磯の洞窟へ向けて‐172
* * *
窓から差し込んでくる日差しが、閉じたままだった瞼の上をふわりと撫でて、温めた。
「……おはよう。アカネ」
「…………おはよ」
『磯の洞窟』へ、出発の日だった。
昨日、海岸へ向かった後にギルドへ帰省したアカネ、カイト、リオンの三匹は、そこから特に目立ったことはせず、いつも通り食事を終えて、いつも通り話をして、ベッドに入った。
意識を閉ざし、眠りについてしまうと、次に目を覚ました時、時が何時間も知らぬ間に飛んでしまったかのような感覚に陥る。自分だけ取り残されて、目を瞑った瞬間に、全てが変わってしまったような、そんな感覚に。
ベッドに横たわって、ふと意識が無くなってしまって……もう朝だ。今日は起きてくるのがカイトの方が早かった。アカネは毛布にくるまったままの体を解くと、ゆっくりと起き上がろうとする。まだちょっと体がだるい。体が頭に付いて行っておらず、まだ眠っていたいと訴えている。そんな時間は、彼らには残されていないのに。
もう、朝だ。
カイトは起き上がりづらそうなアカネの両腕をやんわりとつかむと、起きるのを手助けした。アカネはカイトの手を借りて体を起こし、眠たそうに眼を擦るとゆっくり立ち上がった。
ゆっくりしている暇はない。体はまだ眠りたがっているが、それを振り切ると、アカネは傍らに置いてあるバッグを掴みあげて部屋の出入り口の方へと向き直った。
「……じゃ、行こうか」
カイトも、『遺跡の欠片』の入った巾着袋をしっかりと握りしめていた。
「……えー。という訳で、親方様は未だにギルドへ帰省されていない。今日の予定は『磯の洞窟』の探索であることや、もしも自分が帰省しなかった際は私に指示権を任せる、と親方様は仰っていた。私は親方様の補佐だ。という事で、予定通り『磯の洞窟』へ出発しようと思う」
朝礼にて。集合したメンバーたちの前で、一向に部屋から現れないパトラスを待つことなくペリーは皆にそう伝えた。彼はある程度覚悟はしていたものの、やはり皆不満そうな顔でペリーの方を見ている。『お前で本当に大丈夫なのか?』今にもそう言いだしそうな目つきである。
ペリーと親方のパトラス、どちらが力強く、どちらが頼りになるかと言えば、十匹中十匹がパトラスだと答えるだろう。彼はやる時はきちんとやってくれるポケモンだからである。そんなパトラスと比較されてはこれでも仕方がないと、ペリーは密かに肩の力を抜いてうなだれていた。
「……ヘイ。親方はどこ行ったんだよ!」
「親方が居なくてさ、大丈夫なのかよ!?」
早々に口の早いヘクターやゴルディから声が上がった。二匹は心底不満そうにペリーの方を見つめている。そんな目で見られても、とにかく結果を出すしかないのだから今はどうしようもない。
「大丈夫!大丈夫だよ!あの方はギルドの事を誰よりも思っている!その親方様が帰省されないという事は、このギルドを私に任せても大丈夫だと判断したからこそだと思う!
親方様からすでに先頭に立つよう指示が出ているし、どちみち私が指示をすることになるよ」
ペリーがそう諭しても、尚不満そうな視線がペリーにバケツの水をひっくり返すような要領で注がれていた。ペリーはとうとう我慢できなくなり、文句を言うために声を張り上げた。
「ま、まさかお前達!!私だけじゃ力不足だと思っているのかい!?」
実際その通りであるが、ペリーのその表情を見た瞬間に、メンバーたちの不満そうな顔つきは『不安』へと徐々に変わっていくのを確認した。
「いや、別にそういうわけではないでゲス……ペリー一匹でも十分、臨機応変な指示をすることは出来ると思うでゲス……ただ……」
「やっぱり、いつも親方様がいらっしゃってくれるから、もしもの時も大丈夫!って思えるんですけど、やはりいないと不安と言うか……本当は良くないの分ってるんですけど」
ベルが腰を低くしてそう言った。そんなの、ペリーだって同じである。彼だって、やはりパトラスが居た方が安心するのだ。しかし、今彼はここにいない。皆の指揮をとれるのはペリーだけなのである。
「……けど、親方様が居ない今……リーダーシップをとって、皆をまとめ上げることが出来るのはペリーさんだけというのも事実だと思います。
頑張ってください、ペリーさん!」
ベルがそう言葉にしたとたんに、そこら中から『頑張れ!』という声があふれた。ペリーは、自分がリーダーを名乗りだしつつも思っていた。嗚呼、こういう時だけ頼りにしやがって……。
ペリーは顔をぐいっと上に向けると、堂々たる態度で指示を出し始めた。
