33話 1i-盲信のタウミカル
まるで時間が止まったかのような錯覚だ。赤黒い飛沫は翔の足元まで広がり、ノーネームの胸を貫いた黒い腕からは静かに血が垂れ落ちる。
その場にいる全員が言葉を失った。確認するまでもなく分かる、即死だ。ノーネームは糸の切れた人形のようにだらりと腕や首を下げ、扉から伸びた腕だけに支えられている。
止まった針を動かしたのはその扉に潜む他の黒い影だった。残る九本の腕は扉の奥から飛び出すと、どこか遠くの闇夜に溶けて初めから何もなかったかのように消失した。ノーネームの死が原因か、ホットスポットの干渉も無くなり翔の心にようやく平静が訪れる。平静? 今の状況を見て平静なはずがない。能力の干渉が無くなったが、それまで以上に翔は困惑を通り越しパニックになっていた。
何をどうすればいいのかわからない。目の前の現実を受け入れることも出来ない。人が死んだショックだけでなく、今まで立ち込めていた不安や恐怖、憤りの行き場を失って、頭がショートする。
後ろでこの惨劇を見ていた恭介、亮太、美咲の三人も、それぞれ内に抱えたものは異なるものの目の前の死という現実を咀嚼出来ずにいた。
ようやく死、というものを認識した翔が身動きをしようとしたその途端、視界の端でノーネームが動いた。
「な、何だ……」
厳密にはノーネームではなく、ノーネームを貫いた腕が動いた。貫いた体から腕を引き抜き、そしてノーネームの遺体から何かを掴んで持ち上げる。引き抜かれたノーネームの遺体は音を立ててその場に崩れる。一瞬は見間違いと思ったが、はっきりとノーネームの体から「新たなノーネームの体」が引き抜かれたのだ。新たなノーネームの体の左胸と例の黒い腕は同化しており、体の左半分と顔のほとんどは薄紫色。髪は色素が落ち、左肩の辺りから鳥とは違って質感の重い黒い羽のようなものが生えている。そして黒と白が反転した目が開くと、それは翔を視界に捉えた。
目が合った。乳白色の瞳に自分の姿がどう映っているのかは分からない。その奇妙さや不気味さが翔の身を包み込む。心臓が鷲掴みされた気分だ。鼓動が早くなって胸が締め付けられる。街の音がすべて消え、自分で吐き出した荒い吐息だけが鼓膜を震わせる。全身から噴き出した汗がシャツに貼りつき、不快感と苦しさで今にも倒れ込んでしまいたい。それでもセメントのように固まった脚は微動だにせず、どうすることもできない。
「
現魄の門ヲとらっしゅシ、手札マタハ山札カラすたじあむ『
幻核の門』ヲぷれい」
「まさか……、続きをやるっていうのか」
ノーネームの遺体の近くに散らばっていた手札が地上数メートル程の高さで浮く新たなノーネームの眼前で、浮かんだまま制止する。たかが物理現象程度なぞ、既に超越したとでも言って見せるのか。
「サラニ、手札山札とらっしゅから『クリファンタズム』一枚ヲ選ビ、自分ノ場ノぽけもんを全テとらっしゅスルコトデばとる場ニ出ス。じらーちヲとらっしゅ」
悪寒は収まることなく、むしろ大きな波となって絶えず押し寄せてくる。ノーネームは自身の左胸、いや、黒い腕と一体化した心臓から真っ黒なカードを引き抜いた。そしてバトル場のジラーチが砂となって崩れ去ると、地震のような揺れと共に大地から巨大な球体が現れ、宙に浮かぶ。ざっと見積もって半径は四メートル超の、乳白色ののっぺりとした球体だ。ただ、それだけだ。
「我ガ身ニ降リシ孤独ナ気流ヨ。我ガ血肉トナリテ鎖ヲ解キ放テ! 降誕セヨ、『クリファンタズム』ノタネぽけもん。盲信ノ『タウミカル』!」
巨大な球体に亀裂が二か所現れる。翔から見て右側の亀裂からは大きな鳥の羽が現れ、反対側からは筋肉質な獣の腕が現れる。まるで卵の「殻」からおぞましい何かが生まれ出ようとしている。さらに地面に落ちた殻の破片が大きな気流を生み、竜巻を生成する。乳白色に濁った竜巻は、タウミカルを守る壁のように包み込んでいる。
