さよなら、最愛のパートナー‐191
* * *
もう、手遅れだったのか!?何もかも!?
激しく揺れる塔の上で、倒れ込み動かないままのディアルガとアカネを見つめながらカイトは絶望感に駆られていた。時の歯車を五つすべて嵌めたはずだった。しかし、何も起きはしない。時限の塔は取り返しのつかないレベルにまで崩壊していたのか。そして、カイト自身がタイムリミットを過ぎてしまったのか。あまりのことにカイトは完全に脱力し、地面にどたりと座り込んだ。それを待っていたかのように、時限の塔は飛び上がる様にして激しい振動を繰り返す。ポケモンの技にも匹敵するその揺れに、カイトは体を抱えて耐えていた。
頭の中が徐々に白くなっていく。何を考えようにも何も出てこず、自分は何者かさえもわからなくなってくる。激しい揺れはボロボロのカイトの体に確実に大きなダメージを与え、その意識を奪っていくのだ。
激しい揺れの中、カイトはついに意識を手放し、バタリとごつごつとした地面に体を叩きつけた。
意識を失う瞬間に見たのは、いつものようなしかめっ面でカイトを睨みつけてくる、アカネの顔だった。
*
全ての始まりに集いし者たちはそれぞれ絶えど、時を越え繋がれたおまえの細く脆い金の糸は、広く深い底無しの海の中、波のうねりに身を任せながら光を弾いて、自ら輝きを放ち続けることだろう
おまえの願いはどこにあるのか お前はいま何を思う
おまえが嫌いだったあの世界 お前が愛したこの世界 変えたいと願った世界の果ては、いったいどこへ向かうのか
おまえはいま何を思い、この様を見下ろしているのだろう
おまえの願いはどこへあるのか いま おまえは一体、どんな顔で泣いている
全てを見届けてやってほしい 童はおまえの元に在る
* * *
―――――――ここ、は……?――――――
「………………あ…………」
どれくらいの『時』が経ったのか。
アカネが目を開いて最初に見たのは、美しい海だった。否、太陽の光を受けた海のように輝き、鮮やかに彩られている不思議な空だ。金色の雲が広がる様に所々に浮いていて、そんな見たことも無いような美しい空から、青く光り輝く雫のような物が無数に落ちてきた。神秘的で、本当に美しい。何処か安心できる光景だ。まさか、天国にでも来たのだろうか?アカネはゆっくりと体を起こしてみる。そして、まず手と足を確認した。ちゃんとある。手を握ってみても、ちゃんとそれに従って目の前にある掌は動いてくれていた。
――――嗚呼、いきてる。
「…………カイト……!」
アカネは飛び跳ねるようにして立ち上がった。頭が痛む。体中がだるかった。しかし、祭壇の方で倒れ込んでいるカイトを見て、一目散に駆けだした。無数に空から落ちる青い光の雫が、カイトの体に当たって水のように弾けた。
「カイト、起きて!起きてよ!ねぇ、あんた大丈夫なの!?」
怪我はしているが、この妙な雨の所為だろうか。カイトの体についた傷は、殆どふさがっている状態だ。アカネは意識を失う前にイベルタルの力を借りた状態で行った『捨て身の計画』のことも覚えていない。なので、どうしてこんな状況になっているのか理解が出来ていなかった。自分が知らない間に、カイトが倒れ込んでいる。アカネは焦った。息があるかないか、確認する余裕さえも無いほどである。カイトの反応が無いので余計に焦り、彼の頬を両手で挟むと、強く揺さぶった。
「カイト!ちょっと、起きなさいよ!」
「ぁ…………う……ん…………あ……?あれ、あかね……?あれ?ここ天国?」
「ンなわけないでしょうがこの馬鹿!!本当に死んだと思ったのはこっちなのよアホ!」
涙をにじませながらにしてそう訴えるアカネの顔が目の前にある。カイトはそれを理解すると、にへへ、と顔を緩ませた。それを見てアカネの行き場の無い怒りやら不安やらはさらにヒートアップし、カイトの頬を指で強く抓ったまま片手を離し、強く平手打ちを食らわせた。
パァン、と爽快な音が塔の頂上に響き渡る。
「え!?ちょ……え!?あれ……アカネ!?こ、ここは…………!」
「ここは時限の塔だ」
