タマムシブルース2013
0
全身から噴き出す汗がどんどんと冷ややかなそれに変わっていく。
焦りと不安と恐怖と嫉妬が綯い交ぜになり、直接妖しい光でも受けたわけではないにも関わらず混乱状態に陥りそうだ。
目の前の光景を受け入れられない。いや、受け入れたくない。
あいつが使うキノガッサはあいつ以上に俺の方が知っている。使うワザ、得意な間合い、性格、個性、好きな食べ物、お気に入りの時間。
だというのにあいつの指示を聞いているキノガッサは、俺の知っているキノガッサとは一線を画している。どうしてあいつの方が俺よりも巧く使いこなせているんだ。
そんなことを考えているうちに、俺の最後のポケモンにキノガッサが華麗にスカイアッパーをぶちかます。
やめろ。嘘だ。頼む。勘弁してくれ。嘘だろ。嘘だよな。嘘であってくれよ。
これまで何度大きな壁が立ちはだかっても不屈の闘志で耐え抜いた。
それはもちろんこれからも続くだろう。不器用な俺はそうするしかないと思っていた。
でも、そうじゃなかった。
頭の中で、ガラスを叩き割ったような破砕音が響く。心が平静を保てなくなり、足腰にすら力が入れられない。叩き割られたガラスの破片が全て降り注いでくるかのような、そんな心地だった。
あいつが心配そうにこちらに駆け寄ってくる。
やめてくれ。
お前が優しくすればするほど、俺はどこまでも惨めで小さくなってしまう。優しさは時として刃物や銃器よりも立派な凶器になる。悪意なき凶器は、心の重心をいとも容易く崩してしまい、崖からしとやかに突き落とすだろう。
あいつのひんやりした手が俺の腕を支える。
目が合った。
綺麗に出来たあいつの顔が、困惑と不安に歪む。
あいつの紫の瞳に、涙を流しながら変な笑みを浮かべていた俺は、一体どういう風に映っていただろう。
そのとき「俺」は、一度死んだ。
1
カントー地方の中心部、タマムシシティに訪れたのは、丁度桜が咲き始める頃だった。
人が溢れ、あちこちから放出される声の波に、田舎町出身で旅をしてきた僕はすぐにでも滅入りそうになった。
そんな折り、旅をする上で多くの情報が集まるカフェテラスの誰でも掲示物が貼れる掲示板に、奇妙な張り紙が一つ。
『高レートでポケモンバトルしてくださる人を募集しています。国立公園の一番大きな桜の木の下で』
他の張り紙がカラフルに描かれ、一時的に旅に同伴してくれる人を募集するのが半数を占めるのに対し、これは真っ白な紙にボールペンで走り書きされているだけだ。
「兄ちゃん、そいつが気になるのか?」
背後から筋骨隆々でタンクトップというたくましい風貌の男が声をかけてきた。どうやら彼もこの張り紙に惹かれ、実際に戦ってきたのだという。
「こんな雑なチラシからは想像出来ねえが、めちゃくちゃ美人さんで、見とれてしまった、ってのもあった。でもな。それ抜きでも勝てる気がしなかった。ジムバッヂを四個持っていてそれなりに自信はあったが、四天王とやり合えるような実力を持っていやがる。兄ちゃんもなかなかやり手そうに見えるが、悪いことは言わない。それはやめておけ」
「……。そんなに強いんですか」
「俺も腰を抜かしちまった。お陰で凹んでここ二日はバトルしてねえ」
僕のジムバッヂは今六個。あとはこの街とトキワタウンのバッヂを手に入れられれば僕は四天王に挑むチャンスを手に入れられる。負けたとしてもそれはそれで今後の勉強にもなるはずだ。
「おい、まさか……」
「そのまさかさ。負けたとしても授業料と思えば」
「その授業料が洒落になってないんだよ」
「いくらかかるんだい?」
気のせいか、最初に声をかけられたときよりこの男が小さくなっているように見える。そんな彼は、右手を僕のそばに持ち上げ、三本だけ指を広げた。
「……三千円?」
どことなく血の気が引けた彼が、弱々しい声で僕の言葉を弾き飛ばす。
「三万円だ」
2
桜の木がたくさん植えられている国立公園。方々に腕を伸ばした彼らが今、白みの帯びた可愛らしい花を精一杯咲かせている。
