのポケモンと衝突してしまった。相手も少し体の大きいポケモンだったのか、お互いに弾き飛ばされて痛みに声を上げる。軽く背中を打ってしまい、痛みに顔をゆがめた。
「ってぇ…………」
「ぐっ…………」
チェスターがぶつかった相手もまた、どこか地面に打ってしまったらしく、軽く呻き声のようなものを上げる。それを聞いて、相手は男だと思った。チェスターは謝ろうと体を起こし、痛む背中を丸めながらも、そのポケモンへと目を向けた。
「す、すいません、大丈夫ですか…………」
そのポケモンは尻もちをついた状態で地面に座り込み、顔を下に向けていた。ぎろりとその目がゆっくりと起き上がり、チェスターを捕える。その鋭さに、軽く恐怖を感じたものの、相手のポケモンはすぐさま返事を返した。
「……いや、こっちこそ申し訳ない。不注意だった。この道はギルドの連中がよく慌てて飛び出してくるから、気を付けた方が良い。本当に申し訳なかった、怪我は?」
「あ、嗚呼。大丈夫。一日もすればすっかり良くなるので」
「そうか。それならよかった」
相手のポケモンは立ち上がると、柔らか気に微笑んだ。その途端、そのポケモンの事をチェスターは少しかっこいいと思ってしまった。背が高く、すらりとした体つきをしているポケモン。種族名は忘れてしまったが、不思議な力を使うことで有名な種族のポケモンである。
獣のような耳に、鋭く赤い目。四本の房を頭の後ろで揺らし、口を開くと微かに鋭い歯が見え隠れしていた。そのポケモンは頭を軽く下げると、日本の足で力強く地面を踏みしめてトレジャータウンの方へと向かって歩いて行った。
「…………あれくらいかっこよければなぁ」
ぽつりとつぶやく。こんなに不安にはならないのではないか、と思ったり。軽く立ち上がってみると、じりじりと背中が痛んだ。カフェで休もう。そう思い、ゆっくりとカフェの入り口に足を掛ける。
カフェは前来た時のように賑わっていた。やはり、新しいスウィーツというのが人気のようで、ポケモンたちは皆ドリンクを片手に朝食ともとれるようなスウィーツをほおばっていた。どうやらアップルパイのようである。そこでふと思い出す。昨日、シャロットとチェスターは林檎の森へ行った。シャロットはきのみや林檎をバッグに沢山詰めていた筈だ。それをカフェで使ってもらったのかもしれない。
「いらっしゃいませ!」
「あ、どうも…………」
真横から飛んでくる明るい声。そちらへ振り向いてみると、一匹のかわいらしいポケモンが佇んでいた。この店の看板娘のレイチェルである。
「確か、一昨日も来てくださいましたよね。朝食はまだですか?」
「まだ、ですね」
「それなら、丁度アップルパイがおいしいんですよ!昨日、知り合いの女の子が林檎を沢山届けてくれたんです!しかもセカイイチ!シェフの意向で一切れ無料で差し上げていますので、朝食にいかがですか?」
「あ、はい。もらいます」
チェスターがそう返すと、レイチェルはにっこりと微笑んでアップルパイを渡しているカウンターの方へと誘導した。カウンターでは、一匹のコジョンド……ノギクが一切れずつアップルパイをポケモン達に配っている。なぜか所々に火傷のような傷がある。その立ち姿は美しかったが、チェスターはその隣に目が行ってしまった。
見覚えがあるポケモンが居る。メチャクチャかわいいな。そう感じた相手は、勿論昨日自分が心の内を開かし、恋心を告白した相手であるシャロットだった。どうやらノギクを手伝うために注文を取っている様子である。チェスターは途端に行きにくくなり、その場に固まってしまった。そんな彼を、レイチェルは不思議に思う。
「どうかなさいましたか?」
そんなレイチェルの問いにも、チェスターは上手く返すことが出来ずに口ごもった。彼の様子にレイチェルも困ってしまい、首を傾げる。その様子を目にとめたのか、シャロットはふとそちらへと目線を向けた。レイチェルがなにやら困っているようだ。助けに入った方が良いだろうか。しかし、レイチェルの視線の先に居たのは昨日、共にダンジョンへ入った依頼者だった。
そして、昨日自分に告白というものをしてきた男である。
