狂気を纏う襲撃者‐179
* * *
古代遺跡にて、ヤミラミ六匹は既にアカネとカイトによって戦闘不能にされていたが、一番手強いへケートとキースが残っていた。
ルーファスとキースは一対一での戦闘になっている。先ほどまでルーファスが押していたが、キースが放った『影撃ち』により、形勢逆転してしまった。ルーファスは首を掴みあげられ、苦し気にもがく。それを睨みつけながら、キースは更にもう片方の手でルーファスの意識を奪おうとしていた。キースの拳に黒い光が集まってくる。シャドーパンチでルーファスの顔を殴りつけてやろうとしていた。
しかし、アカネとカイトが同時にその背後を狙っていた。ルーファスを片手で掴み上げ、もう片方は拳を握っている。カイトは火炎放射、アカネは十万ボルトでそれぞれキースの背後を狙い撃とうと準備を始めた。キースは瞬時にそれに気づき、軽く舌打ちをすると振り返り、ルーファスを『盾』にしようとする。ルーファスが目の前に付きつけられたことにより二匹は動揺し、どちらの攻撃も逸れてしまう。
「ッ……!」
ルーファスは渾身の力でキースの腹を蹴りつけ、リーフブレイドでキースの腕をざっくりと切り付けた。キースはルーファスを睨みつけ、やむなく地面へとその体を叩きつける。痛みの所為か、力が上手く入らなくなった腕から痛みを振り払うように軽く手の平を払った。
「………………」
一方、妖し気に笑いながらそんな戦いを傍観しているへケートは、何かブツブツと呟きながら尻尾を強く地面に叩きつける。眉間に皺をよせ、見たくも無いものを試験的に見つめているかのようなリオンは、そんな彼女を観察していた。
仕草も違う。表情も違う。彼女と目が合う事なんて滅多にない。それなのに、彼女の中にあの少女を探し続けてしまうのだ。へケートは一度だけリオンの方をちらりと見ると、心から軽蔑したような顔で彼の事を笑った。
(……おれをみて、何をかんがえたんだろう)
へケートのその反応を見て、何となくそんな風に思うが、当の本人はルーファスに夢中で、まるでリオンなど視界に入ってはいなかった。キースとルーファスがひたすらに攻撃し合っている様子を、まるでゲームでもするかのように楽しそうな顔で眺めているへケート。その横顔に、ステファニーを見つけることはできなかった。
状況は厳しかった。ヤミラミ達は戦闘不能となり、悔しそうな顔つきで四匹の事を睨んでいる。キースがきっと倒してくれる。そう期待する者達が大半だった。特に戦う意志も見せず、へケートは遺跡の上に上がって見物している。プライドの高いキースが、『手伝ってくれ』などと言えるわけも無く、状況は右にも左にも傾かないまま、平行線だった。一瞬、キースはへケートの方を鋭く睨みつけるが、へケートはそれすらも鼻で笑って弾き飛ばした。
「……クッソ……」
キースは腕の傷を拭うと、再び黒いエネルギーの結集体……シャドーボールをルーファス達に向かって飛ばした。素早くそれを避けると、ルーファスは『リーフブレード』を準備しつつキースへと接近していく。アカネとカイトはその後ろからキースへと走り寄った。
ルーファスの後ろの二匹が邪魔だ。そう判断したキースは、『影撃ち』を使ってまずアカネの方へと接近した。キースはその場を動くことなく攻撃することが出来る。アカネは影撃ちが近づいている事を察し、逃げられないことを悟ると、いつものように尻尾で力いっぱいに宙へ体を投げた。うまく体制を整え、遠距離から『十万ボルト』を繰り出す。
「!!」
『十万ボルト』が、何かに当たった手ごたえがあった。その直後、腹を何かで殴りつけられるような衝撃が走る。鋭い痛みと体に響いてくる痺れを感じ、咄嗟に『影撃ち』が命中したのだと思った。アカネは体制を崩したまま地面に落下し、息を荒くしながら腹を抱える。
十万ボルトが命中した相手は、無論キースだ。十万ボルトが腕に命中し、痺れを振り落とすかのように腕を振り回した。痺れていない方の手を意図的に凍らせると、迫りくるルーファスを向かい撃つ。リーフブレードで切り付けようと飛び込んできたキースの腹部を狙って、凍った拳を振り上げた。
ルーファスもそれをガードするためにリーフブレードを腹部の前でクロスさせ、『氷のパンチ』を『リーフブレード』で相殺する。キースの狙いはそれだった。瞬時にもう片方の痺れたままの手でルーファスの横っ腹を叩き上げた。宙で体制を崩したキースの頭の上にある長い葉のような部位を掴むと、勢いをつけて地面へと叩きつける。
