悲しみの波紋‐194
* * *
夜行性のポケモンが、窓の外をゆっくりと横切っていくのが見えた。その体は柔らかな光に覆われて、月の方へと向かって進んで行く。カイトは横になってその光景をただ見つめていた。
アカネのベッドが取り払われて、チームクロッカスの部屋は探検家『カイト・ジェファーズ』単独の部屋となった。少し小さくも感じていた部屋は、今はめまいがするほどに広く感じる。アカネは綺麗好きだった。カイトも、あまりに散らかっているのは好きではなかった。
そんな二匹がずっと一緒に過ごしてきた部屋は、物がそこそこ少なく、どこか生活感が無い。部屋のど真ん中にベッドを置いて窓の方を向いて横になり、部屋に差し込んでくる月光を浴びながら窓の外をじっと眺めいていた。
イルミーゼとバルビートがまた数匹、月の方へと向かって羽ばたいていく。どこかで見た事のあるような光景だった。枕のようなクッションを抱えるように寝転がりながら、ぼうっと考える。
霧の湖だ。舞い踊るイルミーゼとバルビートの群れ、輝く噴水と時の歯車。それらの全てが、今も思い出すことが出来る程に美しく、神秘的だった。
そして、それらの光を浴びて時の歯車をじっと見つめていたアカネの横顔が、本当に綺麗だと思ったことを覚えている。
それを言葉で伝えても、彼女は霧の湖の光景のことだと思って気が付いてくれなかったな。そんな少し切ない思い出も込めて、また世界の一部の記憶をアカネと重ね合わせていた。
レイセニウスとカイトが依頼を終え、レイセニウスと別れた後、カイトがギルドに戻った時。ポロリと、ベルから告げられた言葉がふと頭を過る。依頼中にまた過去を思い出して気持ちが沈み込み、ギルドに帰ってから彼女に告げられたその言葉は、更にカイトを泥の色をした沼の中に沈み込ませた。
『あの、カイトさん。……アカネさんの、その……お墓、のことなのですけど……』
ベル自身、悪気があってそれを告げたわけではなかった。カイトもそれは分かっていたが、それを言われた瞬間にそこまで頭が回らなかった。カイトのその顔つきを見て、ベルはこの話はまだ時期尚早すぎたと痛感していた。そして、『なんでもないです』と柔らかに笑うと、通り抜けるようにカイトの傍を離れたのである。
彼女が申し訳なさそうに笑ったところを見て、やっと我に返ったカイトは、ベルの後姿を目で負いながら、ベルに言われたことを思い返していたのである。
ぼうっと、今日一日の事を考えていた。意識の中にアカネは居ても、その姿はもう生活の中のどこにも存在しない。依頼も手ごたえが無くて、依頼者に礼を延べられて報酬を渡されても、上辺だけの笑顔を作るのみで心から喜ぶことは出来なかった。依頼者をギルドから見送った後にスッと表情が消えてしまったのは、『疲れた』と愚痴を言いながら背伸びをし、おもむろに黄色いグミを齧っていた彼女が隣に居なかったからだったのだろうか。
あれから一日もたつと、枯れたと思っていた涙は再び目から溢れるようにして流れてくる。『写真』の一枚でも撮っておけばよかったとか、画家に絵をかいていてもらえばよかったとか、彼女がいたというだけではなく、その姿も声も表情も、全てをどこかに残しておけばよかった。
毛布に涙がしみ込み、その下に敷いてある藁を濡らした。ギルドの中ではやはり声を上げて泣くことも出来ず、声を抑え込んですすり泣くようにするしかなかった。気持ちが落ち着いて、少し顔を上げると、そこは暗くて誰もいないチームクロッカスの部屋の内装だけが見える。アカネは居ない。その事実をまた状況につきつけられて、涙が溢れる。その繰り返しだった。
声を出したかった。声を出せないのはあまりに苦しかった。鼻と息が詰まってしまい、窓から抑え込んだような泣き声が漏れてしまうが、外を羽ばたくイルミーゼとバルビート達は自らの羽音と番の声に耳の中をかき混ぜられて気づかない。
