菫色の沼底‐186
* * *
グルグル、グルグルと、赤い雲が塔のてっぺんに渦巻いてはどこかで呻き声を上げる。塔は時を追うごとに朽ち果て、小さな亀裂をいくつも作り続けていた。時が止まる時は近い。塔が崩壊する頃、時も停止するだろう。
アカネとカイトの足元で、また地響きが聞こえた。下の階が少し崩れたのだろうか。いずれにしても、塔が崩れている音だという事は間違いなさそうだ。間に合わなければ、ディアルガと戦う以前に崩れ落ちた塔の下敷きに……ということも考えられる。急がねばならない。地面がぐらついた所為でダメージを受けた体を労りながら、二匹は顔を合わせて上へと昇って行った。
「カイト。腕出して」
「ん?」
カイトは自らの両腕を、歩きながらアカネの方に突き出した。左腕は問題ないが、右腕の方には擦り傷のような物がついている。土や小さな石などが付着しており、衛生上よくない状態だった。アカネはカイトの右手を歩きながら腕をつかむと、その傷に手を当てる。アカネの目が徐々に青色に染まっていき、彼女の手の先からは柔らかな光が漏れ出していた。傷が癒えていくのを見て、カイトはにっこりと微笑んだ。
「なるべくこうやって回復していかないと、いざって時に道具が無かったら困るし……」
「ありがとう。けど、アカネはそれやってて疲れないの?」
「多分ね。『破壊』の方じゃないから、問題はないとおもうわ」
『そっか』と、安心したように再び微笑したカイトは、腕の傷がきれいさっぱり消えたのを見ると、特に意味も無くアカネの手を握って握手の真似事のような事をすると、『ありがとう』と再び礼を延べた。
「アカネ、能力使うのに躊躇いなくなったよね…………よいしょ、と」
「ん。まぁね…………ちょっと、いろいろあってさ」
二匹は地面に入った亀裂を飛び越えると、少し辺りを見回した。ディアルガに近い為か、上へ上へといく程に塔の中の荒れ具合はひどくなっている。地面が断裂し、大きな穴が開いている場所もあれば、塔の一部が壊れてしまったのであろう岩屑などが道を遮っていたりした。そんな環境の中で唯一良いことがあるとするならば、殆ど敵のポケモンが出てこないことだった。ここに留まり続けるのはまずい、と判断した上の階のポケモンたちがどんどん下の階に流れて行ってしまったのだろう。場所がそもそも高い為、揺れも下に比べてみると相当大きかった。そんな中でアカネ達が最も警戒するのは、地響きやフロアの崩壊だった。フロアが潰れてしまう前に頂上へ行かなければ、という焦りもある。
「……あのさ、アカネ」
崩れた天井の一部が道を塞ぐ。その岩壁をよじ登りながら、カイトは上で待っているアカネに対して声を掛けた。まだ上っている最中だろう、とアカネは呆れ顔で手を差し出す。カイトはアカネの手を掴むと、足に精一杯の力を込めて道を阻む岩の上によじ登った。膝が砂利で汚れていたので軽くパンパンと払い、その岩の上から次は飛び降りる。カイトが地面に着地した直後、アカネも岩の上から地面へと体を下ろした。カイトは腕を広げ、落ちてきたアカネの抱きとめるように抱え込むと、どこか小っ恥ずかしそうな顔をしてアカネは地面へと降りた。岩によって塞がれていた通路も、何とか通ることが出来た。
「アカネ。僕さ、この事件が全部終わったら……時の破壊を食い止めることが出来て、平和な日常が戻ったら……僕、一度昔住んでた大陸に帰ってみようと思うんだ」
「…………そう、なのね」
「うん。……だから、無事二匹で帰ることができたら…………アカネも、その、一緒に来てくれない?」
「…………もう。無事帰って来れてから言う事でしょうが、それ」
「あ!そ、そうか。早とちりしちゃったな……でも、とりあえず。気が滅入る前に宣言しときたくて。ごめんごめん……」
そう言ってカイトはあちゃー、と茶化す様にして頭を掻いた。
自分が近いうちに消えると知らなければ、どう返事をしていただろう。カイトを呆れた顔で見るような装いをしつつ、アカネはそんなことを考えていた。そもそも、消滅してしまうような存在でなければ、私はどう返事をしたのだろうか。
きっと、『別にいいけど』などと、そっけなく返せていたのだろう。
