夕闇の誘い‐195
* * *
ブロンドの髪の毛をさらりと流しながら体を起こした女が見たものは、真っ暗な闇だった。所々青みがかっていたり灰色だったり、定まらない。
女は真っすぐで大きな道のど真ん中で眠っていた。立ち上がってみると、体が何だかとても慣れない。グラグラと足はぐらつき、思わず転んでしりもちをつく。しかし、痛みも何も感じなかった。
――――ここは、どこ?
自分の後ろも見て見たが、そこには道は無く、壁だけが無機質にぽつんと佇んでいた。女は体を起こすと、再び歩き始める。ふと、自分の手を見た。白い肌に、五本の指。足も二本、すらりと長くて、なんだかひどく懐かしい気持ちになる。この感覚が、懐かしい。肩にかかった金色の糸は髪の毛だった。手ですくってみると、さらりと流れていった。
―――わたし、だれ?
女は歩き始める。真っすぐな道を、ただひたすらに歩いた。幾度歩いても出口も入り口も見えないが、全く疲れたと感じることは無かった。ここはどこなのかわからないし、どうして自分がここから出たがっているのかもわからない。自分の名前は何だっただろうか?どうしてここにいるんだろう?
私は何者?
耳元で囁かれるように、そんな言葉が頭の中を巡っていく。ただひたすらに、無我夢中に歩き続け、真っすぐで何もなかった道の先に何かが見えた。道の隅に、何かがどっかりと乗っかっているようだった。
何だろうか?もしかして、誰かいるのだろうか?そんな期待を胸に、女はその塊へと近づいていった。あと二十メートル先というところで、女はその塊がかなり大きいものだということに気付く。赤くて、所々色とりどりな、なんとも美しい何か。もっと近づいてみると、無数の羽根を纏った巨大な鳥ポケモンだった。ポケモンは女の気配に気づくと、大きな目の上に艶やかに生えた睫毛を揺らし、ゆっくりと瞳を開いた。黒い縁で囲われた赤い瞳が美しい。
「…………これは、驚いた。人間を見たのはいつぶりになるか」
ポケモンは、人間の女を見て言葉を零す。少し低い、だけれどよく通る女性の声だった。女はその響くような声に、小さく肩を震わせる。それを見たポケモンは、申し訳なさそうに柔らかくほほ笑んだ。
「如何にしてここへ?」
「……何か、すごく大切なことがあって…………忘れちゃいけない何かがあって……でも、思い出せない」
「……ほう」
ポケモンはそう相槌を撃ち、顔を下へ向けると女の姿を舐めるようにじっと見つめた。青みがかった瞳と金色の髪の毛を見て、小さく息を漏らす。そして、何か合点が行ったようにフッと顔を上げた。
「……何故だか、お主をどこかで見たことがあるような気がすると思えば、ロードナイトか。随分と、大きくなって。母に本当によく似ている。
お主もこちら側へ来たか。ということは、革命は……成功したのだろう。ここは普通に死ぬのみで訪れることは不可能だ」
「革命……?」
その言葉を聞いた瞬間、女の頭の中に様々な光景や情報が巡り出す。女は頭を抱えて座り込んだ。そして、徐々に思い出してくる。ここまでの経緯を。どうしてここに自分は存在しているのか、そもそも自分はいったい何者なのか。
「……そう……星の停止は食い止めて、革命は成功した……未来の者である私も消滅して…………それで、ここに…………」
「…………やはり、そうなのか。ならば……シャロットは、望みを叶えたということなのだな」
「シャロットを、知っているの?」
ポケモンは目を細めてゆっくりと頷いた。女は人間だった。人間からポケモンになった、元人間だった。今の姿こそ人間ではあるものの、革命を起こす過程ではポケモンとして存在していたのだ。
女の名前はアコーニー・ロードナイトと言った。馴染みの名前は『アカネ』だった。自分が人間だった頃の記憶は尚思い出せはしないが、ポケモンだった時の事……ピカチュウのアカネだった時の記憶は、鮮明に思い出すことが出来た。
この人間の姿は、ポケモンに変貌してしまう前の私なのか。女はさらりと自らの肌を撫でる。人間の姿である上では、何も『衣服』のようなものを身に着けている感覚が無くて、心地が悪かった。衣服とされる布を体に巻き付けるのは、人間としての伝統のようなものだ。