月の光が蹲って涙を流すカイトを照らし続けていた。見ないでくれ、見ないでほしいと、混乱した頭の中で思う。大声で泣き叫びたくて、カイトは遂に窓の方へと手を伸ばした。少し高い所にある為、小さな棚を踏み台にして窓に嵌め込んであるガラスのようなものを取り外すと、窓からそっと外へと出た。当然窓の外は崖なので、なんとか外壁のでっぱりに手足を掛けて伝っていくと、地面に足を下ろす。
カイトは真夜中にギルドを抜け出すと、とある場所へ向かおうとしていた。普段、脱走を図ろうとするポケモンが居れば、たいていはペリーが外から見張って止めることが出来る。当然、そんな分かりやすい脱走の仕方をしたカイトの様子はペリーの目に入っていた。それでも、ペリーは止めることは無かった。目からひたすらに涙のようなものを垂らしながら歩いていくカイトを見ると、止めようにも止められない。声を出して泣くことが出来る場所を探しているのだろう、と察した。
ペリーはカイトがギルド前の階段から出ていくところを見届けると、そっと屋根の上から降りて小さな出入り口からギルドへと入っていった。そして、ギルドの扉の動きを開閉を捜査する場所へと向かうと、カイトの体が入りそうな分だけ扉を開いておく。ペリー自身はまた、屋根の上へと戻った。
あいつは少し泣いてくるだけだ。きっとまた帰ってくるだろう。だから、待っていてやろうと決めたのだ。
* * *
――――――ザアァァ………
何度も繰り返し浜辺に波が押し寄せて、砂にぬれた後を残しては引いていく。巨大な影に覆われた世界の中、輝くような月がぽうっと海の上に浮かんでいた。月の光は海に反射し、ふたつの太陽が上と下から世界を見つめている。そんな月光に誘われたバルビートやイルミーゼたちが、海の上で美しく舞い踊っていた。小さな光の一つ一つが交わっては途切れ、再び現れては弧を描きながら踊る。美しい光景ではあったが、カイトの目の前は涙でぼやけてよく見えなかった。
潮風が吹き抜ける。腫れた目に当たって少し痛かった。
カイトは砂浜に座り込むと、そのまま体を後ろに倒して大の字になって空を見上げる。月あかりで照らされた空は紺色で、自分の涙によってぼやけてムラだらけになるその色は、世界の終わりを見ているかのように不思議で恐ろしい光景に思えた。
溢れるように出てくる涙をぬぐうことなく、カイトは口を大きく開けて声を上げた。顔からこぼれる涙が地面を濡らし、海水とはまた全く違う塩水で浜辺の砂は彩を変える。
カイトは誰もいない浜辺で、大きな声を上げて泣き叫んだ。自分でもどんな声を出しているのか分からない程の大声で、当然そんな声は遠く離れていないトレジャータウンにも聞こえていた。悲痛な泣き叫ぶ声によって目を覚ましたポケモンたちは何匹も存在しただろう。
しかし、不思議だった。その叫び声には、聞いている方が文句を言いたくても言えないような、そんな悲壮感が溢れんばかりに含まれていて、聞いている方まで泣きたくなってしまっているかのような、そんな悲しみが耳の底へと伝わってくる。こんな声を上げて涙を流す誰かは、一体どんな酷い目にあったんだろう。そんなことを考える暇もなく、その声を聴いていたポケモンたちの中の何匹かは涙をにじませた。
どんなに声を張り上げても、空の向こう側にいるであろう彼女には届かない。
この爆発しそうな感情を、いったいどこへぶつければいいのか。本当に伝えたい事を押し込めて、ただ息苦しさを消すためだけに声を張り上げる。
涙が枯れるまで、声が枯れてしまうまで声を出し続けた。
涙が枯れた頃、何事も無かったかのようにまた、自分の帰るべき場所へと帰っていくのだ。
自分が生きているのか死んでいるかもわからない、そんな危険な感覚に揺らめきながら。