初めてのファン?
ジェムの朝は早い。自然に彼女が目を覚ますと時計は朝6時半を示していた。ダイバはまだ眠っているようだ。自分の家のそれよりもふかふかのベッドから出る。
「おはよう、ラティ」
ボールの中でまだ寝ているラティアスに声をかける。起こすことはしない。自分のポケナビを見るとそこには、大量の着信履歴が残っていた。ジェムの母親からだ。
「あ……そうだ。夜に電話するって約束してたんだ……」
電話をかけてこないジェムを思ってのことだろう。母親はジェムのことになると心配性なところがあるため、不安にさせてしまったはずだ。すぐにメールを打ち、自分の無事を知らせる。
「後で電話してごめんなさいって言わないと」
そう言いながら服を着替えて、モンスターボールを腰につける。朝起きたら目を覚ますために軽く散歩をするのが日課になっていた。ホテルから出て、ゆっくりとバトルフロンティアの町を歩く。さすがにこの時間は人通りもほぼなく、ジェムにバトルを挑んでくる者はいなかった。
「今日はどの施設に挑戦しようかな?」
近くには天まで伸びる塔や、ピラミッドのような形をした施設がある。それらでのバトルに思いを馳せながら歩いていると、前の方から歩いて来た女の子に声をかけられた。
「あの……あなた、ジェム・クオールさんなのです?」
「うん、そうよ。……私とバトルするの?」
声をかけてきた少女はジェムより少し背が高く、ピンク色の長いくせっけを無理やりツインテールにしている。ドラコの立派なマントとは違った、ぼろきれのような茶色い布を纏っていて服装はよくわからない。少女は警戒するジェムに対して慌てて手を前に出して振った。。
「いえいえ、とんでもないのですよ。……昨日のあなたのポケモンバトル、見させてもらいました。素晴らしかったのです」
「え?その……ありがとう」
施設内のポケモンバトルの様子がいたるところで映し出されているのは知っているが、見知らぬ人にバトルを褒められれば面喰いながらも照れてしまう。
「一日で二人ものブレーンに挑戦し、一人には勝利。……わたし、あなたのファンになっちゃったのです」
「ファ……ファン。ありがとう……」
むず痒い言葉だ。だけどチャンピオンの父を持つジェムにとっては、父のように誰かに憧れられることに憧れていた部分もある。照れくささに顔を赤らめるジェム。
「よければゆっくり、お話しさせていただきたいのですよ。構いませんか?」
「うん。いいわよ。ファンは大切にしないといけないってお父様も言ってたし」
「ふふ、ありがとうございますですよ」
ジェムの返事を聞いた少女は、瞳孔を見せない細い目で柔らかく微笑んだ。丁度近くにベンチがあったので、2人で並んでそこに座る。
「申しおくれましたね。まずは自己紹介をさせてもらうのです。私の名前はアルカ・ロイドというのですよ」
「アルカさん……か。あなたもポケモントレーナーなの?ここにはやっぱり挑戦しに?」
「トレーナーではありますけど、挑戦はしないつもりなのです。あなたのようなきれ……強い人を見るためにやってきたので」
何か言いかけるアルカ。ジェムは首を傾げた。ごまかすようにアルカはマントの下から水筒を取り出す。
「そうだ。わたし、ポケモンと一緒にお茶を作るのが趣味なのです。良かったら飲んでもらえませんか?」
「ポケモンのお茶?面白そう!」
「手前味噌ですが、お茶には自信があるのですよ〜」
そう言ってアルカはコップにお茶を注ぎ、そして安全を証明するように自らも直接飲んで見せる。お茶の見た目は濃い緑色をしていた。受け取ったジェムは、疑うことなく口をつける。
「……おいしい!こんなにおいしいお茶、始めて飲んだかも」
「それは良かったのです」
お茶の味は濃い色からは予想できないほどすっきりした甘さと苦みがあった。ジェムは苦いのは苦手だったが、こんな苦みなら美味しいと思えた。
「ねえねえ、あなたはどんなポケモンを持ってるの?」
「そうですね、実際にお見せしましょうか。出てきてくださいですよ、ティオ、ペンテス」
アルカはボールを二つ取り出し、ポケモンを出す。マスキッパとウツボットだ。
「こっちのマスキッパがティオ、ウツボットがペンテスなのですよ。ほら二人とも、ご挨拶なのです」
「ウツ……」
「キパー?」
ウツボットの方は大人しそうで、静かに身をかがめた。マスキッパは命令をあまり理解していないのか、間の抜けたような声で頭を下げる勢いでそのままアルカに頭で噛みつこうとした。突然のことに驚くジェム。アルカは平然と、噛みつきを手で払う。
「もう、出てくるたびに噛みついたらダメって言ってるのですよ」
「び、びっくりした……」
「ごめんなさい、こういう子で。でも可愛いし、お茶も作れるのですよ?」
「そうなんだ……あ、なんだかいい香り」
ジェムの鼻孔を甘い香りがくすぐる。アルカはウツボットの頭の葉を撫でた。
「甘い香りはペンテスの力なのです。さて、そろそろあなたのお話を聞かせてほしいですよ」
「えっと、何を話せばいいかな……」
初めての経験に戸惑うジェム。昨日のバトルを見ていたなら手持ちのポケモンについては知っているだろう。そんなジェムに、アルカは自分から質問する。