最初は広いこの公園から彼女を探し出せるか不安だったが、いざ来てみればすぐ分かった。噴水のある広場の一つ向こうの丘の上。桜色の長い髪を柔らかい春の風に靡かせ、どことなく遠くを見つめている紫の瞳。もしもカメラがあるのなら、その光景を永遠の形にして残してしまいたくなるくらいに彼女は美しい。
確かにさっきの彼も、勝負の最中だとしても見とれてしまうだろう。僕の貧弱なボキャブラリーとイマジネーションだけではどれだけ時間を重ねても、彼女の魅力を十二分に伝えることは出来ない。
しかしそれには怯むまい。自分の心の中のスイッチを、OFFからONへ切り替える。
その瞬間に花見客の声も、美しく咲き誇る桜の木々の姿も、僕の感覚器官からシャットアウトされる。そう、ただ目に映るのは彼女の姿だけだ。
「カフェテラスのチラシを見て来たんだけど、お手合わせ願えるかな」
「は、はい!」
聞いた話とは違う、おっとりとした様子に少し面食らったが、何をしてくるかは分からない。全神経に最高級の緊張感を与えさせ、腰のベルトにつけてあるボールに手を伸ばす。
3
人の厚意は素直に受け取るべきものだった。
『悪いことは言わない。それはやめておけ』
彼の言葉が脳裏をよぎる。完敗だった。力の差が歴然としすぎて、後学に役立てようにもそれ以前のレベルだった。
彼女のキノガッサの華麗なフットワークに手も足も出なかった。自分の実力を過信していたわけでは無かったが、一匹も倒せずに負けたのは初めてだ。
折れかけた心をどうにか支える。
「君、本当に強いね」
「ありがとうございます……。わたし、これくらいしか出来ることがなくて」
彼女のこの控えめでおっとりとした気質は、バトルのときでも同じような感じで、声も大きくなくまごついているのに、まるで指揮者がタクトを振るような正確無比で美しい勝負をしてみせる。
そんな彼女と戦うほどに、僕はポケモントレーナーとしても。そして一人の女性としても興味を惹かれてしまった。そのときに衝動的に一つの欲望が生まれる。彼女のことをもっと知りたい。
「良ければ名前を教えてくれないかな」
「な、名前ですか? あ、えっと……」
「気を悪くしたらごめんよ。無理に答えてくれなくてもいいから」
「あ、いえ、大丈夫です。……サクラ。わたしの名前はサクラです」
そう言って、彼女は少しだけ恥ずかしそうに俯く。その動作も何をとっても愛おしくなる。
「サクラ、か。良い名前だね」
「わたし、桜が好きなので……」
そう言って、風に煽られる髪を撫でつける。
「……ところでどうしてこんなに高いレートでポケモンバトルを続けているんだい」
彼女は怒られたかのように体をびくつかせると、より一層蚊の鳴くような小さい声で何かしらを呟いた。
「え?」
「……お、お金がどうしても必要なんです」
4
場所を変え、タマムシシティの繁華街にある適当な喫茶店に入る。会計は僕が持つから、とやや強引に押しつけた。彼女は終始申し訳なさそうな顔をしていたが、先の話を聞いていて払わせる男がいるか。
バトルをしていたときの彼女とは打って変わって別人のようだった。頭(こうべ)は常に垂れていて、紅茶の入ったマグカップを見つめ、弱々しく断続的な言葉を紡ぐ。
そうしてしばらく話を聞くうちに、だいたいの要領は掴めてきた。
「――べ、別にわたし、誰かにお金を借りようだとかそういう訳じゃなくて……。わたし、出来ることって言ったら、これ(ポケモンバトル)くらいしか……、なくて」
徐々にフェードアウトしていきそうな彼女の声音を聞いていると胸が締め付けられる思いだ。
「前までは……、兄とその、旅をしていたんですけど兄が病気になってからは兄の側を離れたくなくて……」
「そりゃそうだ。お兄さんをほっとく訳にもいかないからね」
「だからこうして、あの公園にお邪魔させて、もらってるんです。……あ、決して大変だとかそういうことは私全然思ってなくて!」
「まあ確かにここがカントー地方で一番人が集まる場所だしね。ジムもあるからトレーナーも来るし、交通の要所でもあるし。……でも、正直な所アレが長続きするとは思えない」