ディアルガの声が背後から響いた。反射的にアカネはカイトの顔から自分の手を離すと、ディアルガの方へと体の正面を向けて戦闘の構えを取る。カイトも、この場所が夢でも天国でもないという事を理解すると、素早く立ち上がって戦闘態勢に入った。
しかし、既にその場から殺気や狂気は霧散していた。二匹に言葉を掛けたディアルガの声は、心の中に響き渡る様に暖かく、その姿も闇に満たされていたあの姿とは全く違う、光り輝くような青い体をしていた。
「構えなくても良い。正気は取り戻した。時限の塔も大分崩れてしまったが、持ちこたえたようだ。あとは歯車と私の力でどうにか修正できるはずだ。
…………しかし、時が崩れることによって闇に染まる……そんなことがあり得るのだろうか。いや、実際にそうなっていたのだからそうなのか……気になるが」
「…………もう、平気なのね?」
「嗚呼……先ほど、お前達が気絶している間に世界の状況を確認した。この塔の付近を中心とし、時の破壊が広がったらしいが、何とか食い止められた。礼を言う……本当に、ありがとう。
これを見てほしい」
ディアルガの赤い目がギラリと輝き、彼の胸元に光るダイアモンドが輝き始めた。そして、アカネとカイト、二匹の頭の中にとある映像が流れ始める。どれもこれも見たことがある光景だった。
キザキの森の時が再び動き出している。森の木々はさざめき合い、花は風と共に揺れていた。そして、なぜかそこにはたくさんのポケモンたちが居た。トレジャータウンで見たことがあるポケモン達も見える。ディアルガの話を聞く限り、おそらく避難してきたポケモン達だと思われた。
トレジャータウンの光景が流れる。ポケモンたちは少なかったが、グーテがギルドの前で、階段の方をじっと見つめているのが見えた。自分たちを待っているのだろうか?アカネとカイトはそんな想像をし、ジワリと目に涙を貯めた。
世界は無事だった。星の停止は食い止められたのだ。
そして最後に、この時限の塔自体の映像が流れてきた。壊れてはいるが、確かに形を保っている。
このすべての映像に共通している事があった。それはこの『青い光の雨』だった。この塔だけではなく、この世界中にこの雨は降り注いているのだ。
触れたら冷たくも熱くもないこの雨は、いったい何なのか。カイトは掌を宙に浮かべて雨粒を指先に乗せてみるが、解けるようにどこかへと消えて行ってしまう。
「…………間に合ったんだ」
「……そうね」
カイトが言ったのは、アカネが思っているような意味ではなかったが、何はともあれ目的を果たしたのだと思った
「この雨は……いったい何なの?」
「嗚呼、この雨こそが『時間』だ。この塔に滞ったエネルギーが土に、空に、草木へとしみ込み、世界へと流れる。そうやって再び、時がめぐる経路を作っていくのだ」
「そっか……すごく、綺麗だね」
ディアルガは頷くと、二匹にもう一度頭を下げる。
「……時限の塔が残り、世界に時が再び廻ったことにより、星の停止は免れた。世界の平和は保たれたのだ……。礼を言わせてくれ。
よくぞ、この幻の大地まで到達し、暴走する私を恐れず……時限の塔の破壊を食い止めてくれた。ありがとう……すべてはお前たちのおかげだ」
先程の、狂気に染まった彼とは比べ物にならない程に、穏やかな口調で話していた。これが本当のディアルガだったのだな、と、今更のように二匹は思う。
「しかし、まだすべてが収まったわけではない。先ほども言った通り、私もこれから塔の修復にかからなければ。幻の大地も大分荒れてしまったが……虹の石船もまだ動くだろうし、ラウルも待っている筈だ」
そう言って、ディアルガは優しくほほ笑んだ。カイトは大きく頷くと、少し塔の中の様子を見てくると言ってその場を離れた。随分元気なものだな、とディアルガが呟く。アカネもその言葉を聞いて、小さく頷いた。カイトの姿が遠くなると、ディアルガは声を潜めてアカネに語り掛けた。
「…………アカネ。お前の存在のことは、理解しているつもりだ。…………この後のことは、もう……覚悟できているのか?」
「……ええ……覚悟はできてる……体が、すごく重いの……血が鉛でできてるみたい」
「そう……か。………………?
