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放課後。
二年にと進級してから続く日課を果たしに、いつもの様に立入禁止の屋上に侵入した俺達に、梅雨が終わった事により生温いと言うよりは熱いと言うべき風が纏わり付く。
照りつける太陽は直上からはずれてはいるが、そんな事は瑣末な事だと言うが如くにかなり蒸し暑い。まぁそれも良い。延々と降り続ける五月雨の下で傘を片手に立つのも良かったが。
空を仰ぎ見る。雲一つなく澄んでいる。落ちていく様な錯覚に陥る程に底の無い青色。瞳を突き刺す太陽光。遮る物の無い場所でただ立っているのは辛い。だが辛いと感じる事は生きているということだ。ならば良い。
流れた汗が眼に入る。
「
痛……ああ『ふたば』、そんな目で見るな。ただでさえお前の目付きは悪いんだから」
目を指で拭っている最中に、俺へと向けられた視線の方へと向いてそう言ってやる。
恐らくは「早くしろ」とでも訳せばいいのだろう表情で、此方を凝視する『ふたば』。幼い頃からの相棒は小さく可愛らしかった姿はとうに捨て去って、両肘に緑色の刃を生やした男性的なフォルムへと変わっている。
フィクションの中では主に正義の味方が連れている種なのだが、トレーナーである俺に似たのか絶望的に目付きが悪い。蛇睨みなど使えないのに相手が竦んで動かなくなる事があるくらいに目付きが悪い。
そんな凶悪な面相の相棒が、俺の胸辺りの高さにある顔を傾け此方を見上げている。そして短く鳴いた。
急かされている。
特に遅らせる事情なんてものは無いので適当に返しつつ、スラックスのポケットに入れていた財布の中から薄金色の硬貨を取り出す。
それを立てた拳の親指の上に乗せ、弾く。
キィン、と高い音をさせて回転しながら上がっていく硬貨。当然そのまま落ちてくるそれを、弾いた手で受け止める。
ぞわり、と怖気の走る緊張感。嗚呼。良い。
暑さからとは違う汗を流しつつ握りこんだ掌を開くと。
「裏か」
五〇〇と数字の刻まれた面が見えていた。
「昨日も訊いたけど、お前何もしてねえよな?」
俺の問いに凶相の相棒は小さく首肯する。何もしていないらしい。
ならば何故、四月から欠かさずコイントスし続けているのに裏しか出ないのか。
「……まぁ、今日じゃなかっただけか」
そう。今日ではなかった。だが明日かもしれないし、しかしそうでは無いかもしれない。ここまで裏の続く事は気の遠くなる確率だが、それでも表が出る確率も裏の出る確率もどうせ二分の一である。
こんな、どうでもいい事をする為に鍵がかけられた校舎の屋上に忍び込むのが俺達の日課だ。それもあっという間に終わってしまった。いつもの事だが。
硬貨を仕舞いつつ、何気なしに周囲を見渡す。
これまたいつも通り殺風景だ。砂や土埃に汚れた地面。あるのはパイプやら貯水槽やらその程度。後はあればいいだろうとでも開き直ったかの様に脆弱そうな金網が周りを囲っているくらい。
校門からは反対側にあたる側の方向へと歩を進め、その金網へと近づく俺。
その向こう側。四階建ての校舎の上から見下ろす校庭には、よくわからない声を上げながら、部活に勤しむ奴らが小さく蠢いている。競技者の時は意味のあるものだったが、興味がなくなるとこうも聞こえ方が変わるものなのだなと感心する。楽しかったし辛かったが、中学の時の事があるのでもう関わる事は無いだろう。悪いことをした、とは思う。だが足りなくなってしまったのだからしょうがない。
内に向いた思考を外へと向け直す。中学や他の高校と比べると広いと思う校庭で活動しているのは、サッカー。野球。テニス。ソフトボール。陸上。等など。そして、ポケモンバトル部。
正直他の競技とは違ってそこら辺で草バトルでもすればいいとさえ思うのだが、学校対抗の大会などもあり人気の部活らしい。もう興味は無いのでよく知らないが。
ついでに代々そこそこ強いらしく、それなりに広いこの学校のグラウンドに数面専用のフィールドが設置されている。しかし、そんなに強い印象がない。今年はちゃんと見物していないが、少なくとも去年はレギュラーでなかった奴らは弱かったと思う。