女……アカネはポケモンの方を見つめ直した。ポケモンとアカネの視線が合うと、再びポケモンは彼女に語り掛け始める。それは、『シャロット』と言われるキュウコンについての昔話のようなものだった。
「シャロットのことはよく覚えている。奴は妾の分身のような存在と言うても過言ではない」
「分身……シャロットが、あなたの?」
アカネは、自らの記憶の中にあるシャロットの顔を引っ張り出した。キュウコンである彼女のことは、残念ながら何も記憶にない。だから、ルーファス達が話をしていた彼女に関する人物像や、アカネ自身が知っているロコンの少女のことを思い浮かべてきた。
この、目の前にいるいかにも神々しい鳥ポケモンとはまるで似ても似つかない。強いて言うならば、図鑑上にあるキュウコンの赤い瞳と、目の前のポケモンの赤い瞳がよく似ている。
「時間ならざるものが流れる世界で、あれからどれほど経ったのか。シャロットを通じてならば、妾は世界の現状を知っていたと言える。お主等は不思議に思わなかっただろうか。キュウコン一匹如きが、伝説に名を刻む『ディアルガ』に恐れられるほどの力を持つなど、本来は在る筈の無い事。主がディアルガに勝利したとすれば、奴が光と闇の狭間でさまよい戸惑っていたからだ。闇に完全に染まったあの者は、もう小さき者達のみでは止められやしない」
「…………シャロットは、キュウコンとして普通の個体ではなかったの?」
「元は普通だった。しかし、あの世界で妾と出会った時点でそれは変わった。妾は息だえる寸前、奴に力を与えた。妾は暗闇が嫌いだ。光の無い世界では生きては行けん。世界が変わったあの頃からエネルギーの枯渇した世界で光をも失い、妾は徐々に衰えていった。死に場所を探し、光を求め放浪していた途中で、世界を変えるなどと豪語する妙な女を見つけたのだ。馬鹿馬鹿しいとは思うたが、妾でさえ諦めてしまったようなことを未だ信じている生き物がいるなど、馬鹿馬鹿しいと思う反面、本当はこのような者が現れるのを妾は待っていたのやもしれぬと思うた。奴は時の流れるあの世界を知っているという。其を取り戻したいと言うた。妾と同じだった」
どこか懐かしむような顔つきで話す巨大なポケモンは、嘴をアカネに向かって近づけると、人間のものであるその腕を嘴で摘み、自分の方へと優しく引き寄せた。特に痛みも無く、触られているような感覚も無かったため、アカネもポケモンの方へと近づいていく。
「見れば見る程よく似とる。然し、あの女は他者の面前で肌をさらすなどという事はしなかったがな。この世界だからかお主の存在自体ぼやけてはいるが、衣類なる物を身に着けていないだろう?」
おかしそうに笑いながらそう言う。
「……不可抗力よ。私だって変な感じして嫌なんだけど。……というか、それは……私の親の話をしてるの?」
「ほう、気の強い娘だ。嗚呼、お主の母上の話だよ。失礼、話が逸れた。
シャロットというキュウコンと出会い、妾は感銘を受けた。ロコンからキュウコンへと進化を遂げたのも、世界を変える為に出来るだけ長く生きる必要があるからだと言うではないか。妾は奴を希望とした。しかし、奴にはディアルガに対抗するほどの『力』がない。どれほどのポケモンが集おうとも、どれだけ巨大な組織作って抗おうとも、それ等は全てディアルガによって潰されてしまう。同じ意思を持つ者達を導きたいと言うシャロットは、ディアルガからそれらを守る防衛壁となる必要があった。妾はいつ息だえても可笑しくはない状態だ。いずれ朽ちる身。ならば、シャロットの力になろうではないか、と。たった一匹で無様に死ぬということにも抵抗がある。故に妾は、シャロットの傍で死ぬことを選んだ。
妾は、自らの体に残った“ホウオウ”としての力を全て奴に注いだ。主の中に存在していたイベルタルとゼルネアスのようにな」
アカネはハッとなった。イベルタルとゼルネアス。そういえば、存在を自らのなかに全く感じない。この妙な世界に来てからはじき出されてしまったのか。そして、もう一つ気づいたことがある。このポケモンは自らの口から『ホウオウ』という名前を出した。記憶の片隅にそのポケモンに関する知識がある。自分のことで一杯一杯なところが有り思い出せていなかったが、このポケモンは『ホウオウ』……幻のポケモンと謳われる存在だ。
