放課後。屋上。事ある毎に絡んでくる緑髪の友人とのやりとりを終えて今日も俺はここに居る。
 そして、コイントスの結果は今日も裏。いつもの様に眼下の様子を眺めるが、しかし今日からテスト前の部活動原則休止期間なので校庭に人の姿はない。
 のだが。そうでなくとも常から人気のない筈の死角のスペースに、昨日に引き続き今日も人影があった。但し今日は人間は一人、ポケモンは二体――否、此処からは見えないが恐らくはもう一体あの小さな蜘蛛が居るだろうから三体か。
 朝のあの時も真剣そうだったが本当に俺のことを待って居る姿を見て、本気なのだなあ、と少し感心する。そしてかなり辟易する。正直な話面倒臭い。だがしかし、嫌だということはこれも新しい苦痛である。ならば、まあ良いか。あまり強度はなさそうではあるけれど。
 あまり気は乗らないが、一応約束してしまったのでだから行くしかない。炎天下で溜息を吐きながら、同じく下の様子を伺って深く息を吐いている『ふたば』を伴ってそこにと向かう。
 まず俺達を迎えたのは蝉の声。耳奥まで突き刺さる幾多も重なった不快音。
 そして、
「あ、先輩ッ!」
 日陰とはいえ蒸し暑い中を待っていたというのに、俺達が体育倉庫の裏に密集した雑木からやって来ると満面の笑みを浮かべて駆け寄ってくる体操服姿の小柄な後輩とそのポケモン達。
 放課後とだけ指定して時間の設定はしていなかったが、屋上から見た時点で居たこいつ等は俺が一旦教室に戻り体操服へと着替えていた時も待っていた事になる。勝手に待っていたのはこいつらだが、もう少し不満顔でも良いとも思う。
 なんて此方に向かって駆けて来る姿を眺めながら思っていると。
「先輩? どうしマシタか?」
 思ったよりも早く傍までやって来たそいつが俺を見上げ小首を傾げる。緑髪のあいつよりもかなり短く整えられた、緩くウェーブした淡い色味の金糸の様な髪がさらりと揺れた。
 髪と同じ色の睫毛に縁取られた二重で大きな瞳の中の、硝子玉の様に青く澄んだ虹彩が真っ直ぐと俺を見つめてくる。
「ああ、いや何でもない。『チシュ』、だっけか。暑い中待たせて悪いな」
「いえ、そんな。来てもらえるだけで嬉しイデス!」
 慌てた様子で両手を小さく振ったと思えばその手を胸の前でグッと握ったりと色々忙しない。
 肩に黄色い小蜘蛛を乗せてニコリと咲う金髪青眼のこの後輩は、自分のことを『チシュ』と周囲の人間に呼ばせているそうだ。無論、俺にもそう呼んで欲しいと言っている。今朝の唐突な頼みをされた際に自己紹介はされているが名前で呼ばれたくないらしい。愛称を自身で決めてそう呼ばせるのは理解出来ないが、一応理由はあるのだそうだ。
 曰く、「皆ボクを呼ぶ時に女の子っぽいとか思ってそうだから嫌なんデス。名前自体は好きデスし、由来も格好いいんデスけど」。
 親の国では男性名らしいが、他の国での女性名の印象の方が何となくだが確かに強い。ならば普通に姓で呼ばせればいいだろうと返してみれば、
「それは何だか距離があって嫌デス」
 結果、姓から一文字抜いて『チシュ』。不思議な響きだが本人が満足してるならそれで良いような気もする。姓で呼ばれるのは嫌なのに姓の方で愛称を作ってそれでいいのか? とは思うが。
 俺の生返事の後に僅かな沈黙。
「あの……?」
 急に怯えた小動物の様におどおどしながら上目遣いに俺を見る。少し震える円味を帯びた顎から汗が一滴零れ落ちた。
「あ? ……ああそうだ、ほれ」
 来る途中で自分達のを買う序に買っておいたミネラルウォーターのペットボトルを渡してやる。
「わ。ありがとうございマス! 『千歳』も『もなか』も『かるかん』も一緒に飲もーッ」
 受け取ると一転笑顔になって自分のポケモン達と分け始める。何が由来かいまいちわからないし統一感は無い気がするが、手持ちの愛称の響きは此方風だ。『もなか』は菓子のあれだろうから響きだけで決めているのだろうか。