「えっ……?」
「目立ち過ぎているんだ。悪い意味で。……三万っていうレートはやっぱ目立ちすぎる。人が多いから返って噂が広まりやすい。現に僕も、一度は君の所に行くのを止められた」
「……」
どんどんとしおれていく彼女の姿を見ていると、なんとかしてやりたい、助けてあげたいという気持ちになってくる。
「だからこそ、僕に出来ることがあればなんでも言ってよ」
「え、そんな……。他の人には迷惑かけられないし……」
「君の方が僕よりも慣れてるかもしれないけど、これでも僕も小金を稼ぐ術は持ってる。僕でよければ力にならせてくれ」
熱のこもった僕の弁に気圧されたか、彼女はようやく首を縦に振った。
「よし、交渉成立だ。よろしくね」
「ありがとうございます……! 何かとご迷惑をかけるとは思いますが……」
「いいよいいよ。僕がふっかけたことなんだから。むしろ僕が迷惑にならないかどうか」
「そんなことはないですよ!」
サクラは一瞬だけ目を丸くして驚いた顔を見せると、やがて穏やかな優しい微笑みを作る。
一撃必殺だ。僕の心のヒットポイントはその笑顔一撃で瀕死状態だ。
メロメロ状態を通り越した何かが僕の体の中から弾けそうだ。
だからこそ、彼女の笑顔をもっと見ていたい。守りたい。そのためなら旅を少し足止めしてでも厭わない。
「どうしたんですか?」
何秒惚けていたのか、自分でも数え忘れた頃にサクラが問いかけてくる。
「いや、笑顔もいいね。って」
「そ、そうですか? こんなに人に親切にしてもらったの、すごい久しぶりで……」
すっと目を細めた彼女の紫の瞳孔には、どことない切なさが一瞬だけよぎっていった。
5
サクラとフータはホウエン地方のハジツゲタウンで出会った。当時のフータは今のように頬がこけておらず、健康的な体と、大きな夢を抱えた青々しい青年だった。
フータはキノココを相棒にして、ホウエン地方のチャンピオンを目指さんとするその姿が羨ましく、サクラはフータの仲間になった。
しかし、フータはあまりバトルのセンスに恵まれてはいなかった。
ジムバッヂを手に入れることに、他人の二、三倍は時間がかかった。
それでも、なんとかしてもがいて足掻いて、転んでも這い上がろうとするそんなフータのことがサクラは好きだった。
内心、フータも悩んでいただろう。いつまで経ってもどれだけ努力しても伴わない実力。たまに泣き崩れている姿をサクラは事あるごとに見ていた。
そして、あの日をきっかけにフータの心は粉砕されたガラスのように、粉々になってしまった――。
あの人に優しくされたから、久しぶりにあの頃の事を思い出してしまった。
タマムシシティの小さな古い貸しアパートの一室の扉の前。サクラは目尻をワンピースの袖でトントン、と軽く叩いてから、鍵のかけられていない扉を開けた。
「ただいま」
ひどいアルコールの臭いとヤニの臭いが狭い部屋に充満している。サクラは「兄」の了承を得る前に、灰皿や袋菓子、ガラス瓶が転がった足下に注意を払いつつ、勝手に部屋の窓を開けて換気する。
はじめの頃に比べて、アルコールと煙草の数が増えている。前々からやめてほしいと頼んでも、どこ吹く風で意味をなさない。
おかえり、も無いまま、安っぽいベッドに寝転んだ「兄」もといフータは、左手の手のひらをひらひらとさせる。
いつも通りの金をせびるポーズだ。サクラは泣きそうな自分を抑えて、財布から今日の稼ぎを抜いてフータの手のひらに乗せた。
「……今日は六万か。最近稼ぎ落ちてるな」
窓を開けたことに対してもフータが文句を呟いたが、サクラはそれを聞かぬフリをした。
「ねえ、いつまでこんなことするつもりなの?」
「やることねーんだもん」
「それにお酒も煙草も増えてるし」
「『病気』の俺には最適な薬なんだよ。……にしても稼ぎ落ちてんぞ」
「……。もうわたしと相手してくれる人ほとんどいないんだから仕方ないよ」
「じゃあ例の張り紙に、『兄が病気なんでお金が必要なんです』とか書き直すか?」
