ビードロを吹く獣
ビードロを吹く獣
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 折角の休日なので家の在るハジツゲタウンを西に行った114番道路をふらりと散歩することにした。両手に作物を育てている畑が連なっている道を抜けて特に行き先も考えずに道なりに進んでいく。
 今日は余り火山灰が降っていない。酷い時は外に出てはいけなかったり、そうでなくともマスクを着けなくてはならないのでこういう日は嬉しい。気分が晴れる。
「毎日こんな程度ならいいのにねー」
 なんて隣を歩くポケモンに話しかけながら、手に持っていた青い硝子製のそれから伸びた細長い筒を口に咥える。
 風鈴の口を薄い硝子の膜で蓋をして、天辺から同じく硝子製の細い筒を突き刺した様な形の変なそれ――青いビードロ。ポッピンやらポッペンなんて呼ばれもするらしいそれに息を吹き込んで、そして口から離す。
 ――ペコペコ。ペコポコ。ポコペン。
 それを繰り返すとそんな不思議な音色が奏でられる。楽器の様な綺麗な音を鳴り響かせるわけではないけれど、何と言うかこういうのも好きだ。昔は一年の厄を払う音だったらしいけれど、確かに鳴らしていると楽しくなってくるからそんな力もあるのか知れない。
 ――ポコピン。ペコペコ。ポコペン。
 好き勝手に鳴らすその音に合わせて、先端が絵筆の様になった長い尻尾を振り回しながら隣を歩く僕のポケモン。まるでベレー帽を被った二足歩行の犬の様な姿をした、絵描きポケモンのドーブル。名前は『ガハク』。
 ――ポコペン。ポコピン。ペコペコ。
 そのまま、ビードロを吹く以外には特に何をするわけでもなしにふらふらと歩き続けて、湖にと掛けたれた橋の中頃にまで来た時。
 ――ポコ――
 突然、ガハクが鳴き声を上げた。
「ん? どうしたの?」
 警戒を促す様なその鳴き声。普段は寡黙な彼は声を上げること自体が珍しく、それ故に何事かと視線を向ける。ガハクの視線は橋の外、深い青色をした水を湛えた湖にと向けられていた。
 僕達の居る橋から離れていない一点を凝視するそれに釣られてそちらに視線を移す。
 その時。
 ザパァ、と水の中から人の手が突き出てきた。続き、鋭い爪を有した赤い体毛を生やした獣の腕も現れる。
 唐突な事態に思考の止まる僕とは裏腹にそれら水の中から現れた二種類の腕は、それぞれ二本となって欄干も何もない簡素な橋の縁を掴む。
 そして。
 腕が出てきた時よりも大きく水を突き破って一人の少女と一匹の獣が橋の上へと這いずり上がってきた。
 ボタボタと水滴を滴らせながら橋の上にとよじ登った一人と一匹。
 長い栗色の髪を後方へとかきあげて束ね水気を絞る紺色の水着の女の子と、大胆に身体を震わせて全身の水を切る紅白色した毛皮の獣。
 少女の方は防水仕様のリュックを背負っている。それを視認した次の瞬間には、思い切り此方に水滴が横殴りの雨かの様に飛んで来た。それを拭いながら傍らのガハクに眼をやると、彼は彼で飛んで来る飛沫を嫌がりながら突如水の中から現れた彼女達を見据えていた。
 この子達は何なのだろう。
 というか、温暖なこの地方だけれども、それでも今は水遊びにはまだ早い。この少女は何をしているのか。
 飛んで来る水が収まってきたので、びしょ濡れにされた事の文句と何をしているのか、その二つを僕が言葉にしようと口を開いたその次瞬。
「なあ、これ何だ?」
 僕が言うよりも早く裸足でぺたりと足音をたてて眼前まで近づいてきた少女が青いビードロを奪い取って訊いてきた。
 僕よりも少し低い所にあるアーモンド形の瞳が見上げながら問うてくる。
「え、あの……」
 視線を受け止めきれずに目を逸らす。けれどその先には紺色の水着から伸びる日に焼けた濡れた肌が。
 ――眩しい。尋常じゃない程に傷跡が走っているのが寧ろ素晴らしい。
 いや。それよりも、持ち物を強奪られた事を怒らなければならないのではないだろうか。
 けれど僕が意を決して口を開くその前に。僕が黙り続けていたからか、トタッと身体を翻して離れるその子。濡れ髪が鞭の様に唸り、僕の顔を叩いていったがそれに対する反応もない。痛い。
 何なのだろう本当に。
 だけれども。手に持った青いビードロを空に翳してじっと眺めるその姿は現実離れしていて幻想的で。出そうとしていた言葉が詰まり、視線はそれから離せなくなっていた。
 彼女の様子を端的に言えば、綺麗だった。
 傍らの白と赤の毛色の獣を含めて美しい。飾られた草花の様な可憐なものではなく、野の獣染みた野生美。
 嗚呼。
 僕の中で一つの衝動が湧き上がる。見ていないし彼の考えている事がわかるわけではないけれど、恐らくはガハクも同じ事を考えているに違いない。
「……何だよ。揃って黙り込んでじろじろ見やがって」
 どうやら僕の想像は当たっていたらしい。僕同様にガハクも彼女達を凝視していたようだ。
 けれどその視線が気に入らなかったらしい彼女とその傍らの、白い身体にアクセントとして赤い稲妻模様と血に浸した様に赤い手の先をした獣――ザングースが同質な感情を帯びた瞳で睨んでくる。
「――ッ」
 多分。此処で言うべき言葉は「じゃあ僕の青いビードロを返せ」だとか、「奪った癖にその言い方はなんだ」とかそういうものなんだと思う。
 なのだろうけれど。意を決した僕が発した言葉は。
「――僕達に君達を描かせてくれないか」
 そんな言葉だった。
「……あ?」
 僕の申し出に彼女は目を丸くして口を開け、言葉でない音で応える。傍らのザングースも、何だこいつら、といった雰囲気で胡散臭そうに僕とガハクを交互に見やって最後に、どうすんの? という風に自分のトレーナーであろう少女を見上げて小さく鳴いた。
 僕が中学校の二年生に進級して一月程が経ったある日の休日。よく晴れた日の橋の上。

 それが、彼女達と僕達の出会いだった。

 橋の上で出会った少女と獣に、持っていた青いビードロを強奪られ、逆に僕達は彼女達を描かせてくれと頼んだ翌日。僕は何時もの通りに登校し、席について前日の非日常を思い出したりしていた。
 クラスメイトと適当に挨拶を交わしつつも僕の頭の中では、どういう風に彼女を描こうか、そればかりが浮かび増えていく。