 耳からクルンと触覚の伸びるピンクで二足歩行の獣と、葉を纏った様な姿の二足歩行の昆虫型の口へとボトルを傾けて、肩の小蜘蛛にはキャップでもって水を分けた後、そこで漸く『チシュ』も飲む。二口三口美味そうに飲んだ後、
「先輩達も飲みマスか?」
 きゅぽん、と飲み口から唇を離して訊いてきた。
「いや、俺達は来る途中で飲んだ」
 『もなか』よりは『すあま』っぽいよなぁあのピンクの。なんて考えながらそう返すと「そうデスか」と喉を鳴らして残りを飲み干す。
「ふぅッ。ごちそうさまデシた」
 ペットボトルを胸に抱き頭を下げてくる。二足の二体も同様に。肩に乗る蜘蛛は小さく鳴いた。
 また適当に返しておく。
 それにしても、呼び名も不思議だがこいつの距離感も不思議である。なんというか、近い。あのピアス男も馴れ馴れしいが、『チシュ』はそれとはまた違う。なんというかするりと懐に入ってくるような。そんな感じか。……どうでもいい。そんな事よりも。
「で。朝の話だが、お前はどれだけ弱いんだ?」
 空になったペットボトルをこの木々や建物によって校庭から隔絶された空間の端に置きに行くと歩き出したその背に問いかける。
 ポケモンバトルを強くして欲しいという事と、少しばかりの会話をしただけでこの金髪の後輩は部活の朝練に行ってしまったのである。最後に、放課後に此処で待っていると告げて。
 そんな短いやりとりで僅かに得た情報はといえば、朝っぱらから二年の教室にまで押しかけて、ほぼ接点の無い俺に自分を強くして欲しい等と言ってきたこの後輩はポケモンバトル部の部員で、そしてどうしようもなく弱いのだそうだ。夏休みに入った直後にレギュラー決めの部内でのバトルがあるらしく、それに向けて強くなりたい、らしい。らしいが夏休みに入るまで二週間程しかない付け焼き刃を、関係の無い俺に頼むのはおかしい。そもそもバトル部ということは、つまりは奇抜な髪色の奴と小柄な眼鏡女子と関係が深いのであるこいつは。
 ならそっちに頼めば良いだろうと言えば、「『ピアス先輩』も『委員長先輩』もレギュラーなのでこれ以上手を煩わせるワケにはいかないんデス……」だそうだ。
 制服のズボンをぎゅ、と握り俯くその姿に何とも言えない罪悪感を感じて引き受けてしまったが、よくよく考えるとこいつは俺の手は煩わせても特に何も思わないらしい。
 天使の様な形をしていてその実、魔性なのではなかろうか。
 なんて考えている事は勿論知らない後輩は俺の問いに振り返った『チシュ』はぎゅ、と手の内のペットボトルを変形させながら俯いて、形の良い唇を震わせて発したか細く小さな声で答えた。
「同じ一年生達には“まぁ、強い弱い以外にも大事なことってあるよ”と慰めらレました。『ピアス先輩』には“あ、(わり)い、これ無理だわ”って見てもらって十五分くらいで諦めらレテ、『委員長先輩』には“ごめんね、でも私の手に負えない”って匙を投げられマシタ。他の先輩達も似たような感じデス……」
「……お、おう」
 予想以上だった。頭が痛い。部外の、関わりの薄い俺に頼んでくるのも頷ける様な気がする。
「まあ、実際見てみない事にはわからないか」
 万に一つ。或いは億に、京に一つの可能性としてバトル部員全員が壊滅的に教えることが下手な可能性もある。ゼロじゃない。阿頼耶(百垓分の一)よりも小さな確率かも知れないが。
 嗚呼、そうだゼロじゃない。そう自分を誤魔化して奮い立つ。
 そう。自分を誤魔化すしかない。もう逃げられないのだから。
 この金髪青眼の『チシュ』の現状を聞いてしまった以上、俺まで投げ出す事が出来なくなる。俺もが匙を投げるとこの弱々しい後輩は可哀想な事になるであろうから。
 それを放って置くのは、良いか悪いか。悪いだろう。そこまでわかっていながら投げ出してしまうと俺は顔向けが出来なくなる。誇れる俺でなければならないのだから逃げられない。
 苦痛だ。だが良い。それを感じるということは生きているということだ。俺は生きていなければならないのだから何よりも大事なことだ。