「ッガァ……」
地面へ叩きつけた後、再び力強くそれを握ると壁の方へと放り投げた。ルーファスは勢いよく壁に激突し、体中に細かな切り傷や打撲などの怪我を負い、地面へと崩れ落ちる。
「……くっそ…………」
何とかよろよろと立ち上がり、キースの方を睨みつける。カイトは横からオレンの実をルーファスに投げ渡し、アカネの方へと向かった。彼女もなんとか立ち上がりはしたものの、鳩尾あたりに攻撃が入ってしまった事からうまく体を動かすことが出来なくなっていた。
「……ッ……リオン!」
「……ぇっ……あ…………」
いつまでたっても戦闘に加勢しないリオンに痺れを切らしたのか、カイトはアカネを抱き起しつつ、リオンを怒鳴りつけた。へケートを見ながら呆然としていたリオンはそれに気が付き、戸惑ったように声を漏らす。
そんな様子を見て、へケートはまた鼻で笑った。
「っ……わるい!」
へケートは何をするつもりもなさそうだ。今はキースを優先した方が良いのか?止まっていたリオンの思考が一気にめぐり始める。しかし、キースに集中している間に彼女が何か仕掛けてきたら不味い。リオンは歯を食いしばり、キースとへケートの交互に視線を配らせる。
「アカネ……動ける?」
「大丈夫……あんた行って。どっちが大事かは一目瞭然よ」
アカネはカイトを睨みつけるようにそう言うと、体を無理やり動かして立ち上がった。カイトも軽く頷くと、アカネにオレンの実を手渡してキースの方へと駆けだしていく。『竜の怒り』を体に纏わせ、キースの近くに来たところで解き放った。しかし、キースもまたそれを向かい撃つ準備をしていたようで、再び『シャドーボール』を数個作り出し、カイトの放った『竜の怒り』に向かって放つ。
双方ぶつかり合って相殺……というわけにはいかなかった。カイトの技が微かに上回ったのだ。竜の怒りはシャドーボールを突き破り、キースの方へと突進していく。更にそれを防御しようとキースは『氷のパンチ』で竜の怒りの勢いを殺してしまおうと考えたが、キースが拳を構えた直後、竜の怒りの残り光はくるりと方向転換し、キースの頭上を勢いよく飛んで彼の背後から突撃した。
「なっ……!」
キースの背中に鈍い痛みが走る。途中で威力を弱めたためにそこまでのダメージは無いが、キースが驚いたのは光の動き方だった。『竜の怒り』は、ほぼ百パーセントの確率で敵に命中する技である。しかしそれは、攻撃を阻むものが無かったらの話だ。あんな風に動くなどということは普通はあり得ない。
攻撃技自体が自らの意思を持って動いているようだった。追尾わざのマジカルリーフなどでもあるまいし……。
一瞬の動揺のスキを突き、体の調子を立て直したルーファスは勢いよく地面を蹴った。次こそ、と身構えたリーフブレードに、キースは気づかない。
気が付いたのは、腕を伸ばせば届きそうな距離までルーファスが近づいてきたときだった。防御が間に合わず、体の前に盾代わりに突き出した巨大な腕をリーフブレードに弾かれ、腹部を思い切り切り付けられる。追い打ちをかけるようにカイトは『火炎放射』を放った。それを予測していたルーファスはすぐさまキースのそばを離れ、火炎放射によってキースの体が焼かれるのを見る。
勿論、これで倒れるキースではない。体に追った火傷を払いながらゆっくり起き上がった。先ほどまで動けなかったアカネも、痛みが和らいできたところで、戦闘が繰り広げられている場所へと移動していく。キースはやはり手強いが、弱っているであろう今が一気に畳みかけるチャンスかもしれない。
リオンもまた、へケートをちらりと横目にキースの方へと走った。ここで一斉攻撃を仕掛ければ、仕留められるのではないか。そんな希望を胸に。
「………………」
一方で、遺跡の頂上から戦闘を傍観していたへケートは、音では聞こえない位に小さくため息をついていた。もう少し位やれる奴だと思っていた。キースを馬鹿にするような言葉を頭の仲で何度も唱える。実際に見下していた。少なくとも、このくらい時間を掛ければルーファスをボロボロにしてくれる、くらいには思っていたのだが。他の三匹すらも戦闘不能になっていない。ヤミラミ達には最初から期待はしていなかった。
確かにルーファスは傷だらけであるが、動きはそこまで鈍っていないし戦意も全く萎んでいない。つまらない戦いである。
(………………ルーファス)
いかに私がおまえのことをにくんでいるか、あいしているか。それをおまえは知っているのか?
