手がかりは老亀‐166
この部屋、こんなに広かったんだ。
久しぶりの感触。久しぶりのにおい。安っぽいカーペットを踏みしめて、俺は『ブレイヴ』の部屋に足を踏み入れた。
図書館のようにぎっしりと書物が詰まっていた筈のこの部屋は、いつの間にか本が十冊程度しか置かれていない普通の部屋になっていた。何処か寂しくてむず痒い。違和感の所為で鳥肌が立ち、腕に抱えた日記に軽く爪を立ててしまった。
思い出に浸るかのように、ステフィの使っていた椅子に腰かけてみた。四足歩行のポケモンが使うものだから、やっぱり俺には浅い。
机の上には前足が使いにくいポケモンの為に改良されたペンが、小さく薔薇が掘られた木のコップに刺してある。一度日記を机の上に置くと、そのペンをゆっくりと手に取ってみた。二足歩行の俺には使いにくい。そう思って、再び同じ場所へペンを戻した。
カーテンで仕切ってある俺とステフィの部屋は、こう見て見るとなんとなく距離感がある。俺は入り口付近にベッドを置き、彼女は少し奥の方にベッドを置いて綺麗なピンク色のレースのついたカーテンでそのベッドを囲っていた。
深夜に爆睡したかった俺の意思とは裏腹に、零時を回るか回らないかというくらいに聞こえてくる不気味な笑い声とか、何かにペンを走らせる音とか、積んである本が崩れる音とか。実はどれもこれもけっこう煩わしかった。布団の中に潜って『嗚呼、うるせぇ……』とか思いながら、グチグチ言ってたもんだ。
ちょいちょいあいつに言ったりしたけど、何にも効き目無くて、改善する気もゼロ。諦めかけて、もうなんでもいいやって思ったりして。気づけばそれが当たり前になってたのかもしれない。
俺は、それで幸せだったのかもしれない。
いずれ全てが『終わる』日だって、来るかもしれない。そうなれば、結局そんな幸せ続くはずがないのだ。
ステフィが何を考えてたか、何を見ていたのか。日記の中に書いてあって、読んでも読んでも分らない。誰かの気持ちを深々と考えた事なんて無かったし、俺は元々一匹で生きていたんだ。
日記の途中のページから最後まで、どんどんステフィが黒い何かに浸食されていく様子がつづられていた。ステフィ自身の言葉は日に日に減っていく。どこで入れ替わっていたんだろう。可笑しいと感じたところは確かにたくさんあったと思う。
でも、いったいいつ。いつ、どこで、どのステフィが……あいつと成り代わってしまっていたのか。
未だによくわからない。
* * *
「…………おはよう」
「おはよう」
アカネとカイトは、ゆっくりと体をベッドから起こすと、お互いボケーっとした表情をして挨拶を交わした。窓から降り注ぐ太陽の光。すっかり見慣れた自分たちの部屋で、毛布にくるまれつつ朝を迎えた。
アカネはそっと毛布の中から這い出すと、窓の下に立って小さく背伸びをする。カイトは座り込んで目をこすりながら、それをじっと見つめていた。今までがあまりにも壮大で、それはまだまだ先へと続いているというのに、まるで夢を見ていたような気持ちに浸っていたのである。
サメハダ岩に居た時までが夢で、今丁度目が覚めたような感覚に陥っていた。心に余裕が出来たのか、あまりにも複雑な非現実を見た所為で、まだまだ混乱しているのか。
時間は六時四十分。まだ朝礼まで少し時間がある。カイトはそれを確認すると、眠たそうな声でアカネに話しかけた。
「クロッカス」
「え?」
「僕たちのチーム名、クロッカスだけど……それってアカネの事なんだよね。
チーム名、このままでいいの?」
「別にいいけど。なんでそんな事気にすんの?
ルーファスも私の事をアカネって呼んでるんだからいいじゃない。私、覚えてないし」
アカネの本名はアコーニー・ロードナイトというが、発音の違いから彼女は自らをアカネと名乗っていた。アカネが本名で、クロッカスは偽名。それならば別にいいではないか。と、アカネはカイトの考えを否定する。カイトもそれを聞いて安心した。チーム名を変える必要も無いのである。
探険隊の形は、何も変わらない。
「リオン大丈夫かしらね」
「……そうだね。ステファニーもいないし、気が滅入ったりしてないかな」
「あいつ、どうすんのかしら。私達は温泉に行って聞き込みするけど、あいつは……どうしたいんでしょうね」
「シャロットの所に行かせてあげたらどうかな」
カイトの提案に、アカネはしばらく考え込むようにした後ゆっくりと首を縦に振った。アカネ、カイトも精神的につかれている部分はあるが、今のリオンほどでは無いだろう。アカネも、自分の過去の事を受け入れてしまえばそこまで気が滅入ることも無かった。
彼女が、ずっと知りたかったことなのだから。
「ルーファスは今頃、どうしてるかしらね」
「今日からルーファスの誤解を解くための活動が始まる。少しずつだけど、ルーファスのことは受け入れられていくだろうし……もしも、全部終わってみんなの肩の荷が下りたら、ゆっくり話したりしたいね」
「……そうするために、今は頑張るしかないか」
二匹はそんな会話を交わすと、温泉に向かうまでのルートを突破するために準備をし、バッグを持ったまま部屋を出た。
アカネはリオンの事が気にかかり、チーム・ブレイヴの部屋の前に立つ。特に物音がしていないことを確認すると、何をするという訳ではなく顔を背けてそのまま朝礼場へと向かった。
朝礼場へと向かうと、以外にもたくさんのポケモンたちが集まっていた。リオンもすでに朝礼場に出ており、心配の必要は無かったようである。アカネとカイトが入った所で、丁度ギルドのポケモンたちは全員集合した。
いつも通りの並び順で朝礼を行う。いつもリオンの隣に居たはずの少女の立ち位置だけにぽっかりと穴が空き、妙に寂しい雰囲気が湧き上がっていた。それでも、リオンは自分の隣を見ることなく黙ってペリーの話を聞いている。
嗚呼、苦しそうだ。彼以外のポケモンたちは皆、微かにそう思っていた。
「……えー。という訳で。
昨日決めた各自の役割は把握しているな?