 その事をよく理解していて尚且つ同様である相棒も、眉間にしわを寄せた顰め面で長く長く息を吐く。
「百聞は一見に如かず。つーわけで『チシュ』。先ずはお前の手持ちと『ふたば』で模擬戦してみるか」
「――ハイッ! ……あの、どの仔にしたらいいのデショウ?」
 ピン、と背筋を伸ばして返事をしてくるが、自分の手持ちのポケモン達を見渡しておずおずと訊いてくる。
「ん。ああそうか。どうするかな」
 選択肢は三つ。
 一。掌大の黄色い蜘蛛。
 二。躰の一部が植物の葉の様な二足歩行の昆虫。
 三。桃色の体毛で躰つきのなだらかな二足歩行の獣。
 どれがどういったポケモンなのかは知らないが、一と三はバトル向きには思えない。
 対して此方の『ふたば』は種族的には平均的だが低くない身長をもつ人型で、両の肘からは伸縮自在の刃を生やし、終いには念動力等を繰るエルレイドと呼ばれる種だ。傾向的に大人しいと云われるが、それでも高い戦闘能力を有している。
 ならば。『チシュ』の手持ちの中で唯一、両腕が葉状の刃となっている二の虫ポケモンが一番戦えそうに思える。
 けれども、昨日の屋上からの情景が脳裏の浮かぶ。あのヤルキモノの先輩はそれなりに強かったが、それでも三体出しているにも一方的にやられていた姿を。
 どれだけ弱いかは分からないが、とにかく弱い。本人も部活の連中も知っているし、俺も知っている。そしてそれがどう弱いかを知りたいのだから。
 なので。
「面倒臭いから纏めてかかって来い」
 こうなった。
「ハイッ! よろしくお願いしマス! 『かるかん』も『千歳』も『もなか』も頑張ろうネッ」
 手に持ったゴミを置いて、ぐ、と両の手を胸の前で握って意気込んだ青い眼の後輩。同じくそれぞれの動きで意気込んでいるらしい手持ちのポケモン達の名前を呼びながら、この空き地の中央へと送りだす。そして自身は三体の後方へと小走りで向かっていく。
 その様子から、黄色い蜘蛛が『かるかん』。耳の大きな桃色の獣が『もなか』。二足歩行の昆虫が『ちとせ』らしいということが分かった。位置にと着いたトレーナーを含めて全員がやる気に満ちた瞳で俺達を見つめてくる。
 さて、どれほどか。
「じゃあ宜しく『ふたば』。嗚呼、勿論全部みねうち(峰打ち)で。ねんりき(念力)も威力は抑えて、直撃は無しだ」
 ざ、と一歩踏み出す新緑色の刃を生やした相棒へと一応声をかける。
 俺の言葉に、凶悪な目付きを睨め上げた形で振り返られる。そして小さく首肯。見た目は悪の権化だが中身は誠実なのだ俺の相棒は。
 頷き返し、離れた場所に立つ『チシュ』達の様子を観察する。
 トレーナーが垂れ目がちな大きな瞳が瞬きすら忘れて此方を凝視していて、そのポケモン達も同様に全身を強張らせて真っ直ぐと視線を向けてきている。この時点で力が入りし過ぎだ。もう少しリラックス出来ればいいんだが。
 なんて思うが、今言ったとしても更に固まってしまう事が自明なので後に回す。
 考えている間に『ふたば』が歩を止める。『チシュ』達と程よい距離を空けて半顔を向けて振り返り、小さく低く鳴いた。
 長い付き合いであるため、何を言わんとしているのかは何となく理解できる。
 嗚呼そうか。合図はどうするかな。別に俺が声で出してもいいんだろうが、何となく雰囲気が違う気がする。じゃあ、まあ、これか。
 俺は体育用のハーフパンツのポケットに入れていた財布から何時もの硬貨を取り出す。
 摘んだそれを緊張状態が継続中の金髪青眼の後輩へと示して、
「これ上に弾くから、地面に落ちたら開始な」
 そう伝えると、硬直して裏返った声が返って来た。色々と心配だが硬貨の中で一番大きな物なので、あんな状態でも取り敢えず見逃す事は無いだろうと思う。
 さて。漸くだが、始めよう。硬化を親指に乗せて、弾く。
 硬質な残響が蝉共の濁音を切り裂いて響く。