なんて勝手で失礼な感想を抱きつつ、その様子を眺め見る。逸れた火の粉やら電撃やらが他の部活の連中にいかないように、中々に高い壁に四方を囲まれたフィールドの中。そこでは幾人もの部員達が自分のポケモンと共に技を磨いたり基礎トレをしていたり、はたまた何人かが一箇所に集まって何やら話し合っていたりと騒がしく活動している。
ところで。地獄のような暑さの中、別段何をするでもなしに無防備に己とは関係のない部活動の様子をポケモンと一緒に眺めているのは、痛い。
陽射しも痛い。挙動も、イタい。
まぁそれも良い。無駄な事をするのも生きているということだ。
だらだらと汗をかきつつ他の部活も暫くの間俯瞰して、ふと視線を外したその先。校庭の端にある体育倉庫。その裏手。テニスコートとは離れているのに何故か壁打ち用の壁がある空間。普通は用の無いだろう人気のない、校舎と体育倉庫と取り囲む様に生えた葉の茂った樹木とで作られた死角で。
何故かポケモンバトルが行われていた。
珍しい。少しだけ興味が湧く。
その死角を見下ろせる位置へと生き、眺める。
そこに居る人間は四。ポケモンは……確認出来る限り三。人間の内二人は端に立ち中心の二人とそのポケモン達の様子を眺めている。笑いながら。
木々に囲まれているからか、蝉の鳴き声がノイズの如く響くその中に、これまた耳障りな笑声が混ざっている。
そこまで大きくないし、部活の声に紛れているが、確かに哄笑している。
では何がそんなにも可笑しいのか。
それは行われているポケモンバトルの内容だろう。屋上から眺めているだけで理解出来る。
いやしかし、「君のは僕達のするポケモンバトルじゃない」と言われた事のある俺から見てもこれはポケモンバトルと言えるのだろうか疑問である。
二と一に分かれ戦っているポケモン達だが、攻防が一方的なのだ。それも一体の方のワンサイドゲーム。
為す術無く打ち据えられて倒れる黄緑と桃色の二体。けれども息も絶え絶えに立ち上がるその背後には。
蹲ったトレーナー。
一の方には容赦が無く、二の方には救いが無い。
故に。嗚呼。
良い。
低い咆哮と共に駆ける白き一。とどめを刺すのだろう。
「『ふたば』」
目線は地上にやったまま、隣の相棒へと声をかける。頷く気配。人よりも若干低い体温のその手が俺の背に触れる感触。
直後。僅かな暗転。続く浮遊感。地面が唐突に消え去ったかのような不安感。扉一枚壁一枚程度ならまだ良いが、まあそれでも事故の起こる可能性もあるし、そもそも何度体験しても慣れない不快感からあまり距離のある移動には使わない技テレポート。だがそれ故に使う際はとても良い。
不快感もそれはそれで良い。ああいう奴らを蹴散らすのも、それはとてもとても良いことだろう。
だから。俺達は。そこに行かなければならない。
瞬いた刹那。俺達は屋上から地上にと移動し終える。現れた位置は突撃してくるポケモンのその眼前。その隣に相棒。次の瞬間には眼前のポケモンの挙動は攻撃にへと移っており、鋭い爪の生えた白い毛並みの片腕が振りかぶられる。真正面に立つ俺へと向けて。
突然の乱入に大きな目が揺らぐがそれでも爪撃は止まらない。
地味だが確かな威力の切り裂く攻撃は只の人間が受けて無事でいられる筈がない。
袈裟懸けに風を切り裂いて迫る凶爪。跳び退いて躱す余裕もない。そもそも避けるつもりもない。
俺よりは四〇センチメートルは小さい筈の体躯が視界を埋める。
鋭く響く哮り。血走った眼。荒い吐息。そして獣臭。
恐い。
恐ろしい。
背筋が凍る。汗が噴き出す。息が詰まる。早くなった鼓動が大きく耳奥に響く。
だが、躰は動く。この程度の恐怖では硬直には至らない。
秒にも満たない先に俺にと届く黒く鋭利な爪。
靭やかに振るわれるそれが生えた長い腕。
圧縮された時間の中でその軌跡を読み。
引きつけ。
「ぐ――」
横合いから掴んで無理矢理にその軌道を捻じ曲げる。
「――があああッ!」
無意識の吠え声。渾身の力を込めた結果、獣の力を力任せに逸らす事には辛うじて成功。だが全身が軋みを上げる。
心が凍りつく様な恐怖。反して傷んだ躰は熱さえ帯びる。
心と躰に対極で同質の感覚を刻まれる痛苦。
嗚呼! 今、俺は、生きている!