「ソノ後、互イニかーどヲ一枚どろー」
「な、なんなんだアレは」
どう考えてもポケモンでもなんでもない。それよりももっとおぞましい何か。この感情をうまく処理することができないが、生理的にアレを生物として認識することを拒絶している。見えている箇所が二か所しかないにも関わらず、非対称。まるでキマイラのように噛み合わない体のパーツと、見えない頭部。いや、そもそもアレに頭部が存在するのか分からない。オブジェのようなアンバランスさが、暗に生命とは一線を引いていることを証左している。
ここまでくるともはや夢と現の境目が曖昧になる。そう思うと少し楽になって、全身の筋肉が少しずつ弛緩し、自由が戻ってくる。夜の涼し気な風が余分な体の熱をどこかへ運び、荒れた息もようやっと落ち着きを取り戻す。まだ十分な握力を入れられない右手を握りしめ、眼前の怪異を睨んだ。
夢なら醒めて欲しいところだが、そうも言っていられない。悪夢よりもタチの悪い現実の出口は、自分の手で掴み取る他無い。そしてそれを成すことが出来るのは、自分しかいない。その責任感が体を動かす気力になる。
「ば、バケモンだ……」
恭介が震えた声音で言い漏らす。それが意味のない儚い言葉だとしても、そうでもしなければこの違和感に飲み込まれ潰されてしまうと思った。顔を蒼くして尻もちをついた恭介からすれば、まだ屹然と立つ翔が分からないでいた。バケモノに対峙する翔も、恭介からすれば一般人の枠の向こう側の人間だ。しかし、それは畏怖ではなく心からの感謝だった。今そこにいるのが自分ではなくて良かった、そう安堵せざるを得ない。
気を失った美咲と、唖然としてピクリとも動かない亮太を両肩で支えることが、今の恭介に出来るすべてだった。
ノーネームは腕に貫かれる前、生きて帰さないと言っていた。目の前に浮いているノーネームが同じ生き物であるか、またはその意思を受け継いでいるのかは分からないが、ただ確実に分かることは二つ。
まず目の前のタウミカルと呼ばれた不気味な物体はホログラムではなく、完全な実体だ。そしてここからは本当に生きて帰れる保証は無い。そのくらいあの化け物は高いエネルギーを持つ何かである。決して証拠がある訳じゃないが、第六感がそうだと囁く。
「手札ノ『ダブル無色エネルギー』ヲせっと。ばとる。アイドラロック」
バクフーン80/150の足元から風が巻き起こり、その体が持ち上がる。その巻き添えを食らい、翔はニ、三歩よろめいた。その束の間、タウミカルは片腕でバクフーンの首根っこを掴んでその首を絞める。
「アイドラロックノえふぇくと。相手山札ノ一番上ヲとらっしゅ。ソレガぽけもん以外ナラ、相手ハ次ノたーん、同ジ種類ノかーどヲ使エナイ」
翔がトラッシュしたのはオダマキ博士の観察。つまり、次の番翔はトレーナーのカードを一切使えない。
「……『
幻核の門』ガ場ニアル限リ、互イニ手札ノタネぽけもんヲべんちニ出スコトハデキナイ」
翔はカードを引く。引いたカードはバシャーモソウルリンク。
幻核の門によってたねポケモンを封じられ、アイドラロックによってトレーナーも出せない。となると、エネルギーをつけること、進化をさせることのどちらかしかできない。今翔の手札にはメガバシャーモEXはある。しかしメガシンカを行うと、ルール上その時点で翔の番は終了する。
目の前の化け物、クリファンタズム・タウミカルのHPは210。ここで無理にメガシンカをするより、今は攻撃をして少しでもHPを削るべきだ。HPがある以上、ポケモンカードで倒すことができるはず。
細かいことを考えるな。今は立ち止まるな。目の前のことだけに集中しろ。ホットスポットが無くなってようやく心はクリアになって、ようやく何かを考える余裕が出てきた。しかしこんなもの、考えてどうにかなる相手じゃない。まずは当たってそれからだ!
