千里の旅も記録から
まるで、木から虹が生えているような気がした。キヤリーグの気候はやや冷たいが、それでも今は夏の終わりごろ。他の地方よりも一足先に始まる紅葉は赤だけでなく黄色も多く、無数の木々によるグラデーションが鮮やかに映る。岩が多く勢いの弱い川のせせらぎ、時折聞こえる鳥の鳴き声はこの景色と相まってどんな音楽よりも巡の心を高揚させた。
巡はトレーナーカードの機能の一つであるタウンマップを広げ、自分たちの現在地と次の目的地までの距離を確認する。黄色い矢印の場所が巡達の現在地で、赤い矢印が差すのが次の目的地、カンナダシティだ。
「いやいや、ゲームだと町から町へなんて十分くらいで行けちゃうけどやっぱり時間かかるんだな!!」
巡達が旅を始めてから三日が経った。一つ目のジムがあるヴェールズシティはこの地図の右下にある場所で、まだまだ遠い。途中でいくつもの川がある地形だがちゃんと橋はかかっているので移動に問題はない。むしろ川を越えるごとに住むポケモンや景色が変わって旅のはじめとしてはとても楽しめるものだった。巡の感想だ。旅に出るまでの一年間、予習の名目で一つの地方をポケモンと共に旅するゲームをいくつかやってみたが、本物は全然違う。勿論不満はなく、これでこそだと思った。引率トレーナーの涼香は自分たちに壁を作ってあまり話さないようにしている雰囲気こそあるが、ちゃんと進みやすい道や川から出てくるポケモンの危なさを教えてくれるしなんだかんだかっこいいお姉さんだと思う。明季葉は初めて旅をする女の子だし体力的につらくないかなと思っていたけどゆったりしたエプロンに足を取られるでもなくすいすいついて着ていた。むしろ奏海の方が時々疲れて休憩しているくらいだ。
「あとどれくらいで次の町ですかね……」
「大体あと半分……奏海はもう少し鍛えたほうがいい」
「そんな……」
最初見た時はすごく大人しそうだったし実際そうなのだがポケモンバトルや明季葉は結構自分や奏海に対して結構遠慮がない。特に驚いたのは町で見かけた可愛い女の子と巡がいつものように軽くお喋りしていたら腕がチクッとした後体に電撃が走った時のことだ。何事かと思うと明季葉はドライバーのような太い治療針を見せて言った。
――この針にはモココの電撃が仕込んである。女性の引率者がいるとはいえ男の子二人との旅は危ない……いざという時はコレでなんとかしろってパパが。
なお本来の用途は肩こりなどの治療道具らしい。一回使うと充電はなくなるが明季葉は電気タイプのモココを連れており充電のし直しは簡単とのことだった。
(つまり、割と気軽に使えるってことなんだよな……アキちゃんを怒らせるのは出来るだけやめよう)
というわけで面と向かってアキちゃんとは呼ばないようにした。うっかり呼ぶとやはり訂正されてしまうので、まだまだ気を許してはくれないらしい。そんなことを考えていると、大きな木にもたれて腕組みをしている涼香が巡達に言った。
「さてと……今日の夜が最初のレポート提出日だけど、三人とも準備は出来てるかしら?」
「はい、ここまでの大体のことはまとめてあります」
「……涼香が夜見てくれたから、平気」
町の宿に泊まるときは男女別れて巡と奏海、明季葉と涼香で一部屋ずつ取っている。なので明季葉が涼香に教わっているのは不思議ではない。のだが。
「えっえっ? レポートって何の話?」
そもそもレポートとやらが何の事なのか、巡にはわからなかった。涼香の眉間に皺が寄る。
「何って……旅する前に博士が説明してたでしょ。ポケモントレーナーとして旅する者は原則三日、最低でも一週間に一度は博士へレポートを提出して旅をして感じたことや捕まえたポケモン、各地の様子などを報告する義務があるの」
「そ、そんな話してたっけな〜?」
「してました」
「……聞いてない巡が悪い」
「はあ……」
涼香に呆れたようにため息をつかれる。確かにワクワクが抑えきれず聞き逃した巡も悪いかもしれないが、それはそれとして。
「というか奏海! それならそうとなんで教えてくれなかったんだよ!!」