返事を曖昧にして、誤魔化したのはアカネの方だった。受け入れるわけでもなければ断ってしまう訳でもなく、ただ期待をさせて置いているだけだ。そのうち、そんな期待が現実には成り得ないことを知る。また一つ、アカネの気持ちの重みが増えた。心臓の中で血が鉛となって体を巡っているような、そんな感覚に襲われる。気持ちが重く、心が痛い。ふと、カイトが見ていないところで自らの左胸に触れてみた。アカネの心臓は動いている。心がここにあるわけではない。ここにあるのは、あくまで心臓。それは分かっているが、罪悪感や寂しさに襲われ、ただの『心臓』がある場所を落ち着かせるように押さえる他、気持ちを逃がす方法は無かった。
「……じゃ、答えを聞くためには、まず生きて一緒に帰らなきゃね」
天井の方を見上げてカイトが言った。続けざまにゆらゆらと揺れている塔は、二匹が既にかなり高い所に居るという事を示している。振動が小さくとも、上に行けば行くほどに揺れるのだ。塔は崩壊を続けている。そして、頂上も直ぐに目の前にある。
カイトの申し出に、答えを出すことは出来ない。そして、時限の塔の頂上は、もうすぐそこだった。
* * *
足元がごつごつしている。砂利が足の裏に食い込んで微かに痛い。そんな不愉快な痛みや、耳から入ってくる微かな感覚、頬を霞めていく風の感触。ポケモンの気配。
トントントン、と。周辺を何かが走っていく音がする。軽やかで柔らかいその音は、着々とこちらに近づいてきていた。閉じていた瞼を片方だけ開くと、思った通りの位置にそのポケモンは立っていた。その場所からどんどんと歩み寄ってくる。リオンは、開くことが出来ない片目を放って、無事な方の目を頼りに走り始めた。リオンが負傷したのは『右目』。所謂リオンの利き目だった。『真空波』を放とうと力を籠めるが、左目だけを使って攻撃をするだけではなかなか狙いが定まらず、するりと抜けられてしまう。このまま攻撃されては不味い、避けきれないだろう。普段から右目を頼りすぎた……と、今更後悔する。
遺跡の下は割り方開けていた。巨大な存在感を放つ遺跡の他には目立った障害物も無い。視界が見えてしまっていれば、見えているものばかりに頼ってしまう。一か八か……と、リオンは再び目を瞑った。へケートはその様子を見て、壊れた人形のようにぎこちなく首を右側に傾けた。しかし、好きを突くかのようにへケートは走り出すと、リオンに向かって『サイケ光線』を放つ。リオンは、自らの周辺に何かが侵入してきたのを感じ、体を右に翻した。
サイケ光線はリオンが元々立っていた場所を通過し、階段へと衝突して砂埃をまき散らす。へケートはそれを見て、ふと合点がいったように声を上げた。
「……嗚呼、『波紋』か」
リオンは返事をせずに足踏みを繰り返す。リオルというポケモンは『波紋ポケモン』と言われている。即ち、ルカリオの波導などによって目の前が完全に『見えている』という状態ではないが、自らの体から発せられる波紋によって大体の物の位置が分かるというものだった。
しかし、微かな動きまでは分からないのが難点だ。目の前が見えているわけではないし、目の前にある障害物などの正確な形なども分らない。『波導』とは、大いに違っている能力だった。この種族特有の力を使うよりも、自らの目で戦場に立った方が早いと思っていたが、こんなところで役に立つとは。ルカリオだった頃に比べてかなり劣っているものの、自らの元からの種族に感謝した。
意識を研ぎ澄まし、耳を全てに傾ける。足音を立てないように誰かが近づいてきているが、それの位置は波紋で分かった。目の前に来たところで大きく腕を振ると、何か固いものの感触が腕の先から体へと響いていく。そして背後で何かがぶつかって砕けるような音が響いた。思わず目を見開いて自らの腕を見て見ると、腕の一部がパックリと切れて血が流れだしていた。飛んできたのは鋭い岩のようだ。切り傷程度だったが、それに気づいた直後に背後に強い衝撃が咥えられる。背中が焼かれるように熱く、体内が抉られているような感覚だった。リオンは前かがみで倒れ込み、思わず負傷した方の腕を地面に付いた。電流のような痛みが腕に走り、完全に地面に伏す。背後から囀るような笑い声が聞こえた。
「…………ッ!!」
負傷していない方の腕で地面を押し返し、力いっぱいに背中を引き上げて起き上がった。目を開いたまま後ろを振り向くと、へケートは表情を動かさないまま無言で佇んでいた。リオンが立ち上がって真正面から向き合っても、何も反応を示さずに彼の方をじっと見つめていた。何も言わず、何も仕掛けてこようとしないへケートの視線に、血を垂れ流す右目の瞼がじりりと痛む。