「そうですね、あなたは聞けばチャンピオンの娘だとか。やっぱりバトルは、彼に教えてもらったんですか?」
「うーん……直接お父様に教わったことはあんまりないかな。忙しい人だから」
答えるジェムの声は、憧れと寂しさが混ざっていた。チャンピオンの仕事は何も挑戦者を待つだけではない。何かポケモンによる事件があれば解決に当たるし興行として町に出向くこともある。それはホウエンだけでなく、別の地方に行くこともあり一か月以上家に帰ってこないことも珍しくない。
「でもね、お父様のことはお母様やジャックさん……私のバトルの師匠が教えてくれるし、たまに帰ってきたときは一杯遊んだり相手をしてくれるから淋しくないわ。本当よ?」
「……そうですか。羨ましいのです」
「羨ましい……?」
「わたし、お父さんとお母さんの顔を知らないのです。どういう人だったのかもわかりません。物心ついた時には、一人でしたから」
アルカは淡々と言う。羨ましいと言っているものの、特段の感情はこもっていないように聞こえた。何も知らない分、気持ちの込めようがないのかもしれない。ジェムはそれを悲しいことだと思った。ダイバとは違った意味で、彼女は親子の愛情を知らないのだから。
「おっと、余計なことを話してしまいました。チャンピオンは今ので優しそうな人ってわかりましたけど、お母さんはどんな人なのです?」
「お母様はお父様と違ってちょっと偏屈なの。落ち込みやすくて不器用で心配性なところがあるけど……でも、優しいお母様よ」
「仲が良いんですね」
「あの……あなたには、誰か家族の様な人はいないの?」
聞くべきかは躊躇われるところでもあったがやはり気になってしまった。アルカはため息をつく。やはり聞くべきではなかったかと思ったが、割とすらすらと答えた。
「一応、拾ってくれた人はいるのですよ。そのことには感謝してますけど、これがまあ困った人でして」
「そ、そうなんだ……でも、嫌いじゃないんだよね?」
アルカの言い方は辟易こそすれ、愛想を尽かしているように聞こえなかった。アルカも肯定する
「まあそうですね。恩義はありますし、協力はしてあげてもいいと思っています。ところでジェムさん。もう一つ質問してもいいですか?」
「どうしたの改まって。もちろんいいわよ?」
「そうですか……では」
アルカはジェムを細めた目で見つめる。そして一言、蠱惑的に呟いた。
「身体が痺れませんか?」
ジェムは一瞬、質問の意味がわからなかった。アルカは立ち上がり、ジェムの正面で前かがみになって鼻先が触れるほど近づける。驚いてジェムが身を避けようとすると――その体が、動かない。蛇に睨まれた蛙のように。そして持っていた水筒のコップを取り落してしまう。
「あ、あれ……」
「ちゃんと効いているみたいですね。良かったのです」
恍惚としたアルカの吐息がジェムにかかる。さっき飲んだお茶の香りを強くしたような、甘ったるい匂い。それを嗅ぐと意識がぼんやりとする。
「そのお茶にはわたしのポケモンのしびれごなとねむりごなが入っています。一口でも口をつければ、このようになるのですよ。私以外はね」
「なん、で?」
ジェムの頭に浮かんだのはこんなものを飲まされた怒りではなく、疑問だった。それを聞いたアルカは心底愉快そうな、愛おしそうな笑みを浮かべた。ただしその愛は、今までジェムが受けたことのあるものとは明確に違っていた。それは例えるなら、小さな雄の蜘蛛を見る雌の蜘蛛のようだった。
「昨日あんな目に合ったのにまだ気づかないのですか?鈍いですねえ……でも、そんなところも可愛いです」
「……!」
そこまで言われて、ジェムはある可能性、いや真実に気がつく。だけど体が、口が、麻酔でも受けたように動かない。まだ起きてから30分もたっていないのに、徹夜した時のように瞼が重かった。
「まあそろそろ喋れないでしょうし、続きはもっと落ち着いて話せるところにしましょうか。でないと、アマノもうるさいですしね」
「……」
アルカが彼の名を呟いた時、既にジェムの意識は闇に堕ちていた。マスキッパの蔦がやんわりとジェムの体に巻き付き抱える。ついでに腰につけているモンスターボールを一つだけ残して取っておいた。
「さあ、もう一度来てもらいましょう。わたし達の住処へ。だけど安心してください。わたしがいる以上、あなたをあの男の趣味には付き合わせないのです」
意味深に呟いて、アルカは自分とアマノの隠れ家まで戻っていった。
「……あれ、いない」
ダイバの朝はジェムに比べると遅い。彼が目を覚ました時、時計は朝8時を示していた。そして隣のベッドにジェムがいない。ベッドに触ると、そこに熱は残っていなかった。つまり、ベッドから出てそれなりに時間は立っていることになる。なのに戻ってきていないのは不自然だと思った。
「……面倒くさいな」
勝手な行動をするジェムにため息をつく。それでも放っておけないのはやはり執着からか。ダイバはのそのそとパジャマから着替え、そして外へ出ていった。彼女を探すために。
ジェムが目を覚ますと、ベッドに横たえられていた。もう日は登り切ったのか、日差しが部屋を照らしている。
(あれ、私……?)