…………そこにいるのは……ゼルネアス?」
ディアルガは、懐かしむような顔でアカネを見つめた。伝説として知られる者同士、何かあるのだろうか。アカネはそう思いつつ、ゼルネアスに声を掛けようとした。しかし、返事はなかった。
「…………そうか。久しいな。お前もイベルタルも……この子と共に逝くのか」
ディアルガが、アカネの中にいる彼と彼女に語り掛けた瞬間に、背後からカイトの声が聞こえた。どうやら、塔の中の状態が分かったらしい。アカネはおもむろにバッグを漁り、『穴抜け玉』を探した。塔の中は不思議のダンジョンになっている。『穴抜け玉』を使えば、自動で塔の外にワープすることが出来る筈だった。
今のアカネに、塔のポケモンを蹴散らして進むほどの力は、もう残ってはいなかった。
「命を与える力を持つゼルネアスでも、運命には……逆らえないな」
「……そろそろ行くわね」
「嗚呼……達者で」
アカネは、くるりとディアルガに背を向けて歩き始めた。ふと、ため息をついて考える。目的をやり遂げた。ふと浮かんできたのは、ルーファスのことだった。ルーファスの望んでいた未来は、きっとここから始まるのだろう。アカネとカイトに託した未来は、きっと明るいものになる。時が止まることも、暗闇に包まれることも無い、きっと美しい世界へと変わるはずだ。そう信じている。
頂上からの出口には、カイトが柔らかく笑いながら待っていた。とても安心したような面持ちで、アカネの横に並ぶ。カイトの状態は、先ほどまでかなり元気そうに見えていたが、やはりどこか疲れ切っているようだった。尚も降りしきる雨が二匹を包み込みながら、世界へと広がっていく。アカネはバッグの中から『穴抜け玉』を取り出すと、発動させた状態でカイトと共にその不思議玉に手をかざした。
―――――――からだ、が……おもい……。
塔を出た瞬間、体が軋みそうなほどに重く感じた。体の中を鉛が廻っているどころか、更に足に重しがついているようだ。塔の外も、やはりあの時の雨が降りしきっている。アカネは何とも言い難い苦しさを隠しながら、カイトの隣を歩いていた。時限の塔の手前にあった細い道だった。この先に、『虹の石船』がある。一歩一歩、踏み出すにつれてどんどんとアカネの体は重くなっていく。少し体格差がある為、もともと歩幅はアカネの方が小さいが、更に歩幅が合わなくなっていく。アカネは、徐々にカイトの後ろを歩き始めた。
「目的達成、だね!アカネ」
「…………ええ」
今更になって思い耽る。ルーファスやキースが言った事の意味を。へケートが消滅を恐れる理由を、なんとなく理解しそうになっていた。
歴史を変えたことによって、アカネの消滅は刻一刻と迫っている。歴史から、未来の存在が消えているのだ。未来で生まれたアカネは、あと数分もすれば消えてしまうのだろうか。『消滅する』というのが全く考えられなくて、アカネはふと思う。これは実は体調が悪いだけで、本当は消滅などしないのではないか?と。そう考えてみれば楽になるはずなのに、そんな都合の良い話はあるわけがないか、と自嘲するように下を向いた。
「……!わっ……地響き!」
その時、収まっていた筈の地響きが再び発生する。足元がグラグラと揺らぎ、カイトは軽く手を地面についた。やはり、まだ完全に世界が回復したとは言い難いらしい。揺れはすぐに止まり、カイトも体制を整えて再び歩き始めた。アカネも、息絶え絶えになりながらその後ろをついていく。
「揺れが止まったね……やっぱり、まだ完全には収まってないんだ……」
カイトは歩きながらそう呟いた。アカネはどうにかその言葉に反応しようと口を開いたが、直ぐにその口をつぐんでしまう。やはり、体がいう事を聞かなかった。再び地面を見つめるように俯くと、足元から妙なものが発生しているのに気づいた。