フータは乾いた笑いだけが、一室に響き渡る。そう言っておきながら、本人は不機嫌そうな声音をしていた。
きっと本人も自分のしていることが良いこととは思っていないだろう。でも、サクラからすれば思っている思っていないは問題ではなかった。やり続けるか、止めるか。それすらはっきりしない態度がサクラをより困らせていた。
「にしても今日は少し表情が明るいな。何かあったのか」
どうしてこの男は未だにこんな所にだけ目ざといのだろう。正直、彼の事を言うか一瞬躊躇った。でもわたしはフータのもので、こんな男だけど恩もあるし抗うことも出来ない。
頭の中でごめんなさい、と彼の顔を浮かべながら呟く。
「……どっちにしろこのままじゃお金が稼げなくなるけど、今日親切な人にあって小金の稼ぎ方を教えてくれるって」
「男か?」
「……うん」
「十中八九そいつお前に惚れてるよ」
その言葉を聞いた瞬間、少しだけ胸に小さな灯りが点って、消えた。チクチク痛むようで、暖かいような。前にもきっとにたようなことがあったような気がするけど、もう思い出せない。
「すごいわたしに優しくしてくれて、同情とかもしてくれて」
「下心見え見えだな」
「それで、いろいろ話をしてたら一度フータにも挨拶しておきたいって。お見舞いって」
「お見舞い?」
「断るに断れなくて……」
「マジかよ……。めんどくせえな」
「ご、ごめんなさい……」
「そうなったもんは仕方ねえよ。適当に誤魔化すぞ。……いや、逆に考えればその男もそれだけ本気ってことだよな。……となると絞れるだけ金絞る。これだ」
「絞るって……」
「適当になんか言って金せびんだよ。そんである程度稼いだら雲隠れだ。コガネシティにでもいこうぜ」
「コガネに行ったら今度こそ……」
「分かってるって。もうこんな暮らし飽きたし、今度こそ、な。これで最後だから」
何も分かってない癖に。
嘘じゃないから、と言うフータの見え見えの嘘になんて答えればいいか分からない。
サクラは今にも泣いてしまいそうだった。
優しかったフータが、こんな風になってしまうとは昔は考えられなかった。
出来るなら逃げ出してしまいたい。全部吹っ切って、風になって、出来るなら……そう。今日あったあの人の側に行ってしまいたい。
でも、サクラにはそれが出来ない。
サクラはフータのモノだった。それは昔からずっとそうだった。でもそれ以上に、フータをこんな風にしてしまった原因がサクラにあったから、後ろめたさからフータをほっぽってしまう訳には行かなかった。
6
翌日の夕方、サクラに連れられて一人の男がやってきた。年は俺と同じくらいか。なかなかサマになってる好青年という感じで、なんだか昔の自分を見ているようで少し嫌な気分になった。
「どうも、シンヤです。わざわざ手間をかけさせてすみません」
「フータです。えっと、……サクラがお世話になっているようで」
「いえいえ。こちらこそ彼女のバトルの腕前には勉強になりますよ」
「ははっ」
部屋を朝から換気して、消臭剤を至る所にかけた甲斐があって、ヤニの臭いは体感的にほとんど無くなった。質素な服に着替え、ベッドに上体だけを起こした体勢。不養生な生活で少しこけた頬はさながら健康とは言い難いだろう。念のために声のトーンを下げる。不定期に咳を繰り返し、少しだけ眉を潜めたりとすれば、ただ浮かれているだけのこの男は騙されてくれるだろう。
「とりあえず、簡素ですがお土産の品です。良ければどうぞ」
「あ、ああ。ありがとう」
シンヤがきのみが入ったバスケットをテーブルに置こうとすると、サクラがそれを受け取って「細かく切ってくるね」と台所の方へ消えていった。馬鹿、俺をこいつと二人っきりにするんじゃねえ。声にならない文句が顔に出ないように、咳をして誤魔化してなんとか取り繕う。ほんと馬鹿みたいだ。
「ご加減の方はいかがですか?」
「はは、見ての通りさ」
「どうやら難しい病気と聞いたんですが」
少しの受け答えで分かる。ちょっとした受け答えに矛盾があれば、そこを突き崩せる能がある。というか単純にキレ者そうだ。