散歩に出たつもりだったけど、寝てしまったのだろうか。記憶をたどり、思い出す。そうだ、自分は確かに部屋を出た。そして自分のファンだと名乗る少女に出会い……
(あの子は、どこに?)
そもそもいったいここはどこなのか、自分にあのお茶を飲ませた彼女は今何をしているのか。『眠り粉』と『痺れ粉』の効果は大分薄れたのか、少し頭に寝起き特有の痺れはあるものの、体を動かすには問題はない。
「あら、お目覚めですか」
それと同時に、ジェムのファンを名乗った少女――アルカが話しかけてきた。体を起こしたジェムの真正面、椅子に。背後には、マスキッパとウツボットがアルカを守るように立っている。
「……ここはどこ?あなたたちは、私をどうするつもりなの?」
自分の意識が落ちる直前、彼女は自分をアマノの関係者だと言った。故にジェムは、あなたたちと呼ぶ。それを聞いて、アルカはため息をついた。
「無粋ですねえ、今のあなたにはもっと気にすることがあると思うのですよ」
アルカはジェムの体を穴のあくほど凝視する。そして頬に手を当て、顔を赤らめた。恍惚としているといってもいいだろう。
「ああ……やっぱりかわいいのですよ。昨日徹夜して見繕った甲斐がありました」
「……?」
ジェムは自分の体を見る。それはいつものパーカーではなく、人形が着ているような綺麗なゴシックロリータの服だった。サイズもぴったり合わせられている。こんな事態でなければ鏡の前でゆっくり眺めて、着せてくれたことにお礼も言うかもしれないが、生憎そういう状況ではない。むしろ不気味さしか感じない。
「これ、あなたが着せたの……?」
「はい。ついでにすべすべお肌も堪能させていただいたのです」
アルカはジェムと同じ女性である。だがアルカの邪な視線にジェムは身震いした。思わず自分の肩を抱く。
「あら、ドン引きされてしまったのです。……まあそれはそれとして、あなたはどうしたいですか?」
「……このまま何もせず返してくれたら、嬉しいけど」
「お断りするのです」
わざわざ拉致した以上、当然の返答だろう。ジェムは腰につけているモンスターボールに手をかけようとして……自分がボールを一個しか持っていないことに気付いた。
「あなた、私のポケモン達は!?」
「それならここですよ」
アルカは背後に控えるウツボットの頭の葉を見せる。そこには5つのモンスターボールが乗せられていた。ジェムの眉根が釣り上がる。あれは間違いなく自分のものだ。
「……返して」
「返しますよ?あなたがわたしの言うことを聞いてくれると約束すればですが。もし断れば……わかりますよねぇ?」
アルカはウツボットの体を指さした。ウツボットの体の中は溶解液で出来ている。頭の葉からボールを落とせば溶解液の中に落ち、ボールは溶ける――中のポケモンも一緒に。それを想像してしまい、怖気が走る。ジェムの様子を見て、アルカは満足げに微笑んだ。
「安心してください、今のは冗談なのですよ。そのつもりなら、わざわざ一個だけ残すなんて真似はしません」
「だったら、なんで」
「私達はあなたのチャンピオンの娘としての地位と、バトルの実力を買っているのです。……あなたのポケモンを殺してしまったら、意味がないでしょう?」
それにあなたとは仲良くしたいですからね。などといけしゃあしゃあと言う。だから、と続けて。
「バトルしましょう。わたしが勝ったらあなたはわたしに協力する。あなたが勝ったら、ここから出ていって構いませんし、もう二度とこんなことはしないと約束するのです」
「本当に?」
「疑うのなら、わたしをその子で殴り飛ばして出ていけばいいと思うのですよ」
ジェムに残されたたった一個のモンスターボール。その中にいるのはマリルリだった。
「……もし私が負けても協力しないって言ったらどうするの?」
「おや、あなたは約束を反故にするような人なんですか?まあ、それならそれで構いません。むしろ……」
アルカの目つきが鋭くなる。鼠を捕えた、もがくのを抑えつけて楽しむ猫のような目をしている。
「どうしても役に立ってくれないというのなら、あなたは計画には要りません。もっと強力な毒につけて、死してなお朽ちることのない人形として、私のコレクションに加えてあげます。むしろ私個人としてはそうしたいのですがね」
「……!!」
冗談には聞こえなかったし、何よりその言葉には慣れがあった。人間を毒殺して、収集する。ジェムの理解を優に超えたことを、自分とそこまで年が離れていないであろう目の前の少女は平然と行う。そんな人物と相対していることに恐怖感を覚えざるを得ない。
