─8話 Tumbled effort
家に着いたときはまだ昼だというのに体を投げ捨てるようにベッドに横になった。
何も考えず、ただただ皺の入った造りの天井を眺め、皺の数を数えていた。
今日だけで一年分のいろんなことが起きたくらい目まぐるしかったが、あまり心地よい物はほとんど無い。だから、思い出さないように何も考えない。
そのはずなのに、目頭がじーんと熱を帯びてきた。篠原さんの顔が脳裏に浮かぶ。ああ、そうだ。篠原さんに負けたと報告しなきゃ。でも、ふがいなさすぎてどう言えばいいか分からない。胸が張り裂けそうだった。
そんなとき、携帯電話がバイブレーションをけたたましく鳴らし、ベッドを揺らす。横着気味に手を伸ばし、表示を確認すれば篠原さんだった。
「もしもし」
篠原さんなら優しい言葉をかけて慰めてくれるかもしれない。それを期待して、努めて声のトーンを下げてみた。
『失望したよ』
「えっ――」
『大舘さんから連絡があった。新川を怒らせたらしいな』
「はい……」
失望した、の理由はすぐに心当たりがついた。大舘さんから連絡があった。ということは、ことの顛末を全て耳にした、ということで。
『新川を怒らせるようなプレイングを教えたつもりは一切ない。あいつは今日みたいな騒ぎを何度も起こして協会から厳重注意を受けたことがあるが、勝負に関しては誰よりも真摯だ。なあ、どうして手を抜いたりした?』
「そ、それは……」
いつの間にかベッドに正座していた。体中に鳥肌が立った。目の焦点が合わない。携帯電話を持つ手が震える。ロッカールームのときとは違うようで似た恐怖を感じる。
どうにか穏便に事を済ませたい。でも本当のことを言えば怒られるし、嘘をついてもバレた時どうなるかわからない。じゃあ、何をどうすれば。
電話越しでも篠原さんの溜め息が聞こえた。
『途中かやる前から勝てないと思って、明日の対戦のために温存しようとでも思ったんだろう』
「それは……」
『今一瞬を頑張れないやつに先のことを考える資格はない。明日は別のやつにやらせるからお前は来なくていい』
心臓が止まったような気がした。それに加えて体温が文字通り下がったような。気付けば立ち上がって、一人部屋なのに頭を下げていた。
「そ、そんなっ、嫌です」
『俺はお前の先生でもなんでもない。雇う側と、雇われる側だ。雇う側の望み通りにならない雇われる側に価値はない。それくらいは解るな』
辛くて、辛くて吐きそうだった。涙も吐瀉物も感情も。心の中で篠原さんに対する嫌悪感が渦巻いた。悪いのは自分で、篠原さんは悪くない。それでもどうしても黒いものが渦巻いてうねっていた。
『だが……。明後日だ。ラストチャンスをやる。新川と対戦しろ。そこで本気を、全力を見せろ。勝てとは流石に言わない。それで、もし俺や新川が少しでも不満を覚えた場合はもううちに来なくていい。分かったな』
電話は返事をする前に一方的に切られた。しばし呆然としていると、リビングでFAXが動き出していた。
「桔平もセコくなったな」
カウンター席で日本酒を口に含んだ老人が、嫌味のように呟いた。
「どこがですか?」
「アホ。今の電話全部や」
「そうですか?」
「そのとぼけるとこもやらしいわ。誰に似たんや」
「チーさんのせいでしょう」
チーさんと言われた老人は、ぎろりと横槍を入れてきた隣の席に座る大舘を睨み付けると、両手を挙げてからかった。
「にしても悪いな桔平。新川のことでこんなことになって。あいつは自分で分かってるんだ、自分自身のトレーナーの人生が短命だということを。まああの運動量だと仕方がないだろう。だからこそ、どんな相手でも全力で戦い、全力で戦わない相手に対して──」