ホウオウが口に出した自らの母親の話がとても気になっていたが、ホウオウはあまり話す気はなさそうだった。うっとりと懐かしむようにして、シャロットに関する話を続けていく。
「シャロットはそれにより妾の持つ能力を譲り受けた。そして妾の体の中に在る力は空になり、特に苦しみも無く妾はここへやって来た。死んでいるのか生きているのかさえも知らせてはくれぬこの場所へ。
シャロットを通じて、妾の中にも多少の情報は流れてきてはいたのだが……ある時期を境に、奴からの情報伝達は途切れた。シャロットも、命を落としてしまったのだろうか……真相は分からぬ。ただ、その直前に奴から強い……決意のような感情が流れてきた。それ以後、音沙汰はない」
「……そう」
何があったのかは、大体ではあるが知っている。アカネ達が未来に向かう直前、過去への移動をディアルガによって妨害されないため、シャロット自らがディアルガの足止めにかかった。心配になったアカネ達はシャロットの命に背き、彼女の帰りを待ち続けたが、とうとう帰ってこなかった。しかし、代わりにディアルガの襲撃も無かった。だから、過去への移動を決行したのだ。
そこで何らかのトラブルに巻き込まれ、アカネは記憶を失くし、ポケモンへの変貌……リオンは種族が進化前に後退した。
ホウオウはどうやら、それらの経緯をあまり知らないようだ。
「ねぇ、私の……親のことは、何故知ってるの?」
「…………ああ、それは…………ッ!」
ホウオウはそう言いかけて、何かとてもまずいことを言ってしまったかのような顔つきを見せる。『口を滑らせた』という焦りを、そのまま表情に出したような顔だった。アカネは軽くホウオウを睨む。言っては不味いようなことなのか?
そういえば、アカネの持つ能力は遺伝的な物だと納得していたが……人間は絶滅している。どうやって生命をつなげたのだろう?
アカネの中に、今までになかった新しい疑問が芽生えた。
「…………人間は絶滅し、そしてポケモンをも絶滅しかけていたあの世界で、どうやったら人間と人間が子供を作って、生み出すことができるの?……あんたは、それを知ってるってこと?」
アカネの言葉が針のようにホウオウに向けられる。ホウオウは顔をくしゃりと歪ませると、いったん落ち着こうというように小さく息を吐いた。そして、真剣な表情を顔に張り付けると、落ち着いた様子でアカネに言った。
「妾が知っているとしても、お主がそれを知るのはまだ時期尚早すぎる」
「時期尚早も何も、私はもう死んでる。前も後ろも無いの……知られて困るようなことなの?」
「お主が人から生まれたという事は事実だ。確かに、あの暗黒の世界でお主の母は子を成した。そして、お前という存在を生み出している。
よう聞け。妾は確かに真実を知っているが、今のお主にそれを受け止めることは出来ぬと思うた。そしてその真実とやらは、過去の記憶を失う前のお主も知らぬことだ。どうやら、あの暗黒の世界でのことを全て忘れているようだな?」
「…………人間だった頃の私でも…………知らないこと……?」
「……お主に何があったのか、細かいことは知らぬ。それを知りたくば、生きるしか無かろう。妾はこんなところで話すつもりは毛頭無い。心に靄がかかろうとも、お主にはこの先生きる資格がある」
「生きる……?私はもうなかったことになってる……私の存在は世界から消えてるの…………生きることなんてできるわけない…………」
「…………やはり、内面もお主は母上に似ているような気がする。この道の先へ向かえ。向かえば自ずと答えは出るであろう。知りたくば生きろ。残りの世を生きるのだ。
……そうなれば、おそらく次は『消滅』なぞより更に残酷な真実を知ることになるやも知れん。失ったのであろうお前の記憶、妾が先ほど言った事、お主自身のことも。しかし、真実から逃げてはいけない。己の存在を否定してはならない。達者でな」
「………………。
…………………わかったわ。もう何も聞かない……さよなら」
アカネはつぶやくようにそう言うと、ホウオウの体から離れて、その先の道へと進み始めた。後ろを少しだけ振り向くと、ホウオウがこちらを見て、小さく首を横に振る。振り返るな……そう言いたいのだろうか。
この先へ行けば、元の世界に戻って生きることが出来るのだろうか?カイトと……また、一緒に居られるのだろうか?