「あ…………」
「?」
急に声を出して固まったシャロットを、ノギクは一旦手を止めて覗き込む。不審に思ったが、シャロットの視線の先を見てなにかを察したかのように微笑んだ。ノギクは、昨日の出来事を関節的にではあるが知っていた。シャロットから軽く相談を受けていたからである。シャロットとチェスターが別れた後、シャロットが向かっていた場所とは、パッチールカフェだったのだ。
「あたしに、会いに来たんですかね……?」
不安気にそうつぶやくシャロットに対し、ノギクは柔らかに微笑みながら口元をゆっくりと形作った。
『だいじょうぶですよ』
ノギクはそっと、シャロットの肩を叩いて自分の前へと押し出す。まだ不安気なシャロットの背中を押したつもりだった。そんな彼女の心遣いはしっかりと伝わっており、申し訳なさそうにしながらもシャロットは頭を下げて、チェスターの方へと向かって行く。
一方、何も知らないレイチェルは、チェスターのはっきりしない言動に未だに困っていた。カウンターに案内しようとしても立ち止まってその場から動かず、どうしたのか聞いても苦笑いしてどもるばかりである。そんなとき、シャロットはレイチェルとチェスターの間に割って入った。
「ごめんなさい、多分あたしのお客さんだと思います!レイチェルさんは、お仕事に戻ってください!」
「あれ?じゃあ、私の方が困らせちゃってたんですね!?すいませんでした!失礼します!」
そう謝罪して頭を下げると、レイチェルはそそくさと仕事に戻っていく。先程と同じようにカフェの中は騒がしかったが、二匹の間の空気はどことなく重くて、気まずい雰囲気があった。
チェスターは何もしゃべろうとしないシャロットが気になり、少し顔をのぞき込んでみる。すると、彼女の口隅はキュッと引き締まり、下がっていた。……どうやら、少々お怒りのようである。
「しゃ、シャロットさん!ごめん、仕事中だったんだ」
「…………いや、いいの。あれはお手伝いだったから仕事じゃないし……けど、迷惑はかけちゃ駄目だよ」
「本当にごめん。あとからえっと、レイチェルさん?にも、謝っとくよ」
「そうしてくれると、嬉しいかな」
…………。
会話が途絶えた。
シャロットは話し出す気配がない。チェスターも話題に困ってしまい、数秒間二匹で向かい合った状態で黙り込んでいた。先ほどまで少し機嫌を損ねていたシャロットではあったが、この気まずさには少し顔を苦々しくゆがめる。気まずいのは当たり前である。シャロットもまた、チェスターが喋り出してくれるのを期待していたが、彼はみるからに『困った』という顔をしていた。話題が見つからないのだろう。言いたいことはあるに違いない。だが、気軽に言えるようなことでもない。
意を決し、シャロットは口を開いた。
「…………あ、あたしに会いに来たってことで、合ってた?」
「……ぅうん……偶然と言えば偶然だし、そうではないと言えばそうでもないような……」
「…………とりあえず、ここではアレだしその、外行かない?」
「そ、そうだな!」
ナイスな提案、とばかりにチェスターは少し速足気味になりながら、カフェを出た。シャロットは従業員に一礼すると、直ぐにその後を追いかける。とはいえ、カフェ以外に落ち着ける場所はあっただろうか。カフェは騒がしくはあるものの、落ち着いて話すには十分な場所である。
さて、外へ出たはいいがどこへ行こうか。すると、シャロットがまたも提案してきた。
「よかったらだけど、海岸行かない?この時間帯はあまりポケモンもいないし、静かだと思うから」
シャロットに言われるがまま、チェスターはシャロットと共に海岸へと降りて行った。波が揺れる音がザァザァと響き渡り、その音はどこか静かで心地がいい。景色もきれいだった。
海岸とはまた、ずいぶんロマンチックな場所だな、と。先程チェスターはシャロットの提案を聞き、一瞬でも考えてしまったが、確かに落ち着いて話せそうだ。
「きれいなとこ、だな」
「うん。ここは夕暮れ時の景色が少し有名で、すごくきれいなの。…………それは良いとして、なんだけど」