未だに『時の雨』は降り続いている。そんな光の雨の中で、アカネの足元からは光の胞子のようなものが無数に発生していた。よく見ると、腹部、尻尾、腕……体のいたるところからその光は溢れ出している。
アカネ自身は、自分がいったいどんな風に消滅してしまうのかは当然知らない。しかし、この時なんとなくだがこの光の正体を察した。この光は、きっとアカネ自身の『魂』か何かなのだと。
ふわりとその光は空へと昇っていく。自分が少しずつ、少しずつ軽くなっていくのを感じた。空に魂が運ばれて行っている。きっと、魂のすべてがあの光に乗って空へ上る時が、完全に『消滅』するということなのだろう。どこに向かって行っているのだろうか。ふと空を見上げて、そんなことを考えた。アカネの足は止まり、カイトとの距離はかなり遠くなってしまっていた。
(………………カイトと一緒にいられるのは、これが……最後、か…………)
もう、歩く力など残ってはいない。
「……?アカネ…………」
背後にアカネの気配がないことに気付いたカイトは、振り返ってアカネの名前を呼ぶ。それでも返事がないので、アカネの方へと駆け寄った。しかし、彼女のその姿を見たカイトは思わず目を丸くした。無数の光の胞子に体を包まれたアカネが、泣きそうな顔をしながらその場に立ち尽くしていたのだ。
「…………アカネ?……その、からだは……?」
「……ずっと言えなくて、悪かったわね。……ごめん。あの約束、駄目みたい。あんたとはもう、ここでお別れみたいだから」
「…………え?」
アカネは顔を上に向けて涙をひっこめると、できるだけ冷静に話ができるように軽く深呼吸をした。呼吸しているような感覚が全く無くて、本当にこれで最後なのだ、と改めて実感してしまう。そんなことをしていると、また涙がこぼれそうになった。
「おわ……かれ?」
「……あの時、遺跡でキースが言ってたの。今歴史を変えるという事は、この先の確定した未来は一度消えるってこと。だから、未来で生まれた生き物は皆、無かったことになった世界と一緒に消滅する……って。
ルーファスも、シェリーも、リオンも、それをずっと前から知ってて、この計画を実行してた。勿論、私にもその覚悟があった……らしい。
だから、歴史が変わった今、私も消滅する……そういう運命にある」
アカネは再び目に涙を溜めながら、しかし一方で冷静に、落ち着いた様子で粛々とそれをカイトに告げていた。カイトはそれを聞きながら、自分の中で何かが崩壊していくのを感じる。口が半開きになったまま、何もいう事も出来なかった。体がガタガタと震えても、行かないでくれと縋ることができない。
そんな彼が、アカネの言葉に返事を返したのは、それから数秒経ってからだった。その答えに、アカネは思わず目を見開いた。
「…………アカネが死ぬなら、僕も死ぬよ」
カイトは動揺していた。動揺しながらも、その顔つきは本気だった。
「……なに、言ってんの?」
アカネの目から、ついにポロリと涙が零れ落ちる。カイトのその言葉に、アカネはとてつもない憤りと、悲しみの渦が、自分の心を飲み込んでいくのを感じた。こんな状態では無ければ、いつもならば、カイトの顔を叩いて、十万ボルトを十発でも浴びせているところだったが、アカネは自分が妙に冷静だという事が不思議だった。実際は、こんなに小さな体には収まり切らない程の感情が心の中に、気味の悪い色をして渦巻いているというのに。
「……あんたは、死んだりしたら駄目でしょ」
「……だって!!」
「私は生きたい。ここで終わるなんて思ってなかった。けど、あんたはこの先も生きていけるの。生きてよ。生きて、ここであったことを、ちゃんと皆に伝えて。もうこんなこと二度と起こらないように。起こさないように。私が出来ないんだから、あんたがやるしかないでしょ」