わからない。不安定な期待と不安を胸に、アカネは道を進んで行く。ここはどこなのかも分らないままに、ただ自分が消滅したという事実だけを抱え、先へと歩んでいく。
この道の先で待ち構えているであろう何かを目指して、ただ、ひたすらに。
* * *
「あれ、カイト?どこかへお出かけでゲスか?」
夕暮れ時のパトラスのギルド前で、もう少し時間が経てば夕飯だというのにギルドから出て行こうとするカイトを、グーテは引き留めた。
あれから……あの事件から月日が流れ、あの事件の話題も少しずつ収まり、ほとぼりも冷め始めた頃だった。
カイトはギルドから出て、階段をまさに降りようとしているところだった。アカネを失った最初の方のころに比べれば、普段の様子が大分落ち着いたように見えてきていた。グーテに引き留められ、カイトは体ごと彼の方へと向けると、軽く手を振りながら『ちょっと散歩だよ〜!』と言って、軽く笑った。
グーテもその様子を見て安心したかのように、『夕飯が近いから、早く帰ってくるでゲスよ!』といって、カイトを『散歩』へと送り出す。
カイトはそれに対してまた笑顔を作ると、階段を駆け足で降りて行った。
どこに行く当てもない。ただ十字路に降りて、何処に行こうかと少し考え込んだ。そして、海岸へ向かう道に目をとめる。アカネが居なくなってから時々ギルドから抜け出して、海岸で大声を上げて泣いていた。それも数日程度の話で、海岸に行くと甘えてしまうから自分で行かないようにしていたのだ。
あれから何か月経ったのか。アカネもいない、リオンもステファニーもいない生活に、少しだけ慣れてしまった。否、様々な場所に残る彼らの痕跡に、気づかないふりをしていたのかもしれない。事件のほとぼりは冷めつつある中、自分も変わらないといけないとカイトは思っていた。
今なら、大丈夫かもしれない。そう思い、カイトは海岸へと降りた。あれから何か月も立っているのだ。しかし、海岸へと向かう道を歩くと、少し動悸がする。砂浜を踏むと、美しい海とクラブの泡が見えた。アカネと見たものと、丸っきり同じような光景だった。
砂浜を海に沿ってゆっくりと歩き、目の前にふよふよと浮く泡を見つめた。ふと、透明な泡を通して、アカネが砂浜の上に立っているような気がして、大きく目を見開く。しかし、当然彼女はそこにはいなかった。
「……いるわけ、ないか」
吐き捨てるように、砂浜に言葉を突き刺す。当然誰も答えることは無く、ただ浮遊する泡がカイトの周りを取り囲み、海のさざめきが彼の耳にひたすら木霊する。アカネに会いたい。この場所であるというだけでも、そうなのに。この光景は、アカネと初めて見た光景だった。
アカネに会いたい。それだけにとどまらず、また涙が溢れてきた。目からひたすら流れる水は、カイトの涙だ。もう、泣き叫ぶのには疲れてしまった。
もう、泣くのには疲れてしまったのかもしれない。
日に日に涙を流す回数は少なくなった。しかしそれは段々慣れてきたわけではなく、ただ涙を流すことにつかれてしまったのだ。
アカネに会いたい。アカネに会いたい。
だけど彼女は、ここには、いない。
やはりだめだった、と思った。アカネとの思い出や、彼女に抱いていた感情が湧き上がってくる。
最初、アカネは妥協してカイトと探検隊になった。それからもずっとその調子に見えたが、確かに日に日に何かが変わっていった。アカネの中で、カイトと共に探検隊でいることは当たり前になっていった。時には背中を押してくれたし、寄り添ってもくれた。関係は変わっていた。今なら、カイトはそう断言できる。
