escape “シュー”
外の世界を始めて見た。
と言えば滑稽に聞こえるだろうが、彼にしてはそれはそれは非常に大きい出来事であった。
彼の両親はロケット団と名乗る黒い服を着た奇妙な男達に捕らえられ、そのロケット団の施設に無理やり連れてこられて実験動物となっていたところ出会った。そしてその二匹によって産まれたのが彼。両親どちらとも薬物を使った危険な実験の被験者だったが幸いにも彼自身は奇形児などにもならず普通のコラッタとして産まれて来たのだった。
しかし産まれたばかりの彼もすぐに団員に捕まり、両親とは離れさせられて檻の中で育てられた。
後に両親が実験中に亡くなった話を聞いたが想い出はもちろん会ったことも何もない彼にしては両親はあくまで彼を産み落としたツールでしかなかったので何の感慨にも浸らなかった。かろうじてああ、誰かがまた死んだのか。という程度だった。
しかし今日、彼は初めて両親の事を想った。コラッタかラッタかさえも知らないがあんな壮大な世界にいたことが羨ましかった。
脚力強化の注射を射たれるために檻から出されて実験場に連れていかれた時にちらと、この施設には少ない窓から外が見えたのだ。青と白が混ざったいわゆる『空』は、灰と黒の天井や壁しか見なかった彼の心に衝撃を与えるには十分過ぎた。
そして彼は決心したのだった。
心が壊れてしまう前にここから脱出してしまおう、と。
彼にはルームメイトが二匹いた。ルームと言っても檻のことだが、ずっと一緒にいるロクでもないやつらだ。
一匹はアーボ。彼が幼い頃は冷静で狡猾だったが、実験を重ねていくうちにどんどん精神が破壊されて目の前の快楽だけを望むだけの愚かな存在になってしまった。実験されるのが好きというのだからもうどうしようもない上にこいつとの意志疎通も難しい。
そしてもう一匹がドガース。人の悪態を突くのが好きだったこいつも唐変木で物事を深く考えることもなくなった。
かろうじて彼だけはまだ正常な精神を保っている。というのも、彼はまだ被験数が少なかったのだ。なぜならコラッタなんて文字通り腐るほど転がっているのだから。
しかし明日は我が身、ルームメイトのようになりたくない、そして僅かだが見たあの外に出てみたいと思う気持ちが彼の決断を後押しした。
「ここを出たいと思う」
夜、彼らポケモンだけにしか分からない言葉で彼が切り出した。
「アヒャヒャヒャヒャ! ついに天下のコラッタ様も気が狂っちまったかァ? 探検ごっことはまだまだお子様だねェ」
アーボが開口一番に奇声を発しながら彼を嘲笑う。彼はその言葉を聞かずに嫌悪感だけは受け取った。
「お前ももちろん俺たちだって出口を知らない」
まだ隣で笑い続けるアーボと違ってドガースは呆れていた。
「それは逃げながら探す」
「アッヒャッヒャッ! 今の聞いたかドガース? 夢は寝てる時に見るものだぞコラッタよォ?」
「そうだ。それに逃げたとしてもどうする。外に行っても独りだぞ」
「探検してみたいんだ。ここにいてもゴミのような日しかない。だったらせめて外へ……出てみたいんだ」
「アッ、アッ、アッーヒャッヒャッ!」
アーボが過呼吸になるほど笑い出した。彼はそのまま呼吸が止まれば良かったのにというようなことを思った。
「いくらお子様だからっていい夢見すぎだぜもう笑うしかないぜアヒャヒャヒャヒャ」
「……いや、俺もコラッタと同感だ」
ドガースが今日はまともだなと彼は思った。そのドガースの目に生を感じたからか。
「俺ももう実験なんてこりごりだ。俺は逃げ出したい!」
「あァ? ついにてめーのガスみたいな頭もイカれちまったかそうかよかったなアーッヒャッヒャッ!」
「……。コラッタ、俺もお前と一緒にここを出る。きっとまだやり直せるはずだ」
そしてその晩彼とドガースはひたすら笑い続けるアーボを無視して翌日夜に逃げる手順を組んでいたのだった。
翌日夜。団員の一人が雀の涙ほどのエサを持って檻の方へ来るときがチャンスだ。
エサが入ったケースを入れるために団員が檻を開けた瞬間、彼は団員に向かって体当たりをした。
とはいえ彼は脚力強化の注射を受けている。大の大人でも壁まで吹き飛ぶとんでもない威力だ。
そこにすかさずドガースも檻から出てきて倒れている団員に強力なガスを噴射する。最悪その団員の命が無くなるかもしれないがそんなことは知ったことでもないし、むしろ良い気味だった。
廊下に躍り出た二匹だが、この後の作戦なんてものはない。なにせ出口を知らないからだ。
廊下を必死に駆ける二匹だったがここで彼は一つ思い当たる節があった。彼はドガースの上に乗ると、たまたまあった窓に向かって突進を試みた。
世間知らずの彼らでもガラスは脆いということは知っていたのだ。だが彼の強力な突進を喰らっても窓はなんともなかった。彼らは防弾ガラスを知らなかったのだ。二、三度試みて諦めると再び廊下をがむしゃらに駆ける。