「けど、僕は」
「私はあんたに生きててほしい」
カイトの顔には、一気に悲しみや絶望の色が広がっていった。カイトは今、きっと崖っぷちに立たされているのだろう。この先、消えた後アカネの魂がいったいどこに向かうのかは誰も知らない。しかし、今アカネがここで消えれば取り残されるのはカイト一匹だ。カイトの悲しみや、何処にぶつけていいのかもわからない複雑な感情は、この先何があっても消えることが無いに違いない。
それでも、アカネはカイトに一緒に死ぬなどということは言って欲しくはなかった。感情は十分に理解できる。カイトは一匹になるのを恐れている。自分を失うのを怖がっている。だが、この依存されている状態から脱出し、カイトには前を向いて生き続けてほしい。来るであろう平穏な未来で、誰かと笑って生きていてほしい。生きていれば沢山の出会いと別れがあるだろう。これはきっと、その一部分に過ぎないのだ。
「な、なんで……?なんでアカネなの……?」
「泣かないでよ……」
溢れでるようにいくつもの涙がカイトの頬を伝って地面に落ちて行った。悲しみや絶望感で身体が震えて、目だけが縋る様にアカネの方をじっと見つめている。泣かれるとこっちまでまた泣きたくなってしまう。せっかく涙をせき止めて冷静になろうとしているのに、これではまるで台無しだった。
体から発生する光は徐々に強くなっていっている。青く光り輝く雨が降り注ぐ中、二匹はその色によく似た涙をその目から流す。
「僕は……アカネが居なかったらもう、僕が生きてる意味が分かんないんだ……君が居なくなっちゃったら、僕はまた孤独になる……!僕はまた、意味の無い日々を過ごすことに……」
アカネの体は殆ど光に飲み込まれてしまう。カイトは溢れる涙をぬぐうことなくアカネに近づくと、光をアカネから引き剥がす様にしてその姿を探した。光に包まれてしまった瞬間に、アカネはもういなくなってしまったかのような、そんな錯覚にとらわれてしまう。だから、必死になってアカネの体を探した。そんな寂しさに侵された手の先で握ったものは、ふんわりとして小さなアカネの腕だった。
「アカネ、行かないでよ……行かないで、待って!!」
「カイトはこの世界に意味がないと思うかもしれないけど、私は好きよ。私はこの世界が好きだから。あんたと過ごして、仲間と思える存在が沢山あった世界が大好きだったの」
アカネの表情が殆ど見えなくなるほどに、光が強くなっていく。消滅の時が本当に近くにあるのだと突きつけられているようで、カイトは言葉も出せない程に項垂れた。
アカネのことが好きだった。未来の世界で、彼女がいったいどんな人間だったのか、カイトには全く知る由もない。出会った頃はきっと、こんな感情などはなかったのだと思う。最初から惹かれてはいても、こんなにも好きだったなんてことは無かっただろう。衝突もあったし、けれど時々確かめてみると明らかに縮まっている距離感や、彼女がふと見せる不思議な優しさや弱々しさをカイト自身も少しずつ理解していく、その形には表せない感覚。生まれて初めて守りたいと思う物ができて、だから今カイトはここにいるのだ。ここまで強くあることができたのだ。アカネが居なければ、自分の命なんてものも、世界の平和なんてものもどうでも良かったのかもしれない。アカネが居なければむしろ、『星の停止』などというものは、どちらかと言えば、彼にとっては都合の良い事だったのかもしれない。
アカネは最後の力を振り絞って、背伸びをした。彼女の手がカイトの指先を離れて、彼の頬を撫でる。頬の震えからも、いつもよりも低い温度、涙で湿った赤い体毛からも、底の無い深い悲しみが伝わってくるようだった。