「ルリで、あなたに勝てっていうのね」
「ええ、そういうことですよ?何しろあなたはチャンピオンの愛娘。一方わたしは親の顔すら知らない一般トレーナー。それくらいのハンデはないと勝負になりません」
ただでさえ1対2。マリルリのタイプは水・フェアリー。そして相手は草タイプに、ウツボットに至っては毒タイプまで備える。水は草に弱く、フェアリーは毒に弱い。相性は最悪だ。親のことを引き合いに出したのは、羨望か、嫉妬か。
(……それでも私は、怯まない)
昨日の自分なら怯え、彼女の言うことに恭順にしていたかもしれない。だけど、今は自分の仲間を傷つけるもの、自分の力を悪用しようとするものに抗う覚悟がある。故に、彼女は決意する。
「そのバトル……受けて立つわ。勝つよ、ルリ!」
残されたたった一つのモンスターボールから。マリルリを呼び出す。出てきたマリルリは自分の仲間たちが敵の手に渡っている状況を理解して、アルカ達を睨んだ。
「ああ……楽しみですよ。わたしに負けたあなたがどんな顔をするのか。ご両親のことを随分誇りに思っているみたいですから……自分が過ちを犯すことにさぞ罪悪感を覚えるのでしょうねえ」
「……私は負けない」
「でもその良心も、両親への思いも……すべてわたしの毒で、情で塗りつぶして、わたしのことしか考えられないように塗り替えてあげるのです。さあ、始めましょうか!」
自分には与えられなかった愛情を力で消し去り、我がものにしようとするアルカと、そんな思いを知ってか知らずか恐れてなお臆さず立ち向かうジェム。二人のバトルが今、始まる。
「『蔓の鞭』!」
「ルリ、まだ仕掛けないで『アクアジェット』!」
マスキッパとウツボットの蔦がしなる。それをマリルリは水の噴射で右へ、左へ、反復横飛びのようなフットワークで躱していく。
(まずは、様子を見る……仕掛けるのは、それから!)
ジェムはアルカを睨みつける。伺うのは、相手のポケモンだけではない。アルカの意思だ。
「そのままずっと逃げ続けるつもりです?いつまで続きますかね」
「そんな鞭なんかに、ルリは捕まらないわ!」
「……そう思うならどうぞ。ペンテス、ティオ、そのまま攻撃です!」
やはりアルカはマリルリへの攻撃を続行させる……そのことを確認し、ジェムは指示を出した。
「今だよ!マスキッパに『じゃれつく』!」
「リル!」
一気に直進して躱し、懐に飛び込むマリルリ。両腕が、子供が駄々をこねるようにマスキッパの蔓をすり抜けて体をぽかぽかと叩く。愛らしい見た目とは裏腹にその一発一発の力はすさまじいフェアリータイプならではの攻撃を放つ。
「どう!この一撃で――」
「いやぁ見事なのです。さすがチャンピオンの娘、私の二体をかいくぐったうえでの素晴らしい攻撃。だけど」
マスキッパの体が仰け反るが、マリルリの身体もそれに引っ張られる。叩かれながらもマスキッパは蔓でマリルリの体を絡め取っていたのだ。マリルリの体を叩く力が弱まっていく。マリルリを抱きしめ、『ギガドレイン』で体力を吸い取っているのだ。
「あなたのマリルリが私の草ポケモンを倒すには、特性を生かした一撃しかない……故に、読めていました。後は肉を切らせて骨を断つだけ……まあ、そのダメージも回復出来るのですけどね」
動けないマリルリを、ウツボットも自身の蔦で絡めとって力を吸い取っていく。数秒で、マリルリの体はハエトリソウに捕まった虫のように萎れて、動かなくなった。
「あっけなかったですね。さあ……約束です。私の言うこと、聞いてくれますよね?」
ジェムがバトルに負ければ、アルカの言うことを聞く約束。それを突き付けられて――ジェムの表情は、揺るがない。
「まだ勝負はついてないわ」
「自分のポケモンが殺されなければわかりませんか?」
その声には冗談の色は含まれておらず、少し失望の感情が混じっている。ジェムがポケモンを見殺しにする性質だとは思っていないからだろう。そして負けを認めないならマリルリ一匹くらい殺すことは厭わない、そう言っている。
「違うよ。ルリ、思いっきり『アクアテール』!!」
「ッ!?」
蒼い兎が、勢い良く跳ねた。二体に縛り上げられているところからではなく、アルカの真横から。思わずアルカがその場から飛び退くが、狙いはそちらではない。目の前の獲物を縛り上げていると勘違いしているマスキッパに巨大な水の塊が落ちる。
「キパァァァァ!?」
(いつの間にわたしのポケモンから逃れて!?この部屋に隠れるほどのスペースはない。一体いつからそこに……!)