「…………なんだよ」
口隅を上げていつも微笑む彼女が無言でいるというのは、妙に気味が悪かった。リオンが立ち上がっても尚何も言わず、動かないならば尚更である。
へケートの耳からは微かに血が滲んでいた。先ほどリオンが噛みついた場所である。リオン自身の首と腕と瞼は彼女によってザックリ切られ、先ほどサイケ光線によって背中を焼かれたわけであるが、そんなお互いの傷跡をじっと見つめながら、暫く対峙している状態が続いた。
「………………お前は何故、星の停止を止めたい?」
「は?」
首の傷がジクジクする。強く声を出すと、首元の傷に響いた。リオンはバッグから『防御スカーフ』を取り出して首に巻いた。スカーフと傷が擦れて血が付着するが、この方が傷を気にすることなくいられると思ったのだ。そんなことをしながら、リオンはへケートの不思議そうな顔つきに目を向けていた。
質問された内容は分かるが、何故いきなり?そんな疑問が募る。
「少し気になっただけだ」
「別に。語るほどでもないが、お前が身の上話でもしてくれたら俺だって話してやってもいいが?」
「そうか。残念だ」
へケートはそう言うと額の宝石を赤く輝かせ、『サイケ光線』をリオンに向かって放ってきた。リオンはへケートと距離を取る様にしてサイケ光線を避けると、自らも目を瞑って『真空波』をへケートへと放った。ぼんやりとしたへケートの存在を表す波紋が自らに伝わってくる。避けられたことを察すと、直ぐさま目を開いてへケートを視覚と聴覚で追いかけた。
体の表面を、へケートの体に弾かれた空気が撫でる。リオンは足に力を籠めると、体を跳ね上げて『ブレイズキック』をへケートめがけて振り下ろした。しかしあと少しの所を『サイコキネシス』で止められ、宙へと弾かれるが、体をうまくねじらせながら衝撃を和らげるように手をついて着地する。着地するとすぐさま足四本を地面につけ、猛獣のように体を丸めてへケートへと走り始めた。舞うようにして軽やかにリオンを避けるへケートを睨みつけながら、彼は二足歩行に切り替えるとバッグの中に手を突っ込み、中から鋭い凶器を取り出す。『銀の針』だった。鋭く光る銀色の針はナイフのように鋭く、へケートを狙っている。リオンはへケートを倒すための凶器を持って走り始めた。技を使うのをあきらめたように見えたリオンをへケートは馬鹿にするように目を細めると、周辺に落ちている岩や小石をサイコキネシスで浮かせ始める。そしてリオンめがけて一斉に放った。
怯むものか。岩がリオン目がけて飛んでくる中、リオンはへケートの方へとひたすらに駆け抜けた。リオンの足がついた場所には、足跡の代わりに地面に衝突して砕けた岩が散乱していた。小石を銀の針で弾き飛ばし、へケートの近くまでくると、両腕で銀の針を持ち、へケートに向かって一気に振り下ろした。
「!」
体を捩る。が、銀の針は首を掠り、皮膚を深めに削り取っていった。赤く新鮮な血が地面へと飛び散り、リオンの顔に付着する。彼の右目から垂れる血とへケートの血が混ざりあい、鉄の臭いがふわりと宙に浮きあがる。痛い。比較的痛みに鈍いへケートも、その場所を傷つけられたのはさすがに不味いと感じ、一旦身を引いた。血が、彼女の首からとめどなく流れ出ているのを見て、リオンは自分がつけた切り傷でありながらも動揺していた。噛みつかれただけの自分の首の傷とは種類が違いすぎる。糸のように首からこぼれていき、彼女の足の方へと血は伝って行った。足の先から地面へと及び、彼女が少し動くとその地は足跡のように地面に残る。
リオンは、地面に流れた血を見ながら唖然と立っていた。銀の針を持った利き手はいつの間にかブランとぶら下がっている。
「……血を見るのに慣れていないのか?」
「……いや、そんな……そんな、筈は……」
「ステファニーの体だからだろう」
「違う!」
リオンは、血を見るのに慣れている筈だった。未来の世界では、血を見るという事は避けられない現実だったのだ。いくら過去の世界で平和ボケしていたとはいえ、戦う際には絶対に血を見ることになる。
口では違うと言いつつ分かっていた。へケートが死んでしまえばステファニーも死んでしまう。アカネとカイトが目的を遂行して、未来の者達が消滅してしまうその前に、少しでもステファニーの面影が見たかったのだ。