「皆。今回の目的は、磯の洞窟に存在する『不思議な模様』と『幻の大地』との関連性について発見することである。皆一斉に洞窟に向かうことになるが、その前に今一度確認してほしい。準備は万全か、ということを。磯の洞窟は何が潜んでいるか分からないような危険な場所だ。結果を出さない限り、簡単に帰ることも叶わない。
遠征の時くらい……とは言わないが、それなりに準備を整えて臨んでほしいと思っている。出発は約二時間後だ。それまでに準備を完璧とし、ギルドのこの場所に再び集まってほしい。
では、解散!」
ペリーが解散の令を出した後、皆それぞれ準備の再確認などをするために散らばって行った。アカネとカイトはその場に佇んだまま、まだ顔を合わせていないリオンを探す。姿を見かけはしたが、話は出来ていない。この調査は、リオンにとっても意味のあることのはずである。事前に話をしておきたかった。
「リオン。おはよう」
「……嗚呼、おはよう……」
カイトの声に振り返ったリオンの目は、心なしか少し充血しているようである。なんだかやつれているようにも見えるし、いったいどうしたのだろうか?アカネとカイトは疑問に思った。
「あんた、妙にやつれてるけど大丈夫?ちゃんと寝たの?」
「嗚呼……いや、少し夜更かししてな……参った。二時間自由時間が設けられるとは思ってなかった。やりたいこと昨日のうちにやっちゃってさ……」
どうやら夜更かししてまで何かしていたようである。全く、かなり大切な調査だというのに……と、アカネは呆れた表情でリオンの顔つきを見ていた。目が充血して、体の軸が傾いている。だらしがない感じだ。睡眠不足の所為で間違いないだろう。
「俺は少し用があるから、外に出てくる。三十分くらいでギルドに戻ってくるつもりだ」
「了解。じゃあ、僕は部屋で荷物の再確認するよ。アカネも一緒にやる?」
「……私も少し外に出ようと思う。ギルドの近くに居るから、私も三十分で帰ってこれると思うわ」
「分かった。何もないと思うけど、とりあえず気を付けて。三十分後、三匹で集まって話し合おう」
カイトはそう言って笑った。アカネに軽く手を振ると、バッグを肩にかけてそのまま部屋に向かって歩いていく。
俺には手振らないんだ……と、リオンは苦々しく笑いながらつぶやいた。
「リオン。あんた、用事って何?」
「いや、ちょっとしたことだから気にしなくてもいい。先に行く」
リオンはアカネにそう言って、一足先に梯子を上って外へ向かって言ってしまった。一匹になったアカネは、ギルドの中にある時計を見て現在の時刻を確認した後、リオンの歩いた場所を塗りつぶす様にギルドの外へと出ていく。
ギルドの出入り口では、荷物の整理が早くも終了したのであろう数匹のギルドメンバーたちが立ちばなしをしていたりした。おそらく、ペリーは荷物整理のためにこの時間をメンバー達に与えたわけではない。荷物整理ならばとっくに昨日終わらせたのだから。
おそらく、少しでも休息をとらせたかったのだろうとアカネは推測した。ペリーと言うペラップは妙に良い所があるが、悪い所が目立ちすぎていて普段全く感謝する気になれない。他のポケモンたちはそうでもないのかもしれないが、おそらくアカネとペリーは基本的に相性が悪いのだ。電気タイプと飛行タイプだということもあって、更に。
最近、あまり一匹で行動していなかった彼女は、ギルドの階段を下りた十字路の所で早くも足を止める。さて、ここからどうしようか。
リオンは目的が有って出て行ったようだが、アカネは実際特に目的はない。ただ少し、一匹になってみる時間が欲しいと考えた。今ではもう、群れるのがひたすらに嫌だとかそういう事は考えない。しかし、それでも一匹で出てきてしまった。
アカネはふと、パッチールのカフェの看板に目を振った。最近ここらで人気の地下カフェ。こうなる前はかなりの頻度で通っていた。暫く顔を見せていないが、看板娘のレイチェルや店主のエルフはどうしているだろうか。アカネはふとそう思い、カフェに入ることにした。特にジュースにしてもらえるような物も持っていないが、このカフェは水くらいならタダで飲める。そんな下心も一緒に、カフェに続く階段を下りて行った。
店内は相も変わらず賑わっている。看板娘、レイチェルの『いらっしゃいませ!』という声が店の中に響き、アカネはカフェの中へと向かい入れられた。アカネの姿を確認したレイチェルは、踊るような足取りでアカネの元へ向かい、リボンのような触手で彼女の肩をポンポンと叩いた。それに気づき、アカネは振り返る。
「レイチェル……久しぶりね」