 青いビードロもあげるからと懇願し続け、遂に許しを貰ったのだ。得体の知れない者を見るような視線で僕とガハクの事を見ていたけれど。そんな事はどうでもいい。
 別れ際に互いに自己紹介もしたけれど、名前なんて無くてもいい。
 けれど。初めて出会った筈の彼女の名前は、何処か聞き覚えのあるものだった。それだけは構図が溢れる頭の中の片隅にぽつんと浮かんで揺らめいていた。
 どこで聞いたのだろうか。
 頭の中で様々な絵を描きながら、考える。
 けれど思い出せない。
 素晴らしい被写体に出会った喜びと、思い出せない事による少しスッキリしない悶々とした気持ちの混濁に一人溺れていると、何時の間にか担任が黒板を背に立っていて、出欠を取り始めていた。
 そして。その中途で、橋の上で出会ったザングースを連れた女の子の名前をどこで聞いたことがあるのかを思い出した。というかその名が呼ばれた。
 窓際の一番後ろの席。一度も登校していないクラスメイト。
 それが――彼女だった。
 という僕の中ではそれなりに驚いた事のあった事を思い返しながら、今はその放課後。
 僕はガハクと共に巨大な木の中に居る。大きく太い木の中程に、ぽっかりと大きな空間が出来ているのだ。よく見ればその入口まで長く太い蔓が下りているけれどそれ以外におかしな所はなく、外見では全くわからない。けれど、大きな机を置いてもまだ余裕のある程の空間が、そこにはあった。
 そんな不思議な空間。そこに僕達は居る。
 勿論これは自然に出来上がったものではない。探せば何処かにはあるかも知れないけれどこれは違う。
 ポケモンの技に秘密の力、というものがある。地形によって毒や眠りなどの追加される効果が変わる、というものなのだけれど、これを草の塊や大きな木、岩壁の窪みに向かって放つとその中に空間を作る事が出来る。そこにパソコンと小型の道具転送装置を持ち込んで秘密基地を作ることが流行っていた。
 らしい。使ったことも無いし、これを使って秘密基地を作ることが流行ったのは十年程前らしいのでその頃は僕はまだ四歳だったから記憶に無い。
 けれども、その秘密の力が秘密基地を作れる位の空間を作り出せる事は今の僕は知っている。
 だって、
 今僕が居る場所こそその“秘密基地”だから。
 特別に古い物ではないにも関わらず傷だらけの木製の巨大な机が置かれ、その周りにこれまた傷だらけの一人がけの椅子が置かれたこざっぱりとした空間。隅には箪笥も鎮座している。木の匂いのする落ち着く“彼女達の秘密基地”。
「ん? 何だよもう居たのか。着替えるからあっちの部屋行ってろ」
 僕が小さな木製の椅子に腰掛けて、今将に此処に入ってきた彼女とザングースの事を傍らのガハクと共に素描していたら刺々しい声でそう言われた。次いでザングースも牙を剥いて唸り声を上げる。
「ああ、うん。ごめん」
 彼女にもそのザングースにも勝てる気がしないので粛々と従う僕とガハク。ドーブルであるガハクはどんな技でも見れば覚える事が出来るけれど、それで例え相手の全ての技を封印出来たとしても、それでも勝てないだろうとさえ思う。
 どんな想像をしても地に伏したガハクの頭を踏みつけているザングースの姿しか浮かばないので反抗は考えないことにする。
 何て思いながら席を立ち丁字になっている通路を突っ切ってもう一つある部屋へと移る。
 この秘密基地のある大樹の周囲は湖の水が囲んでいるので、波乗りの使えるポケモンが居なければ泳いで渡るしか無い。故に、彼女達はずぶ濡れで陸にと上がることになるらしい。だから行き来の直後は水を滴らせてビタビタと入ってくる。
 そして常備してあるタオルで体を拭いて着替えに袖を通すのだ。
 まだ一回しか此処には来たことがないけれど、どうやらその度に別の部屋に移動させられる事になるようだ。それは良い。別に構わない。
 だけれども、二つしか部屋となる空間が無いのにその片方が腐海と化しているのは本当にどういうことなのか。
 大きな机を置いてもまだ歩くスペースは確保出来る広さのそこには傷薬の空き容器、血の付いた包帯、ジュースの空き缶、木の実の食べ残しに砕けたモンスターボールの残骸等がぐちゃぐちゃに散乱してそれが山となって積もっている。
 彼女は学校にも来ないで一体何をしているのか。
 というか僕はこの芥の溢れた此処に毎回移動させられるのか。
「それは嫌だなぁ」
 嫌すぎて思わず口に出していた。同時にガハクも溜息の様に長い呼気を吐いていたので多分彼も同じ気持ちなのだろう。
「ごめんガハク手伝って」
 そこで僕がそう言うと、何をするのかは言ってはいないけれど分かってくれた様で、仕方ないとばかりに目を細めてまた長く息を吐いて頷いてくれた。
「取り敢えず似たような物に分けていこう。僕はこっちをやるから、ガハクはそっちの攻略をお願い」
 そして僕達は眼前に広がる混然とした芥の海にと進撃するのだった。
 ……それにしても、隣の部屋で凄まじい破壊音が轟いているのだけれど、彼女達は本当に何をしているのか。

「……お前ら、何してんだ?」
 膨大な量の塵芥の大半を分別し終えた頃、栗色の長い髪をくしゃ、と掻きながら現れた彼女にそんな声を掛けられた。多分に呆れを含んだそれと似た響きで傍らの白毛の獣の声も。
 因みに彼女の着替えは終わっていて、無地のシャツにジーンズというシンプルな出で立ちだ。
「何って……掃除? 嗚呼そうだ、分別はしたから入れる袋はあるかな」
「んなもん無い」
「そっか。じゃあ次来るときに持ってくるね」
 何だかんだで捗ったのでもう少しやれば綺麗になるだろう。どれくらいの大きさの袋をどれくらい持ってくれば足りるだろうか。
 なんて、整然と分けられた芥の山に達成感を抱いて一緒に頑張ったガハクのベレー帽の様な頭の毛をわしゃわしゃと撫でたところでふと気が付く。
「……何で僕達は掃除なんてしてるんだ?」
 彼女達を描きに来た筈なのに。
 自分達の行動の不明さにガハクと共に愕然としていると、
「ふはッ、あははははははははッ! 変な奴だなぁお前ら」
 思い切り笑われた。
「いや君達には負けるよ」
 梅雨も迎えていないのに湖で泳ぐ程では無いと思う。