最後のあの瞬間に、アカネは『感謝している』とまで言ってくれた。カイトのことが好きだとも言ってくれた。これ以上に無いほどに嬉しい瞬間の筈だった。アカネが消滅するなどという事実さえなければ。
アカネとの思い出が頭の中をグルグルと巡る。ちぐはぐだった最初の冒険や、命を懸けた決断の事。アカネの見た夢なる物を信じて、ポケモンを助けることが出来た事。二匹の間に入った大きな亀裂が、二匹のつながりを固くしたという記憶。暗黒の未来で打ちひしがれていたカイトを、アカネが背中を押してくれた瞬間。どれもこれも鮮明に覚えている。鮮明に覚えすぎていて、きっとカイト自身、これらのことをこの先絶対に忘れることは出来ないのだと思った。
革命が終わって、無事に皆でギルドへ帰って、ルーファスも仲間に加わって、皆で、本当に皆して祝杯を挙げながら騒ぎたかった。
実際に帰ってきてから、皆がカイトに気を使っているのか、豪華な夕飯なども食卓に上がったことは特に無い。本当に僕は世界を救ったんだろうか?そう思ってしまう程に穏やかな時間が続いて、しかしそれを証明するのは、消えてしまったアカネ達の存在だと思うと、なんだかやりきれないのだ。
この思い出をずっと引きずって生きていくのだろうか。もう現時点で哀しさに涙を流すことに疲れてしまっているのに、この先一生。そんな風にして、自分は生きて行けるのだろうか。
ただ淡々と流れてくる涙が砂浜を濡らした。もう声を上げるようなことも無かったが、ただ茫然と思い浮かべていた。アカネとの日々を。アカネとの思い出や、彼女に関する記憶を。
カイトの心に隙間を作ることなく、濃く染みついた彼女の面影を。
「…………アカネはいない…………」
面影を探して、本当はどこかで彼女は生きていると信じている。いつか自分の前に現れてくれると信じている。それを否定するように、カイトは真実を口ずさんだ。
「アカネは………………いないんだ」
この世界の、どこにも。
「いない…………いないんだ…………」
未来を生きていた彼らも
アカネも、もういない。
立ち尽くしていたカイトの足が唐突に動いた。見えない不思議な道のような何かが、カイトを海のずっと向こうの方へと誘っているかのような気がした。カイトは本当に小さな歩幅で、それでも確実に海の方へと足を向けてゆっくり進んで行く。海の向こうのその向こう、夕日の目の前で、誰かが手を振っているような気がして、カイトは夕日の方へと手を伸ばした。掴もうとしても届かなくて、止めどなくあふれてくる涙で夕日は歪んでいく。茜色に染まった空と海が巨大な道と天井のように見えて、このまま踏み出せばいつか辿り着く場所があるのではないかと足を踏み出す。少しずつ歩幅は大きくなっていって、ぼうっとした頭が炎のような夕日にかき回される。
足元に何かが張り付いた。それがとても心地が悪くて、カイトは手を引いてもらいたがっている子供のように両手を夕日の方に更に突き出す。彼の目の中に映っているものは異常だった。世界は茜色に染まっているのに、彼の目の中だけが泥沼のように濁り切っている。首元まで何かが張り付いているような不快感や、妙な冷たさがのし上がってくるが、もう少し行けばきっとそれも無くなる。
(…………あれ?)
カイトは、そうしている中何かを忘れているような気がした。自分が今どのような状況なのか分かっていないのは勿論、生きる上で大切なことを何か忘れているような気がしていた。
ここで初めて、カイトは息が、体が苦しいと感じた。
それでも体は海の中へとどんどん向かって行く。完全に頭が海水に漬かり、苦しいのに体は前に進みたがる。
今、これは一体、どこだ?