「僕は……僕は、アカネが居るこの世界が好きだったんだ……アカネのおかげで強くなれたんだ。アカネのおかげで僕は、今生きていられるんだ……僕にとってアカネは何よりも大事で……大切な……」
涙でグチャグチャになった顔から、そんな言葉がこぼれた。こんな状況でも、少し恥ずかしかった。けれど、今しか伝えるときはないのだ。恥ずかしがっていてはいけないのだ。そう思い、アカネはカイトの方へと擦り寄った。カイトは両腕で身体を抱き寄せてはみたものの、その体温を殆ど感じない小さくてふんわりとした体に、再び咽び泣いた。
「……多分……いや、私も。私も、そうよ。だから、ここで消えても、カイトのこと絶対忘れない。あんたにあえて、ほんとによかった。あんたが生きててくれてよかった。あの時、私を見つけてくれて、本当にありがとう。ギルドに私を誘ってくれて、私と一緒に居てくれて、本当に感謝してるの」
「もう良くわかんない…………なんで?なんでこんなことになるんだよ……駄目だよ僕……アカネが居ないと駄目だ。こんなことなら、僕……」
「そんなこと言わないでよ。それでも遺跡の欠片はあんたを選んだ。私はあんたと出会ったの。私はあんたの事好きだよ。だからこそ一緒に死ぬなんて言わないで、生き続けてほしい。あんたが救った世界をもっと知って、沢山のポケモンとこの先も出会って、大切な誰かと胸張って前を向いて生きて欲しいの。生きていればきっと、光の下で生き続けることができる幸せを感じる時が来るはずだから。私の分まで、その幸せを噛みしめて」
「そんな、アカネ…………アカネ……!」
もう後がないアカネは、すでに恥じらいというものは忘れていた。カイトにそんな風に言葉を与えるのは、彼にとってはとても重く苦しいことだという事は分かっている。それでも言わずにはいられないのは、これはカイトがこの先乗り越えるべきことだという事だからだ。アカネが消滅して、カイトは時を刻み続け、光在る世界で生き続ける。アカネへの負い目を感じることも在るだろうし、おそらく寂しさで泣き叫びそうになることも在るかもしれない。アカネ自身も、自分がカイトの中でそれほどの存在であるのだという事は自負していた。それでも生き続けて、いつか自分の存在から解き放たれて、生きていることを幸せと感じることが出来たのなら、きっとそれが『乗り越えた』ということだろう。
カイトにはそうなっていってほしい。殆どがアカネのエゴであっても、カイトが自分の後を追うなどということは、一番あってはならないことだと思うから。カイトにはまだやるべきことがある。それを伝えたかった。
アカネは話しているうちに、溢れるように目から涙があふれていることに気付いた。そして同時に、体の色がどんどん薄くなっていく。落ちてくる時の雨に逆らうように、アカネの魂の光は空へと昇って行く。もうすぐだ。もう、時間がないんだ。
「……最後に、聞いていい?」
「………っぐ……うゥ……うんっ……」
「私は……あんたと出会ってから、ほんの少しは変われた?」
カイトはその問いに、ブンブンと首を縦に振った。アカネの背中に回っている彼の腕に、強い力が入る。それでも痛みを感じない程に、アカネの体は感覚を失っていた。ボロボロと目から涙が溢れ、青い雨と交じり合う。
「よかった」
カイトが咽び泣く声が聞こえる。アカネはゆっくりと目を瞑ると、その声に耳を傾けていた。最後に聞くのが泣いている声というのは、少し寂しい。
もう一つ、彼に聞きたいことがあった。今の彼にそれを問うのは、少し躊躇いがある。少しの恥ずかしさもあった。恥を捨てると決めたのに、本当に最後の最後で。
「ねぇ、カイト」
「……ぅっ………ッ……うん」
「この先、いつかどこかで会えるとしたら
その時はまた、私を見つけてくれる?」
「…………っうん、見つける。ぼく、絶対アカネのことみつける……」