甘い考えだとわかっていたからこそ、あえてそんな考えを自分にも隠していた。攻撃するときは確かに躊躇は無かったが、戦っている相手がへケートだからである。しかし、戦闘と死は別物だった。
「別に人格が分裂していたわけじゃない。ただ忘れていただけだとどれだけ言えば分かる。それが結果的に一体の体に二匹存在しているように見えるだけの話だろう?ステファニーは私だった。それで何か不都合でもあるか?」
「ステフィは仲間だった。そこそこの時間を共有してきた。なら、そんな相手を殺したくないと思うのは当たり前だろうが」
「お前が今言っていることは、私自身にステファニーを求めるという事だ。分かっているのか」
「ステファニーがお前自身だってなら、なんでお前はそこまであいつのことが嫌いなんだ?」
へケートの動きが停止した。リオンがそう言うと、へケートは微かに目を見開いてリオンの顔を凝視する。何か考え事をしているようだった。首から流れる血も落ち着き、しっとりと柔らかな毛を血で赤く濡らしている。艶やかに赤く染まった菫色の美しい体毛は、その困惑した瞳の色とよく似ていた。
「嫌い……ではない。汚点だ。私の中における、汚点。無ければ良かったのに……と。そう考えるだけだ」
「今のお前の方がよっぽど汚点じゃないのかよ」
「私と少し話をしたくらいで分かった気になるな」
へケートはそう言ってリオンに鋭い目を向けた。その目の奥は、まるで深く深く淀んだ泥沼の底のようだった。見えないが、底知れぬ恐怖や複雑な歪みが犇めき合い、小さな誰かが泣いて叫んでいるようで、改めてその目と自分の目を合わせてみると、どうも心地の悪い感覚に襲われた。
こいつは、本当に俺を殺す気があるのだろうか?
リオンはふと、その瞳を見ながらそう思った。今だって、攻撃しようと思えばいくらだって出来る筈だった。リオン自身が手を出さないからだろうか。と考えたものの、彼女にとってリオンは邪魔なだけだろう。ならば、何故さっさと殺してしまわないのか。
その気になれば、殺せるはずなのに。さっきから本気で相手をされている気がしない。感情にかなりムラがある。本気になったのはおそらく、片手の指で数えて足りる程度だろう。今はおそらく、落ち着いているのだ。そして、何処かで心境に変化があったに違いない。
だからこそ、へケートはリオンの目をじっと見つめながら、動かないのだろうか。
「俺は、お前に勝てるとは思ってない」
「嗚呼。そうだな」
アカネとカイト、二匹が目的を達成するまでの時間稼ぎをしているだけだ、ということは、へケートにもわかっていた。やはり勝てないものは勝てない。お互い傷だらけではあるが、受けたダメージはリオンの方が何倍も大きかった。一度動きを止めてしまえば、先ほどまで動き回っていたのは一体何だったのだろう、という程の疲労感。銀の針を握っている手を持ち上げる気にもなれなかった。
「お前がなんでそうなったのか教えてほしい」
「身の上話をしろと?」
「そこそこちゃんと聞かせてくれたら、もう俺は抵抗しない。手でも足でも勝手にもぎ取って好きなように殺してくれて構わん」
壊れたカラクリのように、ゆっくりとへケートは顔を傾げた。何故そこまで聞きたがるのか、分からなかった。唯一自分の身の上話をしたことがあるヤミラミのことは面白いと思ったし、それなりに気分も良かったから話をしたが、別にリオンに話したいとは思わなかった。
しかし、へケートがヤミラミに話をしたあの時、へケートは相手の反応など別に気にはしていなかった。とりあえず吐き出して終わり、程度に思っていたのだ。
相手の反応、というのを考えてみると、ヤミラミなどより遥かにリオンの方が面白そうだということに気付いた。不幸自慢でも何でもないが、話してみてもいいかもしれない。始めてそう思った。
何より、この状態で戦いを続行すれば自分が勝つのは目に見えている。
「話に口をはさんで来たら、その時点で話は終わりだ」
「構わん」
へケートは歩幅を小さくして微かにリオンに歩み寄ると、ゆっくりと地面に腰を掛けて伏せるような状態になり、座り込んだ。リオンはそんなへケートを見下ろす様にして、立ったまま彼女の口元を見つめていた。
へケートの口がゆっくりと動き始める。美醜な親子の悲劇が再び語られるのを、リオンは目を閉じて聞いていた。