知ってるわけないじゃない、と。どこからか声が聞こえた。
* * *
「……分かりました。ご連絡ありがとうございました」
ブラン、と垂れ下がった受話器に何とか耳を当てて、シャロットは無機質な機械から聞こえてきた声にそう返事をした。彼女は未だに隔離施設にかくまわれており、今初めてアカネ達が『幻の大地』へ向かったという連絡を受けた。
何とか受話器を元の場所に戻すと、シャロットは一息つく。四足歩行が常なシャロットにとって、電話をすることも何かと一苦労である。電話機なんてハイテクだな、と思いつつ、その場で腰を持ち上げて小さく伸びをした。
アカネ達が幻の大地へ向かった。そんな連絡をしてきたのは、トレジャータウンの探検隊ギルドの親方であるパトラスだった。あまり詳しくは話していなかったが、とにかく想像もつかないような手段で『幻の大地』へと向かったのだという事は理解していた。せめて挨拶でもしておけばよかったな。世界が着々と動き始めている中、匿われて何もできない身の自分が、彼女はどことなく恥ずかしかった。恥ずかしかったし、情けなかった。
シャロットはふらりと窓辺に寄り、ぼんやりと外を眺める。ここに来てから何度もそんな行動を繰り返したが、黒いモヤのような物がかかった彼女の心のように、今日はなんだか少し変な天気だった。
灰色の雲がぐるりと空を覆っているようだった。雷は鳴っていないが、少し風も強いらしい。外で見張っているポケモン達を中に入れた方が良いだろうか?そんな風に思ったが、きっと大丈夫だとはねのけられてしまうだけだろうな、と苦笑いする。
「…………?」
ちょんちょん、と背中を誰かがつついた。一匹の雌のコジョンドがシャロットの後ろに佇み、なにやら郵便物のような物を抱えていた。郵便物と共に、言葉を話すことができない彼女がいつも愛用している小さなメモ帳も。メモ帳の一ページが開かれており、そこに丁寧な字で言葉が綴られていた。
『郵便物です』
そんなこと、わざわざ書かなくても郵便物を見れば分かるだろうに。彼女の思いやりなのだろうか。そんなことを思いつつ、シャロットはノギクに微笑んだ。ノギクをテーブルの方に誘導すると、そこに郵便物を置いてもらい、シャロットは椅子に座って郵便物に目を通し始めた。
『リオン』
差出者の名前の所にそう書いてあるのに気づく。シャロット宛てのリオンからの手紙のようだった。急いで開こうと封筒の口元に自らの歯を当てるが、突如それはノギクによって阻まれる。
「……ノギクさん?どうしたの?」
急にノギクに頭をやんわりとつかまれ、シャロットは動揺して口から封筒を離した。ノギクは『しぃー……』と、小さく息を吹きながら自らの唇に指を添える。喋るな。その行動は、そんなことを表しているようだった。ノギクは片手の指を口元に添えたまま、テーブルに置いてあるシャロットの探険用バッグを持ち上げると、バッグの口を空けてその封筒を押し込む。そして音を立てないようにシャロットの体に掛けた。
「…………?」
「…………」
静寂が走る。ノギクはシャロットに対し、『その場で待機しろ』と解釈できるような手の動きをした。そしてゆっくりと建物の出入り口に歩み寄る。閉まっているが、シャロットもこの時ようやく気付いた。
警備をしているポケモンでもなく、ノギクでもなく、はたまたひょっこりと現れる客人でもない。感じたことの無いような禍々しい『気』を放つ者が近くに居る。
どこからか見られているような気味の悪い感覚が体中を駆け巡った。シャロットは無意識に体中の毛が逆立つ。自分が襲撃される。それに備えての施設だったはずだ。しかし、実際本当に来るとは思っていなかった。
けど、本当に?勘違いなのではないかという微かな綻びが、確実な『殺気』を感じている今現在でもシャロットの中に存在していた。
待機しろ、と言われていた(指示されていた?)が、シャロットはゆっくりと椅子から降りて窓の外を覗き込んだ。
いつもならその窓から警備をしているモウカザルやアサナン、たまに入れ違いでやってくる警官のポニータやストライクが見える筈だった。
「…………っ……?」
いない?