「手札の炎エネルギーをバシャーモEXにつける。そしてバクフーンで攻撃、大噴火!」
攻撃宣言と同時、タウミカルは首を絞めつけていたバクフーンを放り投げた。なんとか立ち上がったバクフーンは身体中の熱を背に貯めると、一気にその力を放出する。
「大噴火は俺の山札を上から五枚トラッシュし、その中のエネルギー一枚につき80ダメージを与える。……トラッシュしたエネルギーは二枚! よって160ダメージを受けてもらう」
バクフーンの背から噴き上がった火山弾がタウミカルに向け噴射される。が、タウミカルの周囲で渦巻いていた気流がそれを阻む壁となり、威力を殺す。
「な、なんだ!?」
「タウミカルノ特性『気流の殻』ノえふぇくと。100以上ノだめーじヲ受ケル時、手札ヲ二枚とらっしゅシナケレバナラナイ。手札ノ超えねるぎート、『
核拌機』ヲとらっしゅ。ソシテ受ケルだめーじヲ90減ラス」
「おいおい、冗談じゃねえぞ……」
タウミカル140/210の受けるダメージは80×2−90=70ダメージ。つまり次の番にタウミカルを倒すためには、140+90=230ダメージを叩きださねばならない。ノーネームの手札はまだ四枚。次の番も、再び気流の殻を使われるだろう。しかし翔の残されたポケモンでは一度に230ダメージを叩きだす術はもう残されていない。90以下のダメージであれば攻撃は通るが、高火力に寄せた俺のデッキでは調整するのが難しい。バクフーンの大噴火で運よく当たりを引く以外、どうしても二回以上は攻撃しないと倒せない!
歯を食いしばる翔を宙から覗き込むノーネームは、再び左胸に手を当てて心臓から真っ黒なカードを引き抜く。
「タウミカルニ超えねるぎーヲせっと。ぐっず『げんきのかけら』デとらっしゅノじらーち(70/70)ヲべんちニ出ス。……ぐっず『
Mari.S Fake Force Fool』起動。じらーちヲ気絶。ソシテコノかーどヲとらっしゅ」
「き、気絶? 俺はジラーチが気絶したことでサイドを一枚引く」
ノーネームが今使ったのは、この番の初めに引き当てた真っ黒なカード。何の意図かは分からないが、気絶で扱いであるならサイドを引くことが出来る。これで翔のサイドは残り一枚。ただ、どちらにせよあのタウミカルを倒さなければならないということに変わりはない。
「攻撃。クレデュリティ」
「さっきとは違うワザかよ!」
今度は腕の反対にある翼がはためき、真空の刃がバクフーン0/150を襲う。
「うおおおっ!」
攻撃の跡となった地面は抉れ、砂煙が舞い上がる。飛散した砂利が翔の顔や服を掠め、吸い込んだ粉塵を吐き出すために咳込んだ。ノーネームはその様子を見つつも何も言わず、サイドを一枚引く。
タウミカルの攻撃を凌いだ後、翔のデッキポケットのスクリーン画面に新しい通知が表示される。今の攻撃で、タウミカルのデータの取得が完了したようだ。クリファンタズムのたねポケモン、タウミカル。最大HPは210の無色タイプ。特性の気流の殻は、手札コストを強要する代わりに硬い防御を誇る。そして威力70、無色エネルギー二枚を要し、こちらの行動を封じるワザ、アイドラロック。最後に無色エネルギー三枚を要するクレデュリティ。クレデュリティは基礎威力20と、手札の数×30のダメージ。つまり、さっきの攻撃時点でノーネームの手札は二枚だったことから、バクフーンが受けた威力は20+30×2=80ダメージ。
さらにクリファンタズムの共通効果として、まず一つこのカードは逃げることが出来ないこと。そしてもう一つ、このカードはベンチに出せず、自分のバトル場、ベンチのポケモンを全てトラッシュしてバトル場に出す。この二つの効果は現状関係ないため、頭の外に置いておく。重要なのは気流の殻とクレデュリティ。ここを抑えることが肝要だ。