「おかえりなさい、アカネさん。いらっしゃいませ、こちらへ!」
事件の事を問い詰めようという様子はない。ただ、最初の一言である『おかえりなさい』という言葉を聞いて、アカネは穏やかに微笑んだ。そう言葉にすることが、レイチェルの優しさなのだろう。アカネは席に案内されると、もたれるように席に腰かけた。レイチェルからコップに入った冷えた水が運ばれてくる。コトン、とテーブルに置かれた。『ごゆっくり』と、レイチェルは優しく笑うと、そのまま他の客の席へ足を運ぶ。
レイチェルの優しい笑顔を見て、種族的よく似ていたステファニーの事を思い出した。最近、へケートの事ばかりを気にしていた気がする。ステファニーのあの笑顔を、暫く思い出すことが出来ていなかった。アカネは途端に懐かしいような、寂しいような気分になる。コップを掴みあげると、纏わりつく何かを振り切る様に小さな胃袋に水を流し込んだ。そのまま、多少乱暴にコップをテーブルへ置く。
「…………乱暴なもんだねェ。コップが痛んじまうだろう?」
「…………なに?」
突如、背後からどこかで聞いたことのある声がした。少し低い、大人の女性の声だった。ゆっくりと顔を上げると、確かに見知った顔がそこにあった。
「……嗚呼、あんた。自己紹介されてないけど、久しぶり」
「久しぶり……か。と言う割には結構ギルドですれ違ってたけどねぇ。全く、冷たいもんだよ」
「……ま。その節はどうも」
そのポケモンは茶化す様にアカネに話しかけると、そのままアカネの隣にある椅子に軽く腰かけた。その手には『黒いグミ』で作られたジュースが木のコップに入って揺れている。そのコップをコトンと机の上に置くと、そのポケモンはぐっと顔をアカネに近づけ、鋭い目つきと笑った口元で話題をふってきた。
「あんた、すごい話題になってるみたいだね。未来から来た元人間……巷ではそんな噂だよ。ホント、うっとおしい位皆その話をしてばかりだ」
「なんか意外だわ。悪名高き盗賊団のリーダーであるあんたが、そんな話に興味あるなんてね」
「……まぁ、普段なら興味なんて無い。ただ、『時の歯車』が絡んでいるとなると多少違う。それに、なんとなく納得はできるしね。あんたが人間だったっていうのも」
アカネは目の前にいるマニューラを睨みつけた。いちいち話し方が挑発的である。ある事件……シャロットとアカネ達がであるきっかけになった事件で、たまたま鉢合わせたポケモンである。チーム『MAD』……有名な盗賊団の女リーダーである。彼女が名前など名乗らなくとも、大抵の探検隊やその関連のポケモンたちはその名を知っているのだ。
「…………ただ。元人間のあんたは、一体あたしらの事をどんな風に見ているんだい?」
「……なに?どういう意味よ」
「色々だよ。アタシらのような悪事を平然と行うポケモン。人間であるはずなのに、ポケモンである自分に恋愛感情を向けてくるポケモン。ポケモンである自分が行う戦闘に関しても、何かしら人間とポケモンは違う価値観を持っているんだろう?
大分昔だったが、あたしは『人間』という生き物の存在について聞いたことがある。頭脳は優れていたが、煩悩が強くて実質武器の力を借りなければ力も無い。そんな生物なんだろ?」
喧嘩を売っているのか、目の前のマニューラ……セリシアという名のマニューラは、そんな風にアカネに人間の話を聞かせた。何か文句でもあるのだろうか。アカネもつい不愉快な気分を顔に出し、目を細めて彼女を睨んだ。
「過去の人間と未来で生まれ育った私とでは、えらい違いだと思うけど。確かに感覚が多少異なっていたのは認める。手を伸ばす距離、多少高い所から落下しても傷を負わないからだ……。
……元々人間だった。でもそれは種族の一つでしかなかった。慣れたら私はもう『ポケモン』だった。……としか言えない。記憶が無いからね」
「それでも人間としての感覚がまだ残ってんじゃないかい?だから、相方の感情も素直に受け入れられないんだろ」
何を言っているのだ、このポケモンは。
アカネはそうやって心の中で毒づく。しかし、そう感じた事さえもなぜか見抜かれているような気がして心地が悪かった。うすら笑いを浮かべるその黒猫の顔は美しかったが、どこか暗闇を背後に抱えているような重々しさも感じていた。
「……相方の感情?カイトの事?」
「とぼけても、あんたらを見てりゃ分かる。盗賊ってのは意外に頭を使う仕事でね。あんた、本当はあたしの言った事の意味が全部わかってるだろ。分かっているが、人間としてその感情を拒否したいがために誤魔化してるんだろ?