それに気づいた瞬間、心臓が嫌な音を立てて高鳴り始めた。ぐっと体を押し出し、目をぐりぐりと動かしてとにかくポケモンたちの影を見つけようとした。すると、森の茂みの近くに、放り出されたポケモンの足のようなものが見えた。
モウカザルのものである。
「………………」
彼らが警備をサボったことが無いのを、シャロットは良く知っていた。必ず一匹は絶対に外に出ている。それなのに何故、あんなところで寝転がっているのか?
シャロットの脳裏に嫌なビジョンがよぎった。
(……そんな。そんな物音一つしなかったのに……!)
窓から目を離し、ドアの前で佇むノギクに目を向けた。厳しい顔つきでドアを睨みつけ、たまにあちらこちらに目を配っている。やはり何かいるのか。だとしたら不味い。警備を物音も立てずに崩したポケモンが近くに居るとすれば、調理係であるノギクとシャロットだけという状況はとてつもなく不利だった。
「の、のぎくさ…………」
「しぃっ!」
シャロットは思わずノギクに声をかけてしまう。しまった、とばかりにノギクは再び口元に指をやった。ごめんなさい、と目で謝り、体を強張らせる。ノギクは縮こまって動かなくなったシャロットから目を離すと、小さく息を吸って、吐いて。何かを決心したように出入り口のドアを勢いよく開いた。
「…………!」
ドアの前にはアサナンが体中に焦げ跡を付けて倒れ込んでいた。奥の茂みにはシャロットが見た通りにモウカザルが倒れ込んでいる。ノギクは辺りを見回すが、他に誰もいない。先ほどまでの殺気のようなものも消えていた。
とにかく警察の方へ連絡しなければ。と、ノギクは電話へと飛びつく。確か、警察へと通じる番号があった筈。何だったか、と微かに思い出そうとした時だった。
焦げ臭い臭いが背後から流れてくる。瞬時に後ろを向くと、荒々しい息をするような音が何処からか聞こえた。パチパチと何かが焼ける音がし、気が付けば床の一部が燃えている。
「……!?」
ノギクは急いで手招きをし、シャロットを自分の所へと引き寄せた。シャロットも何が起こったのか分からないようで、ただただ動揺するばかりである。誰かが入っていたのだ。それは理解したものの、どうすればいいのか。何者かが息をする音は次第に近づいてくる。どこからなっているのかはよくわからない。炎がパチパチと燃え上がり、壁を伝って部屋の中を徐々に浸食していく。ノギクもシャロットも、水属性や土属性の技は持っていなかった。壁に穴を開けるしかない。そう思い、ノギクが『波導弾』を打つために、燃え上がる壁に向かって腕を構えた時だった。
微かに何かが動いた気配がした。
「わっ…………」
ノギクは突如方向転換し、燃えている壁側ではなく調理場の方に向かって『波導弾』を勢い良く放った。調理場はノギクの聖地ともいえる場所だ。放ってから彼女は一瞬後悔したものの、そんなことは言っていられない状況だと瞬時に頭の中を切り替える。ノギクの後ろで状況を処理し切れていないシャロットが目を白黒させている。ノギクは戦闘態勢に入ると、煙の立ちこむ調理場の方へと突っ込んでいく。煙の渦巻いている“とある一点”に向かって拳を握り、『グロウパンチ』を繰り出した。
煙の中で微かな舌打ちが聞こえた。ノギクの拳には何かが当たったような手ごたえがあったが、その次の瞬間に皮膚を切り裂くような痛みが彼女の腕を襲う。ノギクの腕に、巨大な黒いポケモンが噛みついていたのだ。そのポケモンはノギクと目が合った瞬間に離れると、『火炎放射』をノギクへと放った。
「ノギクさんっ!」
炎に呑まれたノギクに向かってシャロットは叫ぶ。シャロットの特性は『貰い火』であるため、シャロットはいくら体が炎に包まれようともダメージを負うことは無かった。特性によって体の調子が上がり、炎の中でノギクを探そうと走り始める。小さな建物の中でポケモンたちが争っているのだから、建物も長く耐えきれるはずがない。既にミシミシと何かが軋むような音が、炎が唸る音の後ろで聞こえていた。