それに、サクラが一体どういう風に何を話したかが分からない以上、話に食い違いがないようにするしかない。だったら後手に回らずに先手を打つ。
「サクラからはどう聞きましたか」
「外出もままならない、とは」
「ええ、まあ。お陰で寝たきりで、身の回りのこともサクラに任せっきりになってて。申し訳ないと思いつつもね……」
サクラめ、変に気が回るところがあいつの欠点だ。こいつと二人っきりじゃ間がもたない。出来ることなら今すぐ窓をぶち破ってでも外に出たいくらいだ。うまいこと言葉をかわさないとだめだ。
「あー、えっと……。サクラがいろいろとご迷惑をかけたようで」
「そんなことはないですよ。むしろずかずかと踏み込んでしまって僕の方が申し訳ない」
「いやいや。こちらとしては大助かりですよ。本当なら俺がサクラを支えてあげないといけないんですけどね。あいつも好きであんなハイレートをふっかけてる訳じゃないだろうから、なおさら心が痛みます。何一つ出来ない自分が」
「……でも仕方ないですよ」
「それは、まあ、そうなんですけど。病気が治れば苦労かけた分だけなんとかしてやりたいんですけどね」
「完治出来るんですか?」
「可能性はあるみたいです。……ただ、入院費と手術費が高くてちょっと」
「僕は具体的な値段のことは分からないんですが……。それでも、僕で力になれることがあるならなんでも言ってください。出来ることは少ないかもしれませんが」
こいつは驚いた。お人好しもここまでこればおめでたい。どうやら間接的に、俺に気に入られたいのだろうか。そうだとすれば、こいつを利用するチャンスは何度かあるだろう。ちゃんと考えれば、こいつはちょっとしたATMになりうる。
少し話を聞いたところ、こいつは手持ちのエテボースを使って物拾いをさせ、それを売って小金を稼いでいるらしい。そういってポケットから出したのは、それなりに大きな真珠だ。なるほど。悪くない。
「本当になんといってお礼すればいいか……。縁もゆかりもない方に」
「そんな! 人間なんて弱いもんですから、だからこそ助け合わないと。サクラさんとの出会いはまさしくその訓示です」
二ヶ月前後。そんだけあればコガネに逃げて家を借りるお金は出せるはずだ。ついでにスロットを回す分も出てくるだろう。
どうせこいつとサクラは一緒になれない。それは俺以上にサクラも分かっている。見ず知らずの男の純情を踏みにじる趣味はないが、もうなんでもいい。早くこのしょぼい芝居を終わらせたい。
ようやくサクラが戻ってきた。大きな器には色とりどりのきのみが盛りつけられている。
俺の前を通ったサクラの右腕からは、強烈な果実の匂いがした。
7
あいつが「お見舞い」に来てから二週間強が経過した。
サクラの表情や言葉が明るくなっていくにつれて、俺は酒とタバコの量が増えた。サクラが明るくなる原因は一つしかない。あのシンヤって野郎のせいだ。
何か会話があると、そのたびにあの男の名前が出てくる。きっと、というか間違いなくあいつは俺より遙かに良い奴だろう。少しずつサクラの心が俺から離れていってるのはすぐに察せれた。嫉妬、というよりは困惑。そんな感情がぐるぐると、日を追う度に強くなる。
それをどうにかする手段は俺には無かったから、逃げるしか無かった。立ち向かうことを忘れて逃げることだけを学んだ俺には、選択肢はあってないような物だった。
止まらない。一体何連鎖してるんだ。この台の設定は狂ってるだろ。時間の感覚が吹き飛びそうになる。
忘れかけていた興奮が、胸の中に転がり込んでくる。そうだ。興奮ってこんなんだったんだ。
タマムシシティのゲームセンターのスロットから、溢れんばかりのコインが吐き出される。コインを入れる大きなケースが一つ、一つ、また一つと重ねられていく。
どうだ。俺、バトルの才能はないけどこっちの才能はあるかもしれない。ははっ! ……いくら虚栄心を張ったところで心の穴が埋まることはない。古傷のように、定期的にズキズキと胸を抉る。
俺はどうしてこんなことをしているんだ。くそっ!