幻の大地を調査する者。今世界で起きている事を皆に伝え、ルーファスの誤解を完全に解く者、各自手分けして頑張ってくれ!行くよ!みんな!」
おぉーー!と、一段と張り切ったような声がギルド内に響き渡る。大切な後輩の為なら、、世界の為ならと躍起になっている者が多い様だ。アカネとカイトは、その様子を把握するとまた顔を見合わせて笑った。
それぞれが張り切って役割を実行しようと飛び出していく中、アカネ、カイト、リオンが固まってその場へと残った。
「リオン。君はどうする?昨日も決めた通り、僕とアカネは温泉に向かって情報収集するよ。本来なら君も行くはずなんだけど……」
「嗚呼。俺も行くよ」
「あんた、一回シャロットに会いに行ったら?少しは安心することも必要だと思うけど」
「…………いいのか?」
「良いもなにも、あんたが一番気にかけてたからね。もう隠す必要なんてないんでしょ。今まであなたを守ってました……って、言えるんじゃないの?」
アカネにそう促され、リオンは遠慮しつつもゆっくりと頷いた。「ありがとう」と柔らかく笑いながら言うと、自分の部屋へと戻っていく。彼の背中を見送ると、二匹は自らの目的を達成すべく、ギルドを出た。
「……よし、頑張ろうね、アカ…………」
ギルドの外へ出た……その瞬間だった。
ワァッと何者かの感性が上がり、二匹は思わず対応しきれずにのけぞってしまう。一匹ではない。複数のポケモンの歓声が、二匹の目の前で響いていた。何匹かはアカネとカイトに向かって声を上げているようだ。一体何事かと思い、二匹はその声に耳を傾けた。
「おかえりなさい!すごく心配してました!チームクロッカス!」
「もう二匹が消えた時はやばかったっす!まじやばかったっす!」
「やっべえ、マジ本物!おかえりなさいっす!」
「…………だれ?」
カイトは思わず呆気にとられる。トレジャータウンでも見たことの無いポケモンばかりが、二匹の目の前に募っていたからである。ジグザグマやサンド、ゼニガメやイシズマイ、ラルトス、オノンドなどなど…………いったいなんだ。このポケモンたちは。
「ホント無事で良かったです!押し掛けてすいません、ファンなんです!」
「うわぁアカネさんですよね!?うわぁ、かっわいいなー……あの、握手良いですか?」
「…………どうすべきかしら」
一匹のゼニガメはデレデレとしながらアカネに握手を求めた。アカネは困り果てた表情でカイトの方を向いた。カイトは顔全体に黒い影を作り、気が付けばゼニガメを殺さんばかりに睨みつけている。アカネは首をかしげて、再度ゼニガメの方を向いた。
「あんた達、『クロッカス』のファン?」
「はい!今まで結構特集されてたの知りませんでしたか?僕達、それを見て二匹の活躍を追っていたんです!