朝の海岸は、さわやかな空気が漂っていた。潮の臭いに、心地のいい波の音。心地がいいはずなのに、気持ちはお互い少し重かった。シャロットに無理をさせてしまっているような気がして、チェスターは咄嗟に『今すぐ答えを出す必要はない』と言おうと口を開いた。しかし、話し出すのはシャロットの方が早くて、その顔つきを見てふと口を閉じてしまう。何か、大きな決心したような顔をしていた。
「…………あの、この前の返事なんだけど」
「い、いや。あの時はいきなりで、直ぐに答えは出さなくていいから…………」
「うん。でも、ここで返事しようと思って来たの。こんなの初めてじゃないのに、妙に緊張して。今回以外はその場ではっきりさせてたのに、持ち帰っちゃってごめん」
「…………うん」
こうやって、自分のように告白されたのも一度ではないのか。そんなところに少ししょんぼりとしてしまうが、今にも何か話しだしそうなシャロットの前でそんな顔は出来なかった。できるだけ相応しい顔つきでいようと思い、頷くとそのままシャロットの言葉を待っていた。
「…………なんていえばいいか、分からないんだけど。あの後かえってよく考えた。そしたらやっぱり、付き合っても嫌われたり、面倒くさいと思われたりするんじゃないかって思って、怖かった。
勿論チェスターさんがそんなポケモンだとは思ってない。でも、これから何が起こるかなんてあたしは全然わからなくて、今までそういうことで沢山のポケモンに迷惑をかけてきた。それがもしもその、お付き合いしたとしたらその相手には尚更迷惑をかけることになる。多分あたしは、責任を負うことに対して臆病なんだと思うの。
いままでは、そういう事言われても断ってたけど、それは本当に直球で、今回みたいな感じは初めてだから、つい瞬時に答えが出せなかった。
ここ最近、割と長期に渡って大変な目に遭って。多分それが無かったら……チェスターさんのことも断ってたと思う」
「そ、それじゃ……!」
「けど、あたしだけじゃ駄目なんだよ。今まで、色々ぼかして話してきたけど、ちゃんと話すから。もし付き合った後にこんな変なこと話して、チェスターさんが後悔してももう手遅れだから。そんなので別れちゃったら、やりきれないでしょ」
そう言って、シャロットは砂浜にちょこん、と座った。少しためらうが、チェスターもシャロットの隣で座り込む。
「後悔……?」
「後悔、だよ」
そこからの話は、少し長かった。チェスターが一度も関わってこなかったような話だったこともあり、シャロットも分りやすく、丁寧にゆっくりと話をしてくれていた。
いずれもそれは『時の歯車事件』に関係しているものばかりで、少し首をひねることもしばしばだったが、その内容は自ずと理解できた。
信じられないような真実や、シャロットのその中での立場を話される。そして、そんな中でシャロットを襲い掛かった様々な悲劇。その事実こそ、シャロットに不安の発作を起こさせる原因だった。二度に渡り、狙われて殺されかけた事。一番最近の襲撃者は、昔にも大きな事件を起こしてはいるが、未だに捕まっていないということ。時の歯車事件こそ、今は過去の事件となっているが、シャロットの立場は変わらず、またいつ命を狙われるようなことがあるかわからない。その時、周りの誰かを傷つけてしまうのも怖い。そして、今まで傷つけてきたポケモンたちのことを背負っているのもまた、辛い時がある。
事件に直接かかわっているわけではないのだ。ただ、間接的に。時間を越えた存在が、シャロットをそんな心境にしているのだということを、チェスターは事細かにシャロットから教えて貰った。信じられない、という選択肢はない。だから、チェスターは多少無理のある話でも事実として受け止めた。冗談だろう、と言って受け止めないことほど、今の彼女を傷つけてしまいそうな態度はないだろう。
口を挟まず、相槌も打たず。ただ延々と、シャロットの顔をじっと見つめながら話を最後まで聞いていた。最後まで聞いて、理解しようとした。流石に一度に受け入れるにはあまりに事実が大きすぎて、ほんの少し取りこぼしそうになりながらも、何とか拾い上げる。