「巡兄さま、宿の部屋に入ったらすぐ寝ちゃうじゃないですか……てっきり旅の合間に書いてるものかと思っていました」
「俺にそんな器用なこと出来るわけないだろ!」
「自分が悪いのに弟を責めないの」
涼香が咎めるように強い口調で言う。正論を言われて巡は黙るしかなかった。
「最初のレポートだし、きっちり三人で提出したほうがいいわね。そうね……奏海も疲れてるみたいだし、しばらくここで休憩にしてその間にあんたはレポート出来るだけ書いちゃいなさい」
「助かります……」
「……景色も綺麗だし、明季葉としても嬉しい」
涼香の提案に対し、海奏も明季葉もあっさり頷いてしまい巡はやるしかなくなる。
「えっと、でも普通の紙に書くんだっけ?」
「トレーナーカードを操作して書くんですよ」
巡は自分のトレーナーカードをポケットから取り出す。今時のトレーナーカードというのはカードというよりスマートフォンのようになっていて、規則の確認やトレーナー同士の通話、そしてレポートの作成などいろんなことが出来るようになっている。少し操作してレポートというところをタップすると、白紙のような画面にタッチ式のキーボードが表示された。
「ほら、これで文字を打ち込んでレポートを作るんです」
「へー、なんかハイテクって感じだな」
メールを打つのと大差ないと思えば今更な技術かもしれないが、レポートという言葉の響きは何枚もの紙をまとめた冊子をイメージさせるので少し意外だった。ともあれいきなりレポートを書けと言われても書き方がわからない。涼香の手前、素直に巡は頭を下げる。
「奏海、明季葉ちゃん!頼む、どんな風に書くのか見せてくれ!」
「それはいいんでしょうか……?」
「巡、写すのは良くない」
「写さないって!!書き方参考にするだけなら大丈夫……だよね、涼姉?」
「その辺は自由よ。ただし、見るのはあの博士だからもし写したりしたら、一瞬でばれるわよ」
「……涼姉写したことあるの?」
なんとなく実感が籠っている気がしたので巡が思ったことを聞くと、涼香はしまったという顔をした。ため息を一つつき答える。
「一回だけね。期限ぎりぎりになって、友達に写させてもらったら……」
「もらったら?」
「一か月生活費を抜かれたわ。あの時は……なんとか小さな大会で賞金を貰ったけど原則食べ物は素うどんとか味のない保存食とか。死ぬかと思ったわね」
「うわあ」
「おかげであの子にも……」
「あの子?」
「なんでもないわ。忘れて。そんなことよりさっさとやりなさい」
若いポケモントレーナーには旅の食費や最低限の道具の代金は賄える程度の額が支給されることになっている。そしてレポートの内容如何では減らされることもあるしなんなら抜かれることもあるようだ。涼香の声に苦いものが交り、巡はそれが脅しや冗談ではないと察する。
「……そういうことなら。でも、写しちゃダメですよ」
「わかってるって! 明季葉ちゃんも見せてもらってもいい?」
「涼香が言うなら、いい」
「ありがとう二人とも愛してるぜ!」
奏海と明季葉が自分のトレーナーカードを見せてくれる。ずらりと書かれた文字はすごく真面目な文章で巡にとっては見ているだけで頭が痛くなるモノだった。読み返しても目が滑る。内容が頭に入らない。それでも見せてもらう手前すぐに投げ出すわけにもいかず、自分のトレーナーカードに文字を打ち込んでいく。それでも何か自分で書いている気がしなくて書いては消して。また書いて。そんな悪戦苦闘を奏海や明季葉のアドバイスを受けながら繰り返す。
「奏海は見つけたポケモンの特徴とかがメインで……明季葉ちゃんは町や人の話が多いな」
「時代が進んで図鑑所有者のポケモンの生態調査は形骸化したとはいえ、やはり本分のようなものですから」
「四葉は、人とのふれあいが大事だった言ってたし……涼香も、書きやすいように書くのが一番だって」
そう言われて、自分にとって書きやすい話を思い浮かべる。やはりここ数日で体験したポケモンバトルについて書くのがいいだろうと思い。勝敗の数、そして覚えた技や作戦、相手の強かった攻撃などを書いていった。
