向こうへ
「だからあんたって子はダメなのよ……。こんなので他所様に出すなんて恥ずかしいわ!」
姿勢が悪い、食事作法が悪い、成績が悪い、マナーが悪い、……が悪い。
ここ最近、お母さんの小言が急に増えた。一挙動毎に何か言われるもんだから、鬱陶しい。それと不愉快。
「もう、お箸の持ち方がおかしいでしょ!」
特にうるさいのは食事作法。落ち着いてご飯を食べることさえ憚られる。
「体を横にしながらご飯食べないの!」
「そんなこと言ったらテレビ見ながらご飯食べれないじゃん……」
「じゃあテレビを見ない!」
そう言ってお母さんはテレビの電源を落とす。それと同時に、テレビでやっていた、見たかったアイドル番組は映らなくなり食卓には静寂が雪崩れてく。
「あたしが見たかった番組なのに!」
意地になって食事を中断してリモコンを奪おうとすると、寸でのところでお母さんが先にリモコンを手に取り、乾電池を抜き取る。
「ちょっ、何でよ!」
「いいからちゃんと食べなさい!」
こんなやりとりが続いてばかりで、怒りとフラストレーションは限界まで高まり、堪忍袋は爆発寸前。
そんなとある休日のことだった。おやつ時にパートナーのオオタチと、一緒にお菓子をソファーに座って食べていたとき。
最近何かと外出する機会、いや、動く機会が減ったお母さんが珍しく外から帰ってきたとき。
「また靴散らかってる! ちゃんと靴は揃えるの」
「……」
食べかけのお菓子をソファーに置いて玄関に向かう。
ゆっくり歩く母と廊下ですれ違い、めんどくさ気に靴を直すと、今度はリビングから。
「ソファーに座ってお菓子食べてたでしょ!」
まただ。またいちいちそんなどうでもいいことで叱りつける。
リビングに戻ると母―――少し痩せた、いや、痩せ細った―――の体躯には似合わないくらいきつい目付きが待っていた。
「私の娘としては恥ずかしいわ。いっつもいっつも注意されるようなことばっかりして!」
「そんな言い方ないでしょ!」
今まではただ従順にお母さんの言葉を聞いていただけだったが、もう我慢の限界だ。理性より先に口が開く。
「あたしはお母さんの奴隷でもなんでもない! もうこんな家うんざりよ。出てってやる!」
玄関に向かって走り、お気に入りのスニーカーを履いて家を飛び出た。もちろん、オオタチはついてきてくれた。
出際にお母さんが何やら言ったが、聞こえなかった。
もちろんどこへ向かうなんていう計画性は皆無。がむしゃらに走り続け、息が切れたところで止まる。
ちょうど公園のそばだったので、公園の中に入ってベンチに腰かける。
「……」
ここまで来て後悔を感じる。所詮自分は子供なのだ。親の庇護なしでは何も出来ない。お金、いや、財布もないからご飯を食べれない。雨を凌いで安心して眠れる家もない。清潔さを保つためのものもない。かろうじてあるのは、大切なパートナーのオオタチと、ポケットにあった携帯電話。
……さすがに心配くらいはしてくれてるかなぁ。
ポケットにある携帯電話を取り出し、不在着信やメールがあるかを確認する。
しかし驚くなかれ、携帯電話には連絡一通さえなかった。
やっぱり、あたしなんかいらないのかな。
下を向くと、心配そうに見つめるオオタチと目があった。
「ありがとう……」
屈んでオオタチの柔らかい毛並みを撫でる。
陽は早くも暮れて行く。秋のなんとかは鶴瓶落とし、まだそんなに遅くない時間なのに太陽は早くも沈みかけ、街灯が点灯する。
家にいる前提だったので薄着がこたえる。冷たい風が吹き付け、思わず震えそう。オオタチを抱き寄せると、暖かな体温が伝わってくる。
公園にいるマメパトも何処かに飛び去り、人々も家路に着く中、自分を探す人なんてなく、あまりの淋しさに目が潤む。
いや、こうしていたら凍死してしまう。家に帰るしかない。
「オオタチ、帰ろ?」
そろそろ雪が降りそうな寒さだ。
帰ったらどうせ怒られるだろうな。そう考えると足取りは重くなったが、だからと言って帰らない訳にはいかない。