「あ? ……あーまぁいいや。あたし達帰るけどお前らはまだ掃除してくか?」
「え?」
 僕がこの秘密基地に来たのは放課後直ぐだし、その少し後には彼女達も来ていた。それに昨日訊いた限りでは彼女が家路につくのは寧ろ遅い時間帯だったはずだ。
 それなのにもうそんな時間だというのならば。
「僕達は何時間掃除してたんだ?」
「知らねーよ。着替えた後あたしら寝てたし」
「掃除なんてしてる場合じゃ無かった! 描きたいからもう一回寝て!!」
「永眠させるぞ」
「ごめんなさい。あれ、そうするとなんだか騒がしかったのは君達じゃないの?」
「いや、暴れてその後に寝たから」
「それも描きたかった」
「やっぱお前ら変だろ。まぁいいや。帰るけど、お前ら明日も来るのか?」
 変だ変だと言いつつ拒絶はしない君も変だよ。と言いたいけれど多分言ったら本当に永遠に眠る事になりそうなので止めておく。けれど、明日も、か。来ると即答したいし、訊かれなくても来る気は満々なのだけれど。でも。
「非常に残念な事に明日は用事があって無理なんだ」
 これ以上無く苦い声で僕が返すと、「ふぅん」と興味無さげに彼女は返し真っ直ぐと射抜いてきていた視線を足元のザングースの方へと移して思案顔。
 言葉なく相談している一人と一匹。少しだけこの場の全てが止まる。
 けれどそれも、真白と真紅に彩られた猫鼬ポケモンのその顔がニヤリと笑みの形に歪んだ事で動き出す。そもそも獣型のポケモンであるザングースが笑ったのかは定かでは無いけれど。少なくともガハクは笑わないし泣かないし。
「よし。じゃあ明日はあたしがお前の所に行く」
「へ?」
 何を言い出すのか。というか本当に良いのか。間抜けな声と共にザングースに向けていた視線を彼女の方へと向け直すと、獲物を見つけた肉食獣めいた輝きを宿した彼女の瞳に穿たれた。
「だから何処に行けば居るのか教えろ」
 有無を言わさぬ物言いで一歩此方に近づく彼女。扁桃型の瞳から目を離せない。その全てを、総てを遍く何もかもを絵にしたい。だからその申し出は願ってもないことで。
「ああうん。放課後、コンテスト会場に用事があるからそこに居る。あ。バトルテントか。まあいいや。ポケモンセンターの隣の大きな建物だから分かり易いと思う」
 尤も、小さな農村であるハジツゲタウンの中では大きいという程度なのかもしれないけれど。まあ、他の町の況してや街なんて行ったことが無いので比較のしようも無いのでやはり、大きい建物だ。
「ああ、あそこな。つーか、お前。あたしを文明とは無縁な奴とか思ってんだろ。一応お前と同じ位はハジツゲに居るんだからな流石にわかるわ」
「ああそうか。ごめん。その中で絵を描いてるのが居たら僕か師匠かガハクだから」
「お前絵しかやること無いの?」
「失敬な。絵以外に何をしろと言うんだ」
 全てが絵に直結している。絵を描くために生きている。
 描いていなくとも描くことは忘れない。忘れられない。常に常に常にどう描くか何を描くかを無意識下ですら考える。頭の中で描いているから会話も出来るし先みたいに掃除も出来る。
 寝食も忘れずに描くことも忘れない。
 だけども会話なんて本当はどうでもいいし、だから話す知り合いは居ても友達は居ないのだろう。
 けれど。だけれども。
「あははははははははははははッ! 何だそりゃあははははははははは!! 本ッ当に変な奴だなお前、あははははははは!!!」
 ぱっちりとした瞳に泪すら浮かべて長い栗色の髪を振り乱し、お腹を抱えて大笑する彼女と――
「いや、学校にも来ないでザングースと湖を泳ぐ君も相当変だけどね」
――こんな感じで話すのは絵を描く事には負けるけど、楽しい。
 そんな事を思った直後。思い切り頭を殴られた。ガハクはザングースに蹴られて芥の山にと頭から突き刺さる。
「一緒にするな!! とっとと帰れ!」
 一転、犬歯を剥きだして怒り出す彼女とザングース。言われる通り、明日も学校だしその後も用事がある。帰ろう。しかし痛いな。たんこぶとか出来てないといいけど。
 芥山に突き刺さってくたっとしているガハクの尻尾を掴んで引きずり出して立たせて一緒に一人と一匹の横を通り過ぎる。
 その中途で思い当たる。彼女はまた水着に着替えて湖を泳いで渡るのだろうか。だとすると、大変だな。
「もし良ければ、ガハクは波乗り出来るんだけど一緒に渡る?」
「ん? ……ソウはボールに戻すとして、二人乗って平気なのかそいつに」
 つい、と指されるのは僕よりも彼女よりも小さな獣であるドーブルであるガハク。中型犬位の犬が二足歩行している様なポケモンである彼は貧弱だ。彼女のザングースとは比べようも無い位に。
 しかし戦闘以外の応用力なら随一だと思う。
「うん。光の壁とリフレクターの二層の板をテレキネシスで浮かべて水上を渡るから」
「それもうテレキネシス単体で良くないか」
「残念ながらそんな強度のテレキネシスは彼には出来ない。因みにテレポートも出来るけど跳べる距離が短いし連続使用出来ないから湖に落ちる」
「凄いのか凄くないのかわからないけど、着替えるの面倒だし、頼む」
「うん。よろしくねガハク」
 僕の言葉に足元を歩く相棒は静かに息を吐いて頷いた。

 様々な声の混ざったざわめきが充満している。
 賑やかな音楽を流すスピーカー。その合間合間に連絡事項を知らせる女性の声が響き渡り。それを削り取る老若男女の話し声。青と水色のリノリウムが張られた床を歩く靴音や、行き交うその幾割か人の傍らには様々なポケモン達がやはり思い思いに鳴いている。
 そしてそのポケモンを連れた中の幾人かはトレーナーもポケモンもが着飾っている。シンオウで行われている様なコンテストでは無いので何か小道具を持っていたり、或いは身に付けて居るわけではないけれど毛艶などの状態が他の一般のポケモンとは違っている。
 そうしてそういうトレーナー達は強弱の差はあれ緊張感を伴って受付にと向かうのだ。
 それを僕はそんな空間の隅っこでスケッチブックに鉛筆を持って眺めている。隣にはガハク。
 そして――
「しかし珍しいね。君が友達と待ち合わせなんて。友達居たんだ」
「いや、友達は居ません。強いて言えばガハクがそうです。彼女達は被写体です」