……のだが、巡は机に向かって勉強するのがかなり苦手なタイプである。一時間も経たないうちに限界になり、トレーナーカードの電源を切ってしまう。
「あっ! 巡兄さま、まだ最低限の半分も書いてないのにいけません!」
「だー! 疲れた! なんなんだよ最低二千文字って多すぎるだろしかも書き方面倒くさいし!」
「レポートは博士に見てもらうんだから普通に手紙を書くのとは違う……って教わった」
「はい。でもそんなに難しくないですよ。末尾や一部の言葉を畏まった感じにするだけで出来ます」
「普段から丁寧口調のお前に言われても納得できないぜ! ちょっと休憩!」
「……巡。現実逃避しても提出期限は変わらない」
「ちゃんとやらないと旅をする費用がもらえなくなってしまいます。さあ巡兄さま」
明季葉と奏海がじりじりと巡を追い詰めるようににじり寄る。巡は目線を泳がせ、岩の上に立膝で座る涼香を見る。しかし彼女はこっちを見ていないし助けを求めても逆効果だ。その涼香の視線の先を見ると、川の向こう、たくさんの木に隠れた何かの気配を感じた……気がした。
「あっ! 向こうに人影が!」
「こんな水辺にヒトカゲがいるわけありません」
「ホントだって! アキちゃん無言で針出さないで!?」
「……気づくのが遅いわよ」
なおも追及を受ける巡に対し涼香が岩場から飛び降りる。足場も小さな石畳のようになっていて不安定なせいか少しふらついたが、倒れるようなことはなかった。川の向こうへと明確に話しかける。
「さっきから……用があるなら出てきなさい。でないと、こっちから仕掛けるわよ」
「ガルゥ!!」
傍らで野生のコイキングを食べていたヘルガーが涼香の言葉に反応し炎を蓄える。その威力はここらの野生のポケモンなら群れで来ようがまとめて焼き払えるほどだ。木の多い場所で本当に火を放ちはしないだろうがそれでも刺すような威圧感があるのが巡達にもわかるほどだった。
「本当に人がいるんですか!?」
「十五分くらい前ね。……私がいなかったら隙だらけだったわよ」
「そんなに前から!? もしかして、俺たちの荷物を狙ったどろぼうとか……!」
巡がすぐに手持ちのアリゲイツを出して一緒に川の向こうを凝視する。涼香から旅のトレーナーから金品を奪う盗人の話は聞いていたが、実際に遭遇というか、それらしき人と対面するのは初めてだ。思わず唾を飲み、いつでも攻撃できるようにアリゲイツに指示を出す。
「むしろ待ちくたびれたよ。いつになったら全員気付くのかって!」
木々の中から、一点の曇りもない空から刺す太陽のように明るい少年の声がした。そして出てきた者の姿は……異様だった。あまり高くない背丈にさして特徴のない白シャツと黒ズボン。そしてその上の頭部は……とぐろを巻く蛇、あるいはコーンの上のソフトクリームのようにぐるぐると茶色と白の縞模様、そして頂点に真ん丸の目と獣耳が二つ。明らかに人間の顔ではなかった。
「う、うわあああああっ! 化け物!?」
「キメラ!? それともジャバウォックですか!?」
男二人が悲鳴を上げる。それを聞いた目の前の異様な人物は腹を抱えておかしそうにした後喋った。
「あははははっ! キメラってなんだよそこまでビックリしなくてもいいのに。ダチ、降りていいぞ!」
「オオッ!」
包帯をほどくかのようにしゅるしゅると音を立てて頭部のとぐろが解けていく。そこにはちゃんとふつうの人間の顔があった。真っ白な短い髪、小顔だが気が強そうな少年だ。巻き付いていたそれは地面へ着地すると二本の足で立つ。白茶の毛並みにやたら細長い動物の身体。背丈はここにいる人間の誰よりも大きく二メートル近くあるだろう。そんなポケモンが肩に乗って巻き付いていたということだ。奏海が図鑑で照会する。
「どうながポケモンのオオタチ……実際に見ると本当に長いですね」
「歩いてたらなんか大所帯でわいわいやってるのが見えたからーちっと観察してみようかなって思っただけ! どろぼうとか言われたけどそんな気は特にないよ。なーダチ」
「オオッ」
見ていた理由を説明した後、少年はオオタチに屈託のない笑顔を浮かべる。巡はひとまず安心した。