「ノギクさんっ!!どこ!?」
「ギヒ、ギヒヒ、ギシシシ……見つけたァ」
気色の悪い男の声が響いた。水をこねくるような音が近くでネチャネチャと気味悪く響く。妙にねちっこい、調子の定まらない男の声が徐々にシャロットに近づいていた。
「火まみれにしたのぁ失敗だったかなぁ。俺ぁこの方が動きやしぃんだけどさァ。
そういや、お前さんも貰い火だったかぁい。ギシ、ギヒヒ」
炎の奥から姿を現したのは、巨大なヘルガーだった。片方の角が折れており、首元にはざっくりとした傷痕がある。口をグチャグチャと動かし、何かを噛むようなしぐさをしながらシャロットへと徐々に近づいていく。目の動きが落ち着かない。このヘルガーは普通じゃない。瞬時に判断するが、それでどうすればいいのか。シャロットには全く分からなかった。
「ギシシ、ギシシッこれがシャロットかい?ただの小娘じゃねぇか。ギシ、ギシシ」
シャロットを狙ってきたとしか思えない発言をする。ヘルガーの口元からダラリと涎が垂れた。おそらく、ヘルガーが言っているのは未来のシャロットのことだった。一体、未来のあたしは何をしたのか。あらかたリオンから聞いていても、不審に思ってしまう。
「あ、あたしを狙ってきたの?」
「お前さん以外に誰が居るってんだァよ。俺ァあの姉ちゃんは知らねぇぞ。テメェ殺したら報酬ガッポリだからよォ、このサイコパス野郎さァ」
「え……?」
サイコパス野郎って、貴方のことじゃない?
ヘルガーが突如口にしたその言葉に、思わずそう返しそうになった。そんなことをしている場合ではない。このヘルガーは普通ではないのだ。早く逃げなければ……と思ったが、火の海に消えたノギクの事が気がかりで、離れようとも離れることが出来なかった。ノギクはシャロットと違って炎に特段強いわけではない。むしろこの火の海に呑まれたのだから、息だえてしまうことだってあり得る。
「サァてぇ、どう殺すかねぇ。いたぶってる時間があんのかなぁ。ここまで燃えちゃぁ誰かくんのも時間の問題だなァ。
手っ取り早くサクッと逝っちまうか?あん?」
シャロットの中には、微かな恐怖と戦闘心があった。勝てるかどうかは分からない。とにかくノギクを探して一刻も早く警察に行かなければ。
「嗚呼、嗚呼、良い目してんなァ。正義感に燃えたポリ公みたいな目ェな、ムカつくわ。死ね」
「ッ……」
ヘルガーはシャドーボールをシャロットに向かって放つ。シャロットも負けじと避けるが、ヘルガーはそれが当たるとは思っていなかったらしい。余裕の顔つきで舌なめずりをし、目を大きく見開いた。
黄ばんだ目は狂気的だった。シャロットは二、三歩大きく下がると、目をランランと光らせた。ヘルガーの周辺に光が密集していき、彼の体に溶け込むように入っていく。『封印』を使ったのだ。シャロットが使用できる種類の技は、これによってヘルガーは使えなくなる。しかし、特に動揺はせず、もう一度シャロットの顔を見て口の周りを舐めた。
「俺にゃァ効かねぇよ、アホが」
ヘルガーは悪タイプを持つ。エスパータイプの『封印』という技は無効になるのだ。シャロットが応戦出来る技は殆ど無い。そのことに気付き、ぐぐぐ、と体を強張らせ、焦る。
ヘルガーは攻撃態勢に入ると、一瞬体を引き、弾かれるようにシャロットへと飛び掛かった。まるで悪魔のように大きく開かれた口からは、黄ばんだような牙がギラギラとシャロットを睨みつけ、殺意や毒があふれだしている。シャロットは死を覚悟し、体を縮めた。
「ッガァ!!?」
目をギュッと瞑り、来るであろう痛みを待っていたが、その代わりに降りかかってきたのは、ヘルガーが驚きや痛みで口から零した苦痛だった。聞こえた瞬間に目を開き、辺りを見回すと、一匹のコジョンドが自分の前に佇んでいるのを目にした。
体毛が所々焦げているようだが、大きな怪我や火傷も無い。彼女が無事だったことに安堵し、シャロットは一瞬気を抜いて、小さくため息をついた。
