─7話 Wounded pride
「嫌になっちゃうな」
様々な声が向こうから聞こえる。怒号や歓喜の声、辛そうなものもあれば嗚咽まで。
その中で、なにか一人納得して何も発さなかった自分が嫌だった。
負けることが嫌なのは嫌だ。でも、負けたことに対する悔しさは無かった。どうしてそんな淡白になれるのだろう。
笑顔で送り出してくれた篠原さんの表情が頭の中に浮かんでは、くしゃくしゃになって闇の中に溶けていった。
こんな自分自身に泣きたかったけど、泣いてしまえばさらに何かを失いそうで、怖くて泣けなかった。
ロッカールームのベンチに腰を掛けて俯きながら、目の焦点を合わさずに世界をぼやかしながら。
「おい」
突然声が掛けられて、ふと横を向いた。
その瞬間、いきなりトレーナースーツの胸ぐらを掴まれ、体が床から浮いた。
驚きと苦しさから呼吸のリズムが極端に短くなる。状況への処理が間に合わずパニックに陥りながら腕を辿って声の主の姿を追えば、そこには新川が。
なぜ? どうして? あたしには勝ったはずなのに、どうしてそんな血管が浮かび上がりそうな程怒りを顔に浮かべているのかがわからない。
それに、本当に苦しい。腕や足を振り回し、抵抗すると捨てられたように降ろされ、腰をベンチに強打した。
「どうして最後手を抜いた!」
意味の理解が追い付く前に、彼は怒りのままに言葉を続けた。
「どうして俺とやってるときに手を抜いた! っけんな!」
怖い。何をされるか。この巨漢なら、命を奪われかねない。歯がガチガチ震え、視界がぐにゃぐにゃ揺れて捻れてぼやける。
もはや何を怒鳴られているかが分からない。体のありとあらゆる「何か」が、心のありとあらゆる「何か」が今にも張り裂け破裂しそうだった。
助けて――。
「新川ァ!」
濃いダミ声が、耳に入った。
紫地に白のラインをいくつも通ったジャージを着た中年の男が現れ、新川の両脇を抑える。しかし身長さや筋力が違いすぎる。振りほどくのは時間の問題だ。
逃げようにも腰が抜けてどうしようもなく、ただただ茫然自失になるだけで、相当ひどい顔になっているだろう。
「新川! お前はまた問題を起こしたいのか!」
「こっ、こいつが!」
「馬鹿。いつまでそんなガキみたいなこと抜かしてるんだ! プロ辞めたいのか!? そんなに好き勝手やりたいならプロなんて辞めてしまえ!」
中年の男はそのあとも散々怒鳴り散らすにつれて、新川の腕の力が抜けていく。やがて何かを耳打ちされ、うなだれた新川は、中年の男に引っ張られるようにロッカールームを後にした。
静寂が帰って来ても、しばらく体の硬直が解けなかった。やがて少しずつ筋肉のほぐれを感じ、全身が脱力した後、失禁していたことに気付く。あまりに情けなさ過ぎること、尋常でない恐怖から、子供のように泣いた。泣いて、泣いて、泣き喚いた。ロッカールームに誰かが入ってきても、それに気付かずそうした。向こうも腫れ物に触れるのを避けるように、何も干渉してこなかった。
ひとしきり泣いて着替えた後、帰りの用意をしてロッカールームを後にした。会場から出ようとしたとき、呼ぶ声が聞こえた。
「さっきは新川が迷惑をかけて悪かった」
ジャージを着た中年の男が、腰を折って謝る。
「ちょっと時間いいかい」
「は、はい」
「立ち話もなんだからその辺の店に行こうか」
会場を後にし、すぐそばにある喫茶店へと連れられた。なんでも好きなものを頼んでくれと言われたが、あんなことがあったばかりで対して食欲も無く、ソフトドリンクだけを頼んだ。
「そうだ、先に自己紹介をしとこう。東京サンエーブレーブスのヘッドコーチ兼U22のムービングコーチをしている大舘だ。今回は新川が迷惑をかけて申し訳無かった」
紫と白のジャージ、思えばブレーブスのチームカラーだな、と思った。肩には右手を前に突き出したミュウツーとブレーブスの文字があるチームワッペンに目が入った。
こんなあたしみたいな雑魚にも丁寧に頭を下げてくれる大舘さんの気持ちは嬉しかったが、確かに新川の言うようにちゃんと戦わなかったあたしが悪い、というのも一理あるから、逆に気が引けてしまった。
「あたしも、その、ごめんなさい」
「……あいつの担当してるのはU22の時期なんですけどね、それでも責任はちゃんとしないと思って。怖い思いをさせたと思う。本当に申し訳ない、なんと言えばいいか」
言葉はいらない。言葉をかけられるくらいならチームに入れてほしい。そんな邪なことを過っては消えた。
「所属トレーナーハウスはどこだい」
蛇口から溢れるような謝辞の言葉を流しているとき、ふと虚を突くように尋ねられた。
「えっと、ブライトムーンです」
「篠原のとこか。そうかそうか……。篠原にも謝っておくよ。時間も取らせて悪かった」
大舘さんは立ち上がり、伝票を手に取って財布を開く。視界の奥でウェイターをしているバリヤードとどことなく似てるな、と思った。
「次はこんな形ではなく出会えることを楽しみにしているよ。なぁに、篠原ならそれを本当にさせうる力はある。だから、頑張ってくれ」
「あ、ありがとうございます」
ようやく心にゆとりが出てきて空腹を感じたときは、既に大舘さんの姿は見えなかった。昼御飯をおごってもらえれば良かったと後悔した。