「ウツボットに、『滝登り』!!」
床に叩きつけられるマスキッパに驚く間に、マリルリはウツボットの下から潜り込み、尾から思い切り地面に水を噴射することで強烈なアッパーを見舞う。ウツボットと、彼女の頭に乗っていたボールが吹き飛んで、ジェムの方に転がってくる。すぐさま掻き集めるように拾い、安堵の笑みを浮かべるジェム。
「皆、お帰り!」
「やられましたね。しかし……」
歯噛みするアルカだがどこか困惑した表情を見せている。今の一連の流れには、解せない部分があった。
「何故私を狙わなかったのです?どうやって姿を消していたかはわかりませんが、マリルリは確かに私の横にいた。その力で私を殴り飛ばすなり、近づいてポケモンを返さなかったら殺すと脅せば良かったのでは?」
「……そうしようかとも思ったよ。だけど」
ジェムはまっすぐアルカを見据える宝石のような瞳は、アルカのことを敵とわかっていても、嫌悪してはいない。
「ルリが攻撃を避ける間、あなたは私を攻撃しようとはしなかったよね。言うことを聞かせたいだけなら、私を狙うそぶりを見せてルリの行動をけん制したほうが確実だったはずだよ。でもあなたはそうしなかった。だから私も、あなたのことは狙わない」
「……変な人ですね。負けたらあなたは悪人の片棒を担がされるんですよ?」
ジェムの真意を伺うアルカ。アルカがジェムの立場なら、相手にどんなことをしてでもここから逃げ出そうとするだろう。
「そうかもしれないけど……私、あなたが本当に悪い人なのかなって思うの」
「意味がわからないのです」
ジェムから遠ざかると共に明確な拒絶。それに構わず、ジェムはこう続けた。
「そもそも悪い人なら。自分たちの目的のためにあのアマノという人にもう一度私をおかしくさせればバトルすらしなくてもいいよね。だから」
希望的観測であるとしても、さっきアルカが自分を玩具の人形を見るような目を向けていたとしても。ジェムは少女と少年を救った人の娘としてこう言いたかった。
「あなたは本当はこんなことなんてしたくないはず……違う?」
アルカは黙った。自分の手を、ポケモン達を見つめてジェムを見ないようにする。自分には、彼女は眩しすぎる。
「アマノっていう人だって、あなたを拾って育ててくれたんだから本当に悪い人じゃないはず。だからもう、こんなことやめよう?私も一緒に、説得するから……」
ジェムはアルカに歩み寄り手を伸ばす。それは恐らく過去に罪を犯し続けたであろう少女への救いの手。
アルカは、その手を見て、笑って、手を伸ばして。否、指を差して。
「――『蔓の鞭』」
平手打ちのような音が響いた。マスキッパの蔓が、ジェムの伸ばした手を叩いた音だった。それははっきりと、アルカにの拒絶と、憤りを現していた。
「あなたに何がわかるんですか。ぬくぬくと両親の元で光を浴びて、綺麗に育てられたあなたに何が!」
笑みが、激昂に切り替わる。ジェムと会話していると、今までは何とも思わなかった自分の過去が惨めに思えて仕方なかった。
「周りにある食べものはナゾノクサの葉っぱやマダツボミの根のような毒草しかない状況に立たされたことはあるのです?物乞いをするたびに変態に体をベタベタ触られる辱めを受けたことは?やっと現れた自分を保護してくれた人が、都合のいい操り人形が欲しかっただけだった時の絶望を感じたことは?そんなこと、どうせ想像したこともないくせに勝手なことを言わないでほしいです!」
「……ッ」
叩かれて真っ赤になる手を抑えながらも、ジェムはアルカから目を反らさない。確かにジェムはそんな状況見たことも聞いたこと考えたこともない。だけど、彼女を切って捨てたくはない。アルカの過去の片鱗を聞いて、強くそう思った。
「もういいです。あなたは私達の駒、それが終われば物言わぬ人形でいいのです!やりなさい、『パワーウィップ』!」
「ルリ、避けて!」
マスキッパとウツボットが、今までより遥かに強く鞭を振るう。躱したマリルリのいた場所に振り下ろされた鞭が床をひび割れさせた。
「そんなの、わからないけど……でも、あなただってやりたくてやったわけじゃ」
「余計なことは言わなくていいです!ペンテス、『リーフブレード』!ティオ『怒りの粉』!」
ウツボットの刃と化した葉がマリルリに迫るが、今度は水の噴射で躱す。アルカの攻撃は単調且つポケモンのレベルで言えばジェムの方が勝っているので、避けるのは難しくなかった。――が、マスキッパが部屋中にまき散らした花粉は避けようがない。マリルリもジェムも、花粉を吸いこんでしまう。