 ――僕に友達が居るなんて変な事を言う初老の男性が一人。
「ふーん。そんなに素敵なモデルなのかい。興味あるねぇ」
 僕の返答に、ニヤと笑う画材を抱えてベレー帽を被り、白いスモックを着ているその人。この建物で行われるイベントの優勝者のポケモンを描く事を仕事にしている画家で、僕の師匠である。
 師匠と言っても、小学生の頃に描くものを探しに来た僕に声をかけてくれて、「観戦料を払わないで観れるようになるから弟子にならない?」なんて感じで師弟になったので特に描き方みたいなものは教えて貰った事は無いけれど。
「僕が頼み込んで承諾してもらったんですから師匠といえど譲りませんよ。青いビードロも強奪されましたし」
 そういえば、彼女に奪われたあのビードロは何処にあるのだろう。否、あげるから描かせてくれと言ったのだったか。まあどちらにせよなんとなく、既に硝子片になってしまっているような予感もするけれど。
「ああ、君の絵とガラス職人の……何て言ったっけあの人。まぁいいや。あの人が物々交換してったあれ?」
「僕に人の名前を訊かないでください師匠の名前も覚えてません。ええ。あれです。結構気に入ってたんですけどねー」
「ああ、そもそも教えていない気がするよ。まぁそれは僕も君の名前覚えていないからトントンということで」
「はい」
「変なのが増えやがった。何だお前ら」
 上滑りしっぱなしな僕と師匠の会話が一段落した丁度その時に。雑踏を断ち割るように威風堂々と現れた彼女とザングースが心の底から気持ち悪そうな声で発した第一声がそれだった。
「初めまして。隣の弟子の師匠です。ポケモン専門の画家です」
「隣の師匠の弟子です。好き勝手に描きたいものを描いています」
「変な奴らって事しかわからねえ」
「大丈夫。君達も変だから」
 そう言ってとん、と肩を叩いたら。無言の回し蹴りが彼女と彼女のザングースから放たれた。
 凄まじい風切り音。そして鈍い打音。それが同時に二つ。
 バシャーモのブレイズキックと遜色ない勢いのそれを当然僕達は躱すことも防ぐことも出来るわけはなく、当たり前の結果としてお腹へと直撃を食らい言葉を発する間もなく素っ飛んだ。
「ほう。イイ蹴りしてるねぇ。貧弱とはいえあれらをあんなに飛ばすとは」
「あ? ……あんなの何時も相手にしてる奴らとは雲泥の差だしな」
「なるほど。だからそんなに傷だらけなのかな。君もそのザングースも。まぁそんなことはどうでもいいか。僕は基本ポケモンにしか興味無いんだけど何だか君達はセットで描きたいねぇ。どうだいモデルに――」
「だから渡さないと言っているでしょう師匠。それに、そろそろ時間です」
「おや生きてたのかい。残念残念掠め取ろうかと思ったのに。ふむ。それではお仕事しますかな」
「あん? 仕事?」
 僕達の会話に彼女が首を傾げる。ああ、説明していなかった。
 僕の用事がどのようなものか説明しようと口を開く。けれど。
「はははー。僕は先に行くよー。君は遅刻してしまえ我が弟子よ!」
 何て全く感情の篭っていない笑い声を上げて師匠が走って行ってしまう。
「ごめん説明は後で。始まっちゃうから。良ければ一緒に来て。一緒ならお金も要らないし」
「あ? ちょ、待――」
 彼女が僕の言葉に返すよりも早く、その陽に焼けた手を握って走りだす。ガハクもザングースの鋭い爪を掴んで引きずる様に付いて来る。
 そして、僕達はこれから行われるコンテストの観覧席への入り口を勢い良く通り抜けるのだった。

 熱気。歓声。降り注ぐ強い照明。そしてそれを一身に浴びて、応える壇上で待機中のトレーナーとポケモン達。
 ポケモンセンターとフレンドリィショップが在ることが奇跡とさえ思える程に寂しい農村の数少ない娯楽施設。それがこのコンテスト&バトルテント。その観客席の最前列に僕とガハクと彼女とザングースは座っている。
 そして隣に渋々と座る彼女にスケッチブックを広げて手にした鉛筆を回しながらまずは此処についてざっと説明していく。
 元々はホウエンに幾つかあったコンテスト会場の一つだったらしいけれど、何年か前にバトルフロンティアのオーナーが宣伝も兼ねてその中の施設の一つに似せた内容の物を作ったらしい。
 けれど此処ハジツゲタウンのそれは性質上回転が早すぎた。体験するにはそれで良かったのかもしれないけれど観てる方としては盛り上がりに欠けたようで、その内に元のコンテスト会場としても使われるようになった、らしい。師匠の言うことなので信用が出来ないが。
 今では週に二日、一週毎に競う内容を変えて午前の部と午後の部の計十六回のコンテストが一月に行われている。
「コンテストってあれだろ? 見た目ばっか気にして実際には使えないような使い方するやつだろ。何が楽しいんだ?」
 僕のした説明に嫌味も悪意も無くそう言い切って問うてくる彼女の様な考え方のトレーナーも、ここまで言い切るかは別として少なくは無いのだろう。
 しかし。
「そういうコンテスト専門な育て方をしてる人も居るけど、此処に来る人達は結構バトルもする人も多いんだよ」
 シダケタウン、ハジツゲタウン、カイナシティ、ミナモシティにあったコンテスト会場がミナモシティに集約された結果、そこまで行って参加するような人ではなく。けれど各地で行われる非公式なものよりも“元スーパーランクのコンテスト”に参加したいという層もそれなりの数居て、そういう人達はポケモンバトルもそれなりにやっている事が多かった。
 だからこんな小さな農村でもコンテストとバトルテントの両方を目当てに人達が中々馬鹿に出来ない来るのだそうだ。これも師匠の談。
「中途半端な奴らか」
「身も蓋も無い言い方をしたらそうだね。でも色々な事に興味があって、それを出来るのも凄いと思うよ。僕達は絵以外に興味無いけど」
「あたし達も戦う事以外に興味無いな」
 まあその収益も大体が火山灰の対策や施設維持、後はポケモンセンターの運営に消えていくらしいけど。なんていう情報は彼女に言う必要は無いのでそれは心の中で付け足しておく。
「で、仕事って何だよ」
「決まってるだろ。絵を描くんだ」
 何を当たり前なことを。
「本当に絵しか描いてないなお前」
「絵を描くために生きているからね。師匠は優勝者のポケモンしか描かないけど、僕達はそれ以外、というかコンテストを描くんだ」