少しすると団員に見つかった。やむを得ないが引き返すしかない。すると応援でも呼ばれたのか反対側にも団員が現れ、袋の鼠となった。気付けば元いた檻のある部屋から一つ離れた大量の実験ポケモンがいる部屋の前まで戻っていた。
しかし団員は彼らを見くびっていた。彼が本気を出せば団員なんて紙屑を吹き飛ばすようなもので、彼の突進の犠牲にあった団員は壊れたマリオネットのように飛んでいった。
最初は油断した団員らも、同じく実験され強化されたポケモンを繰り出せば話は変わる。
彼もドガースも応戦した。しかし彼らには体力の限界があった。団員には彼ら並のクオリティーを誇るポケモンはいなかったがそれでもポケモンのクオンティティーだけはあった。数での戦いになると不利になるのはあのアーボでも分かるだろう。
疲弊した彼の背後からこっそりとポチエナが噛みつこうとした。反応が遅れた彼はここまでか、と覚悟をしたがどこからか飛んできた紫の鞭にポチエナは弾き飛ばされた。
いや、鞭ではない。何度かみたことがあるこれはアーボのポイズンテールだった。
「アーッヒャッヒャッ! 思ったよりやるじゃねぇかお前ら。本当はもう少し機を見て逃げたかったんだけどなァ! お前達が逃げるとほざいたときはさっさとくたばるかと思ったが、案外頑張ってるから手伝ってやるぜェ!」
「アーボ……」
「アヒャヒャヒャヒャ、なんだその間抜け面はよォ! ……本当はこんな変なしゃべり方は好きじゃないつもりだったがこの笑い方なかなか悪くねェ。そう思うだろ野郎共?」
野郎共? 彼はすかさず後ろを振り返った。閉まっていたはずの実験ポケモンが閉じ込められていた部屋の扉は開いており、そこから大量の実験ポケモン達が狭い廊下に一堂に会することになっていた。
「俺が連れてきたんだ、感謝しろってなァ!」
アーボの目はいつになく輝いていた。そうか、実験で狂った性格になっていたのは嘘だったのか。敵も味方も騙し欺く。彼の本来の性格は健在していた。
「あァ? 変に泣きそうな顔作ってねェでさっさとクソ間抜けなゴミドガースとそっから先に出てけ」
アーボが首で示す方向にはサンドが床を掘って作った抜け道があった。
「でもアーボは」
「俺ァこの人間共をひねり潰してから行く。てめーら雑魚はもう役に立たねェからさっさと失せろ!」
アーボはこう言っているが体力の限界に達した彼とドガースのことを思ってのアーボなりの発言なのだろう。あくまで彼はそう捉えた。
ヘトヘトなドガースと共にサンドに続く形で穴の中へ潜り逃げていった。穴の中でサンドから聞いた話によるとアーボはずっと前からサンドが穴を作りやすくするために床の耐久を削っていたらしい。彼は今までアーボを罵倒していたことを心から悪く思いつつ、穴の出口に向かいひたすら駆け続けた。
真っ暗だった穴の中が急に明るくなり、思わず目を塞いだ彼。徐々に光にも慣れ穴から抜け出すとそこには広大な草原、上にはあの日みたものよりもっと雄大な空があった。いつの間にか朝になっていたことなど彼らにはどうでもよかった。
空気の匂いも薬品や埃臭いものではなく澄んだ優しいものだ。自然と顔がにやけたのは彼だけではなくドガース、サンドも同様だった。しかし施設から抜け出したということで彼らは油断していた。
「お前たちの脱走劇はここまでだ」
人間の声が背後から聞こえた。彼らは揃って振り返ればそこには団員が一人、不敵に笑っていた。
「お前たちには電子チップが体内に埋め込まれている。空にも海にも土の中にいようとも我々には筒抜けなのだ」
ああ、もうダメだ。今度こそ彼らはそう思った。しかし、今度は別の人間の男の声が反対側からした。
「へぇ。ならやってみて欲しいもんだな。ポリゴン2、電磁波だ!」
見たことない鳥ポケモンに乗って現れた男はモンスターボールからまたもや見たことないポケモンを呼び出して彼らに電磁波を放った。しかし彼らは痺れることがなく、様子がおかしかったのは団員の方だ。
「貴様、誰だ! 何をした! くっ、レーダーが」
「今の電磁波でこのポケモン達の中に埋め込まれているチップは効力を失った。さて、お前らロケット団の施設には今頃俺の仲間が駆けつけている。もう観念するんだな」
「ひっ!」
団員はその場で尻餅をつき、そこを男に縄で縛られた。
形勢が変わるや否や、急に怯える団員を見て彼らはこんなヤツらに虐げられていたのだと思い返すと悔しさを感じた。
「さて、お前たちはどうする? もし良ければ俺と来ないか? 俺とこの広い世界を探検してみないか?」
男は優しく笑って彼らに問いかけた。
しかしそれは彼らにしては愚問も甚だしかった。彼らが揃えて首を縦に振ると、男は満足げに笑って手を伸ばしてみせた。
彼の探検はここから始まるのである。