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「ふぅ。気持ちイイです」
「ああ、さっぱりした」
コンクリートの打ちっ放しの空間にざ、と水音が絶えることなく響いている。それを背景音に声変わりを終えていないのではないかと疑いたくなる軽ろやか声で息を
吐く『チシュ』の声と、それに応える俺の声、それと四体のポケモン達の声が反響する。
「でも……ホントに良いんデスか? シャワー室使っちゃって」
部活棟にあるシャワー室の幾つもの仕切りに区切られた中、俺の隣の区画で汗を流している『チシュ』とその手持ちのポケモン達。無邪気というか幼い感じもするこの後輩だが、それでも常識は持ち合わせているらしく、悪いことをしているから心配だとその舌足らずな声が言ってくる。
「あ? ほぼ全ての教師を敵に回してる緑の髪したお前の先輩と違って、真面目な俺はそれなりに融通が効くんだよ」
これがあのふざけた格好を真面目にしている悪友ならば、何も気にしないんだろうな、等と頭に浮かびつつそれに返す。あれの教師からの嫌われ具合はなかなかである。決して折れない上に、生徒側では中心で騒いでいるような奴なので二年になった辺りで諦められているようだが。
まあ、俺も真面目というか試験の結果が悪くないだけだが。そして一部の教師には嫌われているがそれはいい。
「序でに、優等生の権化みたいなお前んとこの先輩の力も借りてバトル部顧問を攻略っ、てなー」
緑に髪を染めて至るところにピアスを開け、よくわからない化粧をしてカラーコンタクトレンズまで装着した男とよく一緒にいる以外は全く持って優等生の口利きはとても効果があった。というか緑髪が教師に色々思われていてもどうにかなっているのもこの眼鏡のフォローあってのもののようである。どうでもいいが。
序でに『チシュ』も教師からの覚えが良かったのも効いている。
忙しいので様子を見る事も出来ないがよろしく頼む。とすら言われたが、可愛がられてはいるようだが顧問にさえも匙を投げられているのだ要するに。嗚呼、頭が痛い。
「なるほどデス。ボクなんかの為にありがとうございマス!」
俺の言葉に安心したのか、沈んだ声が跳ね上がる。そのままこちらに突っ込んできそうなテンションの上がり方なので、
「一応言っとくがわざわざこっちのスペースに来んなよ? その全身から溢れて
溢れる感謝の心は眼鏡の方に会った時に抱きついて発散しろ」
釘を刺しておく。だが、
「ハイ。お礼を言っておきマス。でも、女性に抱きつくなんて、そんな破廉恥なことしませんヨ?」
「ん、おう……」
男なら良いのだろうか。よくわからない。
視線を少し下げて、俺の傍らで土等の汚れを流している人に似た姿をしているがしかし肘から刃を生やす異形の生き物ーー『ふたば』の方へと視線を向ける。丁度こいつも此方を見上げていて、視線が合う。
別に言葉を話すわけではないが、隣から聞こえてくる『チシュ』とそのポケモン達のキャイキャイと姦しいやりとりに、同時に苦笑する。どうやら俺の相棒も同じ様な気持ちらしい。
「じゃあ俺らは出るから、お前らはゆっくりしてろ。また明日なー」
別に終えるのを待っている義理もないのでそう言い残し、タオルを巻いて更衣室へと向かう。此処の鍵は刺しておけば気が付くだろう。
「あ! 待ってくだサイ! 僕たちも出マス!」
俺の言葉の直ぐ後に、バタンとスイングドアを開け放ち、そんなに慌てなくてもいいだろうと思うくらいに慌ただしく、一人と三体が飛び出してくる。
「転ぶぞ」
「大丈夫で――ヒャッ?!」
注意したにも関わらず。濡れたタイル地の床に足を取られて仰向けに倒れる金髪の後輩――
「ッたく」
――の腕を掴んで引き上げる。
「すいマセン、ありがとうございマス。びっくりしマシた……」
ほぅッと息を吐いて頭を下げる主人とそれを囲む異形の昆虫二体と丸っこい二足歩行の獣。その様子を眺めつつ、お前等が支えるかそもそも走り出すのを止めるかしろと思い溜め息が出る。
だがそれよりも。
「それはいいからタオルを巻け」
全裸で出てくるな
阿呆。
「あ。ハイ」
『チシュ』が、左手に握ったタオルをいそいそと巻き始める。別に眺めている趣味も無いので置いていく。後ろについてくる『ふたば』の静かな気配。それと。
「わーッ! 置いてかないでくだサイ!」
聞くだけならば女子と錯覚出来るかもしれない声とペタペタと濡れた足音を鳴らして騒がしい気配が追ってくる。
そんなに慌てなくても俺はそこまで着替えるのが早くはない。が、まあ制服は着ないから『チシュ』よりも早いか。
苦痛としか言いようのないやり取りをしつつぼんやりと思いながら、服を着る。俺も『チシュ』も教室に置いていた荷物を此方に持ってきたが、明日からはバトル部の部室に置いておく方が楽かもしれない。
何て考えながらシャツを着ていると、視線を感じた。それもじっと続くのではなく、ちら、ちらと断続的に此方を見ている気配がする。
躰の水気を拭き取った『ふたば』は既にモンスターボールの中に戻している。なので必然的に隣で着替える白色人種の後輩に関係する奴からのもの以外はありえない。覗きが居る可能性もあるにはあるが、男子用のシャワー室なので出来ればそれは除外したい。