 故に師匠はコンテスト中は描かないで観戦していて、優勝者が決まってからその観てきた情報を元に描き上げる。それもその後の表彰やインタビューやらが終わるまでに超速で。時間に見合わなぬ素晴らしい絵を。変な人だけれど、その点だけで尊敬出来る師匠なのだ。何かを教えてもらった事は無いけれど。
「だからごめん。始まるから多分何を話しかけられても反応出来ない」
 無意識下でも無意識でもなく意識の表層まで僕の中の衝動が浮かび上がってくる。完全にそうなる前にそう断っておく。
 そして。次瞬、完全に切り替わる。その返事があったかはもうわからない。
 その直後。司会の女性の合図にコンテストが開始される。
 まずは一次審査。順番にポケモンの見た目を観客に審査してもらう。
 審査員と違って、細かいことはどうでもいい。だから登場時のインパクト勝負。
 自分も着飾った出場者がポーズを決めてモンスターボールを放り投げる。瞬く閃光。そしてそれが異形の姿を形取る。
 そして自身の毛艶を、肉体を、牙を爪を瞳を魅せつけた次の刹那に猛々しく咆哮する一番手。
 今週のコンテストは逞しさ。故にそれに見合ったポケモン達の登場が続く筈だ。
 それから目を離さずに、一瞬一瞬を脳に瞳に瞼に刻みつけながらスケッチブックに鉛筆を走らせる。
 ざりざり。がりがりと寸毫も止まらない。止まらせない。止まれば死ぬ。故に死ぬまで描き続けろ。
 最初の出場者達の姿を次の出場者のポケモンの登場の後に描き終える。視線は僅かも逸らさずに次のページにめくる。それを根本から切り裂き切り離してガハクが受け取る。眼前に張ったリフレクターをイーゼル代わりに彩色を開始。自分の絵筆の様な尾を器用に握って思い通りの色に滲む液を塗りつけていく。
 筈だ。見てはいないがその筈だ。
 そして次の出場者の姿を手元の紙に描き殴っていく。
 その体躯を。筋肉を。爪牙を。咆哮も、纏う雰囲気さえも再現しろ。描き込め。描いて籠めろ。
 意識も無意識も全てを用いて描き続け、第二審査が始まるその直前に第一審査の絵の最後を描き終わる。
 それをガハクへと渡った事だけを切り裂かれた部分だけで確認し、そのまま続行。
 第二審査は審査員が出場者達の技を用いた演舞を審査する。演舞は順番だが、制限時間が決められておりそれが終われば直ぐに次の番の出場者が前の残響を掻き消す様に、或いは利用する様なアピールを行う。
 一順毎に点数の高い順番でそれを五順。
 一次審査以上に目まぐるしくステージの状況が変わっていく。それを追う。置いて行かれぬように目を剥いて、記憶する。その入力を刹那に出力。瞬きさえも煩わしい。
 咆哮と共に生み出される岩雪崩。伴って振動する空気。躍動する肢体。畝る筋肉。残った岩石を砕く鋼の尾。噴き上がる濁流。それらを凍らす氷の光。
 奇怪な氷像と化したそれを豪腕が砕き。微塵となった氷片と砂塵を散らす真空刃が空間を切り裂いて。その刃が消え去る前にその射線に立ちそれを受け止め防ぎきり。それを塗り替えさんと己を奮い立たせる。
 轟、と地面を揺らし。それを堪えきり。地面の次はと空気をエコーボイスが震わせて。それを掻き消す様に巨大な種が爆ぜ。
 後の者どもを威圧する咆哮が轟けば。屈せぬとばかりに巨大な岩の錐が地面より突き上がり。それが燃え上がり焼き尽くされる。未だに炎を纏うそれを力の限りで持ち上げ直上へと投げつけて。
 落ちてくる残骸を殴りつけ凄まじい衝撃で粉砕。朦々と烟る塵埃を衝撃と化した声でもって吹き散らし。晴れた瞬間を狙いすました様にステージへと爆裂パンチが炸裂。再度巻き上がる埃の中で、真っ直ぐと天上へと仰いで口腔を向けて。そして放たれる超水量と水圧の一撃、ハイドロカノン。
 その飛沫がパラパラと降ってくるが、それはガハクの光の壁によって遮られる。そして演舞の終了に少し間を置いての大喝采。
 割れんばかりの、鳴り止まぬそれが暫く続き今回のコンテストの結果の発表と移る段階で最後の絵が描き終わる。
 それがガハクが受け取ったその次の瞬間。
「……コンテストも思ったよりも凄いのな。あいつらと戦いたい。なあ? ソウ?」
 感心した。という声の色で呟く彼女の声が耳に入ってきた。僕の集中も描き散らしたことで切れたらしい。
「今回は特別だね。正直ここまでのは初めて観た。いつもはもう少しランク下がるよ」
 観たことは無いけれど、マスターランクのコンテストだと言われても信じる位のものだった。こんな素晴らしいものを描く機会を得られるなんて何て素晴らしいんだろう。
「ふうん。でもそれ以上にお前らも凄かったぞ。視線はステージの動きを追ってるのにすげえ勢いで手が動いてて」
「ああそうなの? 完全に絵を描く以外はどうでも良くなってるからどうなってるのか知らないんだよね」
「ああ。凄い。凄く悍ましかった」
 ぶるり、と自分の身体を抱いて軽く震える彼女。そんなになのか描いてる時の僕は。どうでもいいけれど。
「後は表彰式とかだけど観てく?」
「興味ねー」
「だよねー。僕達も。出ようか。まだ仕事終わってないから準備もあるし」
「まだ終わって無かったのかよ」
「描いた絵を売らないとね。あ、描き上がったの持っててくれたんだ。ありがとう」
「お前のドーブルがすげえ勢いで押し付けて来たんだよ――っと。こんな風に」
 ぶん、と風切り音すら響かせて、彩色の終わった最後の一枚を彼女へと突き出すガハク。なるほど。こんな感じなのか僕も。
 そうして、順位発表を司会が進めているの中、僕達はそれを後にして出て行くのだった。

「この絵、貰うぞ」
「ダメって言ってもどうせ奪われるんだろうからいいよ。僕はこの絵を残そうかな」
 一枚を彼女に奪われて、一枚は記念として手許に残す事にして後は適当に並べて値札を付ける。
「なあ、全部“言い値”って値札付ける意味あるのか?」
「さあ? でも画材を買ったりしても充分な程度にはなるから」
「ふうん?」
 そして今日の最初の客は――
「やあ我が弟子、これ頂戴。お代はこれくらいで」
 師匠だった。
「毎度有り難うございます。師匠の方も終わったんですね」
「うん。いやあー今日のは凄かったねぇ。滾ってしまったよ」