ノーネームのサイドは残り二枚。翔のEXポケモンを倒せばノーネームは勝利する。もはやノーネームの勝利が何を意味するのか、つまりノーネームが勝利するとどうなってしまうのかは翔達には考えもつかない。少なくとも良いことは何一つ起きそうには無いが。
「俺はバシャーモEXをバトル場に出す。そして俺の番だ。サポート『鍛冶屋』でトラッシュの炎エネルギーをバシャーモEXにつける。そして手札の『バシャーモソウルリンク』をつけ、メガバシャーモEX(210/210)に進化させる!」
アイドラロックの効果は終了した。
幻核の門の効果で依然たねポケモンは出せないが、進化は出来る。メガバシャーモEXのワザ、ムーンサルトブレイズは威力が100。次の番、ムーンサルトブレイズを使えばムーンサルトブレイズの威力は100上昇する。つまり、今の番の威力は100だが、次の番の威力は200。この二撃を食らわせたところで、100−90+200−90=120ダメージと、タウミカル140/210は倒し切れない。
しかし、肝心のタウミカルの気流の殻とワザであるクレデュリティの相性は噛み合っていない。手札を減らさないと使えない気流の殻は、100ダメージ以上の攻撃を受ける時必ず手札を捨てなければならない。そしてクレデュリティは手札の枚数が少ないと与えるダメージは小さい。相手のワザの威力を殺し、攻撃を三回食らわせてあのバケモノを沈める。それが翔が導き出した最適解だ。
「バトル! メガバシャーモEX、ムーンサルトブレイズ!」
メガシンカしたことで脚部が強化されたメガバシャーモEXの攻撃も、タウミカルを守るように行く手を阻む気流が行く手を阻む。
「特性『気流の殻』デ、威力ヲ相殺スル」
「この時を待ってたぜ。コストとしてカードをトラッシュしてもらう!」
「コノ瞬間、とらっしゅニアルFake Force Foolノえふぇくと。コノかーど自身ノ効果デとらっしゅシタコノかーどガとらっしゅニアルナラ、自分ハ効果デ手札ヲとらっしゅシナクテモヨイ」
「なっ……!」
ここに来て初めて、異形となったノーネームがにやりと笑った、ように見えた。勝機へ繋がる儚い希望の糸が、蹂躙され簡単に引き裂かれていく。ムーンサルトを放ったメガバシャーモEXがタウミカル130/210を守る風に押し返され、僅かに火の粉だけを掠めた。
Fake Force Foolは前の番、ジラーチを奇絶させることで使用したカード。重すぎるコスト故に何かはある、と思っていたがまさかここまでとは。膝の力が抜けそうになったがなんとか踏みとどまる。諦めるな。諦めたら、何も残らない。まだ終わった訳じゃない!
「私ノたーん。とらっしゅノぐっず『
核拌機』ノえふぇくと。場ニ『ファンタズム』ガイルナラ、とらっしゅサレタ次ノたーんニコノかーどヲ手札ニ戻ス」
「トラッシュのカードが自分の手札に戻った!?」
あのカードは初めて気流の殻の効果を使った時にトラッシュしたカード。最初からこれを狙っていたのか。手札が増えたことで、タウミカルの攻撃の威力が上昇する。まさに悪魔のようなコンボ。
「タウミカル、攻撃。クレデュリティ」
先ほどとはケタ外れの威力の攻撃が襲い掛かる。今のノーネームの手札は六枚。その威力は20+30×6=200ダメージ。メガバシャーモEX10/210を狙った大気の刃は地面に深々と穴を空け、翔の体を恭介たちがいる傍まで簡単に弾き飛ばした。予想もしない威力に受け身を取り損ねた翔は、爪が割れ、左頬に出来た傷から僅かに血を垂らした。
「だ、大丈夫か!」
依然顔を蒼くした恭介が翔に声をかける。
「大丈夫かどうかなんて、どうだっていいんだ。まだ決着はつかなかった。だったらチャンスはあるはずだ」