目だけを下方に動かして其方を見る。
長い睫毛に縁取られた青い瞳と視線が合った。そして直ぐに逸らされる。そして俺と同様にポケモンはボールに戻したらしく見あたらない。
何か言いたげなその様子に、何だ、と俺が問う前に。
「あの、」
小さい顔に付いた小さい唇が小さく動いて、小さく声が発せられた。
再度。垂れ目で二重の大きな瞳が、何かしら不思議な力でも帯びているように引力のある眼力で見つめてくる。
「ボク達も先輩くらい傷だらけにならなイト、強く、なれないでショウか?」
「あ?」
真剣な目をして。真面目な口調で。真っ直ぐと俺を見ている『チシュ』が問うてくる。
バトルの為にそこまで傷だらけになった覚えは俺自身も、『ふたば』の方にも無い。無いが、
「……ああ。これはそういうのとは関係無い」
顔の一文字の傷痕を含め、俺の躰には火傷痕のケロイドやら大きな怪我の痕が自分でも引いてしまう程度の数残っている。それに相棒の異形の剣士の躰にも俺程ではないが大小様々な傷がある。それをこの後輩は、全部ポケモンバトルの為に付いたものだと勘違いしたようである。
「ア。そうでシタか」
ほぅ、という呼気と共に、着替えの途中でシャツの前を留められていない為に白い肌の覗く胸元で固く握られた拳が
解かれる。
「その、すいませんでシタ」
「あー気にしない方がおかしいから別にそれはいい。……ん、ああでも顔のこれはそうと言えばそうか」
目の下辺りに大きく顔を横断している、肌の引き攣る刀傷を指でなぞりながら言ったことを若干修正する。別に大して変わりないが。
と思ったのだが、この見るからにか弱い後輩にとってはそうではなかったらしく、顔を強ばらせて固まってしまった。
「そ、それはどンナーー」
どんな事をした結果か。別に、特に何か大した事はしていない。
「いや、別にお前が今日やったみたいな事を俺に向かってだけど」
俺の答えに、辛うじて声を出して確認してきた『チシュ』が小動物の様に震え始める。最早、涙目である。なんだか罪悪感が芽生えるが、俺が何をした? 苦痛は喜ばしいことだろう。生きていると実感できる。
と思考した所で気が付く。
「いや待て。別にお前らを切り刻むつもりも無いし、『ふたば』が失敗した時とは状況が
違えし、そもそもお前ら弱すぎて同じ強度でやってねえから」
己に苦痛を課すのはよくあるが、他人に課す程ではまだない。そんな事をしても俺に苦痛はやってこない。
因みに頭を抱える度合いで弱いこの後輩と手持ち達は、あの散々な結果となった模擬戦にもならないあれの後はひたすらに同じ事を繰り返させた。
さし当たっての目標は、“相手の攻撃に目を瞑らない”。眩暈がしてくるが、まずはそれが出来ないとどうにもならないのだから達成してもらわないと困る。正直俺は困らないが、まあ困るという事にしないとやっていけない。
その為に。『ふたば』が“肘の刃の切れ味を無くす峰打ちと呼ばれる技を維持し”、“可能な限り手を抜いた勢いで”放たれる斬撃を避けるか防ぐかすること、というののみをぶっ続けで行った。トレーナーである『チシュ』はそれから視線を外さずに、出せそうなら「避けろ」でもいいから指示を出せと言いつけて。
恐らくはまあ『チシュ』達も疲れただろうがそれ以上に。手は抜きつつも、気を抜いたら惨劇が起こるので集中し続けなければならない『ふたば』の方が疲れたと思う。 更に言うと俺は何もする事がないのでとても苦痛な時間だった。明日は腕立て伏せでもしようと思う。
そして自明だが、特訓初日の成果は無いに等しい。頭が痛い。苦痛だ。故に笑いたくなる。最悪な目つきをした『ふたば』と共に。
「ほ、ほんとデスか?」
俺の発した言葉に、恐る恐る確認してくる
小動物。
「嘘吐いても何にもならんだろうに。つーか、怪我したくねえんならバトルしなけりゃいいだろ」
やる気には満ちているように見えたが、怪我はしたくない。ということなのだろうか。
そもそもポケモンバトルとは野生の
異形の生物に対抗する為に発展した、異形と共に戦うという娯楽なのだからポケモンは勿論、そのトレーナーも怪我をするのは当然だろう。大なり小なり練習と本番の違いはあろうが、怪我はする。しない方が奇跡的である。
そして悲劇的だろう。俺ならば行う事に意味が見いだせずに心が折れる。
「別に無理してやらんでもペットとして一緒に居るのも別に選択としては間違っては――」
「……あッ、違いマスそういう事じゃないんデス。ボクもみんなもやる気は満々デス! 痛くても我慢出来マスッ!」
それでは、何がそんなに怖いのか。それを問うと青く大きな瞳を伏せて答える。
曰く、
「その、パパと妹がとっても強いんデスけど、教え方が“本気で攻撃するからどうにかしろ”という恐ろしいもので……」
「妹はそれで強くなりマシたし、『千歳』もハハコモリに進化もしたんデスけど……強くなる前にバトル出来なくなっちゃうんじゃないかと思うくらいなんデス」との事だが、なるほどこいつらの異様な硬直の理由はそれか?