でも、広場で二匹が消えちゃったときは吃驚して……ずっと待ってました!」
「カイトさん実際に見るとやっぱ、なんかふわふわしててかわいくてかっこいいなぁ、ね!」
「そうなのよねー!」
そんなことで、何匹ものポケモンがクロッカスの帰還を祝って押し寄せてきたようである。二匹の知名度は以外にも高く、固定ファンまでついていたようだ。アカネは意外そうな顔つきで、目の前のポケモンたちを見つめていた。
「いやぁ、それにしても雑誌で見たよりも更に綺麗な方でビックリしました〜。アカネさんのルックスはファンの中でも話題なんですよねー。神秘的な美しさがあります!」
「そっかそっか、皆僕たちの為にありがとう。でもごめんよ、僕達これからすごく大事な用があるからずっとここに居るわけにはいかないんだよね。
じゃ、行こうか。アカネ」
「そうね」
カイトはファンたちを軽くあしらうと、そのままダンジョンへ続く道へと速足で向かった。ファンの中で情報交換まで行っているかのような言動もあったし、所謂芸能人扱いである。後ろから無数のハートが飛んできているのを二匹はじりじりと感じていた。アカネは呆れたように目を細め、カイトは笑顔を浮かべつつもその表情はこわばっている。
二匹は目的地を目指し、まずは滝壺の洞窟の方を目指す。二匹が一番最初にあそこに行った時には、とある仕掛けを起動させることで温泉まで大量の水がポケモンを押し流してくれるシステムになっていた。しかし、流石にそれは嫌である。パトラスの話によると、仕掛けを起動させなくとも温泉まで行くことが出来る方法があるらしい。
『滝壺の洞窟』へ向かったのは、二匹が探険隊を結成してまだ間もない時だった。その時よりは身体能力も戦闘の実力も格段に高くなっているため、それほど苦労することなく奥地へとたどりつくことができる。
パトラスに教わった『横穴』のような場所を通り、温泉へと向かった。ダンジョンになってはいるが、滝壺の洞窟のポケモン達よりも穏やかな者が多いようで、あっさりと抜け出すことが出来た。
「……思うんだけど、ここって妙なにおいするよね。リラックスできるけど、ちょっと鼻につく感じの」
「まぁ、確かにね。嫌いじゃないけど」
もくもくと上がっていく煙は白い。ふわりと舞う温泉の香りが、直ぐ近くにまで来ていた二匹の方までにおってくる。煙を辿っていくと、予定通りコータスのジゴウがいる温泉へとたどりついた。
二匹は温泉の周辺をゆっくりと移動しながら、うたたねをしているジゴウに近づいていく。いてくれてよかった、と内心安堵していた。昼間から温泉に来ている者も多く、そこそこ賑やかだ。
「……えっと、すいません。ジゴウ長老……ですか?」
カイトが恐る恐る、うたた寝をしているコータスに話しかける。コータスはゆっくりと顔を上げると、軽く首をかしげてカイトの問いに返事をした。
「……おや?お前さんたち、どこかで会ったかね?疲れをいやしに来たのかい?
わしは確かにジゴウじゃが……」
「あ、よかった。いや、今日は温泉に漬かりに来たわけじゃなくて……ジゴウ長老に話があって。
『時の歯車事件』を知ってますか?」
事情がよく分かっていないジゴウに対し、カイトは少しずつ飛ばし飛ばしに短くまとめながら今までの経緯を軽く説明した。ジゴウに尋ねたい事。それは『幻の大地』のことについてであるという事である。
「ほう。要するに、その『幻の大地』の有無が知りたいわけか。
わしは深く知っているわけではないが、それならば聞いたことがある」
「ほんとに?」
アカネとカイトは体を前かがみに傾けながらジゴウにそのことを訪ねようとした。
「『幻の大地』というのは、海の向こうの隠された場所にあるらしいんじゃ。しかし、幻の大地には選ばれた者しか足を踏み入れることが出来ない。選ばれし者達は、皆それぞれとある形の『資格』を持っているんじゃ」
ジゴウは自らの知識を二匹に話し始めた。幻の大地と言うものが何なのか、それを聞くことが出来るだけでも大きな進歩である。カイトは途中でメモ用紙の代わりに紙切れを取り出すと、そこにペンで聞いたことを書き込み始めた。ジゴウもそれに気づき、彼が追い付けるスピードで話を進めていく。
「資格?ちなみにだけど、それって例えるならどんなもんなの?」
「それはのう……のう……ん?
…………ちょっと待ってくれ。ん?…………ンンン?」
「……あの、ちょっと?」
「すまん、忘れてしもうた!」
出た。所謂『度忘れ』という奴である。
おそらく先ほどまではしっかり覚えていたのだろう。しかし、直前になるとポーンと記憶が飛んでしまう現象である。ポケモンの『技』として、意図的にこれを行う輩が居るらしいが、おそらくジゴウは本当に忘れたクチである。一番いい所なのに、と二匹は目を細めて小さくため息をつく。それを見て、ジゴウは何とも言えない罪悪感のようなものを感じた。
「うぅん……すまんのう。じじぃの物忘れはちと厄介でな……」
「……いや、まぁ。幻の大地という場所について多少の伝承はあるっていうのが分かったから、それでもいいかな。ごめんね、変に罪悪感感じさせて……」
「すまん。せめて『証』が何だったか思い出せれば、直ぐに知らせるからの。本当に不甲斐なくて申し訳ない」
ジゴウは心から申し訳なさそうに頭を下げた。カイトは柔らかく笑うと、小さくお辞儀をして礼を延べる。アカネもカイトに続いて小さくお辞儀をした。
「……まぁ、できれば思い出してほしいわね。
じゃ、連絡待ってるわ。情報ありがと」
「ありがとう、ジゴウ長老」
多少残念そうな顔をしつつも、収穫はゼロではない。そんな事を考える二匹の背中を、ジゴウはボーっとしながら見送っていた。やがて二匹は、もくもくと沸いて出る温泉の白い煙の向こう側に消えて行った。