 コインが地面へと落ちるまでの間に。意識を、感覚を研ぎ澄ます。
 くるくると。回り落ちる硬貨を視界に入れつつしかし凝視はしない。フィールド全体を捉えるように視野は広く。
 金髪青眼の後輩達はグッとコインを見詰めている。……嗚呼これは予想以上かもしれない。
 何て、負の方向への予感が(よぎ)る。が、一先ずは一戦である。
 そしてその頭の隅で行われた思考の間に。コインはほぼ落ちていて。とす、と剥き出しの土に落ちて僅かに済んだ音を響かせた。
「突撃。黄色いの」
 言下瞬間。『ふたば』が一気に距離を詰める。
 ふ、と下方に脱力し、その勢いを横への移動に繋げ一歩で三歩以上の間合いを詰める白い剣魔。緩やかな動作にしか見えないのに、不自然に早い独特の走法によって彼我の間に有る空間を瞬く間に走破して肉薄。勢いはそのままに右肘の刃を振りかぶる。
「あ、『かる――」
 そこで漸く『チシュ』が声を上げる。しかし、遅い。決定的に遅すぎる。
 意味のある言葉と成る前に、肘の刃が振るわれる。
 迫る斬撃に対して、黄色い小蜘蛛は――
「……『ふたば』」
 ――只々硬直して動かない。否、動くことすら忘れているのかこれは。
 そこまで確認し、思わず掌で顔を覆った俺の呼びかけの意図を、長年の相棒は汲み取ってくれた。
 先ず斬撃を中断。寸止めする形で静止。次いで小蜘蛛の目線までしゃがみ込み、左手の三本指の真ん中の指で弾く。
「次はピンクので」
 ぴッ、と仲間がデコピンで飛ばされる小虫の様に飛んでいくその様を、あろうことか目で追っているピンク色の獣。そちらへと伏せた状態から跳びかかる『ふたば』。
 地を這う低姿勢のまま肉薄し、その短い脚を掴みぶん投げる。悲鳴じみた鳴き声と共に地面を転がるのを最後まで見ずに、
「はい、最後よろしく」
 瞬く間に味方が吹き飛んであたふたと視線を泳がす二足の昆虫に向かい飛び上がり、頭上からその脳天へ、とん、と軽く手刀を落とす。
 それでも勢いが強すぎたのか、前のめりに地面へと崩れ落ちる最後の一体。
 その様子を見て。散々なその様子を確りと眺めて。暗澹たる気持ちになる現状を確かに見てしまって、俺は。
「ある意味お疲れ『ふたば』。――そして、嗚呼、うん。酷いな。絶望的に」
 立ち尽くす後輩へと、思ったことをそのまま言っていた。
「……ハイ」
 グシグシと目元を擦り、ぐす、と掠れた涙声で返してくる、金髪で白い肌の後輩。端から見るとなんだか俺が苛めているようである。
「まあ乗りかかった船だし、予想以上に苦痛そうだから付き合うけど、強く成れるかは知らねえぞ」
「……エ?」
 俺の発した言葉にそうでもなくても大きな瞳を見開いて凝視してくる『チシュ』。技も使われずに倒された三体も起き上がって俺達を見つめてくる。
「まだ続けてくれるんデスカ……?」
「弱い強いとか云う以前の問題だから、バトルっぽくなれば上等って感じだがなー」
 なんだか震えた声の『チシュ』の言葉にそう返し、情報量が多くなる三体一気にというのも悪かっただろうか、しかしそれ以前に――
 なんてこの後輩とその手持ち達をどうすれば良いか考えを巡らせていると。
「ありがとうございマス!!」
「おわッ?!」
 いつの間にやらその後輩が駆け寄ってきていて、勢い良く抱きついてきた。
 視界の端に俺同様に抱きつかれる、そして三対一なので俺より大変そうな相棒の姿が映る。
「先輩! よろしくお願いしマス! 頑張りマス!」
「お前らの意気込みは充分に伝わったから離れろ。暑苦しい」
 力を入れたら壊れそうな繊細で華奢な(なり)で、力一杯に引っ付いているそれをしかし無理やり引き剥がす。男に抱きつかれて喜ぶ趣味はない。
 無いが、潤んだ青い瞳で見上げ満面の笑みを咲かせるこの後輩は。炎天下で汗をかいているにも関わらずふわりと淡く甘い匂いをさせるこいつは同じ生き物(おとこ)なのかと疑問にも思う。

秋桜 ( 2016/05/17(火) 20:09 )