コインが吐き出される度に、それに反比例して心は深く深く沈んでいく。きっとこれは何かの罰なのか。
そんな折り、突如背後に誰かの気配を感じる。まさか、サクラにバレたか。振り返った瞬間。
強い衝撃が右頬を襲い、体が少し宙を舞う。コインケースに背をぶつけ、コインがじゃらじゃらと賑やかな音を立てて辺りに散らばる。
久しぶりの強烈な痛みに耐えきれない。情けない呻き声をあげながら、顔を上げる。
「あんたみたいな最低なトレーナーにあったのは初めてだ」
そこには、怒りで拳を震わせながら立っていたシンヤの姿があった。
8
ホウエン地方のジムバッヂを五個集めた。その頃からトレーナーとしての限界を感じていた。
本当はもっと前から感じていたけれど、それを感じるのが怖かった。だからそれを感じないように、感じることを忘れるくらいにひたすら努力を積み重ねた。
そして一人で努力をするのに限界を感じた頃、俺は手持ちのメタモンにあるお願いをした。
ハジツゲ周辺で出会ったこのメタモンは、明らかに他のメタモンとは別次元だった。非常に高度な知識を有し、自らの喉の機関を変形させることで人の言葉を介すことが出来た。それどころか、人間に変身して、あたかも普通の一人の人として「いる」ことが出来た。
俺はそのメタモンにトレーナーに変身をしてもらい、自らのポケモンを半分渡して模擬試合を行った。やはりただ自分で特訓するだけでは光が見えない。初めて戦う素人の、しかもポケモンが相手とはいえ模擬形式で試合をするときっといい。具体的に何がいいかはあんまり分かっていなかったが、それでもプラスになると考えていた。
ところがどうだ。まるっきり手が出なかった。自分のポケモンが相手なんだから、手の内をすべて知っている。しかもそれを指揮しているのは、ポケモンバトル未経験の素人どころかポケモンだ! そんなポケモンに何一つ出来ず負けた俺は一体なんなんだ。
希望で溢れていた未来にヒビが入る。ヒビはあっという間に希望を覆い、粉々にする。
そのとき、ポケモントレーナーとしての俺は死んだ。
メタモンもそれに遠慮してか、控えめな性格がより控えめになっていった。やめてくれその遠慮。同情とか。余計に俺が惨めになるだろ。でも、そんなことを言ったところでどうにかなるものではないのは分かる。だから、トレーナーを諦めた。
そして最初にぶつかった問題は、お金だった。
バイトして、お金を稼ぐ。でも大きな目標を失った俺は、どんなバイトも長続きしなかった。すぐに働く意義を失ってしまう。そんな俺を見かねたメタモンは、人間に変身して自分からもバイトをした。せめてもの俺への配慮だろう。正直助かった。そして、これは使えると思った。
メタモンでも金を稼げるなら、いっそ一発大きい稼ぎ方をやらせよう。そう思ったのがあのハイレートのポケモンバトルだった。毎日毎日健気に出かけ、お金を持って帰ってくる。それが当たり前になってしまっていて、俺は何にも見えていなかった。
ポケモンセンターのガラス越し、治療室に移されたサクラもといメタモンが賢明の治療を受けている。
シンヤに連れられて、初めて事の大きさを理解した。当たり前のことをようやく理解し、放心した。頭の中がかき混ぜられたようにぐっちゃぐちゃになった。処理できず、思わず涙が溢れると、もう一発ぶたれた。この男は見た目や言動と違って随分荒々しい事をする。
実はこの男は、サクラがメタモンであることは当の前から知っていたらしい。それでも俺の家であんなことを言ったのは、サクラに惚れてた半分、そこまで健気にトレーナーを救おうとするポケモンに心を打たれた半分だという。