一つだけ言っておくが、あんた達は今までのチマチマした探検隊活動とは比にならん程の事件に遭遇している。ホント、下らない感情にはさっさと決着をつけた方が良い。いざという時に迷いが生じる。いつか絶対に後悔することになる。
あんたや相方君の事たまに見かけると、どうもあんたのその態度がイライラして仕方ないんだ」
「なんでそんな話すんのよ?」
「話せるのが今しかなさそうだからだ。アタシらだって世界の終わりなんて冗談じゃないと思っている。出来る限り、時間が止まっちまう前に各地の財宝かなんかを集めに行こうと思ってんだよ。要するに、暫くここを去るから久しぶりに会っとこうって訳さ。大きなことに向かっていく前には、取り残してきた感情のどれかに決着を付けなきゃならないと思う時があってね。それが、あたしにとってはあんたと話をすることだった」
「ギルドのポケモンたちが暫く留守にすること聞いたのね」
「あんたたちの事情なんて知りゃしないよ。とりあえずあたしは満足したから、これ呑んだら帰るけどさ、ま、あんたもせいぜい頑張んな。何?『幻の大地』ってトコだっけか?こちとら『ゼロの島』の調査に夢中でね、そこまで構ってる暇ないんだよ。あんたに譲るさ」
言いたいことは言い終わったのか、セリシアはいつの間にか空になったコップをコトンと机の上に置くと、大きく伸びをして席を立った。そのまま挨拶もすることなくカフェを出て行ってしまう。アカネは小さく首を傾げるが、本当は彼女の言いたかったことはなんとなく理解できていた。理解できていたが、戸惑う。しかし、セリシアが本当に言いたかった『それ』を理解した瞬間に、何かで蓋をしてしまったような、そんな感覚がアカネの中のどこかしらであったのである。
アカネは数秒セリシアが置いていった木のコップを見つめ続けると、ふと思い出したかのように時計を見た。カイト達と別れてから約二十五分。約束は三十分後だったはず。アカネは特に注文を取ることも無く、セリシアが出て行ったその二分後、足早に席を立った。
昨日殆ど準備を終えていたギルドのポケモンたちは皆、既にギルドに帰って『磯の洞窟』への出発に意気込んでいた。本来ならば、一分でさえもモタモタしていられない世界の状況。休憩なんてしている暇はない。『磯の洞窟』へ向かうポケモン達の中には、そう思っている者が大多数存在した。
アカネ、カイト、リオンは約束通りの時間にギルドの朝礼場へ集まり、部屋の隅っこで話を始めた。
「カイト、遺跡の欠片はしっかり持ってるな?」
「うん。準備は万端だよ。一応確認したけど、特に漏れはないと思う。アカネ、何か絶対持って行った方が良いってものとかあるかな?」
「『遺跡の欠片』さえあればどうにかなると思う。オレンの実や装備品もちゃんと詰まってるなら、問題ない。
……それより、あんた。随分眠そうだけど大丈夫なの?」
アカネはリオンの方へと顔を向けた。話は普通にしているものの、目が半分閉じていかて体もグラグラしている。こんな状態で向かっても大丈夫なのか?アカネは訝し気に目を細めた。リオン自身も気にしていたようで、そんな彼女の疑問に苦笑いをしながら答える。
「……実は、ちょっと疲れが取れてないというか……」
「大事な事なんだからちゃんと寝ないと駄目じゃないか……って言っても、まぁ簡単じゃないよね。
あと一時間ほどあるし、ちょっと仮眠とってきたらどうかな。時間になったら起こしに行く」
「……それは、お前達に申し訳ないんだが」
「何言ってんの?探検中にぶっ倒れられでもしたらそっちの方が迷惑。カゴの実で何とか意識保つよりいいんじゃない?」
「……ごめん、ありがとう」
リオンは苦々しく笑うと、そのまま壁際に座り込んで軽く寝息を立て始めた。座った途端に眠るとは。そんな状態で夜更かしなどをして、いったい何をしていたのだろうか。
アカネは呆れたように微笑むと、布団変わりにと自分のバッグをカイトの体の上に置いた。重いんじゃない?と、カイトがそれを見て笑う。アカネは悪戯が成功したような顔つきで腕を組み、口角をぐっと引き上げた。