複雑な心境で信号を待っていると、携帯のバイブレーションがけたたましく唸りをあげた。
今日も仕事の、お父さんからだった。
『今どこにいるんだ!』
「え、外だけど……」
『家にいないのを見ればそれは分かる! 場所だ場所!』
「えっと、えっと、市民体育館のそば」
『……距離があるな』
お父さんのため息をつく声が聞こえた。何か用があるのだろうか。
『いいか、よく聞いてくれ。今お父さんは病院にいる』
「えっ、病院……? お父さん何かあったの?」
『お父さんじゃない。お母さんだ。……数ヶ月前からお母さんは結構重い病気にかかってたんだ。それも、寿命を宣告される程の』
意味がわからない。いつもの笑うお母さん、怒るお母さん、いろんなお母さんの顔が脳を駆け巡る。病気だとか寿命だとかそんな話聞いたことがない。
信号は変わった。家の方向とは違う、病院の方向へ駆け出す。
『お母さんとしてはお前にあんまり心配かけさせたくなかったんだろう』
ああ、最近買い物もよく自分に頼んでたし、家事はお母さんのポケモンたちがほとんどやって、お母さんはただじっとしている事が多かった。
ただ怠慢しているだけかと思っていたが、まさかそういうことだったとは。
とはいえ今日もあんなに大声を出していたのに……。
『とりあえず病院で待ってる』
通話は切れた。携帯は直す暇がない、手に持ったままそのまま走る。
なんとか病院につき、お父さんの元に着いた。
こらえていた感情が、ようやく走り終えたこととお父さんの元に無事着けたことの安堵から、溢れ出る。
「あたし、お母さんに、謝らなきゃ、ならなっ、謝ら、ないと」
息が切れたからなのか、嗚咽が止まらないからなのかもはや自分でもよく分からない。
お父さんは何も言わずに抱き締めてくれた。
そののち、一緒にお母さんの病室に入った。
機械音が鳴り続ける病室のベッドで、お母さんは酸素マスクをしていろんなチューブに繋がれていた。お母さんの傍には白衣の医者と、タブンネ。
お医者さんはこちらに向かって一瞥する。
「どう、ですか」
「……。最大限の処置はしましたが」
もう、どうにもならないということか。その現実に胸が締め付けられる。
「もう少し発見が早ければ、まだ何週かはもったんですが……」
発見が早ければ。
もしかして。
家を出たときにお母さんは倒れたのか? 出際に何か言った一言はもしかして……。
ああ、ダメだ。もうダメだ。身体中の力が急に抜けてその場にへたりこむ。オオタチが心配そうに鳴き、お医者さんが驚き、お父さんはどうした、と尋ねる。
「あたしの、せいだ……」
もう涙が止まらない。もし家をでなければ、お母さんの異常にも気付けたはず。いや、出るにしてももう出るときに気づけば。
涙の粒をぼろぼろ流し、大声を散らす。
「あたしが、家出なんて、しなかったら、お母さんはああああああ」
引き裂きたい。自分なんて死んでしまえ、最低だ、軽率だ、愚図でクズで馬鹿で最悪な人間だ。
「もう言いつけちゃんと守るからぁ」
何を言ったところでどうなるワケでもないのに。
「……。お母さんは自分の命が短いのをわかってて、お前にいろんなことを言って叱りつけたんだ。お前が立派に人間になることを祈って。決して意地悪だとかそんなことじゃない」
お母さんの心拍数は徐々に小さくなっていく。
「お母さんの言いつけ、ちゃんと守るんだぞ」
「うん……」
お母さんの手を握る。冷たい。触ってみて、なおのことこの状況が良くわかる。
「お母さんはこれから遠くへ旅立ってしまう。それでもお前のことを見てるはずだ」
「うん、うん、うん……」
「自分がお母さんの誇れる娘だ、って言えるようになるんだぞ……」
「うん、うん!」
突如、断続的だった電子音が、恒続的に鳴り続ける。
「お母さあああん!」
病院の窓の外には今年最初の雪が降り始める。母の旅立ちを迎えるかのように。
今、一つの命が終わった。
そしてあたしは、新たな覚悟を背負った。