「なるほどなぁ。因みにその
恐ろしい親父と妹の手持ちってのはどんなのなんだ?」
「パパがサザンドラとギルガルドで、妹がボスゴドラとローブシン、ジャローダにミロカロスです」
「……あ?」
思わぬポケモンの名前に一瞬思考が止まった。別地方のポケモンには詳しくないが、それでも中継のプロの試合等で目にすることもあったり、此方の地方にも居る強いと云われているポケモン達である。
「その仔達が一斉に襲いかかってきマス」
「
怖ぇえ……」
そんな特訓、俺も『ふたば』も硬直する。恐ろしい。そして素晴らしい。なんて羨ましいんだろうか。
「まあ流石にそんな、泳げない奴に重り括りつけて船の上から叩き落とすみたいな無茶はしねぇよ」
何度も云うが俺は他人に苦痛を与えることは好まない。そんな暇があれば自分に課す。なので、暗い顔をしている後輩にはそう言って、とりあえず安心しろと乱暴に頭を撫でてやることにする。
「ひゃッ」
いきなりだったからか、それとも俺の面相が凶悪だからか悲鳴のような声が上がるが気にせずわしゃわしゃと、金糸の様な髪をかき混ぜる。柔らかい濡れた猫っ毛の感触。俺の針金のような髪とは対称の触り心地に少しだけ楽しい。
ぐりぐりと、片手に収まる小さな頭を首が動く位に撫で回し、解放。
「……何でみんなボクの頭を撫でるんでショウ」
「丁度良い位置に頭があるんじゃねえの? チビだしお前」
「先輩がおっきいだけデスそれは。手もパパ位ありマスし」
「序でに態度もでかいぞ。つか、親がでかいならまだ可能性はあるんじゃねえか?」
「ママはちっちゃいんデス……後、二次性徴も無事に終えてマス……」
「そうか……」
変声期を終えてこれか、と言いたくなる高めの声が暗く沈んだ色を帯びて返してくる。
「お姉ちゃん達はおっきいのに何でなんでショウ……そんなにきっちり分けないで欲しかったデス」
とかなんとかぶつぶつと独り言ちているが、後輩の家族構成とか興味はないので放っておく。
「それは残念だったな。ところで俺はもう帰るから、戸締まりとシャワーの機械止めといてくれ」
『チシュ』は着替えの手が止まっていたが、俺は止めていなかったのである。鞄を手にしてそう言った俺に『チシュ』は目を丸くして言葉が途切れる。
「え」
「じゃあな。また明日。ああ、次から荷物はバトル部の部室に置いとけ」
わたわたを超えてばたばたと着替え出したり何やら言ってくる後輩を置いて、扉を閉める。
さて、帰ろう。高校に進学してから縁のない、部室棟の薄暗い埃臭い廊下を出口へと歩いていく。俺達くらいしかいないからか、それともそもそも設置されていないのか冷房は効いていないのでシャワーで流した汗がまたじわりと浮かんでくる。
不快だ。
しかし。それでも屋外よりはマシだったらしい。外にでると赤々とした夕陽が沈みかけているのに、暑い。粘つく熱が躰を包むような不快感が俺を襲ってくる。
ところで。着替えた俺の服装は制服ではなく、薄手のシャツにハーフパンツである。このべとつく暑さを、マラソンよろしく駆けて下校するのだから当然の選択だ。
それだけでも苦痛なのに『チシュ』との放課後に使う服が増えているので背負うメッセンジャーバッグも常より僅かに重く、それなりに嵩張る。
嗚呼。素晴らしい苦痛だ。それを感じる事の出来る俺は生きている。そう思う。
なあそうだろう『ふたば』。校門でモンスターボールを解放し、召喚した相棒へと視線で話しかける。
長年の相棒であるエルレイドは、凶悪な顔をあの可愛らしいという他無い後輩達ならば竦み上がる形に歪め、ギシリと笑い返してきた。