カイトがそう思った瞬間に、首元が何かに強く掴まれてずしりとした感覚と共に海面から引き上げられる。しかしカイトは後ろへとひっくり返った状態で、また海水に沈められた。そして、また呼吸をするのが困難になる。しかしそれはすぐに終わり、誰かの踏ん張るような声と共にカイトは砂浜へと引き上げられた。引き上げられた途端、仰向け状態から口を下に向けた状態に帰られ、背中を強くたたかれた。その瞬間口からかなりの量の海水を吐き出す。そして、いきなり入って来た空気にむせこんで、更に体に入り込んだ海水を口や鼻から吐き出した。
「ッ……何やってんだこの糞馬鹿野郎が!!!」
カイト自身が咳き込む音と共に、とんがった青年の声がカイトの耳に打ち付けられる。カイトが顔を上げて、ぼやけた視界で見たのは、大きな体をしたフローゼルだった。その顔には覚えがあったが、彼は息を切らし、いつも爽やかな目も血走っている。険しい顔つきでカイトの姿を見降ろしていた。
「…………あ………………?」
「お前、何やろうとした!?何やろうとしたんだよ、なぁ!!!?」
ここまで怒りを露わにしている彼を見るのは、幼馴染であるカイトでも初めてだった。カイトが何とか意識を取り戻すと、レイセニウスはカイトの体をガクガクと揺らすようにしてきつく問い詰める。カイトは驚いたように彼の顔を見つめていたが、やがて何かに気が付いたように視線を地面に落とした。
「……夕日の方に…………」
「馬鹿か!!!」
カイトの顔に二度の衝撃が走った。普段から戦闘を行っているカイトにとっては、それほどのダメージではないだろう。しかし、弱ったからだと精神でそれを受けるのは、カイトにとって体のダメージとは何か違うものを感じた。
レイセニウスが、拳でカイトの顔を一発、そしてさらに二発と殴りつけていた。カイトは倒れ込み、そしてその目は海の方を向く。一瞬、夕日と海の間を素早く黒い何かが横切ったような気がしたが、結局はあれも気の所為なのだろうか。
全部、ぼくの妄想なのだろうか?
「………………」
「……あ…………」
「…………」
「……わるい。……つい……」
レイセニウスは手を引いて、カイトから一歩退いた。カイトはぼうっとした顔つきでレイセニウスの方を見つめていたが、やがてずぶ濡れになった自分の体へと視線を映した。ゆっくりと起き上がり、自らの濡れた腕や、砂だらけになった背中などを指先で触る。海水の臭いがした。
「…………いや、いい…………ありがとう……。
…………その、なんで、ここに?」
「……ここがお前と……アカネちゃんの、初めて出会った場所だって噂に聞いてさ。綺麗な景色だなぁって浜辺フラフラしてたら、なんか海に入って行ってるのが見えて……近づいてみたら、お前だったよ。
……あれから何か月も何日も過ぎたけど、お前が何日も夜な夜なギルドから抜け出して、ここで大泣きしてたのも知ってる」
「…………ばれてたんだ。そりゃ……ばれるよね」
「嗚呼。けどな、俺だけじゃないよ。トレジャータウンに住んでるポケモンたちは大体知ってる。ここに住み着いてるクラブ達なんて多分、泣き叫ぶのがお前だったから文句の一つも言わずにそっとしておいてくれたんだと思うんだよ。皆お前の気持ちを知って今までそういうことには一切触れないでおいてきた。
それなのにお前は……。お前また『ひとりぼっち』って顔してる。孤独だってオーラ出しまくって、また壁作ってるぞ」
「…………分かってる」
この大陸に来てから一番大切で、心から信じられる相手だったアカネと、初めてこちらで出来た親友たちを失くした衝撃はそれほどのものだったのだ。レイセニウスにもそれくらいは分かっていた。カイトはアカネのことが好きだったのだ。見ていたらそんな事、余裕で見抜くことは出来る。そして彼の抱くそれは、ただの恋愛感情ではないことも容易に察しがついた。
カイトは、死んでしまいそうだ。
何も手を触れなくても、自分で死のうとしなくたって、時間が流れるとともにいつか朽ちて、灰のようになって風に流され、どこかへと消えてしまいそうだ。