思っていたものと違う答えに、恭介は戸惑った。しかし翔のオーバーズは痛覚や疲労を麻痺させるオーバーズ。おそらく、「大丈夫」が意図することが傷ではなく戦況の事と思ったのだろう。手を伸ばせば届く距離の親友との間に、埋め切れない溝がある。以前からそれは感じていたが、ここまで大きなズレがあると、その溝の大きさを痛感する。
きっと俺と翔は違う何かを見ている。俺が見ているのは絶望的な力を持つ化け物だが、こいつはアレを倒すべき敵だとして見ている。自分の小ささと無力さに下を向きそうになったが、まだ今の俺にも出来る事は残っている。立ち上がり、服の汚れを払い落とした親友に向かって声をかける。
「任せた。……頼む、勝ってくれ」
ノーネームの言葉が真実なら、あいつは俺たち全員を生かして返さないと答えた。美咲も亮太も陽太郎も、とてもじゃないが心か体へのダメージが大きすぎる。そして俺もアレと対峙できる覚悟も自信も無い。実感こそ足りていないが、俺たちの生き死には翔の肩にかかっている。頼み、縋り、祈るしかない。そんな弱々しい言葉を投げることしか出来ない自分の力の無さを、否が応でも感じてしまう。
しかし翔はそれに応じ、振り返っではほくそ笑んで「ああ」と答えた。
翔は目の前の強敵に囚われて肝心な事を忘れていた。この戦いは自分一人の戦いではない。ここまで道を繋げてくれた皆に応えるために戦ってきた。そしてノーネームによって未来を乱された亮太と陽太郎のためにも。今ここにいる友を守るためにも戦わなければならない。今託された祈りや願いが詰まったバトンを落とすわけにはいかない。だからこそ絶対に負けられない。
ノーネームの事情は未だに分からないし、ノーネームの考えを理解することは出来なかった。それでも、ノーネームも己の信条とその存在意義を命を賭して証明しようとしている。
異なる二つがぶつかり合う時、常に最良の結果になるわけではないことは分かっているつもりだ。だからといって全てを諦めるわけにはいかない。少なくとも、自分が信じる道を貫くためには負けるわけにはいかない。今ここで俺が諦めることは、ここまで体を張って道を繋げてくれた風見や希さん、市村達を裏切り、亮太と陽太郎を愚弄する。そして今ここにいる仲間たちの命を見捨てることと何も変わらない。それだけは嫌だ。
どれだけ苦しい状況に立たされても、今この状況を立て直すことができるのは自分しかいない。とどのつまり俺を救えるのは俺だけだ。負けたくない。その言葉が胸の中で音を立てる。その声は心に響き、血に届く。滾る血潮がざわめいて、新たな言葉が胸の中で轟く。
「俺の中で、俺の声が聞こえる。……勝って進めと声がする!」
翔は再び前へ進み、残された力を振り絞ってノーネームと対峙する。正真正銘のラストターン。奮い立たせた気と体。全てを投げうってでも勝利を掴み取る。
「ノーネーム。勝たなければ全てが嘘になる、そう言ったな! その言葉をたった今『理解』した。そして『覚悟』も出来た。俺は諦めない。この勝負に勝つ! 勝って俺たちは生きて帰る。そのためには立ち止まらない。ピンチだろうがなんだろうが、そんなことどうだっていいんだ。勝つためならば奇跡すらも起こす!」
「おい、翔! 何をする気だ!」
「おおおおおお!」
勝利を求める魂からの咆哮に応じるように、翔の左胸が眩く光り始める。翔は右手を左胸に手を当てると、そこからカードを引き抜いた。今、この世界に新たに生まれ落ちたカードの名はNEX。黄金の輪が描かれた下部には、たった一行だけのテキストが浮かび上がる。光風
霽月の心で引き抜いたのは、撥雲見天の最後の切り札。初めて見るはずのカードなのに、まるで昔から知っているような。いや、今はそんな感慨にふける余裕は無い。今はただあの白い殻を打ち砕く!