「じゃあよかった……この辺を歩いてるってことは、俺たちと同じポケモントレーナー?」
「同じじゃないよ。俺は旅を始めたばっかりのあんた達よりもずっと先輩! いや、正確にはOBかな? まあどっちでもいいけどー」
「僕達が旅を始めたばかりだと知ってるんですか?」
奏海の質問に、少年が一瞬目を逸らした。その後首を振る。
「知ってたって言うか、俺がじっーと見つめてるのに全然気づかずお喋りしてたら誰でもわかるよ。あ、そういえばお姉さんは例外だったね」
「で? あんたは何か用でもあるの? 一応こっちも暇じゃないんだけど」
「涼姉、俺のレポートが大事なのはわかるけどそんな風に言わなくても……」
涼香が露骨に警戒心を剥きだして聞く。今まで巡が見た限り涼香は人に好意的に振る舞うことはなかった。とはいえ、こうつっけんどんな態度を取ることはなかったので珍しいと思う。しかし少年は怯む様子もなく肩を竦める。
「用も何も! 見かけたトレーナー相手にやることなんて決まってるじゃん。姉ちゃんわかってて言ってるでしょー?」
「……なら、私が相手になるわ」
涼香が巡達を庇うように前に出る。ヘルガーも既に傍らで前足に力を籠め、いつでも飛び掛かる体勢を取っていた。
「姉ちゃんさあ、そんなに構えるなって。俺はただ後輩トレーナーとポケモンバトルがしたいだけ! そっちの巡と奏海と明季葉だっけ? 誰か俺と勝負してみない?」
「名前……知ってるの?」
「会話が聞こえたからね。ついでに自己紹介しとくと俺は千屠! 千円の千に屠殺の屠って字を書くんだ、かっこいいだろ!」
「屠殺って……家畜とかを殺すことですよね」
あまり人の名前につけるには相応しくないと思うしそれをかっこいいと笑顔で言うのも不思議だが、千屠という少年からは一切の嘘を感じない。変わった少年の言動に戸惑っていると、千屠は口先を尖らせる。
「誰も手を上げないなんて遠慮の塊だなー。じゃあ三対一でもいいよ! それでも初心者相手に負ける気しないし。なーダチ」
「オオンッ」
「三対一!? 涼姉、この人って……」
「あれあれー? 見られてるのにも気づかなかった上、引率のお姉さんに聞かなきゃ勝負も出来ないの? 仮にもトレーナーの癖になっさけないなあ」
「オオッ!!」
あからさまな挑発をする少年とオオタチ。巡はむっとして言い返す。
「そんなことない、ポケモンバトルなら一対一でだって受けてやる! なあクロイト!」
アリゲイツも大顎を開いて威嚇する。奏海と明季葉もそれぞれフォッコとモココをボールから出した。
「巡兄さま、僕達も加勢します」
「いい、俺一人で――」
「明らかに安い挑発……相手が三対一でいいって言ってるんだから遠慮はいらない」
「あはっ、やっとその気になってくれた? 一対一でも勝負でもよかったけど、それだと一瞬で終わっちゃいそうだからさー涼香姉ちゃんも文句ないよね?」
「妙なことしたら即座に手を出すわよ」
「しつこいなもう。いるいる、自分が平気で人を裏切るからって疑り深い奴ー」
「……ッ」
涼香が硬直し、辛そうに少年から目を逸らす。何故そうなったのかはわからない。でも、笑顔を浮かべる少年の態度はわざと涼香が傷つくように言っているとしか思えなかった。オオタチが、助走をつけ飛び跳ねると小川を飛び越え巡達の近くまでくる。
「あれー? 気に触っちゃった? そんな風に目を逸らしたって何も変わらないのに」
「おいっ! 今戦いたい相手は俺たちなんだろ! クロイト、『水鉄砲』!」
アリゲイツの口から吐き出された水が千屠に向かう。だが彼の首に巻き付いていたオオタチが前に出て水を受け止めた。ケロッとした顔の後体を震わせて水を弾く。千屠の顔にしぶきが飛んだが巡の言葉も合わせて蛙の面に水だ。
「よし、じゃあやろっか! 言っとくけど、その程度水浴び程度にしかならないから――勝つ気があるなら、もうちょっとはマシな攻撃をしてみてよね! 俺の大太刀は、強いよ!」
「涼姉にいきなりあんなこと言うお前には負けたくない! 奏海、明季葉ちゃん!絶対勝とうぜ!」
アリゲイツ、フォッコ、モココが千屠のオオタチと対峙する。抜き打ちの勝負が、始まった。