「こほっ……ルリ、大丈夫?」
「――――リルゥ!!」
「ルリ!まだだよ!」
マリルリが、ジェムの指示なしにマスキッパに突撃する。だがそれは、『パワーウィップ』や『リーフブレード』を避けたマリルリではない。カメレオンのように自分の色を溶け込ませていたもう一匹のマリルリが姿を現し、粉を巻くマスキッパに一撃を叩きこむ。
「はっ、なるほど……『みがわり』で自分が存在するように見せかけ、本体は『ほごしょく』で周りに溶け込んで隙が出来たら攻撃ですか。大した戦略なのです――だけどもうタネは割れました!」
瞬時にマリルリに蔓が絡みついていく。今度は『ギガドレイン』程度の攻撃で済ますつもりはない。
「自分のポケモンが息絶える絶望を味わいなさい!ペンテス、『リーフストーム』!!」
ウツボットの最大火力、蔓が超高速の螺旋を描いて、マスキッパごとマリルリに襲い掛かる。味方をも巻き込む一撃を、避けられる道理はない。二体とも吹き飛ばされ、地面を転がる。マリルリの使った身代わりも消え、アルカは相手の戦闘不能を確信した。
「今度こそ決着ですね……約束を聞いてもらうのは勿論ですが。その前にあなたが二度とあんなことを言えないように、苦しみと、辱めを与えてあげるのです」
「……まだだよ」
「しつこいですよ。まさかポケモンを取り返したからその子たちで戦うとでも?」
今のジェムにはマリルリのほかに5体の仲間がいる。彼女たちを出せば、バトルを続けることは可能だろう。だが約束を反故にさせるつもりはない。他のポケモンを出すそぶりをした瞬間、アルカはジェムの体をウツボットの蔓で締め上げ、気絶させるつもりでいた。骨の二、三本は折れるだろうが、それも報いだろうと。
「まだルリは倒れてない。――そうだよね?」
「なっ……!?」
「ルリ、『ハイドロポンプ』!」
マリルリは、立っていた。ウツボットの後ろに、ダメージを受けずに立っていた。予想外の状況に反応が遅れたウツボットに、口からの流水でアルカから離れたところに吹き飛ばす。さっき吹き飛ばされたマスキッパと合わせて、アルカの傍から二匹は離れた。
「私はルリが『怒りの粉』を受けた瞬間、もう一度『身代わり』を使うように指示したんだよ。“まだ”って言ったら直接攻撃はせず身代わりを張るようにね」
「……!ですが、これで使った身代わりの回数は3回。もう体力の限界は近づいているはずです」
周到かつ意表を突く戦略に驚くが『身代わり』はノーコストで使える技ではない。使えば己の体力を消費する。最初に不意をついた時と、もう一度避け始めた時。そして『怒りの粉』を受けた時で3回だ。もう使うことは出来ないはずだ。
「そうだね。もう『身代わり』は使わない。今ので決めれたら……って思ったけど、あなたのポケモン、あなたのために頑張ろうとしてるみたい」
「まだそんな甘いことを……」
ウツボットも、マスキッパも、まだ少しだが体力に余裕はある。戦意も失ってはいない。相手がこれ以上躱す手段がないのなら勝てる。そう思った。
(だけど今……使えない、ではなく使わない、と言った?)
アルカのひっかかりは、現実となる。マリルリの体が、ゴムで吊った水風船のように音をたてはじめる。
「だから、あまり使いたくなかったけどこれで決めるよ。――ルリのフルパワーで!!」
「まさか……『腹太鼓』!?」
その正体は、マリルリが自分で自分の体を叩く音だった。それは、ポケモンの能力を上げる技の中でもトップクラスの効果とリスクを持った技だ。体力を半分失うことで、最大限の攻撃力を得る。
「どこにそんな体力が……」
「『アクアリング』。ここまでいえばわかるよね?」
「その技まで使っていましたか。どこまでも慎重なことです」
攻撃を躱している間も、話している間も、少しずつマリルリは体力を回復していた。故に『腹太鼓』を使うことが出来たのだ。
「行くよルリ!『ばかぢから』!」
「『パワーウィップ』なのです!」
攻撃力を最大まで上げた腕力が、ウツボットに襲い掛かる。蔓がマリルリの体を縛り上げようとしたが、まるで紙鎖でも千切るように引き裂き、ウツボットの体を掴んで――植物の根から引き抜くように持ち上げ、地面に叩きつけた。それだけの動作で、床が陥没した。
「ペンテス!」
「大丈夫、ただ戦闘不能になってるだけ。次はマスキッパに『アクアテール』!」
「……!」
マリルリが飛び上がり、尾に水が溜まって膨らんでいく。その規模は、最初の二倍以上になっていた。
(これが、この子の本気――!?)