「NEXを発動! 俺のバトル場のEXポケモンを、NEXに進化させる。進化対象はメガバシャーモEX!」
「め、メガバシャーモEXが更に進化!?」
メガバシャーモEX10/210の上空に金色の輪が現れる。メガバシャーモEXは渾身の力でその輪の中へ飛び込んでいく。
「勝利を望む咆哮が、新たな奇跡を呼び起こす。舞い上がれ、メガバシャーモNEX!」
決して姿が大きく変わったわけではない。しかし、頭、脚、腕には赤銅色の鎧があてがわれている。依然傷だらけのメガバシャーモNEX50/250だが、光を放ち威風堂々としたその立ち姿は、まるで夜を貫く太陽光のように存在感を放っている。
「これで全てを終わらせる! メガバシャーモNEXで最後の攻撃。舞い上がる閃光よ、虚妄の殻を打ち砕け! サンライズシュート!」
「タウミカルノ特性、『気流の殻』ノえふぇくとヲ発動。100以上ノだめーじヲ90減ラス」
「そんなことどうだっていい。どうだっていいんだ! NEX体の共通効果、NEXは相手にかかっている効果を全て無視できる! そしてサンライズシュートは相手がファンタズムである場合、威力を80アップする。元の威力70に加え、150ダメージを食らえ!」
飛び立ったメガバシャーモNEXは一条の橙色の閃光となり、気流の殻を越えてタウミカル0/210の乳白色の殻を貫いた。
HPをすべて失ったタウミカルは浮力を失い地に堕ちながら崩壊をはじめ、同じく浮いていたノーネームも重力に従って落ちる。あれだけ存在感を放っていた扉も、まるで初めからそこに何もなかったかのように消えていく。翔のポケモン達を始めホログラム映像も消え、徐々に夜の静けさを取り戻していった。
集中力が切れ、オーバーズの効果が無くなって翔は麻痺させていた疲労と痛覚が同時に押し寄せてきた。ただでさえ陽太郎とノーネームとの連戦で溜まった疲労に加え、タウミカルの攻撃に耐え続けた翔の体は、本人の気付かぬうちに傷だらけになっていた。あちこちの小さな擦り傷や切り傷だけでなく、頬から血が垂れているのにようやく気が付いた。間髪無く足がふらついてその場に崩れ落ちる。
その視界の端、翔の対面にいた「腕を貫かれたノーネームの遺体」と「クリファンタズムを呼び出したノーネーム」のうち、後者が突然消えたのを最後に、翔は目を閉じた。
そこからわずかに離れた高層ビルの上階から、右手に望遠鏡。左手にスマートフォンを手にした男が電話先に告げる。
「作戦終了。予定通りクリファンタズムの受肉を確認。遠目で見てたが思った以上に大きいし派手だねぇ、アレ。それよりもアッサリ負けてしまったが良いのかい?」
『今は受肉が優先だ。クリファンタズムを倒した相手の対策は後からいくらでもできる』
「フフ。まあ、そうだな。むしろ手が付けられなくなったアレを我々が対応する手間が省けたという所か。ま、人命という尊い犠牲は出たものの、後か先かの違いだったかな。プロフェッサー、精神(マリス)体の回収は上手くいったかい?」
『無論成功だ。タウミカルごと回収している』
「ほほう。君の能力がそこまで器用だったとは思わなかったな。肉体はあのままでいいのか?」
『私の能力では精神体と肉体のどちらか片方かしか回収できない。それに新開の素顔は割れている。肉体を回収する意味は無い。処理にも困る』
「おや、あんなに慕われていたのに。死体になった途端に慈悲の欠片もないねえ。いや、生きてるときからだったかな?」
『慈悲の欠片? トレーダー、貴方に言われたくはない。それよりもここからは貴方にもしっかりと働いてもらう』
「無論。ガードナーから例の三人の輸送完了の報告は受けた。君の準備が終わるまでに、こっちも仕上げておくつもりさ」
『ああ。また召集をかけよう』
トレーダーと呼ばれた男、保城宗一はにやけた口を隠すように手を当てると、手に持っていた荷物を鞄にしまい込む。地道な研鑽と検証の日々は終わりだ。ここからは火遊びの時間だ。と、心の中で呟いて。
スーツのジャケットを整え、ネクタイを締め直し、彼は何事も無かったかのように踵を返し去っていった。
そしてもう一人。違う場所でその戦いを眺めた男は、押し寄せる高揚の中で静かに次の戦いの予兆を感じ取っていた。
舞台は次のステップに進んだ。時が来た、と。
ノーネームを撃破した翔達だ、事態は更に混迷を極める。
手がかりの無いまま、亮太と陽太郎の回復を待っていたが、新たな脅威は次なる戦いに向け手を打ち始めていた。
次回、「聖女の血清」
●TIPS
新開叶恵・マリス体の能力
ファンタズムアバター 物理干渉(自己強化)
デステニーゲートの力で肉体と精神が分離することにより、ホットスポットに上書きする形で発現。
素質がなくてもクリファンタズムの依代となれる。
また、×××することで、×××することができる。
射程距離− 成長性− 影響力S 持続性S