「…………ありがとう。ほんとうに」
アカネがそう呟いた刹那、彼女の体は今までとは比べ物にならない程激しい光に包まれた。彼女の魂であるその光は、カイトの体をも飲み込んでいく。アカネの顔が見えない。彼女の体に触れた手から、徐々に彼女の体が消えていく。空へと無数に昇っていく魂の光は、空から落ちてくる青い光と交わるようで美しく、そしてとても悲しかった。カイトの目の前から、ポケモンの少女の姿は完全に消えた。空へ昇る光がカイトを見下ろす様にゆっくりと昇っていく。青色に光る空と時の雨、金色の雲の隙間へと入り、やがて見えなくなっていく光を、カイトは見上げるようにして暫くの間眺めていた。
光が一つも見えなくなり、空に見えるものは雲と空と、そして青い光の雨だった。彼女と見ていたそれは、まるで幻想の世界のように美しかったのに。カイトただ一匹となった今となっては、どこか寂しい光景だった。
カイトは地面に視線を下ろす。顔を下に向けると、ボロボロと水が顔から垂れて、地面に水玉模様を作った。足元には、アカネの物と思しき小さな探険用バッグが転がっている。アカネが装備していた道具も転がっていた。道具だけが散らばっていて、そこにアカネの存在だけが切り取られたように消えているというのは、これらはアカネの『遺品』になってしまったのだという事実を突き付けられる。バッグと道具を拾い上げると、カイトは抱きしめるようにしてそれを抱えた。
カイトは再び泣いた。誰もいなくなった帰路は、ただ降りしきる時の雨とカイトだけが存在している。今度は声を押さえることなく、叫ぶようにして、空に向かって怒鳴る様に泣き続けた。我に返ることなく、悲痛な声で泣き叫ぶ。アカネにこの気持ちを伝えたかった。それでももう、アカネはどこにもいない。
涙が枯れるまでその場に蹲り、空を見上げて泣き続けた。カイトの流した涙がアカネの探検用バッグにかかり、じっとりと湿っている。ひとしきり泣き、その涙が枯れた頃、カイトはバッグを抱えたままに立ち上がった。
「…………かえらないと…………」
泣きつかれて、体がフラフラとしていた。頭が痛い。自分がどこへ向かっているのかもよくわからない。それでも生きなければならない。それでも、帰らなければならない。
それが、アカネの最後の願いなのなら。
カイトは、フラフラとしながらも帰路を歩き始めた。途中で何度も躓きそうになりながら、虹の石船へと辿りつく。アカネと一緒に、遺跡から乗って来たものだった。虹の石船は、あんなに凄い揺れの中で壊れずにちゃんと待っていてくれたけど、どこかで待っていてほしくなかったな、と思っていた。少し躊躇いながらも、虹の石船へと乗り込んだ。中央に立って、塔の方を眺めていると、起動音が響き渡る。石船が時限の塔から少しずつ遠ざかっていく。
石船の上が、やけに広く思えた。アカネが居ないからだ。少しずつ小さくなっていく時限の塔を眺めながら、時の雨に打たれていたカイトはふと思った。
「…………時限の塔が遠くなっていく…………アカネが……離れていく、なぁ……」
最愛ともいえる、生きている時間のすべてを掛けてもいいと誓った相手を失った場所だった。崩れかけた塔と、世界に振り続ける青い光の雨が、なんとも言えない悲壮感を漂わせている。カイトの心を生とつなぎとめる糸はもうボロボロで、そんな光景を見ただけでも引きちぎれてしまいそうだった。
虹の石船が止まる。そこは、時限の塔へと旅立った場所……あの古代の遺跡だった。ここから幻の大地のダンジョンに入ってすぐ、カイトは『穴抜け玉』を使って脱出するつもりだった。塔の崩壊の所為か、流石に遺跡もかなりボロボロになっていた。その様をみて、リオンとへケートの事を思い出す。二匹どころか、何処にもポケモンの気配はなかった。