「変人の師匠。お前の絵も見せろよ」
「うんいいよ」
 ほい。という掛け声と共に出てきた絵を見た彼女の感想は。
「何もわからないけどとにかく凄いことはわかる」
 というものだった。
 同意しておく。とにかく素晴らしいのだ師匠の絵は。
 その後暫くして今日描いた絵は完売したので解散した。
 何故か明日は学校をサボって彼女に付いて行く事になったが、一日中彼女を描けるので良いだろう。

 そうして翌日の早朝には僕達は114番道路の橋の先にある叢に居た。
 ここまで来ると風向きの影響なのか火山灰も少ない。天気も良く絵を描くにはもってこいの環境だ。雨が降ろうと描くけれど。
 スケッチブックを開き、鉛筆を握って被写体である彼女達の方へと視線を向ける。
 相変わらず無地のシャツにジーンズにスニーカーという動きやすさ最優先の服装をした彼女とその手持ちのザングースは躊躇なくその中にと足を踏み入れ、ガサガサと進んでいく。叢では野生のポケモンに出会う可能性が高くなる。縄張りを荒らされたと思うのか襲って来ることが多いので、残念なくらいに弱い僕とガハクは際に立ってその様子を遠目に眺めることになる。
 叢の中程までに彼女達が至ったその時。ざわりと空気が変わる。睨めつけるようなねとりとした視線。そして鋭利な殺意。毒々しい気配が早朝の清々しい空気に混ざり込み始める。
 それを感じてなのか彼女の傍らのザングースも白い体毛を逆立たせて唸り始め、赤い毛の覆う前脚から伸びる黒く鋭い爪をぐわと開く。
 隣の彼女も膝を軽く曲げて周囲に意識を傾けている。
 此処には何が居るんだったか。
 もこもことした翼をもつ小鳥の様なチルット? 後は――
 何て頭で考えながら手はその様子をざりざりとスケッチブックに描き込んでいく。
 次の瞬間。
 ざわ、と叢が割れる。そしてずるりとザングースの横合いから現れる黒き刃。紫黒の鱗に覆われたそれがなんの躊躇いもなく振るわれる。
 それを。
 避ける事無く右の爪で受け止めるザングース。鍔迫り合い染みた拮抗。
 しかしそれも刹那。それとは逆の位置から顎を開けた大蛇の顔が迫る。
 鋭い牙を紅白の獣に食い込ませんと肉薄する異形の大蛇――ハブネーク。
 バクン、とその口が閉じられて毒牙が貫くその紙一重を身を逸らして躱すザングース。
 その一瞬の攻防の内にトレーナーである彼女は二匹から距離を取ってそれらを、その周囲に視線を巡らせている。
 尾による辻斬りと牙の一撃を避けられて、通常個体よりも大分大きな巨躯をくねらせるハブネーク。態勢を整えての方向転換。追撃の挙動。
 だがそれよりもザングースの動きは早かった。電光石火の勢いで今度は自分から最接近。そしてその爪でもって大蛇の身体を切り裂いた。
 その部位の紫黒の鱗がじゃりンと散って僅かに赤い飛沫が舞う。鱗に阻まれ浅い。
 更にもう一撃を放とうとザングースがもう一方の前脚を振りかぶった次瞬。
 畝る蛇の肢体。靭やかにして強靭な巨躯が勢い良くザングースの身体を打ち付ける。
 ギャンと苦鳴を上げて吹き飛ぶ猫鼬。勢い良く叢を滑り転がる。だが、瞬く間に態勢を立て直して立ち上がる。
 そこに。巨体のハブネークとは違うハブネークが大口を開けて迫る。
「邪魔を、するなぁ!!」
 そんな叫びと共にその横合いから飛び蹴りをかます彼女。不意を打たれたハブネークが動きを止める。それに間髪挿れずに蹴りを浴びせてバックステップで距離を取る。
 無茶苦茶だ。人間がポケモンに生身で立ち向かうとか。
 横槍を彼女が防いだことによりザングースは何の障害なく巨躯の毒蛇へと突き進む。
 ザングースとハブネークは遺伝子に刻み込まれているといわれるくらいに因縁の間柄と聞いた事があるけれども、こんなに激しいものなのか。
 白き獣の爪と紫黒の蛇の刃がぶつかり合う。
 小回りの良さからの連撃で手数はザングースの方が多いが、一撃の重さはハブネークの方が上まっているらしく、ダメージの量的には互角のよう。
 そして。激しく戦い合う二匹に釣られてか、双方の種族が数匹ずつ現れる。
 そしてそれぞれが関係ない所で戦えば良いのだろうけれどそうはいかないらしい。一対一でやりたがっているのは彼女のザングースと巨躯のハブネークのみらしく、現れた他のザングースとハブネーク達は徒党を組んで攻撃を仕掛けてくる。
 そんな奴らを、蹴り、殴り、投げ飛ばすのが彼女だ。
 そのせいでザングース達とハブネーク達の両方から敵として認識されてしまっている。
「鬱陶しいんだよ。あたしが相手だかかってこい!」
 無茶苦茶な行為だ。無謀でもある。けれど毒蛇が振るう尾の刃も獣の振るう爪を致命傷を避けて血を流しながらも引きつけて立ちまわる彼女も、強大な相手に果敢に挑む彼女のザングースも、それを受けて立つ巨躯のハブネークもどれもが素晴らしい。
 絵を描く手が止まらない。止まらない。止まらない。止めてはならない。
 次第に僕の中から音が消える。
 見えているものも彼女とそのザングースとその相手のハブネークのみ。
 触覚はスケッチブックを、鉛筆を持っていることしかもうわからない。
 没頭する。没入する。極限の集中。
 描いて。描いて。描いて。描いた。只ひたすらに描いた。彼女の表情。動き。ザングースとハブネークの死闘。一瞬一瞬の全てを描きたい。もっと。もっと。
 描き続けて、彼女達が戦い続けてどれくらい経ったか。
 突然に、全ての感覚を描くことに使っているにも関わらず関係の無い衝撃を感じた。
 よろける。
 何だよ。僕の邪魔をするな。
 そう思うことすら煩わしい。
 けれども、背中に熱くどろりとした不快感。鉄錆の臭い。
 それが気持ち悪くて手をあててそれが何か見てみると。べっとりと血が付いていた。
 そこで仕方なく振り返る。そこには、野生のザングースが牙を剥き出して立っていた。
 そして赤く濡れた爪を振りかぶるそいつ。
 ――ああ。
 唸る凶相。迫る凶爪。
 ――どうでもいい。
 僕はお前を描くつもりはない。邪魔を、するな。
 そしてもう一度彼女達の方へと視線を戻す。
 そうした直後。
 また衝撃を感じた。
 しかし今度のは前方からだ。
 流石に集中が切れる。
 何だ? 何が、僕に向かって飛んできた?