自然、口角が上がるのを自覚する。
一息吐く間も無く、大型の猿めいた低いがけたたましい声が上がり掴まれた腕を振り払われる。閃くもう片方の腕。
それが俺に届く前に。
相棒の拳がそのあばれザルの腹へとめり込んだ。
濁った呼気とも苦鳴とも言うべきものと共に地面を転がり、主人であろう奴の足下で止まる。技でも何でもない只の殴打なので直ぐに起き上がるだろう。
そこで漸く一息吐く。
ジワジワと蝉の合唱は止まらず続いている。
「ナイスタイミング」
常通り凶悪な顔をして佇む相棒に声をかけ、視線を動かす。
口を開き、眼を見開いて此方を見ている三人をよくよく眺めてみる。嗚呼、こいつらは。
「なんだ。先輩達でしたかバトル部の」
三人共見覚えがあった。似たような色に脱色された髪をこれまた似たようにワックスで固め、夏服の白いシャツに緑青色のネクタイ。以前に見たのは一年前だがあまり変わりない。
「相変わらず中途半端な実力で、レギュラー陣の居ない所で自分より弱い奴とやって楽しんでるですかね?」
ゆるりと両腕を広げ、順繰りに視線を向けてそう言ってやる。あからさまな挑発だが、効いたらしい。ヤルキモノのトレーナーが顔を怒気に染めて口を開いた。
ので。何か言葉を発される前に。
「でも、そんな微温いの楽しくないでしょう。もっとギリギリに挑戦しましょうよ」
更に煽ってみる。一年前にも同じ様な事をやったので更に怒らせなければ良くはならない。
「弱い奴は強い奴の言う事を聞け。が先輩達のルールでしたよね。――なら俺より弱かった先輩達は言う事聞いてくれますよね?」
正確には俺達より弱い奴は強い俺達の、なのだろう。こいつらよりも強かった部員の言う事を聞いてはいなかったし。
隣で相棒が臨戦態勢に移るのを気配で感じる。
「そのヤルキモノも去年より強くなってますし、あとの方達も強くなってるんでしょう? ――だったら全員手持ち全部繰り出して序にお前ら自身もかかって来い!」
それならまあ、俺達もどうなるかはわからない。
その後に起こるかもしれない事態を思い描いて気持ちが昂ぶる。同時に背筋が寒くなる。これは恐い。そして痛いだろう。ならばそれはとても良い。生きていると実感出来る。傍らの相棒も同じ気持ちのようでちらりと見れば、ニタリと口元が歪んでいる。
僅かな沈黙。
校舎の影に入っているが、風が吹き込まないので淀んだ熱気が全身を舐る。高まる期待と緊張で上手く呼吸出来ない。
だが。俺の思いとは裏腹に、三人組は何か悍ましい物でも見たかの様な反応と捨て台詞を残して行ってしまった。
期待外れである。
ち、と舌を打つ。そのまま、教室に戻り荷物を取って帰ろう。そう考えて歩き出す。
「あの……」
数歩歩いた時、背後から大音量の蝉の声に掻き消されそうになりながら、小さく声がした。
「あ?」
振り向けば、金髪青眼の……男子、でいいのだろうか。
控えめに言ってガタイのいい俺は勿論、平均的な体格の俺の相棒よりも、五センチ程低い中性的というか女子寄りな見た目。だが着ているのは男子の制服。ネクタイの色が紺なので一年か。
「あの、助けていただいてありがとうございマシタ!」
土に汚れたまま勢い良く頭を下げられる。緩く波打つベリーショートの髪が揺れる。
微妙に変なイントネーションで発された声は、女子としたら微妙に低く、男子だとしたら妙に高い。どっちだ。
……まあ、どうでもいい。それに多分男だろう。自分より弱い女の子には格好つけるだろうに違いないから、あの先輩達は。
「ああ、俺は俺の為に来ただけだから気にすんな」
だからとっとと帰らせろ。と言外にこめて返す。同時に、そいつが両手の上に乗せたポケモンが視界に入る。
ポケモンにしては小さな、黄色い蜘蛛。何と言ったか。この地方では珍しかった気がする。ともかくその小蜘蛛が、力無くぐったりと掌の上に乗っている。
やられていたのは三体だったか。後の二体は葉を纏った二足歩行の昆虫っぽいのだったり、桃色の毛をした耳の大きな丸っこい外見のだったりと、此方もこの地方ではあまり見ないポケモンである。小蜘蛛程ではないが、この二体も相当傷ついている。
しかしだとすると、相当弱いなこいつら。
「ほれ。早くポケセン連れてけ。蜘蛛殺しちまうと地獄に落ちても糸すら下りて来なくなるぞ」
「あ、はいッ。ありがとうございマシタ! ごめんネみんな……ありがと」
慌てた様子で傷ついた手持ち達をボールに戻し、俺達に再度頭を下げて、そして駆け出す金髪青眼の後輩。
「ア」
「あ?」
そのまま走って行くのかと思っていたら急に立ち止まる。同時、あんなに喧しかった蝉のさざめきがピタリと止まる。
「でもボク、その蜘蛛のお話、好きじゃないデス」
そして僅かの静寂の中、そいつは振り返ってそんな事を言ってくる。
なんだこいつは。
だが。
「奇遇だな。俺もその話は嫌いだ」
喩えに出したが俺はその話が嫌いである。なのでそう返し、早く行け、と手で示す。
それを受けてその後輩は、土で汚れた顔でにぱッと
咲い、最後にもう一度頭を下げて今度こそいなくなる。
さあ、荷物を回収して俺も帰ろう。
相棒の『ふたば』を促し歩き出す。
ふと思う。無駄に高い身長でガタイもよく、目付きが悪いうえに終いには顔に真一文字の傷がある俺も、あのような可愛らしい
形だったならば。そうならばあの三人組もかかって来たのだろうか。
なんて考えていて、気が付く。
何事も無かったように何時の間にやら蝉達は鳴くことを再開していた。