カイトはあの時から、一日に三件以上の依頼をこなしていなかった。アカネが居た頃には五件はこなしていたのに、あれ以来本当にたまに三件、あとは一件、ちょいちょい二件……と、依頼遂行率が大幅に下がっていた。
あんなことがあって、それでも仕事をしっかりとこなすカイトはすごいと言う者もいるが、明らかに目に光がなく、仕事に対してもどこか手を抜いている。仕事のことを話すと、どこか気だるそうな顔をしていたことも一度や二度の話ではなかった。カイトは仕事への活力を、完全に失っていた。
たった一匹のチーム『クロッカス』が、じわじわとカイトを苦しめていたのだ。
「…………なぁ、カイト」
「……何?」
「お前、一回親父さんたちのとこに帰ってみないか?今のお前には……環境の変化が、必要だと思う」
レイセニウスの提案に、カイトは思わず俯いた。帰る予定だった。アカネと一緒に、生きて帰ってきて来ることが出来た時、一緒に両親の所へ行こうと約束していた。
またアカネのことをグルグルと思い出す。
「…………アカネと行こうって……約束してた…………」
「……そう、だったのか…………」
「一緒に行こうって言ってたし…………父さん母さんとも、今までのことを話して、きちんと話し合って、仲直りするつもりだったんだっ……今まで迷惑かけたのも謝って、僕はこんな風に立ち直れたって……今まで僕たちがやってきたことを知ってほしくて……でも、でもでも、アカネは今ここにはいない…………アカネは居ないんだ…………どうすればいいんだよ。
レイ……僕はっ……僕はどうすればいいのさ!!」
自分が、無意識に自殺しようとしていたことに対するショックで一時的に止まっていた涙が、再び目の奥から這い出してきた。カイトは声を揺らしながらレイセニウスに対して怒鳴りつけるように叫んだ。泣いているのだという感覚を思い出すと、カイトは再び叫び声を上げたくなった。息が苦しい。胸が締め付けられるように痛い。せき止めたくても止まらない思いが、締め付けられた胸からあふれるように流れてきて、カイトの体を突き破らんばかりに暴走する。
カイトは声を上げて涙をひたすらに流した。レイセニウスは何もいう事が出来ず、ただそれを黙ってみていた。その悲痛な泣き声に、レイセニウス自身も目の奥が熱くなってくる。悲しい、苦しいという負の感情が流れ込んできて、レイセニウスの心の中へ入り込み膨らんでいった。
レイセニウスもまた、たまらずに片目から一筋だけ涙を流す。それと同時に、浜辺と十字路をつなぐ道の方から少しくぐもったような声が響いてきた。カイトはその声が耳に入っていないようで、ただひたすらに泣きさけび続けてレイセニウスに縋る。レイセニウスは、その声の主を横目にちらりと見つけた。
「わ…………カイト!帰りが遅いんで可笑しいと思ってきてみたら…………」
大粒の涙を流し、泣き叫びながら、ずぶ濡れで砂や小さな砂利が体に付着している状態のカイトと、そんなカイトを見つめながら涙を流すレイセニウスがいるという状態に、グーテはまず驚いた。
しかし、普段要領がいいとも言えない彼でもすぐに何が起こったのかは気づいた。細かいことは分からないが、この場所はアカネとカイトが出会ったと言われている場所である。カイトは、また我慢できずに泣き出してしまったのだと思った。
グーテは恐る恐るでありながらも、カイトの方へと近寄っていく。声にならない声を上げて泣き叫ぶカイトを見て、グーテもまた、その流れ込んでくる悲痛な思いに涙をにじませた。
今にも死んでしまいそうな彼の姿に、グーテは数年前の出来事に思いを馳せる。そして、誰にも悟られないように、自らが仕掛けた運命を思い返す。
グーテの、お世辞にも大きいとは言えないつぶらな目からも、ぼろりと涙がこぼれた。
(…………ジラーチ。
これも、君が定めた運命なんでゲスか……?
確かにあの時……ギルドの一番下っ端だった頃、自分にも後輩が欲しいと君に願ったのはあっしでゲス…………だけど。
こんなのは、こんなのは………………あまりに、残酷すぎやしないでゲスかね……?)
何故、君が選んだのが彼らだったのか。
それを聞くことは、もはやできないけれど。