 なんて思いながら僕は飛んできたそれと一緒に後方に吹き飛んだ。背中でギャと鳴き声が聞こえたのでまだあいつは後ろに居たらしい。クッションに成ってくれるとはありがたい。
「負けた!! 逃げるぞ!」
 倒れて転がった僕に、そんな声が掛けられる。
 ばたばたとした足音が近づいて来たかと思うと僕の腹に直撃した何かを掴みあげて、序に僕を無理矢理に立たせて、手を引いて走りだす。
 ああ、彼女か。
 じゃあ僕にぶつかってきたのは彼女のザングースか。負けたのか。
 呆けたままの僕にばう、とガハクが一喝してくる。ああ、彼は無事だったか良かった。
 ああしかし。痛い。

「があああああああああああああああああああああッ! ちくしょうが!!」
 どうにか逃げ切ることに成功して秘密基地の中。常備されていた傷薬や包帯で傷の手当をして、暴れる彼女達の事を描いている。
 僕の傷自体はそんなに深くなく、ガハクが癒しの波動をかけてくれたので既に止まっている。そんなガハクも僕同様に彼女達の事を描いている。器用に尻尾でデッサンしている。
 個体ごとに尻尾から分泌する液体の色が決まっているドーブルだが、どういうわけか彼は様々な色を自由に出す。それが彼の色らしい。便利だ。
 手当の最中に何故ハブネークと戦うのか訊いた所、あの巨大なハブネークを捕まえたいらしい。ザングースをパートナーにした幼い時にあれと出会い、それ以降挑み続けているらしい。凄まじい執念だ。そしてその結果の不登校か。そして彼女達が傷だらけなのもこれが理由か。
 この秘密基地がいつからあるのかは知らないが、机と椅子が傷だらけなのも彼女達の八つ当たりを長年受けているからなのだろう。
 しかし、そろそろ限界を迎えそうだなぁ。一撃を受ける毎に軋んでいる。
「はあ。……ああ、大丈夫かお前、って大丈夫そうだな」
「うん。包帯と傷薬をありがとう」
「ああ。……悪かったな。お前らにまで気が回らなかった」
 少し、沈んだ声でそんな事を言ってくる彼女。
「意外だ。そんな事言ってくるなんて」
「お前はあたしをどんな奴だと思ってるんだよ」
「ん? ああいや違う違う。僕の事を気にする人なんて居なかったからさ」
 学校でも挨拶はするし話しもするけれど、腫れ物に触るようなそんな感じだし。まさしく他人だけど他人行儀な付き合いしかない。両親もそんな感じだし。そもそもハジツゲに居る事自体少ないかあの人達は。
 師匠は違うけれど、あの人は変なので僕が怪我をしても、例え師匠のせいだとしても軽く笑って終わりだろうし。
 ……絵以外はホントダメな人だな師匠。
「……あたしとこんなに話した奴はお前だけだからな。心配ぐらいはしてやる」
「君も僕並みにぼっちなんだね」
「傷を開くぞてめえ」
「すいませんでした」
 頭を下げて、思わずくすりと笑ってしまう。
「何笑ってんだよ」
「いや、こういうのって楽しいなぁって」
「ああ? あたしは凄く疲れるわ」
 僕がそう言うと彼女は呆れたように笑った。
 なんだろう。絵以外でこういう気持ちになったのは初めてだ。
 僕なんかを気にしてくれるなんて何かお礼をしないといけないな。

 その後は僕がコンテスト会場で絵を描く時は彼女が来るようになり。偶に学校をサボって彼女達がハブネークと戦う所の絵を描いていてまた怪我をしたりして過ごし。
 掃除して綺麗にしたもう一つの部屋が僕のものになったりと色々あって。
 そして彼女と別れた後に113番道路へ行くようになって数ヶ月が経った。
 未だ彼女達はあの巨躯のハブネークを捕まえるには至っていない。というか今日も負けたらしい。
 机も椅子もいつ足が折れてもおかしくない位にボロボロだ。というかよく保っている。
「じゃあ、また明日。死なないようにね」
「ああ。お前また113番道路に行くのか? あんな火山灰降り積もってる所で何してんだ」
「内緒」
 そろそろ言われた量になるのだけれど、そんなに僕の言葉は嘘っぽいのだろうか。本気かどうか試すとか言われた時はどうしようかと思ったけれど意外と僕は根気強かったらしい。
 そういうわけで今日もまた火山灰を集めるのだ。
「いやしかし、集めても集めても直ぐ積もるねぇ。いや、まぁ積もるくらい降ってくれないと困るんだけどさ」
 渡された袋に、叢に積もった火山灰を入れていく。この調子ならば、後二時間もあれば終わるだろう。
 何て試算しながら黙々と作業を続けていく。ガハクは何が面白いのかその姿を描いている。どうせなら手伝って欲しい。
 そして。
 とうとう漸く目標の量の火山灰を集めきったのだ。頑張ったぞ僕。
 達成感と共にとっとと持って行こうと叢の外に積んだ今日の成果を回収しようとそちらに行くが、何故か無い。
「おや――活きのいい火山灰だなぁ」
「バッカじゃねーの!? お前が探してんのはこれだよなぁ? 変人さんよぉ!!」
 僕が呟いたそれに突っ込んでくるのは、甲高い男子の声。変声期は終えているだろうけど妙に甲高い。
 声のした方向に視線を向ければ、段差になったその上に三人の同い年位の男子がニヤニヤとした笑いを浮かべて立っていた。その手には僕の集めた火山灰の入った袋が握られている。
「まさか僕の集めていた火山灰の精がそんなに醜いとは思ってなかった。どうしよう。……否、でもどうせ直ぐ渡すのだしいいか。――さあ、僕の手許に帰っておいで火山灰の精達よ!」
 両腕をその火山灰の精達に向けて伸ばして受け入れますよ的な態度を示してみる。
 けれど。
「ちげーよ! 同じクラスの奴の顔くらい覚えとけ!!」
 どうもクラスメイトらしい。全く思い出せないけれど。そもそも覚えようとも思って無いので思い出しようも無いのだけれど。
「それで? 自称クラスメイトの君達が僕の集めた火山灰に何の用なのかな。袋に入った火山灰に興奮するアブノーマルな性癖でも持ってるの?」
 随分特殊な性癖だ。思わず将来を心配してしまう。
「それもちげー!!! なんだそれ?! どんな性癖!?」
「あーもう落ち着け。ホント変なんだよそいつは。だってあの野人と仲いいんだぜ?」
「ぎゃは。ああそうだそうだ。お前の方がよっぽどな性癖してるじゃねーか!」
「何の事だろう。僕の知らない僕の性癖を教えておくれ」
「うっぜー! コンテストとかでお前と一緒にいるあの女の事だよ。あんなのが良いの? あいつの事好きなの?! なぁ変人!」
「変人同士お似合いかもなぁ! ぎゃは!!」
 ああ。彼女の事か。
 彼女の事が好きかとか。そんな事が何故気になるのか。そんな事を言って知って何が楽しいのだろう。
「何が面白いのかわからないけど、彼女の事が好きとか見当違いな事は言わないで欲しいな」
 馬鹿笑いしていた三人の笑いが止まる。
 ああ、視界に入れるのも不快な程に醜いな。声も聞きたくない。
 だからまた何か言ってくる前にズボンのポケットに入れっぱなしだった傷薬の空き容器を取り出すと、僕は口を開く。
「好き? 馬鹿馬鹿しい。――大好きだよ」
 瞬いた刹那。僕の手の中の芥と彼らの持っていた灰袋とが入れ替わる。彼らに芥を。僕に袋を。
「はあ?! 何しやがった!!」
「トリック。互いの持ち物を入れ替えただけだよ」
 ガハクがね。
「てめえ!」