カイトは階段の方まで歩くと、そっと下をのぞき込む。そこには、地面に覆いかぶさるようにして落ちているタオルと、リオンの持っていた探険用バッグだけが佇んでいた。地面や砕け散った岩などには飛び散ったような痕のある血が所々に付着している。二匹が争った形跡だろう。そして、ふと思い出す。
嗚呼、あの二匹も、未来のポケモンだ。
涙を流す気力も無い。そもそも枯れた涙はもう出てこなかった。泣きすぎてヒリヒリと痛む目の下を意味もなく拭うと、カイトは表情を失ったままに階段の下にゆっくりと降りて、それらを回収する。リオンのバッグや、地面に落ちていたタオルには、まだほんのりと暖かさが残っていた。二匹も、アカネと同じようにタイム・パラドックスによって消滅したのだろう。
本当に、一匹になってしまった。
荒れて崩れかけた幻の大地のダンジョンに入ると、すぐに『穴抜け玉』を使った。バッグの中の道具は、大分少なくなっている。長い、長い戦いだったと思った。幻の大地、入り口付近までワープすると、そこには神妙な面持ちでカイトを待つラウルが島の淵に佇んでいた。
彼も知っていたんだな、と察すると、また寂しい心境に陥る。カイトは地面に視線を向けてラウルの元までフラフラとしながら歩いて行った。
「…………星の停止、食い止めたよ。ラウル」
「…………おつかれさまでした。おかえりなさい……カイトさん」
ラウルは、来た時には一緒に居たはずの三匹については何も問わなかった。カイトの腫れたれた目元や、憔悴した様子を見て全てを察したのだ。もっとも、ラウルは知っていたのだろう。歴史を変えるという事の意味を。歴史を変えれば、現在と未来の間で必ず時間の矛盾が生まれてしまうという事を。
カイトを背中に乗せたラウルは、再び時の海を泳ぎ始めた。生きているのか、死んでいるのかさえ分からない程にカイトの存在は背中の上に重く、そして呼吸は静かだった。
ラウルは、ここに来る途中でルーファスとカイトの会話を聞いていた。カイトが、アカネという存在が命よりも大切であると宣言していたことを知っている。背中に乗ってただ生きているカイトの存在と、来るときは賑やかだった自分の背中の上の寂しさが、ラウルの心を圧迫した。
何も話そうとしないカイトと、ラウルだけが存在する時の海の上で、彼はカイトに気付かれないようにそっと、細く涙を流した。
ラウルに乗って無事、トレジャータウンへと辿り着くと、カイトは心の赴くままに自らのギルドへと向かった。殆どポケモンが居なくなってしまったトレジャータウンで、仲間たちは避難をすることを拒絶し、アカネとカイト、そしてルーファスとリオンを待ち続けていた。
カイトがギルドに帰省すると、皆歓声を上げながらカイトを祝福し、感謝の言葉をささげ、讃えた。そんな中、カイトが影のある顔つきで柔らかに笑っているのに気づき、場はシンと静まり返る。カイトしか返ってきていないという事に、皆ようやく気付いたのだ。驚きを隠せず、ついヘクターやゴルディが三匹の事をつい聞いてしまうが、パトラスの制止により答えはその場では明かされなかった。
一つの時代が終わり、そして新しい時代が始まったのだろう。空から見ていた誰かはそう呟いた。この先に続いていく未来の運命は変わり、きっとこの先も美しい、光の下に生きる者達の物語が語られるだろう。未来の者達の犠牲があって、世界は光り輝いている。アカネ、カイト、ルーファス、リオン……そして運命に翻弄された者達の名前はきっと、後の世でも長く長く、新しい時代とその歴史に刻まれていくに違いない。
青く広がる美しい空から流れ出す時の雨は、土にしみ込み、世界を流れて巨大な海となり、そしていつか空へと再び昇っていく。
この広い空へと消えてしまった彼らと同じ場所へと帰っていくのだ。
この世界に生きる者達を取り残して。