篠原は大舘の言葉にふっと小さな笑みを溢す。
「いいんです。こっちもあれくらいお灸を据えないとどうもね。皐月は今の環境、恐らく俺に甘えてるから、一度ああでもしないと絶対に伸びない。それに新川も満足するでしょう。いずれこうなることは分かってました。それがこういう形になっただけで」
「それだけちゃうやろ。どうせ新川がトレーナーハウスで対戦する、っていう触れ込みで宣伝して、チケット代とか巻き上げるつもりやでこいつ」
篠原はチーさんの指摘に頭を掻きながら誤魔化す。大舘はそれを見て声を上げて笑う。
「三人とも得する、なるほど確かにセコい」
「それよりも先輩、U22とはいえファイターズはライバルでしょう。そんなに新川に肩入れする方が気になります」
「チームとかはどうでもよくて、ただただこいつにはもっと成長して欲しいなとは思うんだよ。そうすればきっとリーグ全体の刺激になって、もっと盛り上がるようになる」
大舘の力説になるほど、と頷いた篠原の横でチーさんはけたけたと大きく笑った。
「ワシが育てたはずやのにこないくそ真面目なこと言いよって」
チーさんのそれに、篠原と大舘は揃って噴出した。開店前のブライトムーンに、三人の笑い声が響く。
「歳取りましたね」
「十年ちょっと前はまだブラックサンダースでショボいことやってるガキやと思ってたらいつの間にか方やヘッドコーチ、方やトレーナーハウスの店長」
「そんでチーさんは違うチームの監督」
「せや。にしてもほんと老けたなお前ら。達巳なんてほとんど髪の毛あらへん」
チーさんは右手で大舘の頭を何度もコンコン叩き、恥ずかしそうに大舘は左手で防御姿勢を取る。
「ふっ、楽しいな……。やのに今のブラックサンダースはここんとこずっと下位リーグや」
篠原と大舘が現役で、チーさんが監督だった時代はまさしく黄金時代と呼ぶにふさわしい戦績を上げていた。篠原は店にかけてある現役時代に取ったタイトルのトロフィーや、かつてのトレーナーウェアに目をやった。
「そういやチーさんはどうして神奈川に?」
「達巳こそなんでU22の合宿場おらんねん」
「新川の付き添いです。アジア予選来月なのに協会運営に出るって言い張って、仕方なし」
「……選手は貪欲な方がええよ。実際に桔平のとこのはあんなんやからこうなって、誰やっけ」
「飯田皐月です」
「飯田か。桔平も分かってたんやろ、満足してまうと成長止まるて」
「え、えぇ」
「いろいろ言うた甲斐があったわ。……いや、ちゃう。なんで達巳がここにおんねん」
「明後日の試合の打ち合わせです。こうして再戦の機会を作るとでも言わないと止まらなくて」
ロッカーで大舘が新川の暴走を止めたのは、すぐに機会を作ってやるから、と耳打ちしたからであった。
「そこまで行くと面倒なヤツやな。甘やかしてるとは思うけど。……そうそう、ワシの話もやったな。ワシはスカウトが信用出来ひんから自分でこっちまで選手見に来てん。あのアホしょぼいのしか連れてこーへん。せやからうちは万年Bリーグやってん」
「そういえばAリーグ昇進おめでとうございます。でも愛媛から遠かったでしょうに」
「アホ。シーズン始まったら日本全国うろつかなアカンのはお前もわかっとるやろ」
頬を弛めた大舘だが、すぐに違和感を覚えて切り返す。
「あっ、選手見に来たって――」
「桔平、明後日はよろしくな。達巳も頑張れや」
椅子から立ち上がり、店を後にするチーさんを見送りながら大舘は呟く。
「セコい、ってのはこういうことか。三人じゃなくて四人が得する――」
そして振り返り、篠原を見つめる。飄々とした顔があった。
「相変わらず甘いな桔平」
「でも俺は本気ですよ」