メタモンが倒れてから、シンヤは街中俺を捜したようだ。そこで俺を見つけたのがゲームセンターなんだから、殴りたいのも無理はない。いいや、むしろ殴るだけでそれ以上何もしない分、人間としても器の違いを感じる。
「サクラは……。メタモンは無事なのか?」
「命に別状はない。けど、過労で全身の細胞がダメージを受けているらしい。今までのように変身し続けた状態でいるのは困難、要は少しだけ後遺症が残るって聞いたよ」
シンヤが俺を見つめる。怒りと、憎悪、そして悲しさの眼差しだ。あのときのメタモンの瞳と、少しだけ被った。も、もうこりごりだ。俺はこれ以上何も失いたくないし、絶望もしたくない。まるであの日に還ったような、そんな心地だ。俺はまた同じ事を繰り返すのか。
「ごめんな……」
馬鹿みたいにガラスに張り付いて、涙と鼻水をすり付けながら呪文のように何度も呟く。このガラスが忌々しい。これが無ければメタモンのすぐそばにいてやれた。薄くて分厚いこの壁が、俺をあらゆるものから遠ざけていく。今度はシンヤもぶたずに、何もせずじっと立っていた。
人間なんて弱いもんですから。シンヤの言葉が甦る。でも人間、いつまでも弱いままではいられなかった。
9
「本当にいいのかい」
「ああ。言い訳ばっかり並べて何もしなかった罰があたったんだ」
そう言って、シンヤにモンスターボールを押しつける。少しくらい躊躇して押し返してもらっても良いところだったのに、シンヤはあっさりとそれを受け取った。
「今の俺が側にいても、何もしてやれることはないしまた甘えて同じ事を繰り返すかもしれないから」
メタモン、いや、サクラは何も言わないまま涙を流す。まだ退院したばかりなのに、人間に変身している。無理はよせ、と言ったが、折角だからと言ってはねのけられた。俺も泣きたかったが、ここ数日で涙はすべて出し切ってしまったようで、出てくる気配は感じられなかった。
変身した状態で連続していられるのは、たった二時間が限界になったようだ。ほぼ一日ずっと変身し続けられたことを考えると、かなり衰弱している。それが俺のせいだというのは今更なことで、問題はその先だ。
「だから、信頼できるあんたにメタモンを任せる。いつか俺が、ポケモントレーナーかただの会社員かは分からないけど、もう一度メタモンを向かい入れられるような人間になるまでは」
「分かった」
正直シンヤのことが未だに好きにはなれなかったが、それでもこいつは信頼出来る。
きっと更生するなんて言っておきながら、あいつがそばにいるときっとまた頼ってしまうだろう。そんな弱い自分と決別するためには、全てを最初からやり直さなければいけないと思った。きっとシンヤもそれを察して、サクラを引き取ったんだろう。
それからとりとめのないことを一つ二つと話をした。
シンヤは次のジムに向かうため、もうそろそろ出発すると言った。すると、サクラが少し寂しそうな顔をした。
最後に、サクラが今までありがとうと言ってきた。感謝されるようなことはしていないし、むしろ最悪なことばかりした。それなのに、そんなことを言われて。おう。なんて一つ返事しか出来ない自分がほとほと馬鹿らしい。ごめんな。とも言った。何度目のことだろう。分からない。それでもサクラは首を軽く左右に振った。
そろそろ行こうか、と言うシンヤの言葉に頷いて、皆席を立つ。シンヤと手をつなぐサクラは、幸せそうで寂しそうだ。
最後に一つ二つ簡単な別れを告げて、彼らは歩きだした。
そして姿が見えなくなるまで夢中で見送って、独りになったことに今更気づいた。寂しくて、想像以上に辛くて心が痛かったけど、そんなことに構うものか。俺は今から新しい俺になるんだ。ならないといけないんだ。
もう一度メタモンと会うために、俺は俺だけの途方もしれない道を行く。