 何が気に触ったのか青筋立てて怒りだした男子達。それぞれがモンスターボールからポケモンを繰り出してくる。
 三匹のポケモンに囲まれる僕。
 口汚く僕に攻撃するように指示を出している。ああもう煩わしい。
「ガハク」
 僕の呼びかけに応じてガハクが動く。
 神速の勢いで距離を詰め。
 パッチールにはロックオンからの爆裂パンチ。
 サンドにはハイドロカノン。
 その反動で動きを止めた彼に向かって鋼の鳥――エアームドが鋼の翼で斬りかかる。
 それをテレポートでその背後に跳ぶ事で回避。
 そしてトン、とその背に手を置いて一〇万ボルトの電流を叩きこむ。
 それで終わり。戦闘終了。油断してくれてたお陰で助かった。
 予想外の結果に僅かに呆然としているけれど、顔を真赤にして犬歯を剥き出してこっちを睨んでいる。
 そして一歩進んで此方に飛び掛かって――
「え」
「ちょ」
「うわ」
 ――来たのでガハクがその場で向きだけ変えてテレポートさせて段差から真っ直ぐ落ちてもらった。低い段差なので大怪我とかはしない筈だ。鼻とか打って痛いかも知れないけど。
「じゃ、また明日学校で。本当にクラスメイトならだけど。行くよーガハク。…………。……ああ。凄くどうでもいいけれど、変人と恋人って何だか字が似てるよね」
 ちょっと遅れたけどまあ、今日でこの頑張りも終わりだしこれくらいは笑って許そう。
 なんて思いながら、この道路に建っている小屋にと向かって歩いて行く。

 目標を達成し意気揚々と次の日登校したら、昨日の自称クラスメイト達は本当にクラスメイトだったらしい。
 教室に入ってきた僕を睨みつけながらそいつらが何故か昨日のものとは関係ない場所に包帯を巻いたり、ガーゼ、絆創膏を貼って仁王立ちしていた。
 その後ろには担任の女性が立っている。何故か彼女も僕を睨んでいるような。何をしたのだろうか僕は。
「おはよう御座います。どうしましたか? 僕は何かしましたっけ。宿題は忘れてませんよ?」
 穏やかな声で僕がそう問うと、担任は少しヒステリックに声を震わせて、
「この子たちが、貴方にポケモンをボロボロにされて、更に自分達も怪我をさせられたと言ってきたんですけど貴方の言い分はどうなんでしょうかッ」
 と事実ではあるもののどうも詳細が違っているような気もする事を言ってきた。
 こういう事は別室で個別に話を訊いた方が良いと思うけれど。
 面倒臭いなぁ。なんて思いなながら本当にクラスメイトだった彼らに視線を向ければ、目を合わせてくれ無かったけれど、ニヤ、と笑ってきた。
 担任の言葉にどう答えるか考えていると、黙っているのが肯定と判断されたのか、何だか僕の家庭事情の事まで突っ込んできたりしてなんだか本当に面倒臭い事になってきた。
 どうしよう。
「邪魔だ。突っ立ってんな退け」
 扉の前で立ちっぱなしだった僕の背をそう言って蹴ったのは――
「あれ、学校来たんだ」
 彼女だった。いつもの無地のシャツにジーンズでなく制服のセーラー服を着た彼女がにやりと笑って立っていた。
「あたしの席は?」
「窓側の一番後ろ」
「ん。サンキュー」
 まさかのレアキャラ登場に登校していたクラスメイトも目の前の彼らも、担任までも呆然としている。
「どんな心境の変化?」
「ああ? 漸く目標達成したから、来ただけだよ」
「え。じゃあとうとう?」
「おう。見ろ。エッジだ」
 満面の笑みでモンスターボールを突き出して、開放する彼女。しかしもし本当にそうなのだとしたら中々――
「きゃあああああああ!?」
「おわあああああああ!?」
 そして机や椅子を上手く避けて、巨大な毒蛇が現れる。ああ、本当に捕まえたのか。
 そしてその姿を見てクラスメイト達が若干動揺している。
「ああ、おめでとう」
「おう! ……で、お前は何してんだ?」
 訝しげに僕や大げさに手当されてる三人組、そして担任に視線を巡らせて訊いてくる。
「ああ、昨日あの三人がちょっかいを出してきて僕の物を奪ったので返してもらったら、ポケモンで襲ってきて、返り討ちにしても直接襲ってきたから階段三段分位の段差から落ちてもらったんだけど、どうもそれを根に持ってるらしく担任に告げ口したみたいなんだ」
「おい、嘘を――」
 僕の言葉に三人組の一人が声をあげようとしたそれを掻き消す大声で、
「あははははははははははははははははははは!!! お前らこの雑魚に三人掛かりで負けたのかッ!! あはははははははははははははははははははははははははは!!! ぼけっと突っ立ってて野生のザングースの爪食らうわ、ハブネークに吹っ飛ばされるわ相当弱いんだぞコイツとドーブル! あははははははははははははははははははははは!!!」
 抱腹絶倒の勢いで大笑いする彼女。笑いすぎて酸欠になるレベルで笑い続けている。まぁ事実なの仕様がない。最初は僕が怪我をすると気にしてくれたけど最近はもうそういうこともなくなっている。慣れというのは恐ろしいものだ。尤も、僕達に気を回しながら立ち回るようになった彼女達のお陰で怪我自体することが少なくなっているのだけれど。
 それを聞いた他のクラスメイト達も小さく失笑している。そしてなんだか三人組の顔が真っ赤になっている。
 そこまで怒っているのに笑われているのはなんだか可哀そうだ。よし。謝ろう。
「貧弱な雑魚の貧弱なポケモンが君達三人のポケモンを一撃で沈めただけでなく、更には君達が反撃する気力まで奪ってしまい、それで終わりでなく怪我をしたとしてもかすり傷程度の筈なのに事を大げさにする為だけにそんな包帯やガーゼを無駄に使わせてしまって本当にごめんなさい。反省しています」
 そう言って土下座する。
 誠心誠意心を込めて謝ったのに何故かクラスメイト達の失笑が大きくなり、未だハブネークを出しっぱなしの彼女の笑いも更に大きくなっている。
 しかも三人組の顔が真っ赤なのは変わらない上に何故か泣きそうなんだけど僕は何かしたのか。
「――ッほらッ彼も謝っているんですから貴方達も許してあげなさいッ」
 何だか焦った様子の担任が早口でそういってなんだかこの話はお終いのようだ。
 ――ポコピン。ペコペコ。ポコペン。
 席に戻る途中、何だか懐かしい音が響く。
「ああ、その青いビードロ、まだ無事だったんだそれ」
「ああ? 無事ってなんだよ」
「いや。もう粉々になってるものだとばかり」
 それは彼女に出会った時に奪われた青いビードロ。
「一応大事にしてるんだよ」
「それは何より。所で、最近こんなものを手に入れてね」
 鞄の中からケースを取り出して、その中からそれを咥えて吹く。
 ――ポコペン。ペコポコ。ポコペン。
「黒い、ビードロ?」
「うん。あげないよ?」
「要らねえよ。あたしはこの青いのが気に入ってんだ」
 ――ポコピン。ペコペコ。ポコペン。
 そう言ってビードロを吹く、獣の様に苛烈で美しい女の子。
 嗚呼。この姿も描こう。まだまだ彼女を描きたいな。



 そして、彼女の秘密基地に黒曜石の様に黒く巨大な硝子の机と、同じく黒い硝子製の椅子が置かれるのは少し先の事だ。

fin.
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秋桜 ( 2013/08/18(日) 02:08 )