為すすべもなくマスキッパは潰され、戦闘不能になる。両方とも、アルカからポケモンが離れていなければアルカを巻き込んでいたであろう範囲の攻撃だ。ジェムはアルカを傷つけないために『ハイドロポンプ』を出した。
「これで私の勝ちだよね。今はこのまま帰るけど……また今度、お話ししたいな」
ジェム声は自分の危機を脱したというのに寂しげだった。自分の言葉でアルカの心を救えなかったことを、怒らせてしまったことを悲しんでいるからだ。
「嘘だったのかもしれないけど、初めてのファンって言ってくれて嬉しかった。女の子の友達が出来るのも初めてだって思ってたの。今はダメでも……友達に、なりたい」
アルカは直観する。ジェムは偽らざる本心で言っていると。それがわかってなお、信じられなくて。彼女を傷つけようと、利用しようとする自分が惨めに思えて。
「だめです。帰しません。友達になんてなりません。あなたはわたしのお人形であればいいんです」
ぴしゃりとした宣言。自分から約束を持ちだしておいてそれを否定するなど、外道の行いだとわかっている。でもムキになる自分を止められない。ジェムを、自分の手から離したくない。自分の腰につけた濃紫のモンスターボールを取り出す。
「わたしの本気を見せてあげるのです……ティオ、テンペス。『ヘドロ爆弾』!」
「まさか、まだ……!?」
「いいえ、この子たちはもう戦えないのですよ。ですが毒を吐き出すことだけは出来ます」
戦闘不能になった二体のポケモンが、その口から穢れた毒を吐き出し、アルカのモンスターボールに集まる。まるで今の自分自身の様だとアルカは心の中で自嘲し、叫ぶ。
「粘りと香りで虫を喰らう二輪の恐ろしき花よ!今その毒を混じり合わせ、新たな劇薬を生み出すのです!さあ出てきなさい――ホグウィード!!」
ホグウィード、と呼ばれたものがモンスターボールから這い出る。その瞬間凄まじい臭気が部屋中を包んだ。出てくる瞬間に猛毒を浴びたそれは、濃紫のヘドロ状の物体で。明確な意思を持っていた。全身がヘドロにしか見えないのに、その中にある二つの目がはっきりとジェムを睨んだのがわかった。
「ベトベトン……!」
「あなたのマリルリの攻撃力は凄いですが、二体の毒で強化したこの子に触ればどんなポケモンも腐り落ちるのです!」
フェアリータイプ且つ物理攻撃を主体とするマリルリにとっては、相性が悪いを通り越した天敵。ジェムの表情が蒼白になり、うっすら涙が浮かぶ。アルカはそれを絶望と取ったが。
「……ごめんなさい」
「今更謝れば、見逃されると思うのですか?」
「そうじゃないの。私、本当にあなたに悪いことしちゃったんだなって」
「いきなり何を……」
「だって、あなたは約束を守ってくれてた。私が余計なことを言わなかったら、こんなに怒らなかったし、約束も守ってくれたよね」
「うるさいです」
「ごめん、でも――もう一言だけ、言わせて」
拒絶するアルカ。でもどうしても、ジェムはアルカを放っておけなかった。会って一日もない、まして自分を騙した相手にこう思えるのかは、わからない。
(お父様、お母様。良くないことだとわかっていてこんなことを言う私を、許してくれますか?)