「話を聞いてるだけだと、もしかしたら『どうしてそれが理由になるのか』って思うかもしれないけど、本当に、この先何があるかわからないから。そういう事が起こってからじゃ遅いから……大げさかもしれない。分かってるよ。でも、考えずにはいられない。あたしは、そのことで一回……もしかしたら何回も、傍にいるポケモン達を傷つけてきたから」
「……もしかして、あの時隣にいたコジョンド…………」
「嗚呼、気づいたんだ」
シャロットの瞳に影が落ちた。大きな怪我をさせて、死なせかけてしまった相手とは、あのアップルパイを配っていたコジョンドだった。元々、シャロットが保護されていた施設の賄いさんだというから、確かにイメージは一致する。あの事件から時間が経っているにも関わらずあの傷の残り方は、確かに相当酷かったのだろう。実際に、生死の境をさまよっていた、とシャロットは先ほど話の中で言っていた。
「だから、あの……本当に、真剣に考えてほしいの。本当にあたしでいいのかとか……」
「ん?ちょっとまって!?告白したのって俺の方だし、え……そっちはそれでいいってこと……なのか?」
「え?」
シャロットはきょとんとした顔をしたのち、目を大きく見開いて、元々赤い体毛の一部を更に赤くした。どうやら、既に告白の返事にイエスを出したという前提の上で話をしていたらしい。チェスターはそれに気付いていなかったという事実に驚き、シャロットは恥ずかしさから目を背けた。チェスターも思い返す。そう言えば、もしも別れたりしたらとかどうのこうの言っていたような。そう考えた途端に、チェスターの冷静な感情は見る見るうちに昂り、心臓がバクバクと暴れ出す。頭の中がごちゃごちゃになって、顔が熱くなってきた。
シャロットの話の内容は理解したし、そんなことをチェスターは気にしない。保証は出来ないが、この先で結果を見せようと思った。そんな中で、実はそれが既に『付き合っている』という前提で話されていたことだと知り、安定していた思考は徐々に乱れていく。所謂『テンパる』という奴である。
「えっと……あたしは、その、オッケーなんだけど……こんなこと知ったら離れていくかなって思ったから、先に……えっと……?」
「お、お、おれは、そのあの…………え?本当に?」
「ほ、本当だよ」
「な、何故……?」
「え、えぇ……!?えっと……好き、かどうかはまだ分かんないけど、良いなって思って、チェスターさんなら大丈夫かなって…………あ、あ!?え!?大丈夫!?」
チェスターの両目からあふれんばかりに涙が零れ出る。いきなり涙を流し始めたチェスターに戸惑い、シャロットは慌てふためいていた。先ほどまでしんみりした話をしていたにも関わらず、そんな空気は風でどこかに飛ばされてしまったように、その場の雰囲気はどこか柔らかくてふわふわと浮かんでいた。チェスターは両目から涙をあふれさせながら、『ありがとう』と、うわ言のように何度も何度もつぶやいては鼻をすすりあげていた。暫くシャロットが尻尾でさらさらとチェスターの体を撫でていたが、少し落ち着きを取り戻した彼はハッとする。『これではいけない』……涙を腕で拭い取ると、一度だけ大きく鼻を啜り、シャロットに向き直った。チェスターの黄色い目はほんのりと赤くはれており、シャロットは可笑しくて『ぷすり』と笑う。
「な、なんか、流れが可笑しくなってたなって思ったから、えっと、もう一度……」
「え?」
「しゃ、シャロットさん。俺と付き合ってください。お願いします」
「………………よろしく、お願いします」
刹那、とある浜辺の一角にて、まるで化け物の奇声のような歓声が海の遥か彼方へと響き渡った。
この後…………チェスター・スカイウォーカーという男は、シャロットという少女を見事に自分の彼女という立ち位置に落としたということで、まるで姑のような態度で接してくる小生意気な弟、やたら腕っ節の強いマジモンの姑、更にはマザコン気質で厄介なイケメンに酷い目に合わされ、シャロットの友人的立ち位置に当たる女性陣から囲まれた挙句厳しい審査を受け、兄弟達にからかわれまくることで盛大にメンタルをぼこぼこにされることなることなる予定だが、それはいつかまたどこかで。