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 ジリジリと蝉の声が鬱陶しい。そして暑い。止めどなく流れた汗が伝わってきて眼に入る。視界には壁と地面しか映らないので目を瞑ったままでも別段構わないが、不快なので取り敢えず拭いたい。しかし生憎と両腕は塞がっている。
「『千歳』! えッと、――あ」
 少女めいた()で、自分のポケモンの名と何かを言おうとしている後輩の声が聞こえるが別に見る必要も無い。見なくても大体わかる。
「えと、あッ『もなか』……」
 薄緑色の虫ポケモンに続いて、桃色の丸っこいのもやられたようである。
「ソウだ! 『かるかん』! 糸を――あ」
 お。と思ったが、最後の電気タイプの小蜘蛛も沈んだらしい。相変わらず、瞬殺とも云える早さで終了する。頭が痛い。
 だが――
「『先輩(せんぱぁい)』、終わりマシた……」
「続けられそうならもう一回なー。『ふたば』もよろしくー」
 俺の思考を遮って、間延びした声で呼んでくる『チシュ』。一回一回が酷く短いので、回数はそれなりに行っているがそんなに時間は経っていない筈。まだ水分補給等の休憩は大丈夫だろう。
「ハイ。あ、でも――」
 そう考えていたが、何か言いたそうな様子で言葉が返って来た。『ふたば』は特に何か伝えてこないので『チシュ』達の体力の問題だろうか。
「休憩なら十分で良いか?」
「あ、いえ違いマス」
「あ?」
 ならば、何だ。と金髪青目で背の低い後輩が立っているだろう方に顔を向ける。
 薄目を開けて視界に入ってくるのは、天地が反転した世界。天になった地面から逆様(さかさま)に、地になった空へと向かって立つ後輩とその手持ち達の姿。その奥には俺の相棒のエルレイドが腕を組んで此方を眺めている。
「『先輩』の方こそ休憩した方が良いデスよ? 逆立ちして腕立て伏せし始めてそろそろ一時間デス」
 嗚呼。もうそれくらいになるのか。道理で腕が震えて力が入らない。
「さんきゅー気づかなかった。そうするわ」
 最後にもう一回だけ加重をかけ続けた両腕を更に屈伸させて、終了。
 躰を支えていた壁を蹴り、姿勢を戻す。景色が一気に反転し、地面すれすれにあった頭が上に戻ってくる。ずっと頭を下にしていたからか軽く眩暈がする。そして当たり前だが腕が上手く動かない。取って付けた腕の形をした何かの様な違和感が纏わりついて、何より重い。
 嗚呼。とても良い。生きている。
 腕を震わせてそれを満喫していると、『チシュ』の青い瞳がそちらへ視線を向けている。
「どうした?」
「いえ、血管まで浮き上がってテ格好イイなぁと。ボクも欲しいです筋肉」
 そう言って体操着の袖を捲り上げ、「えい」と腕を曲げて力を入れる華奢な後輩。透き通る様に白い肌が少しだけ隆起して、僅かに力瘤(ちからこぶ)が出来上がる。
「そこまで面倒見きれるか阿呆。家で筋トレでもしてろ」
 壊滅的なバトルの面倒を見るので俺のキャパは一杯である。どころか、むしろ足りていない。
「やってはいるんデスけど、勉強とか、最近は妹とパパとポケモンバトルの試合の動画観たりシテるのでなかなかしっかり出来ナイんデス」
「何処かの髪が緑色の野郎よりよっぽど真面目だな」
 絶望的に弱いが。
 序でに言えば、筋肉がつき難そうでもあるが。
「筋肉は知らねえけど、バトルの方は一歩くらいは先に進んでるんじゃねえの? 一応指示を出そうとしてたろ」
 指示を出した。ではなく指示を出そうとした。ではあるものの、取り敢えず相手の技に怯えて眼を瞑るという事は無くなってきたのでまあ、変化は出てきているのだろうとは思う。思いたい。
「わ。ハイッ!」
 俺の言葉に一瞬眼を見開いた後に一拍おいて、色素の薄い眉が下がり青い瞳が細められ、輝かんばかりの笑みを咲かせて破顔する『チシュ』。とそれに追随してキャイキャイ鳴き始める手持ちの三体。
「おう、馬鹿野郎共。まだスタートラインにも立ってねえわ。指示を出せ。技を繰り出せ。そんで当てろ。後お前らもぼけっと突っ立ってないで位置を取れ。……伝わるかわからんけど」
「あ、全員ちっちゃい頃から一緒なノデ言うことは大体理解してマス」
「そうか。じゃあ全員そんな感じで頑張れ。……よし、水分補給したら再開なー」
 休憩は必要なさそうなので給水だけでいいだろう。
「ハイ! 頑張ります! 『先輩』も『ふたば』もお願いします!」
 元気な小動物の様な後輩はそう応え、手持ちを引き連れて何本か置いてある二リットルのペットボトルの方へと走っていく。
 その様子を眺めながら、
「“さん”は付かないのな」
 敬称を略された双刃の相棒へと足下に置いておいたペットボトルを放り投げる。
 緩い弧を描いて迫るそれを片手で受け止めて、中身を呷る『ふたば』。
「ま、俺も他人のポケモンに“さん”とか付けたことないけど」
 その様子を眺めて、嗚呼、俺の分は残るのだろうか。なんて考えながら、半ば以上独り言じみた言葉が溢れる。
 それに対して最早家族と言い換えても良い時間を共に過ごしてきた強面のエルレイドは。肩をすくめて、軽く苦笑しながら三分の一程中身の残ったペットボトルを投げ返して応えてきた。
「さんきゅ。じゃ、またよろしく頼むわ」
 受け取ったその中身を同じく呷り、気の遠くなる苦行に身を置くことになる相棒を労っておく。羨ましくもある。代われるものなら代わりたい苦痛である。精神的にも肉体的にも中々の負荷だ。
 そんな俺の言葉に、俺と似たような考えで行動しているらしいこの二刀の異形は、ニタリと凶悪な相貌を更に邪悪に歪めて笑い返してきた。
 更に、「お前は?」と言う様に他の同種族よりも数段低い声音で、短く鳴いてくる。
「あ? あー、じゃあスクワットするわ」
 腕は酷使したのでならば次は下半身で。勿論今日も家まで走るので、ここで限界まで痛めつければ良い苦痛になるであろうから。そんな考えで、鏡にでも映せば恐らくは相棒に負けず劣らずの邪悪な笑みでそう返す。

 その後は、ただでさえ『チシュ』が指示を出そうと空回りをしているというのに、その手持ち達も俺の言葉を実行しようとぎこちなく動こうとしてしまい、鬱陶しい蝉の声と相まって俺の頭痛は酷くなった。

秋桜 ( 2016/09/29(木) 01:05 )