瞳を閉じて、深呼吸。数秒の後開いた瞳は。誰かを助けたい気持ちと、自分の身が苦境に置かれることを厭わない気持ちが半分ずつになっていた。
「私、あなたに協力する。協力するから……そばにいて、ここを一緒に回って。最初は駒でもいい。私と友達に――」
「――ッ」
ジェムの告白に、アルカが息を呑む。まさか自分から降参してくるとは思わなかったのだろう。答えはすぐには帰ってこない。答えあぐね、固まるアルカ。
それ故に――突如天井をぶち抜いて落ちてくる“鋼”に、反応が遅れた。
「ぶっぱなしちゃえ、レジスチル!!『ラスターカノン』!」
アルカとジェムが上を見上げた時には、もう鈍色の光弾が打ち出されていた。それはベトベトンの猛毒の体など全く意に介さず、その軟体を叩き潰し、ヘドロが飛散する。ジェムの方にも飛んできたが、全て“鋼”そのものというべきポケモンが受け止めた。さっきまで強くジェムを睨んでいたそれから、意識と呼ぶべきものが消えたのがわかった。一瞬、一撃の出来事だった。
「まさか、ダイバ……!?」
「この声は……!」
アルカに心当たりがなく、ジェムのよく知っている声。それは、あの暗くて傲慢な少年の声ではなく。快活なのに、重みのある仙人のような少年の声。
「だめだよ、ジェム。こんな奴らに一瞬でも心を許そうと考えちゃダメ。まあ、その話は後でするとして――君、まだやる?」
背丈で言えば少女のジェムやアルカより小さい子供の姿。だがアルカは一目で彼がただ者ではないことを感じ取った。ふぅ、と息をつきベトベトン他二体をボールに戻す。
「ここは退かせてもらうのです。正直調子が狂って仕方なかったところですから」
「賢明な判断だね。今のところは捕まえるほどのことはしてないし、行っていいよ。僕はこの子に話がある」
「……少しは常識ってものを教えておいてくれると助かるのです」
そう言うとアルカは、ボールからクロバットを呼び出し壊れた天井から飛び去っていった。ジェムとは、意図的に目線を合わせず何も言わなかった。
それを呆気にとられて見ていた後、ジェムは少年の名を呼ぶ。
「ジャック、さん。助けに、来てくれたの?」
「そんなところだね」
ジャックはジェムの師匠であり、昔から面倒を見てくれた人だ。その人がジェムを助けに来てくれたのは嬉しい。でも素直に喜べなかったのは、アルカとちゃんと話せずに終わってしまったからだ。その様子を見て、ジャックは深くため息をついた。
「はあ……あのねジェム。君、今自分がどんな無茶をしたかわかってる?」
「わかってる、つもり……」
自分からあの二人に協力を申し出るなど、危険な行為であることはわかっている。だがジャックが言いたいのはそういうことではなかった。
「あのアルカっていう子は、確かにそんなに悪い子じゃないかもしれない。でも、もう一人の方は本当に危険なのはわかっているだろう?」
「でも、あの子を説得して、2人で話せば――」
「そうなる前に、君がもう一人の方に催眠術をかけられておしまいだよ。何せ彼らの言うことを聞くこと自体は自分から了承してるんだ。あっという間に操り人形になるだろうね。そうなったらあのアルカって子も救われないよ」
突き刺すようなジャックの言葉。う……と言葉に詰まるジェム。
「まったく、君は考えてるようで考えなしなんだから……なまじ母親の頭の良さと危うさを持ち合わせてるだけに不安になるよ。その癖父親のお人よしは完全に遺伝してるし」
「……ごめんなさい」
考えが足りなかったことを認め、謝るジェム。やれやれとジャックは好々爺のような笑みを浮かべて、ジェムの頭を撫でた。
「でも、そんなところも君の美徳だ。今度からは間違ってもあの人たちの言うことを聞いちゃダメだよ?自分で会いに行こうともしちゃダメ。会ったときも、出来るだけ警戒すること」
「……うん、約束する」
「いい子だ」
アルカへの思いはあるが、迂闊な接触は逆効果だと今教えられたばかりでは頷くほかなかった。うんうんと頷くジャック。すると、ジェムを守った鋼のポケモンが低い金属音を響かせた。
「はいはい、そろそろ戻らないと緑眼の子が怒ってしまうね」
「緑眼の子……?それに、そのポケモンは?」
聞き慣れない単語に、図鑑でも見たことのないポケモン。ジェムが疑問符を浮かべると、ジャックは説明してくれた。
「ああ、このバトルフロンティアの支配者のことだよ。今僕はここのブレーンの一人をやってるからね。この子は僕が使うポケモンの一体」
「え!?」
初耳だった。ここにいるのは、てっきり自分をフロンティアに送ったついでに滞在しているものとばかり思っていたのだ。ジャックは鋼のポケモンを指さす。そして告げた。
「名前はレジスチル。伝説のポケモンで――20年前、君の父親がやっとの思いで倒したポケモンさ」
「お父様が……!」
「だから、期待してるよ。彼の生み出した宝石は、この伝説にどう挑むのかってね」
ジャックの体が、淡い青色に包まれてふわりと浮き上がる。何らかのエスパーポケモンの力を使っているのだろう。
「僕は『バトルピラミッド』の天辺にいる。待っているよ――」
そう言い残し、ジャックは『テレポート』で消えた。恐らくはバトルピラミッドに戻ったのだろう。ジェムの行き先も決まった。
「まずはダイバに連絡して……それから、バトルピラミッド!」