「アァ、クッソ。めんどくせぇ、めんどくせぇぇ……」
「ッ……!」
ヘルガーは二匹に向かって『悪の波導』を口から放った。ノギクはシャロットを片手で抱えて避けると、もう片手で『波導弾』を作りヘルガーを狙い撃つ。シャロットはノギクの片手から離れて地面へと降りると、『電光石火』でヘルガーへ攻撃を仕掛ける。苛立っていたヘルガーは出鱈目に『火炎放射』を振り撒き、部屋中を焼いていく火の勢いを更に強くしていった。
特性が『貰い火』であるヘルガーやシャロットは火の中でもどうってことは無いが、ノギクは違う。息苦しさや灰の所為で喉からゼェゼェというかさついた息をし、肩を大きく上下に動かす。
「ノギクさ……」
「…………ッ……ッ……」
ノギクは『波導弾』を二つほど作り、燃えている部屋の壁に向かって放った。壁に当たった波導弾は弾け、壁には大きな穴がぽっかりと口を開ける。ノギクは壁の穴を指さしてパクパクと口を開閉し、鋭い目つきでシャロットを見る。
言いたい事の意味は分かっていたが、どうしても行こうという気にはなれなかった。
「なら、一緒に……!」
シャロットがそう言った直後、低い唸り声が部屋の中に響き渡る。ヘルガーが牙をむき、赤い瞳をグリグリとあらぬ方向へ揺らしながら、悪魔のような形相で二匹を威嚇していた。ノギクもヘルガーを威嚇しないように二、三歩後ろへと退く。
ここで足止めをしておかなければ、ヘルガーはどこまでもシャロットを追いかけるに違いない。ノギクは凛とした目で彼女をちらりと見ると、指先を小さく動かし、尚彼女に逃げるように告げた。
「けど…………」
「…………ッ…………」
行け、と唇を動かしたが、シャロットは動かない。指でどれだけ壁の穴を差しても、出て行こうとはしなかった。
「ガルルルル…………」
唸り声は益々荒々しくなっていく。口から先ほどとは比べものにならない程よだれが流れはじめ、目は冷静さを失っていた。ヘルガーが床を爪で抉る音が耳を突いてくる。いつ食い掛かってきてもおかしくはない。
ノギクは意を決してヘルガーの顔面を狙い、『グロウパンチ』を繰り出した。相手は悪タイプ。格闘タイプの技はかなり有利な筈だ。ヘルガーの顔を横殴りにし、体が軽く浮いたヘルガーにもう一度パンチを食らわせた。三発目、ヘルガーは迫ってくるノギクの拳をかわし、腕にガブリとかみついた。『噛み砕く』で、ギリギリと腕を牙で圧迫していく。ノギクは痛みと苦しさに顔をゆがませると、腕を振り回してヘルガーを床へ叩きつけた。
「ガゥゥゥゥ!!!」
床に叩きつけられてヘルガーの口はノギクの腕から離れるが、特に怯んだ様子も無く自らのツノのような物を使ってノギクの腹を突き上げた。折れていない方のツノは腹に突き刺さり、まるで刃物で刺されたような痛みが腹部に走る。拳を振り上げると、自分のすぐ真下にあるヘルガーの頭へ一気に振り下ろした。
シャロットは助けに入ろうとノギクに近づこうとするが、それを悟ったノギクは鋭い目つきでシャロットを睨みつけた。行け、行け。そう口を動かすが、彼女はまだ迷ったように足をふらつかせる。
そんなのではだめだ。そんなことではいけない。
「…………、ろ………、げ……」
「え?」
「にげろ!!!」
ノギクがそう叫んだ瞬間、ヘルガーはノギクの体を突き放し、ツノで壁へと放り投げて叩きつけた。
まるでグレッグルが潰れたような声だった。あの見た目からは考えられないような、かすれて低くて、つぶれた声。
それでも、シャロットはその声を聴いて弾かれたように家から飛び出した。一気に森の中を突っ切り、木々や岩にぶつかりそうになりながら走り抜ける。体に当たってくるバッグが邪魔だった。走っている時には炎が燃え盛る音も獣が唸る声も聞こえない。
助けなければ、助けを求めなければ、逃げなければ。そんな気持ちが複雑に絡み合い、シャロットはとにかく森の外へと向かった。